今年もまた三島由紀夫の命日である。市ヶ谷には刀傷が残る現場を公開している。あの事件を特に忌まわしいものにしているのは隊員の介錯による断首だろう。今では考えられないが、事件当日の新聞にはちゃんと写っている。もっとも介錯人不在の乃木希典の場合は、悶え苦しむ声が近所に一晩中響きわたった。というから、それはそれで悲惨である。 三島は死ぬ一週間前まで、男の死というテーマで、魚屋か腹に包丁を刺していたり、体操選手がつり輪にぶらさがったまま射殺されといるなどシチュエーションを自ら考え、篠山紀信が撮影している。それは死の直後に出版され、世間が驚くのを想像し、嬉しくてしょうがなかったろう。三島はそういう人である。しかし奥さんの反対にあい、未だに出ていない。そんなものが出る前に、と石塚版『三島へのオマージュ 男の死』という個展を開いた。 会場の選定には断られたりして苦労した。このことは以前書いたかもしれない。 震災の前年だったか、ある会場を紹介された。場所は良かったが会場にはスタッフが常駐せず、すべて自分でやらないとならないので、それは大変だ。躊躇していた。ところが、三島が市ヶ谷にたずさえ、介錯に使われた『関の孫六』は、件の会場の先代の社長が三島に進呈した物で、現社長は当時若いながら切腹だか介錯だかの作法を三島に教えたという。私はなんという偶然。驚き慌てて連絡を取ったが震災の影響があり、しばらく話はすすめられなかった。ようやく話が通ったとき、何をやっても良いが、三島由紀夫だけはNGとのことであった。ガッカリである。三島に孫六を渡したことについて事件直後から各方面から様々あり、営業にも差し障りがあったと聞く。この三島との縁に関しては先代が本に書いているし、取り上げられることも多いのだが、そんな事情もありこの程度にしておく。 社長と何代目かの刀匠孫六の対談によると、刀匠は戦中、その需要から召集を免除されていたらしいが、あえて志願したらしい。それは戦場で“試し斬り”したかったからだそうである。
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