明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日丸善の人形展には二点を考えていたが、それではあまりに寂しいと、二点追加することにしたが、止せばいいのに色を替えたくなり、塗り替えたら乾燥が不十分で、おかげで搬入時に一部剥げてしまった。塗りなおせばいいことだが、格好の悪いことになった。そんなこんなで、場合によっては撮りなおそうと思った場所にはいかなかった。天気予報を見ると明日は雨である。都心の○○だというのに、検索しても画像も詳しい番地も、相変わらず出てこなかった。
そして本日目が覚めると雨。これはすでに撮影してある背景を使えということだろう。元々そのつもりだったのだから、これでいいのだ。と思いながらやはり無理。万が一、と思うと諦める事ができない。これだけ気になるのだから何かある。 現地について、もよりの交番で聞いてみると誰も知らない。親切な交番で、地図で調べてポイントを紙にメモしてくれた。さらに雑貨屋でたずねることになったが、何とかたどり着く。耳の穴の、さらに奥のような場所で、これでは判らない。結果はというと大正解であった。傘を放っぽりだして濡れるのもかまわず撮影。とっとと撤収。 帰宅するとFさんよりアダージョの円谷号を見たと電話。タコが実物のタコだと思わなかったらしく、活き締めのタコのヌメリを糠で取って、というと呆れていた。毎号これほど面倒くさいことしている表紙などないだろう。というわけで本日も徹夜である。景気づけに最近繰り返し聞いている曲を。

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特集駅にごく近く、背景に当初考えたが検索しても出てこないので、すでに無いか、もしくはたいした場所ではないだろう、と住所も判らないままだった場所が。在ることが判った。行って見ないと使えるかどうか微妙であるし、この期に及んで撮影したとしても、今回はノーマルな色調にしないつもりなので、調整その他、入稿日に間に合いそうもない。 念のため編集長に聞いてみると、ぎりぎりまで待つとのこと。時間的にとても無理、という返事を半分期待していたのだが。困ったことになった。昔からギリギリになればなるほど新たなことを思いついてしまって、自分の首を絞めることは良くあったが、今回は編集会議で所在が明らかになったわけで、悩ましいことである。明日は丸善の人形展の搬入があるし、撮影するとしたら午前中早めに出かけるしかないだろう。  できれば現場を見たとたん、これはまったく使えない、来るんじゃなかった、ときびすを返して引き返せればいうことがなく、猛暑の中撮影し、すでに用意してある背景を使うのが一番良い。二番目は、やっぱり無理して来た甲斐があった。ここで決定。フレーミングを考えるまでもない。という場合である。そして三番目が一番恐れていることだが、撮り様によっては何とかなる。工夫をすれば使えるかもしれない。という場合である。こうなると入稿寸前まで身をよじることになる。今号の円谷でもよじったばかりではないか。 こんなことをいっていると望みどおりにしてやる、と現場が夜中に微妙にレイアウトを変えそうな気がするので止めておく。

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青木画廊にて元薔薇十字社の社主、内藤三津子さんにお会いする。薔薇十字社の書籍はいまだにファンが多く、澁澤龍彦責任編集『血と薔薇』も復刻されている。広告まで作られながら未刊に終った写真集に三島由紀夫が被写体になった『男の死』(撮影篠山紀信/デザイン横尾忠則/跋文澁澤龍彦※発売広告による)というものがある。三島自決の寸前まで撮影が行われ、死の一週間前に内藤さんは三島と出版契約を交わしている。この中で三島は様々な人物に扮し、様々な死に方をしている。  私は常々、作家を制作するにあたり、すでに亡くなっている人物とはいえ、作家本人に見てもらい、できることなら本人に喜ばれたいと夢想しながら制作している。三島を制作するにあたって、三島好みの人物に扮してもらい、三島が愛好した芳年の血みどろ絵よろしく、様々な形で死んでもらったら、三島本人は間違いなく喜ぶに違いないと考えた。その時点で未刊の写真集『男の死』の存在を知らず、まさか三島本人が最後に『男の死』を残そうとしていたとは思わなかった。過去の雑記を調べてみると三島を制作し始めた数日後、2004年4月(某日12)に思い付きを書いており、翌月制作のために入手した芸術新潮の三島特集号の篠山の言葉で『男の死』を知ったことも書いている。(某日2)余談であるが、『男の死』というタイトルで雑記を書いた数日後に父が亡くなっている。 私は『男の死』は、三島が自身の死の副読本のつもりで作ったのではないかと考えている。壮絶な死の直後に世人に見られることを想定して作ったのは間違いがなく、その効果は絶大だったであろう。あの死の直後に、たとえば魚をぶちまけ、腹に包丁を刺して死んでいる魚屋に扮した三島を見せられた世の中のショックは大変なものだったはずで、冷静に準備された作品群を見たなら、あの事件のその後の評価にさえ、影響を与えたに違いない。しかし、諸々の事情で公開されずに終わり、40年起った今公開されたとしたら、この“コスプレ写真集”は、生前に三島に浴びせられた以上の失笑を買う可能性が大きいであろう。三島の企みどおり、あの直後に見てこその『男の死』であったと思われる。タイミングの天才篠山が、未だ公開しない理由の“一つ”もそこにあるだろう。  本人が演じるのと三島像を制作して、というのは意味は違うが、私がイメージしたことを40年前に企画制作を試みた方と是非お会いしたい、と内藤さんには昨年すでにお目にかかっている。現在青木画廊に展示中の『からっ風野郎』は、石塚版『男の死』のプロローグのつもりで制作した作品である。

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一日  


昨晩は時間がない中熟慮の末、三鷹まででかけ『立川談春独演会』へ。先週の志らくに続いて、というのが格別なわけだが、当初考えていたよりスケジュールに追い詰められているが、せっかくのチケットを無駄にするわけにも、と出かけた。談春はノッており、無理して行ってよかった。終演後はYを仕上げるべく家路を急いだのだが、よろしくないのは帰宅後である。メールを見ると、先日の編集会議でFさんに、送ってくれるようお願いしていた某所の画像である。特にどうということもなく、本文にも使用されないことになった場所で、ネットで検索しても画像はでてこず、私には今でもあるのかどうか定かでなかった場所なのである。確かにあまりにこじんまりとして、誰も気に留めない場所かもしれない。今時、ネットの検索に乗ってこないのだから相当なものだといえる。だがしかし、私は気になってしまった。 そもそも一週間も房総に出かけ、余裕をかましていたのは、背景を早々に撮影し、時間をかけて調整をし、あとはYを立たせるだけだったからである。なのでFさんから送られてきた画像を見るときも、この期に及んで私の気が変わらない程度の場所であってくれ、と願ったのだが、これがまた悩ましいことに、現場に行ってみないと判らないような、無視することも可能な程度に微妙な場所なのである。私が佐々木希だったら「神様のいぢわる」とつぶやく場面である。無視することも可能なら、すっかり忘れて今月の残された僅かな時間を、精一杯生きるしかないであろう、とTVから流れる映画『天使の恋』の音だけ聴きながら。

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アダージョ編集会議。私は本文の方は関係がないので、経過報告にとどまるのだが、ライターのFさんが、カメラマンとともに取材して歩いたカットに、私が背景を探してネット上を検索して、画像が一枚もでてこなかった場所があった。撮影に行った時は猛暑中の猛暑で、すでになくなっているだろうと、早々に諦めていた場所である。しかし、在ったとなると気になってくる。Y像もできていないし、ここにきてやること山積なのだが。とりあえず帰宅後、取材したカットを参考に送ってもらうことにした。 編集長から、読者の反応など聞くことはあまりないが、どこかの養老院で暮らす老人が、たまたま手にして、これこそ私が読むべき雑誌だが、東京に出てくる機会がなく、と中央公論新社の社長宛に手紙が着たそうで、以来特別にお送りしているそうである。お礼の暑中見舞いのハガキは、編集長がデスクに飾っているそうで、良い話である。フリーペーパーのアダージョが、いつまで続くものか判らないが、何処かの誰かには通じるだろう、と密かにターゲットと想定する未知の人物が、もう1人増えたのであった。

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河童  


アダージョの締め切りも迫り、さすがの私も、いまから河童を作りだす心配はないだろう。だいたい特集地は、Yが一時住んだというだけで水気もない。それに円谷で大ダコその他を登場させたばかりで、次号は大人しくしていようと決めている。とはいっても顔を良く知られた人物ならともかく、ただ老人が立っているだけで良いのであろうか。都営地下鉄を利用する人がどれだけYの名を知っているだろう。顔も名前も知られた人物が並んだ創刊当時からすると、Yはかなり渋い人選といえよう。私としては望む所であるが、背景に名所旧跡が登場するならまだしも、今回もかなり地味である。そこにただ老人が立っていて良いのであろうか。せめて“その筋”の人である、と知ってもらう必用はないだろうか。河童は作らないけど。

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一日  


三島のプリントが6時半に上がったので、オープニング中の青木画廊に持っていくと、丁度良い額がないので展示は木曜日からということに。(それまでにお出かけの方は、お申し出の場合に限り出していただけます) その後二次会は向かいの『さくら水産』へ。『乱歩 夜の夢こそまこと』(パロル舎)制作時の編集者鈴木さん、デザインの北村さんと、久しぶりに顔合わせる。『中央公論Adagio』で制作した作品も増えてきたので、それで個展をやらないのか、といわれる。開始から4年目に達し、確かに随分たまってきた。建石修志さんとも久しぶりにお話しする。 十一時近くまで飲んだが、美術の話では、私はいくら飲んでもおそらく酔えない。木場に帰り、立ち飲み屋によると、広告代理店勤務のKさん、運送会社を定年のKさん、T屋の長男、勤務時間を終えたYちゃんが飲んでいる。ここでもとっとと焼酎のロックを飲むが、今日はどうも駄目な日で、酒が効いて来ない。閉店時間でもあるし、あとは家で存分に飲もうとスーパーで買い物をして外へ出ると、運送会社を定年のKさん。Yちゃんとカラオケに行こうと待っていた。カラオケ嫌いの私がカラオケに行くわけがなく、一緒に行ってる二人は寺山の“スシ屋の政とトルコの桃ちゃん”のような架空の人物だろう、と友人がいうコンビである。ナマ物を買ってしまったので、家に買った物を一度置いて合流。焼肉を食べながらカラオケを歌える、という店であった。Kさんは定年を迎え、しばらくノンビリしたいというので、それはそうでしょう、というと、一方Yちゃん、すぐボケちゃうので、間を空けず働いたほうが良いという。実家が寿司屋で、定年後にすぐボケてしまったお客を沢山見てきたらしい。有無をいわせず強い調子で同じことを繰り返しいわれ、女性に説教されるのが大好きなKさんも、次第にうつむき加減に。YちゃんはYちゃんで、選ぶ男は駄目男ばかりで、私がなんとかしてあげたい、と考えてしまう典型的な駄目男製造機らしい。しかも高性能で量産型のようである。 最後に『快傑ハリマオ』を歌って萎えた気分を奮いたたせるKさんであった。

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最近ご無沙汰であったT屋の朝食。仕事帰りのタクシードライバーの集団に飲み込まれ、つい朝から飲んでしまうので避けていたのである。行ってみると主人のHさん、昨夜も深酒だったか、店の奥で、こちらに尻を向けて寝ている。これは朝から働くカミサンが、自動的にけなげな女房に見えるような、T屋の営業的策略ではないか、と疑いを持つほど効果的である。 運送会社のKさん。今日は退職金のことなど会社と話してきたという。これからは昼夜逆転の生活から替るので、もうT屋には来ないかもしれない、などといっているが、異常な寂しがり屋なので、だれも信じていない。そもそもT屋のカミサンの大ファンなので、毎日通うKさんである。 昼近くなり、昼食に行くかパチンコに行くか迷っているので食べに行くなら付き合うよ、というと、それではカミサンも連れてサイゼリアに、ということに。ワインの一番大きいのを注文し、三人で飲み始める。Kさんの引越し先はどうの、これから退屈するだろうなどと話しているうち、むくんだ顔のHさん合流。そこからさらに楽しく盛り上がった。 皆で家に向かって歩いていると、老人会帰りのSさん。背広姿を見るのは始めてである。青木画廊は(老人向きでないので)わざわざ来てもらわなくても、と喉元まででるが止めておいた。Sさんにはアダージョを毎号差し上げるが、じっと見ながら、一言もコメントを聞いたことがない。特に今号の円谷英二では、背景にお馴染みの人物が後姿で写っているのに、何もいわない。おそらくこの作品において、私が何をどうしているかが解っていないのであろう。 敬老の日だからというわけではないが、実家に帰る。先日、房総から送った鯨のブロックを解凍して食べることになっている。母がいうには鯨を食べた翌朝は体重が300グラムは減っているそうである。最初に生姜やニンニク醤油で刺身。現地では寿司だねにするくらい、癖も臭味もない。あとはステーキにしてたらふく食べる。この場合長ネギを一緒に焼くと非常に合う。食べるたびに思うのが、昔給食で、子供たちが筋だらけの硬くて不味い鯨を食べていた時、こういう美味しい鯨は誰が食べていたのだ、ということである。 母は、佳境に入ってくると、思い出したように必ず私にもう少し食べるよう勧める。80過ぎて私と同量食べたと言触らされるのを避けるためである。
ラボから連絡があり、焼き直しが青木の初日6時半に上がると連絡があり、差し替えることに。

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搬入  


昼過ぎにタクシーで数寄屋橋のラボへ向かう。料金が酷く安いので確認すると、なんと、普通の街にある写真店のレベルのプリントではないか。紙も違うしコントラストも高い。プリントし直すにしても連休なので、金曜日頃になってしまうという。仕方がないので、とりあえずこれを展示してもらい、会期中に交換するしかない。 青木画廊は二階が『エルンスト・フックス銅版画展』。三階は真ん中のテーブルに作家の著書が置いてあり、壁面に著書に掲載された作品40点あまりが飾ってあった。私の作品を除き、いかにも幻想絵画の青木画廊である。 そういえばK本の常連中心に、ご近所にもDMを配ったが、果たしてよかったのだろうか。特にめったに木場から出ることのないGさんや、いつも野菜をいただくSさんなどのお年寄りである。今さらつまらないから観ない方がいいともいえないし、入り口の階段が急だから、などといったら逆効果であろう。私との縁で、こういう作品に触れることができた、ということにしてもらおう。 私は日本刀にピストルの三島由紀夫を出品。映画『からっ風野郎』のイメージなのだが、画廊の空気から浮いているのは間違いがない。

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昨日、青木画廊の搬入日だった。プリント上がりが6時半なので、それを受け取って伺います。などとメールをしたのだが、その後、もうちょっとこうしたい、とついやってしまって乾かない。結局乾燥を考え搬入日を遅らせてもらった。というわけで本日はしっかり乾燥機にかけ国立へ。国立で嵐山光三郎さん主催の落語会に初めてお邪魔したのは05年の『国立お花見落語会』であった。真近で観られて面白かったが、むしろ記憶に残っているのは、お邪魔した二次会会場に着いてみたら空いてる席が嵐山さんの真ん前、志らく師匠の隣しかなかったことである。みんな遠慮して空いていたわけだが、嵐山さんと真正面に向い合うのもナニだが、その日、ドアの隙間から高座に上がる直前の、志らく師匠の死にそうな顔を見てしまい、プロの凄味に打たれてしまって隣にいるのに話せなかった。ご本人がまた寡黙だし。その後何度か落語は拝聴したが、本日久しぶりに真近で観て、すっかり貫禄が増していた。『短命』『紺屋高尾』。“芸術とは変態行為を人様に見せて感動させるもの、つまり変態を感動に昇華させるもの”という志らく師匠に、特に『紺屋高尾』では、笑ったりジンとさせられたりコントロールされ放題という感じであった。 私は『志の輔』の声が大の苦手で、演奏がいくら良くても音色が駄目、というわけで、談志を継ぐのは『志らく』『談春』どちらかに願いたいが、うまくいけば来週『談春』を聞ける。もっとも、どっちだ、と思ったって私の意見など、ここじゃ書きゃしないが。 嵐山さんに青木画廊のDMを渡し、出品する写真作品の小さいプリントを見せると「これアソコで撮ったの?』と聞かれたので「ハイ」と答える。『悪党芭蕉』で芭蕉の神格化を否定し、かつ面白い人物であることを示した嵐山さんには、アダージョの芭蕉特集号が届いているはずなので、芭蕉を見た門人の描いた肖像画だけを参考にした我が芭蕉像のご意見聞くべきであったが、そう思ったのは挨拶が済んで背中を向けた時であった。本日は二次会は遠慮し、鶴澤寛也さんTさんとお茶を飲んで帰った。 木場に着いて、土曜はやっていないだろう、とT屋を覗くと、K本の常連が集まっている。アダージョ今号で、後姿で登場のYさん、直後に引っ越したのだが、相変わらずの顔して参加していた。下町の連中は、シャイなので始めは取っ付きにくいが、ひとたび距離が縮まれば、実に暖かかつ濃厚な付き合いができる。しかも適切な距離間だけはちゃん守られるところが絶妙なのである。おかげで友人と飲む機会がすっかり減ってしまったが、こんな近所のオジさんやお爺さんとばかり飲んでいる、というのもどうかと思うのだが。

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『からっ風野郎』の改造部分を乾燥機に入れ、銀座でプリントを頼んで木場に戻って『K本』へ。空いていたので、なんとなく一般席?へ。たまには良いだろう、と思ったのが間違いであった。何回か来たことがあるらしい客が隣に。常連の会話に入ってこようとするのだが、常連は無視。ある人がディープサウスの黒人ばかりの店に1人白人の自分が入ってしまった感じ、といっていたが、けっして意地が悪いわけではなく、正体の判らない人間の相手をする理由がないだけの話である。その男は、自分のギャグが滑ったと思ったらしく「シニカルだったかな?」とトンチンカンなことをいっている。相手にされないと思うと、今度は隣の私に向かって「何されているんですか?」と話しかけてきた。ここは酒場であって、私が学生時代、二度と利用すまいと誓ったユースホステルではない。私は人との適切な距離感がつかめないまま、狭い東京で暮らす可哀そうな人だと思ったので、生返事をしていると、「ライターですか?」という。さらに頬を人差し指で線を引くしぐさをする。私が裏社会を描くライターではないかということらしい。いつかYさんあたりとそんな話をしていたのを耳にしていたらしい。そりゃ素っカタギとはいわないが、イヤハヤという話である。常連席とは、こういう連中から守られている席なのだと改めて知ったのであった。
帰宅後さらに乾燥機で乾燥させていると“すし屋の政とトルコの桃ちゃん”から電話があり、とりあえず乾くのを待つしかないので、乾燥機にかけたまま数週間ぶりにカラオケへ。定年で退社が迫っている運送会社勤務のKさんは、寮を出なくてはならないのだが、会社員であるうちにアパートを探すべき、とフリー生活一直線の私は口を酸っぱくしていうのだが、中学卒業以来、会社に属してきたKさんはピンと来ていないようである。方々でKさんの話がでるが、みんなに心配されて幸せな人である。酔っ払って『怪傑ハリマオ』を歌いながら、これは小学校の校歌だったといっていた。

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21日からの銀座青木画廊での展覧は、作品集と、それに掲載された作品を出品するという趣旨である。私は二冊目の『Objectglass12』(風涛舎)の中から一点、『からっ風野郎』を予定している。これはモノクロの作品集だが、元々プリント自体はカラー作品である。 『中央公論Adagio』では、背景の中に人物像をはめ込むため、背景を先に決め、人物にその状況に応じたポーズを取らせることがよくあるが、今回出品を予定している作品は、その手法を最初に使った作品かもしれない。よって被写体となった人物像はそのままでは展示できないので、展示用に改造中である。
先日亡くなった谷啓は、クレイジーキャッツの中で一番好きであった。あの瞬きしながらの恥らいがなんとも東京者にはたまらない。谷啓といえば“ガチョーン”だが、私があれを始めて聴いたのは、ネットで調べてみると、1963年、アメリカ製のSF人形劇『宇宙船XL-5』。谷啓がナレーションを担当することになり改題された『谷啓の宇宙冒険』のはずである。曖昧な記憶によると、出発した宇宙船が、毎回一件落着して、宇宙空間でドッキングして終っていたような気がするのだが、そのドッキングの時に谷啓は“ガチョーン”といっていた。いかにもドッキングという感じである。 子供の頃の私はお隣によくお邪魔していた。遊んでいる最中に喉が渇くと、台所に入り込んで、真鍮の蛇口にぶら下ったアルマイトのカップで勝手に水を飲んでいたが、兄弟が多くて、よく私の相手をしてくれた。仕事から帰った長男が(昔の大人は明るいうちに仕事から帰ってきたものである)さきイカでビールを飲みながらスポーツ新聞を読んでる横で、駄菓子屋のと違うイカを頂きながら、今度来日するレスラーの話を訊いたりしたものだが、そのお兄ちゃん(現在は70過ぎているかもしれない)は当時、“ケチョン”とか“ケチョンケチョンに~”というのが口癖で、”ガチョーン”を聞いたとたん、アレ?という感じで二人顔を見合わせ笑った覚えがある。 ウィキペディアで調べていて、『ハーレムの暑い日々』の写真家吉田ルイ子さんが谷啓の従姉妹と書いてあって“ムヒョーッ”となった。

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私が根っからのカラオケ嫌いと知っている友人からメールが着た。一緒にカラオケに行ったという、運送会社を今年定年のKさんと、立ち飲み屋のYちゃんは、寺山修司の競馬エッセイに登場する架空の人物『スシ屋の政とトルコの桃ちゃん』のように私がでっち上げた人物ではないか、とさえいう。まあ確かに、そう思われてもしかたないくらい、今までかたくなに拒否してきた。下手な歌を聴くのも聴かせるのもロクなことではないと思っていたからだが、彼など、中学生の時巻き起こったボーリングブームの中、「俺はこんな物一生やらない」と一言いって以来、流れでしかたなくボーリング場に行ってさえ、やらなかった私を知っているから信じられないというわけである。しかし、カメラやパソコンなど、かつて蛇蝎の如くに嫌ったものを使って現在制作しているわけで、つまりやったこともないうちから嫌うからこういうことになる。食わず嫌いという奴である。 ただ人生は非常に短い。やれば必ず面白いであろうと想像つくことも、あえて遠ざけるくらいでないとキリがない。それにただでさえ在るかどうか判らない才能を、砂金をホソボソ掻き集めるように制作している身としては、楽しいことにかまけていると指の間からこぼれていくような気がするのである。その点、運送会社のKさんや、立ち飲み屋のYちゃんとのカラオケは、間違ってもそんな心配がない類の楽しみというわけである。といっても3回やったにすぎないのだが。

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先月田村写真に、柳沢保正さん等、大判古典レンズを愛好する人たちが集うというので、ストラスのピクトリアルレンズを持っていった。当日そのレンズを使って撮影された写真が柳沢さんのブログにアップされている。この日の撮影では絵画調というより絞り気味に撮影されているが、こんな紹介をされて有難いことである。 海外のサイトにも、所有者の私の名前と共に云々されているようなので、そこそこ珍しいレンズには違いないようだが、一方では、このレンズに何でこの日本人は、こんな金額をはたいたか理解できない、という輩もいるらしい。価格を知っているということは、数年前にeBayで競り落とした時見ていたのだろう。というより貴様じゃないのか?食い下がって私に高い金を払わせた張本人は。 このレンズが水晶を溶かした石英レンズだということも知らず、私が鼻息荒くした理由は唯一つ。このレンズを設計、販売したカール・ストラスが、1916年、狂気の兆候をすでに見せ始めた渡米中の天才バレエダンサー、ヴァスラフ・ニジンスキーを、このレンズで撮影しているからである。なんどか書いているので繰り返さないが、ニジンスキーを作った私だけにしか意味がなく、だからどうした、という話であろう。 ストラスはこの時、他の団員をスタジオでカラー撮影をしているのだが、肝心のニジンスキーをカラーで撮っていない。パラマウントのカメラマンとして、撮影技師初のアカデミー賞を獲得など映画界では名を残したが、1カットでもニジンスキーをカラーで撮っていれば、と残念でならない。

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K本には、最近できたみずほ銀行の行員が来るようになり、知らない顔がずらりとならんでいたりする。いつかは、盛り上がった初対面のオヤジに肩を叩かれ驚いた。私が女王陛下からライセンスを賜っていたなら、ドテッパラに風穴が開いているところである。それもこれも、下町は気安いオッチョコチョイばかりだと嘘ばかり描いた山田洋次のせいである。これは何度も書いているが、今後も事あるごとに書くことにする。渥美清は面白かったけど。私は『下町の太陽』を観て以来、むかついているのである。倍賞千恵子は可愛かったけど。 本日は某映画プロデューサーが来ていた。若松孝二の『キャタピラー』が江戸川乱歩の『芋虫』について原作も原案もなにも表記されてないことについての話になる。あれは原作料と同じくらいの制作費で作られたそうだが、やはり原作料をケチったせいであるという。平井家に原作料を支払って映画を作った人がいうのだから間違いないだろう。反戦ならいいとでもいうであろうか。受賞して喜んでいた女優が可哀そうにさえ感じる。女優と直接血はつながっていないが、六代目こと、尾上菊五郎のサイン入りブロマイドを飾って毎日眺めている。これはただいいたかっただけである。昔ショーケンで『芋虫』映画化の話があったようだが、それは実現していたらさぞかし凄かったろう。

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