明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



二千年より始めたホームページだが、リニューアルするつもりが、放ったらかしのまま。結局とりあえず元に戻した。 プロバイダは一度かえたが、以来ずっとそのまま。今はもっと安くなっているのではないか。友人に聞いて判った。そもそもがNTTの回線を使っていたのだが、固定電話など使っていのに、そのままにしていた。固定電話が当たり前の時代であったから、そういうものだと思い込んでいた。何年も無駄な金をはらっていたことになる。このアドレスは今年一杯の予定である。リニューアルはまだ先になるだろうが、まずデータの移行を考えるとウンザリだが、やっている音楽はアナログだが仕事はデジタルな友人Tさんに、変換の方法があると聞いてホッとした。 来年、神奈川近代文学館で夏目漱石展がある。出せる物をできるだけ出そう、という深川江戸資料館の個展とかぶってしまうが、漱石像を出品することになりそうである。漱石といえば、まっすぐだと思っていた鼻筋が実はジョン・レノンみたいになっていた。私はそのことばかりいっている。お札にまでなった人の眉間からまっすぐ延びた特徴的な鼻が、イメージと違ったとなれば、大変なことだ、と思うのだが、考えてみれば、作家の顔にああだこうだ考えるのは私くらいかもしれない。書籍のどこに使われたか忘れたが、太宰治の風でなびいた髪に、背景の草木の選択間違いで、頭に大きな土瓶だかサックスのケースだかを乗せて喜んでいる太宰。みたいな写真が使われていて、ネットで話題になっていたが、これでは女にモテナイと太宰もがっかりだったろう。 漱石の鼻については、あまりに誰も気にしないので、私の妄想ではないかと思うくらいだが、江戸東京博の漱石展の一週間前にフリーペーパーで漱石が表紙になるので、鼻が怪しいからと、(そもそも街に貼られたこの漱石展のポスターの拡大写真を見て、修正跡を感じた)面識のある職員に出品されるデスマスクを横から撮って欲しいと頼んだが不可。危険を回避して正面を向かせた。会場で鼻を確認し、自転車飛ばして帰宅後すぐ鼻を削った記憶がある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、1999年にインターネットの画面を初めて見てパソコンを買い、一年後、ソフトを買ってホームページを立ち上げた。以来、積み上げているうちに、九竜城じみたゴチャゴチャとした古くさい感じがしてきた。当時は画像はとにかく軽く、といわれたものである。 いつだったか、ホームページのアップ用にソフトが入ったノートパソコンを、我がハラワタ洗浄用に使用していたアルコールをこぼしてダメにしてしまった。これをきっかけに情報をアッフすることなく時間が経って、全面的にリニューアルを、と思ったものの、初めの勢いどこへやら。結局とりあえず前のまま復活させた。今時、掲示板て。 先日またまたハラワタ洗浄用液体で不調であったパソコンのキーボードを購入。途中の公園でメール。企画書を書く必要があるのだが、書いたことがない。そもそもどんなことを書けばいのか判らない。河本の常連には、企画書にかかわりそうな人が3人いる。女将さんに良い大人が10歳児にさせられてしまう河本だが、ジャンル違えど昼間のパパはちょっと違うとばかりにプロ揃いである。そこで3人にアドバイスをお願いした。これはたまたまだが、河本を語っているうち酔って熱くなり、女性の常連Hさんに「みんな10歳なのよ。」と言われた3人であった。 門前仲町で打ち合わせ。人形でない撮影である。場所かえて話すうち、企画書とはいかなるものか、私に教授せんと待ち構えていたのに、現れないとは何事か!という声が聞こえてきたのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今年もまた三島由紀夫の命日である。市ヶ谷には刀傷が残る現場を公開している。あの事件を特に忌まわしいものにしているのは隊員の介錯による断首だろう。今では考えられないが、事件当日の新聞にはちゃんと写っている。もっとも介錯人不在の乃木希典の場合は、悶え苦しむ声が近所に一晩中響きわたった。というから、それはそれで悲惨である。 三島は死ぬ一週間前まで、男の死というテーマで、魚屋か腹に包丁を刺していたり、体操選手がつり輪にぶらさがったまま射殺されといるなどシチュエーションを自ら考え、篠山紀信が撮影している。それは死の直後に出版され、世間が驚くのを想像し、嬉しくてしょうがなかったろう。三島はそういう人である。しかし奥さんの反対にあい、未だに出ていない。そんなものが出る前に、と石塚版『三島へのオマージュ 男の死』という個展を開いた。 会場の選定には断られたりして苦労した。このことは以前書いたかもしれない。 震災の前年だったか、ある会場を紹介された。場所は良かったが会場にはスタッフが常駐せず、すべて自分でやらないとならないので、それは大変だ。躊躇していた。ところが、三島が市ヶ谷にたずさえ、介錯に使われた『関の孫六』は、件の会場の先代の社長が三島に進呈した物で、現社長は当時若いながら切腹だか介錯だかの作法を三島に教えたという。私はなんという偶然。驚き慌てて連絡を取ったが震災の影響があり、しばらく話はすすめられなかった。ようやく話が通ったとき、何をやっても良いが、三島由紀夫だけはNGとのことであった。ガッカリである。三島に孫六を渡したことについて事件直後から各方面から様々あり、営業にも差し障りがあったと聞く。この三島との縁に関しては先代が本に書いているし、取り上げられることも多いのだが、そんな事情もありこの程度にしておく。 社長と何代目かの刀匠孫六の対談によると、刀匠は戦中、その需要から召集を免除されていたらしいが、あえて志願したらしい。それは戦場で“試し斬り”したかったからだそうである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私が広角レンズは形が極端に歪曲するレンズだと思い込んでいた頃。ある写真展で風景を広角で撮影し、引き伸ばされたプリントを見ていた。それがある距離に来たら、歪曲して見えていた画像が歪みのない、普通の風景に見えた。こういうポイントがあるのか。と面白かった。 被写体、被写体との関係や距離。プリントのサイズ。特別なポイントが在るのではないか。来年の深川江戸資料館での個展は、大きなプリントを考えている。用紙のサイズの都合、背景を含めての人物ということもあり、必ずしも人間大とはいかないかもしれないが、できるだけそうしてみたい。人形が人形であるかぎり、人間サイズを越えるべきではないという気がするが、写真は違う。あくまで人を撮っているつもりでいる。人間大にしてみる価値はあるだろう。 作家シリーズを始めた初期に、江戸川乱歩が帝都上空を気球に乗って、という作品を作った。作品自体に極端なパースを付け、さらに広角レンズで撮影した。背景の空を自分で描き、それを自然光で撮る、しかも人形を手持ちで、と今思うとややこしい、あまり頭が良いとはいえない撮影方であったが、それが私だとしかいいようがない。田村写真で最初にプリントを見た時、自分でそうするつもりでやっていたはずであったが、『私はこういうことをしようとしていたのか。』と意外な驚きがあった。もし今度あの感じを味わえるとしたら、人間大プリントではないか、と密かに期待しているのである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




オイルプリント初個展の会場を映したビデオが出てきた。1999年『ONE DAY ONE SHOW』といって、ジャンルの違うアーティストが一人一日だけの個展を連続して行う、という試みであった。研究を初めて約9年。ようやく初披露となった。オルタネイティブなどという言葉も聞いたことなどなく、古典技法など試みる人など見当たらず、まして油性インクを使用するこの技法の個展は戦後初だったろう。感度が低くて引き延ばしができないために大判の8×10インチカメラを使った作品も混じるが、35ミリのポジフィルムからネガを起こした作品もある。オイルプリントをなんとか伝えようと人物、ヌード、風景、黒人人形作品などをオイルにしている。何故だか作家シリーズ作品はない。この個展は会場の様子をインターネットで配信する、というものであった。たしかに会場には一台のパソコンが見える。この日、私は初めてインターネットなるものを見た。それまでワープロすら触ったことがなく、メカ音痴なせいもあり、まったく興味がなかった。しかしこれを使えばオイルプリントを広められるかもしれない。そしてなにより、人形作って撮影しています。などと自分で説明しながら、実につまらなそうな所にも閉口していた。営業用ツールとしてめ良いだろう。そして翌年にホームページを作り、ついでにフォトショップを使い始めた。今はないが、街にあるイメージセッタで印刷用フィルムに出力し、引き延ばしができないオイルプリントの欠点をカバーできることになった。夜中もやっていたので個展の時は永代橋を何度も自転車で行き来した。後に乱歩で本を出すことになった時、アナログ撮影でも人形を人間大に見せることはできたが、所詮、手前にあるから大きく見えるだけであり、主人公が常に最前にいるようでは話にならず、合成作業は不可欠になっていった。つまり、この日はデジタルに参入するきっかけとなった重要な日なのであった。 夜中に永代橋を行ったり来たりしていた頃、通ったのが、ご主人が元力士のTらーめんである。ついでにえば、出版社の帰りに書店に並ぶ前の『乱歩 夜の夢こそまこと』を初めて買ってくれたのが、ここのご主人である。それが河本から見えるところに越してくる。前を通ったら奥さんとスタッフ。久しぶりだが覚えていてくれた。開店日を確認。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


河本では客が女将さんをいたわっているつもりで、女将さんに10歳児にさせられてしまう。もちろんアルコールも作用しているわけだが。 お酉様に出掛ける時、古い熊手からお目出度い飾りを外し、それが店内に増えていく。気がつくと妙なところに海老がいたりして。昨年の熊手は真ん中の列に小判をくわえた獅子。その下に金の俵。そして下から俵に向かって龜がいる。長寿の象徴である苔の尻尾を生やしている。それが緑色だったら良かったかもしれないが、紫色である。これが女将さん気持ちが悪いという。尻尾は外されることになった。それは先っちょを束ねて結わいてあるので、断髪されたチョンマゲのようである。 帰宅後、データを選んで現像、チェックするが、撮影者である私は当然写ってはいないが、輪の中に溶け込んでいるわけである。しかしすっかり酔いが醒めた私の目の前のモニターには、紫のチョンマゲを頭に乗せた70代。それを見て爆笑している50あたりから85歳まで。ほんとに私もこの中にいたのか? チョンマゲといえば元横綱北の湖が亡くなった。私がもっとも相撲に熱中していた頃の横綱である。両国中学出身だったと思うが、高校の同級生に、後輩がいて、学内でも番付が優先されるらしく、同じ相撲取りの先輩をパシリに使っていたらしい。ご主人が元力士のラーメン屋が近所に越してくるのだが、北の湖は力士関係者に信頼されており、大変人気があると聞いたことがある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日撮影したモッコは毅然とした様子でこちらを見ている。モッコがこんな表情をすることは知らなかった。女将さんを常連は心配し、いたわっているつもりで実は女将さんに10歳の子供にさせられていたように、店にいる女将さんを早く部屋に帰ってこいと甘えていると思っていたモッコは、実は女将さんを心配し、守っているのでいるのではないか?その表情を見てそう思った。 始めてモッコを撮影した時、逃げることもなく、じっとレンズを見つめて答えてくれた。あんちゃんは「こんなの初めて」という。その時であったろう。私は河本を撮ることができる。と思ったのは。そういえば女将さんの部屋で、ベッドの上に腰かけたツーショットを撮った時、撮らせてはくれたがにらまれた。直後に大アクビしてたけど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日のブログを見てくれたご近所のTさんが昔のVHSをDVDに焼いてくれた。いっぺんではたいへんなのでまずは85年岡山駅前にできたファッションビル『ZAP』のオープンベントとして『ブルースする人形展』を開催した時に、開店当日、岡山OHKの『あいらぶ土曜日』に出た時の中継の様子である。ニコリともせず、訊かれたことに答えている。最近の相撲取りの勝利者インタビューでももう少し愛想が良い。この頃はまだ架空の黒人を作っており、作品を写真で残しておこう、という発想がなく、雑誌に取り上げられた時のカットが残るにすぎない。よって2000年に立ち上げた只今閉鎖中のHPにも載せていない。このビデオを見たかったのは当時の作品もそうだが、もう一つ。司会のはかま満緒である。私のあの表情は、今はかま満緒がスタジオでこっちを観ているんだろうなあ。という顔であった。それは覚えている。現在ZAPはどうなっているだろう、と検索してみたら、以前あったビルの名前が思い出せません。という質問があり、どうやら10年以上前になくなってしまったようである。 もう一本はサントリーホワイトの人形アニメーションのTVCF。97年。屋上でトランペットを吹く男。音楽はマイルス・デイヴィス。もう一本は屋上で女性が歌う物。音楽はナタリー・コールだったろう。ナレーションは当時の林家こぶ平さん。もう一つボサノバ編があったがまだ出てこない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




女将さんが店内にいると、早く部屋に帰って来いと鳴くのが猫のモッコである。神経質な猫であるが、私がカメラをかまえ名前を呼ぶと、何故だかちゃんとレンズを見つめてくれる。 ミラーレスカメラに5、60年代のレンズを着け、絞り解放で撮ることも多い。当然ピントはマニュアルなのでピンぼけ写真も多い。私の場合、まだ老眼を感じたことがないが、乱視が進んでいるせいだろう。なのに眼鏡はただ紫外線をカットするだけの素通しである。飲酒の果てにしょっちゅう寝床で壊してしまうことと、乱視の度が左右異なるため、床が斜めに傾いて見え、身長も2メートルほどに感じてしまうからである。 モッコはかなりな年寄りらしいがモッコらしいカットはすでに撮ったと思っていたが、モッコ出てきた。の声を聞くとどれどれ、とつい見にいってしまう。そして昨日ピントがドンピシャというカットが3カット撮れた。モニターでチェックすると中の1カットでは、撮影者より位は上。という表情をしている。撮らせていただく都合上しかたないだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




九州帝国大学医学部を舞台に、アメリカ人捕虜の生体解剖を行った事件のTV番組のため、卒業写真帖を福岡から来た番組スタッフに貸し出しだ。そこに、ことの発端となる捕虜の解剖を母校に持ちかけた男が、卒業生として、クラスメートとともに写っているからである。探しても入手できなかったそうで、遺族に連絡してもなしのつぶてだそうだ。この男を含め、重要な役割を担った人物は早々に亡くなっており、関係者が責任を被せたであろうことは想像に難くない。 生きたまま解剖する、というおぞましい事件ではあるが、おそらく当時の状況を考えると、たいした手続きもなく、処刑される運命にあったろう。それを考えると、当事者は殺されるとは夢にも思わず麻酔で寝かされ殺されたのだから、まだましだった、という考え方もあるだろう。遺族の中にもそういう意見もあったようだ。 しかしこの事件には、余計なスピンオフドラマのような物が付属していて、それがまたおぞましさに拍車をかけている。捕虜の肝臓を酒の肴に食ったという噂である。まことしやかに伝わってはいるが、事実ではない。なのにそれは時間の経過とともにセットとして、まるで人肉食事件のイメージとして残り、関係者への取材をさらに難しくしているようである。 放送は来月中旬。全国放送である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




九段下の画廊でオイルプリントの個展をやった時のこと。何度か書いたし写真もアップしたが心霊写真を撮った。通りの向こうは靖国神社。地下では226事件の将校がビラを刷ったと聞いていた。それは尾を引きながら蠢き飛び回る白い煙状の物であった。フィルム式コンパクトカメラのフラッシュ撮影である。正体はともかく、フラッシュの一瞬にあれだけ動き回るのだから、人の目に見えなくて当然である。 前置きが長くなった。河本の女将さんは表情豊かでくるくるとよく変わる。それがまるで円生の高座での表情を追ったように見えたり、手振りを交えて民衆に訴えかける闘士のようであったり、大口あけて、これ以上ないような笑顔だったり。これこそ変化のスピードが速くて、帰宅後現像しては驚いている。知ってはいるお馴染みの表情のようでいて、他の常連が見ても新鮮であろう。また前述の心霊写真のように、変化するなかで、目でとらえきれない見たことのない顔もある。ほとんどのパターンを撮ったつもりでいて、また本日も、新たな表情を撮ってしまった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




某TV局より私の所有している写真を借りたい、と連絡が来た。夢野久作の『ドグラマグラ』は九州帝大が舞台だが、作中の雰囲気を知るために入手したのが昭和9年の医学部卒業アルバムであった。なんという幸運か、それは久作が新聞記者として九大に出入りしていた、まさにその頃の物で、作中人物のモデルの教授の写真が、自筆サイン入りで貼り付けてあった。久作のエッセイだかで名前が書かれた教授も散見する。 結局、当時の九大医学部の雰囲気は充分伝わったものの、夢野久作は大きな柱時計に納めた作品、一体制作したにとどまっている。 ところで、遠藤周作の『海と毒薬』や上坂冬子の『生体解剖事件』の舞台になったのは、このころの九大医学部ではなかったか?事件は墜落したアメリカの爆撃機の搭乗員を、麻酔を効かせたうえとはいえ、代用血液として海水を注入したり、臓器を取り出して、どのくらい生きているか、など、惨な実験を行った事件で、全員死亡させている。そして母校に生体解剖を持ちかけた男が、この年に卒業している。名前が同一の生徒はいたが苗字が違う。そこで東大に勤務する知人に九大の卒業名簿を調べてもらったら、苗字が変わったが、件の男がまさにその男であった。その卒業写真帖の3人の編集委員に名を連ねてもいる。遺族にあたってもなしのつぶてで写真が手に入らない、と連絡が来たわけである。アルバムには当日手術(といって良いのか?)顔を出した教授もサイン入りで貼り付けてある。例の男はというと、戦時の傷により、破傷風で死亡している。戦争となると、人を救う立場の人間でさえ悪魔に転ずるという例であろう。いかに凄惨なイメージな事件だったかというと、捕虜の肝臓を酒の肴に、という噂がたち、裁判にもなっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ブログを書いていて、筆がすべり過ぎて没に。 河本が休業したのは6月だったかろうか。だとすると、すぐ半年ということになる。女将さんはほぼ休業前と変わらないように見える。問題は煮込みである。河本の煮込みが◯大煮込みだ云々、といわれていること知ったのは最近のことだが、厨房担当の弟のあんちゃんの目の調子が悪く、包丁を扱い難く、煮込みを出すことが出来ないのである。 休業後の常連の対処の様子を書いていたら、たまたま先日、河本がなくなったら行くところがなくなってしまう、と常々いっている人から、あるアイデアを聞いた。ブログを書いていて、必ずそうなることが判っている時に限り、ちょっとしたことは先に書いてしまう時がある。さすがにアップするのは事を見届けてからにするが。 本日は書いているうちに、例のアイデアが実現したとして、と夢想しているうちに最後つい問題解決メデタシメデタシにしてしまった。勿論そんな出鱈目はアップしない。しかしまんざらない話ではないな。と削除せず、その通りになって再開が果たせたら『タウン誌深川』の原稿の足しにでもしようと取っておくことにした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




何かあるとしたらそろそろだろう、と河本の全データを別のPCにコピーして整理した。これで安心。こういう場合、部屋の掃除中に本を読み出してはいけないように、余計なデータを触ってはならない。 一台の乗用車の画像が出てきた。三島由紀夫へのオマージュ展『男の死』で使おうと用意していた白いコロナである。三島たちは市ヶ谷に向かう車中、高倉健の唐獅子牡丹を元気に歌ったという。私がイメージしていたのは手前に背中で泣いてる唐獅子牡丹を露出している三島由紀夫。背景に番傘で顔は見えないがその他のメンバー。さらに後方に駐車しているコロナ。というものであった。結局、唐獅子牡丹の刺青をどうすれば良いか、悩んでいるうち時間的に無理と断念した。ついそのコロナを触ってしまった。コロナ以外何もできていないが、これを完成して実物大にプリントとしたらさぞかし。と良からぬことを夢想した。 2代目のパソコンの画像データもでてきた。すでに出版社が無くなってしまったが『乱歩 夜の夢こそまこと』(パロル舎)制作時の物である。この時もどの作品を手掛けるか模索しながら制作していた。そのフォルダの中は、慌てて夜逃げした後、もしくは手入れを察知したどこぞの事務所の如しであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




河本は外観。店内。カウンター上のグラスや花、肴。女将さん。客。お酉様。それぞれフォルダに分けて整理してある。 客に関しては背景に配してPINとをはずしたりして、知っている人がこの中に?といわれれば知る人なら選べるだろうが、知らない人には判別できないようにしてある。1つには個人情報や肖像権云々もあるけれども、そんなことより、主役に目が行くようにしたい。常にピントが合っている人物はお将女さんである。(古いレンズにマニュアルなので、しばしばピントを外しているけれども) 人物像を作る時は頭部の制作にほとんどの時間をかける。身体に関しては勢いをもって一気に作る。これは目が顔に行くようにと、私なりに考えてのことである。 客がアイドルを囲んで楽しそうにしているのは、ブレていたりボケていても充分伝わる。その笑顔を見ていて、たんに休業の間に河本店内を記録しておくつもりから主旨がかわっていったのだった。 レンズに関しては、相変わらす3振も多いが使い方によってはホームランを打つのがたまらない。特に河本のような被写体には向いている。もっとも、細かいチェックをするわけではなく、ムラッときたりワクッときたら、それが私にとって良いレンズである。しかし、悪食の私がまったく旨味を見いだせないレンズが1つあった。 Meriter 2、9 50mm 良いのは小振りで軽いことくらいである。作った奴のツラが見たいとは思わないけれど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ