明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



日々制作することが、自分とは何か、に直結するとしたら、こんな良いことはない。2011年に一回目の三島由紀夫へのオマージュ展を開いた。三島由紀夫が喜ぶとしたらこれしかないと考えたのが三島の著作中の死の場面を本人にやってもらうことだったが、その後入手した芸術新潮の三島特集で本人が様々な死に方を演じ篠山紀信に撮らせていたことを知った。趣旨は違えど、本家が出る前に発表しなければならない。しかし半分ぐらいしか届かなかった。それが2020年にふげん社で、再び手掛けられる事となり『椿説男の死』とした。それは三島没後40周年のことで、篠山版『男の死』が海外で出版される5ヶ月前だった。これは三島にウケることだけを考え取り組んだ、私への三島からの褒美だと本気で考えている.またこれ以上歯応えのあるモチーフは作家ではもうない。それが二年後の同じくふげん社の『Don’t Think, Feel!寒山拾得展』となった。三島を糞尿配達人の青年にまでして死なせた(仮面の告白)私の背中を押してくれたのは三島由紀夫だったということになる。



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作家シリーズの中で、唯一やり尽くした、といって良いのが三島由紀夫である。2011年のオキュルスの『男の死』についでのふげん社2020年の『没後50周年 珍説男の死』この間、三島本人がモデルとなった篠山紀信の『男の死』出版の噂に怯えながらの10数年であった。三島にウケるとしたらテーマはこれしかない。まさか三島本人に死の直前最後にやっていたのが男の死と知った時はショックであった。半分は〝やっぱりな私は解っていたよ”   本家は三島の個人的趣味の男となって三島好みの死に方をする。これは本人ならではである。私の場合は三島作品あるいは言及したエピソード内の死に方である。本家に敬意を表し『椿説弓張月』に倣い『椿説(珍説)男の死』とした。内容は違えど本家よりちょっとでも先に発表しなければ格好が悪い。5ヶ月後に出版されることを知ったのはふげん社の個展会場であった。未だに三島のご褒美だと思っている。わずかに『サーカスの死』を作り損ねたが、サーカス芸人の落馬の死は、糞尿運搬人の死まで作ってしまっているともはや弱い。  オンデマンドで日々眺め暮らす用に〝卒業写真集”を作っても良い。ちなみに本家『男の死』は、あの死の直後に出てこそであり、壮絶な死の直後に見られること想定してザマアミロ!とワクワクしながらポーズしている三島を想うと、あまりに哀れで未見のままである。



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『三島由紀夫小百科』が出て、三島由紀夫に対する昨年までの熱がつい蘇って来る。昨日も書いたが、三島にウケることだけを考えた、まさに二人だけの世界という感じであった。『椿説弓張月』の演出について寺山修司との対談で三島は「あんなに血糊を使うはずではなかった。」と現場のせいにしているが、映画『憂国』の撮影現場で「もっと血を!」とぶちまけさせたのは誰だ、と可笑しかった。嘘つきという意味では勝るとも劣らない寺山修司も鼻で笑っていただろう。憂国では切腹の際に溢れるはらわたに豚のモツを使った。スタジオ内に溢れる異臭。三島はそこに香水を振り撒いた。おそらく結果はさらにおぞましいことになったと思うが、そんなズレているところさえ、嫌いではない。 三島にウケようとするあまり二二六の将校をやってもらった時は流血させ過ぎてしまった。この時はどこでも血だらけにする方法を思い付いたのだが、都内各所を血の海にして、一カットで良いのだ、と我に返った。



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三島由紀夫で男の死をモチーフとするなら本来いの一番に手掛けるべきなのは『聖セバスチャンの殉教』である。しかしすでに本人にやられてしまった。死の前年、滑り込みのように上演された舞台『椿説弓張月』の武藤太の責め場のシーンに私はセバスチャンを見付けた。さすがの三島も歌舞伎の舞台に立つわけに行かず、かといってその場面には歌舞伎役者ではなく、肉体美の俳優を代役に立てた。そこで三島には武藤太になってもらった。これは陰影のない石塚式ピクトリアリズムであればこそである。制作中は、まさに私と三島の二人の世界であった。 昨年の個展は『椿説男の死』としたが椿説(珍説)としたのは篠山紀信版男の死に敬意を払ってのことであったが、それが5ヶ月後に50年ぶりの出版を知ったのは会期中であった。篠山氏は撮影直後に死なれて非常なショックを受けたそうだが撮影自体は三島主導でつまらなかったと答えている。これは私の想像だが、篠山氏は次には『薔薇刑』のように自分主導の撮影の確約を三島から取っていたに違いなく、それを反故にされたショックがそこには含まれていたのではないか。写真の欠点は無い物は撮れないことである。私は無い物しか撮らないけれども。



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三島由紀夫の命日である。5月に『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』を三島に捧げ、私の役目?は果たした。という気分である。これはブログにも書かなかったが、三島が神輿を担ぎながら空を見上げているカットを制作している時であったが、数年前に撮影した深川の祭りの風景を元に制作したのだったが、水かけ祭りの水の匂いに混じって、鼻の奥に三島の体臭を感じた。さらに、三島が最後に見た風景、市ヶ谷の事件現場、その窓外に、例のバルコニーの先に、青く広がる海原を配している時にも鼻の奥に再び体臭を感じた。

将門の首塚が改修工事をしているそうである。つい余計な期待をしてしまいそうである。今から三十年前くらいに、友人の好き者集めて、都内の刑場跡など探索に出掛けたことがある。私はその方面は信じていない割に好奇心と期待だけは大きい。カメラを手に出掛けた。その日は一人先客がいた。小雨降る中傘もささず、ボストンバックを抱えたまま、ワンカップを供え、一心に何事か祈っている。物見遊山の我々は睨まれてしまい、人に見られると効力がない、といわれる藁人形に釘を打っているところを見てしまったかのような気分になり、先客の”用事“が済むまで近づくことが出来なかった。男の雨に濡れて上気したのぼせたような表情は未だに覚えている。



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10月にニューヨークで出版された三島由紀夫『男の死』は、国内では50万の大型本が出るそうである。今の所、内容に関しての論評が聞こえて来ない。何しろマニアの三島が、自分にとって嬉し楽しい死に方を考え、それを篠山紀信に撮らせている。数カットしか見ていないが、嬉しそうに演じているだろうことは、想像に難くない。あんな嬉しそうな三島を見たことがないと企画者である内藤三津子さんの証言もある。 篠山紀信は、三島の主導で、ただ撮らされつまらなかったといっているが、今回は三島のいうとおりに従った、次は細江栄江の『薔薇刑』のように、こちら主導で被写体に徹して貰うぞ、と内心リベンジに燃えており、おそらく構想もすでにあっただろう。直後に死ぬことは予想外の事だったようだが、そのショックには次回予定の作品を撮り損なったショックもあっただろう。いやそればかりではなかったか。被写体がないと撮れないというのが写真の欠点である。 それにしても内容について聞こえて来ないのは、文学的にも、政治的にも解釈、論評のしようがないからであろう。あれだけあだこうだいっていた連中も、つい下を向いて黙ってしまうことであろう。であるからこそ、これを事件直後に二の矢として放ち、ザマアミロ!とするつもりでいたのに、と三島の無念を思うのである。この件になると繰り返しでばかりになるが、私は男の死というモチーフを通し、妄想上個人的に対話をし、その褒美として出版の5ヶ月前に個展で発表出来た、ということで満足である。作家をモチーフに長らく制作してきたが、これ以上歯応えのあるテーマはもうないだろう。 といいながら実をいうと、脱いでくれる三十代の女性さえいたら谷崎潤一郎だけは最後に手掛けておきたいのたが。


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今年没後50年の作家、三島由紀夫が死の直前に企画した幻の写真集「OTOKO NO SHI」(男の死)が、国内で50万円(税別)の大型書籍として出版。 ネット上の説明を読むと、すっかり生きてる人達の都合に書き換えられている。という印象である。 出版契約書に実印を押し、数日後の行動に対し、「右翼の奴ら見ていろ!」といった三島。事件そのものは左右陣営問わず三島にやられた、と衝撃を与え、それは三島の意図通りだったろう。だがしかし、三島のアイデア通り、死の直前まで篠山紀信を己のマスターべーションに付き合わせ、その『男の死』は事件の直後、二の矢となって世界に放たれるはずであった。あの時であれば単なる”魅死魔幽鬼夫“のマスターべージョンであることにこそに意味があった。 ニューヨーク版のカバーの三島由紀夫の死んだフリは、期待に満ちた顔に私には見え、それが私には痛ましく可哀想でならない。長い間この事に対して言いたいことも書き尽くし、やり尽くしたが、新しいニュースを目にするたび、つい反応してしまうのである。三島の意図通りには行かず、とんだことになった。



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五月の個展について飯沢耕太郎さんが書いていただいていたのを今ごろ気が付いた。アートスケープもっとも過酷な自粛の時期に開かれたので有難いことである。ここのところ、この時のことを書く際にタイトルに”椿説“を入れるのをすっかり忘れていた。これはこのモチーフに対する私の心意気を示す言葉であり、ニューヨークでこの後十月に“真説”が出版された今、余計意味が出て来た。作者が個展のタイトルを間違えてはいけない。改めて読ませていただき、さらに次の段階に猛進する事を誓った。私のようなタイプの人間の常で、部屋は片付けられないけれども、集中力だけは、クレヨンを握ったまま寝てしまいシーツを汚して叱られた、物心ついて以来衰える事がない。  塗った漆喰を乾かす。やはりにわか左官屋ではなかなか上手くは塗れず、昭和のスナックの壁の如き様相になる。乾かしてペーパーがけ、乾き次第、また塗ってを繰り返すことになるだろう。我が家の寒山拾得水槽は、気が付くと出演メンバー以外の金魚が紛れて過密状態である。年内に水槽を増やさないとならないだろう。



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一日  



屋根の構造部分をおおよそ作る。組み立ては明日に。今のところ屋根がないし、正面も板戸を外して立てかけているという想定なので、今のうちに内装の下地部分に手加える。電灯があるわけではないので、解放部分を多めに取らないと、室内が暗すぎてしまうだろう。 ブログが建具屋のブログみたいだといわれるが、これは仕方がない。11月25日の三島由紀夫の命日だが、気が付いたら過ぎていた。この十数年の間で初めてだが、三島に見せてウケることしか考えないで制作してきた『三島由紀夫へのオマージュ男の死』だが、常に作者にウケることが頭の隅にある考私だがだが、こと三島に関しては、個展で見ていただく方々のことは一切眼中にない、という、私にしても前例のないモチーフである。もっとも、このテーマでは観客に対してサービスのしようがない。本家篠山紀信撮影の男の死の出版の噂の影に、怯えながら一日でも先に、と制作してきた成果に、一好きなつ呆れて下さい、とでもいえば良いだろうか。あえてもう1作品といわれれば、三島らしくて好きな小品『サーカス』を手掛けてみたかったが、空中ブランコ乗りの娘役を探しているうに手が回らなくなり断念した。前回の男の死では思い付くこともなかった『椿説弓張月』は陰影のない浮世絵調で石塚式ピクトリアリズムをもって取り組まなければ実現不可能で、特に三島に見て貰いたかった。ニューヨークで出版された篠山版男の死は、未だメールで送っていただいた数カットしか見ていないが、痛ましくて可哀想で、他のカットを見たいという気には今だなれないでいる。宮崎美子のカレンダーは今すぐでも見てみたいものだが。



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篠山紀信撮影『男の死』を購入した方にメールでご意見を伺ったが、私と同じ様な印象だったようである。発売を知った時も予約する気にはなれなかったが、今のところ入手の予定はない。5カットメールで送ってもらったが、拡大して詳細を、という気にもなれず。今をさること何年前か、これは三島にウケるだろうと、いやウケるにはこれしかない、と考えたのが三島が三島好みの死に方で死んでいるところを作る事であった。いずれも“理智に犯されぬ肉の所有者”でなければならない。結果汚穢屋にまでなって貰い、さる方面から差し障りがありやしないか、という心配の声もあったが、あるとしたら三島が『彼になりたい』と書いた『仮面の告白』すら読んだことのない輩であり、三島に喜ばれこそすれ、と私は思っていた。5月にタッチの差で先に発表出来たのは三島からの褒美だと、未だに思っているが、この出版により、私の三島への想いへの介錯が、首の皮一枚残さず済んだな、と一人ごちた。 芭蕉庵に漆喰状の物を塗って見たいのだが、一面だけ塗るというのは、後から不都合が起きるかもしれず、そのままにしている。やはり、あれが足りない、かにが足りないというのが出てくるので、思い付くたびホームセンターへ。今日は屋根の下地となるベニヤを2枚カットしてもらう。2度目。これを置いたり退かしながら様子を見る。早く貼って小屋の状態を眺めたいが、屋根は最後にしないと暗くなり。中に電灯を仕込める訳もなく、展示はどうなるだろう。閉める予定の窓も開け放った方がが良いかもしれない。それにしても手に接着剤がベタベタ付いて不都合が起きるというのは子供の頃からプラモデルで良く失敗してきた馴染みのパターンである。人はそう変われるものではないようである。 



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それにしても様々な事を経て、コロナという彩りまで加わり開催された今年5月の『三島由紀夫へのオマージュ展 男の死』だが、5ヶ月後に篠山紀信版が出版されるという、誰が一体絵図を書いている?という結末であった。企画者である薔薇十字社の伝説的編集者の内藤三津子さんに新宿の中村屋でお会いした時の事を思い出す。あれが出ていたら薔薇十字社は潰れなかった、とおっしやつていた。またモチーフはすべて現代であり、サムライなどの時代物は絶対に無い、企画者の私が言うのだから間違いない、とも聞いたが、おそらく『仮名手本忠臣蔵』四段目判官切腹の場をイメージしたであろう、死に装束の武士が頸動脈に刀を当てているカットが掲載されていた。ある編集者から、そのカットを撮影中の篠山の背後から撮られた写真のコピーを貰っていたが、つまり企画者に知らせず、内密に三島と篠山紀信が撮影を行っていた事になる。権利はすでに篠山に譲られていたが、この事実を50年ぶりに知り、内藤さんはどう思われたろうか。 撮影は三島のアイデア、主導で行われ、篠山はただ撮らされているようで、面白くなかった、と言っている。その通り、三島のマスターベーションに篠山は付き合わされただけ、という感じである。しかしそれもこれも、あの事件の直後の出版なら、マスターベーションだからこそ意味があった。 昨晩は久しぶりに痛飲してしまったが例によって、何事もなかったかのように目覚めた。こんな時くらい二日酔いで、なんて言いたいところであるが、二十代の頃、一度しか二日酔いはしたことがない。愛想のないことである。 作業台の上が、ミニチュアの資材置き場のようになつていたが、ようやく屋根を残し、東屋の基本的部分が立ち上がった。これで、後どんな材料が必要かが、目で見て明らかになって来た。土台の基礎作りより、まず天守閣から、というこの性格を見越しての、元大手ゼネコンの部長のアドバイスが効いている。



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写真という物は時間も含めて記録する。というメリットがある。私はそんな点をあまり意に介さず、記録といっても、もっぱら自分の脳内に浮かぶイメージにのみにピントを合わせている。よって普段カメラは持ち歩かない。たまたまシャッターチャンスと出会おうとも、それは所詮外側の世界のできごとであり、あまり関心はない。そんな調子であるから、写真の事は良く解っていないのだと思う。男性がペニスを被写体に向け、シュートして歩く、というようイメージが拭えないところがある。巨匠アンセル・アダムスも大の苦手で、窓外にあんな景色か広がっていたら、ウンザリである。女性写真家に好きな作家が多いのもそんな理由からであろう。写真の事など良く判っていない私の個人的趣味など、ここで書き連ねても迷惑なだけである。 ところでついに50年を経て、篠山紀信撮影『男の死』が刊行された。入手した方から数カット、メールで送っていただいた。中に白バイ警官の死があり、シチュエーションは違えど手掛けようとしたことがあった。ある週刊誌の『私のなりたいもの』という企画で三島が白バイ警官に扮していたからだが、死んではいないものの、本人は実現させているのだから、と止めた。しかし本当に好きだったんだな、と私の考えた眉間に銃撃を受けて、路肩で死んでる白バイ警官は、やるべきであったな、とちょっと思った。 被写体のピークを見抜くタイミングの天才、篠山紀信氏がタイミングを失って50年とは、色々あったのは耳にしていたが、想像していた通り、事件直後に出版されてこその『男の死』であり、思っていた通り、三島の無念が思われ哀しさが残る。願わくばこれにより生前のように誤解と嘲笑に晒されない事を願う。 私はこの本家の出版を恐れ十数年、その影に怯えながらも今年5月に個展『三島由紀夫へのオマージュ展 男の死』を行った。この刊行を知ったのは会期中の会場であったが、5ヶ月先んじられたのは、三島本人のウケだけを願って制作してきた私への、三島からの褒美だと本気で思っている。 表紙は目を瞑る三島の死に顔だが、私には嬉しくてわくわくしながら死を演ずる三島が感じられ、哀れさに胸を打たれ、送られてきた数カットのスマホ画像を拡大することも出来ずにいる。



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何する気も起きずダラダラしてしまったが、とにかくいくらでも寝られる。本日田村写真に出来上がったプリントをようやく引き取りに行く。 今回椿説弓張月でやり過ぎたことにより、寒山拾得も可能だ、と思えた。勿論私を過剰にさせたのは、過剰の人三島由紀夫である。モチーフとしたのは劇中に聖セバスチヤンの殉教図を見出したからだが、それは三島好みの残虐な死の場面ではあるが、それよりも死の前年に悲劇の英雄鎮西八郎為朝に自らを見立てていたのだろう。演出しながら自分の最終場面の演出も同時に考えていたのではないか。 よく言われる当日三島と同じ釜の飯を食った説得すべき前線部隊は、富士の演習に出払っており、後方部隊しかおらず、調査ミスのようにいわれるが果たしてそうだろうか。三島が”招待客“を間違えるとは思えないのである。悲劇の演出に野次は必要だし、何より恐れたのは三島の説得に立ち上がる隊員があわられる事であろう。エンディングが台無しである。どうもまだ三島のこととなるとつい。それはともかく。 私のモットーの一つ“及ばざるくらいなら、過ぎたる方がマシ”であるが、常にこの過ぎたる部分に、次の可能性を見出してきた。自分でいうのも何だが、エスプリのようなものがそこに含まれる。そう考えると寒山拾得は、それを制作すること自体が、とくにその手段が写真であることを考えると、すでにやり過ぎなモチーフといえよう。そういう意味からも、ただ制作することが大事であろう。

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個展終了後、寝てばかりいる。何年か前のように、寝床に本をばらまいて、寝心地を悪くして、なんてことはさすがに無理だったし、しなかったが。映画三島VS全共闘をまたやっているそうなので、どうしようか、と思っているが、行かないままになりそうである。討論内容には興味がないし、おそらく嬉しくてたまらない三島の表情が見たかっただけであり、もし学生達に万が一襲いかかられ殺されても、それも有りだな、と目を耀かせていたに違いなく、そんな所しか興味がない。 三島が亡くなる直前まで篠山紀信に男の死を撮らせていた事を知った時の嬉しさは、三島の研究家はいくらでもいるが、その文学についてはともかく、私こそが最も三島個人を平岡公威を理解している、とうぬぼれた。非常にピンポイントではあるけれども。篠山紀信は、男の死について、三島がすべてシチュエーションを考え、ただ撮らされているようでつまらなかった、といっている。おそらく逆に被写体に徹した細江英公の薔薇刑が頭にあったに違いなく、男の死の次に三島に提案すべき次回作の構想がすでにあったはずだ。三島に死なれて相当なショックであったようだが、その半分は次回作が不可能になったことへのショックだつたろう。写真の最大の欠点は被写体が無いと撮れない事である。いや被写体のピークを見抜く天才が、三島の本気に気付かなかつたショックかもしれない。 10月に出版されればインタビューの際に幻となった次回作について漏らすのではないか?その構想は薔薇刑を超えていないとならず、私としては、五十年後に発表という大外しをしてしまったが、さすが篠山紀信だ、と密かに感服してみたい。



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冷蔵庫の食料もほぼ尽きたし、クリニックにも行かないとならないので、明日には外出しよう。 10月にニューヨークで出版される篠山紀信、男の死だが、死の一週間前、企画者と出版契約を済ませたタクシー車中、三島は、右翼の奴等今に見ていろ、ともらした。右翼を自称する三島の尻馬に乗るだけの連中、その他。中曽根康弘など、政治家、その他訳知り顔の連中に対し、魚屋やヤクザや体操選手の死という、三島本人以外には無意味な(意味がないほど効果的)死を演じて見せ、ザマアミロ、と頭から冷水を浴びせかけてやるつもりだったはずである。それが二の矢であり、三島好みの悲劇を演出した死後の締めとなるはずだったろう。つまりあの事件直後でなければ意味がない。私はそれに対し、ずっと繰り返して来たように三島の無念を想う。 私の周囲の人間は三島と男の死について10年以上こだわって来た私が、ようやくあれが見られる、と喜こんでいると考えているようだが、まったく違う。今頃になってなんてことをしてくれる、と思っている。何しろ、つい先日まで三島にウケるためだけに制作をして来た私は、おそらく少ない情報から推察するに、三島以外には無意味な死が羅列されており、このことに関しては誰よりもわかっているつもりの私としては、三島が喜んでいるところは見たい。だがしかし、三島の思い描いた効果の全くない50年後の公開を考えると私には直視できる気がしない。 被写体のピークを見極める天才篠山紀信、なのになんて大外れなことをやらかしくれる、というのが私の正直なところである。

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