明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨日、今はなき木場の煮込みの『河本』の常連が5人集まった。女将さんが亡くなり、女将さん原理主義者の常連は出禁にされ、線香をあげることも許されなかった。仲の悪かった義理姉憎しのとんだとばっちり、逆恨みという奴である。その後、躾のなされていない連中が押し寄せ、携帯でも写真を撮りまくっていた。 初めて訪れた時、女将さんはまだ髪が黒々の五十代であった。それから30有余年である。小学生の頃から店を手伝っていた女将さんには、ホッピーの瓶が足りなくなり、インク瓶を流用し、洗浄が足りなかったのか、ブルーのホッピーが出て来た、という荒っぽい時代の話も聞いたことがある。私は小学校の図工の先生に、屋台で始めてご馳走になった酎ハイにそっくりな味で、もっぱら酎ハイ専門であった。女将さんに炭酸水を注いでもらうのは最初の一本だけなのだが、それを知らず、何故だか何十年も全て注いでもらっていた。私ほど女将さんに注いでもらった人間はいないことになる。 女将さん愛用の栓抜きを、ステージに置いて行った山口百恵のマイクロフォンのつもりで所有している。店を解体していると、通りかかった常連に連絡をもらい、職人に頼んでカウンターを一枚もらってタクシーで運んだ。切り分けて有志に分ける、百年前の暖炉の木でギターを作ったブライアン・メイのようにギターにすることも考えたが、ギターにするつもりのホンジュラスマホガニーも手付かずのままである。やはり当初の目的のように、この上で酎ハイが良いのだろう。




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木場の河本のカウンターにワックスをかける。どうするかは未だ未定。物の存在感というのは特別である。私は本来、写真が最終形態であり、自作の被写体は内緒にして謎のままにしておきたいくらいで、作品を買っていただいた方だけに、競馬の予想屋のように、こちよこちよと書いて、そっと渡す、なんてやってみたいものだが。人形があった方がが良いといわれるから参考出品している。 そもそも頭に浮かんだイメージが、本当に頭の中にあるのかどうか、制作して、物として目の前に提示して確認したい、という私からすると、思い出や、イメージも良いが、実物が目の前にある良さはある。この板一枚で、その上を猫が歩いてい光景や、出禁になった人や、死んでしまった人の顔も浮かぶ。解体現場から救出した甲斐はある。閉店間際、椅子やらなにやら持ち帰った人が居たというが、家で愛用している人はいるだろうか?尻の感触で河本は甦らないだろう。 昔、郷に帰って河本を再現した店をやろうと、店内の寸法を計って帰った人がいたらしいが、おそらく叶うことなら、と私と同じことを考えた人はいるだろう。しかし、あんな埃にまみれ釘が出ている板切れを家に持ち帰って、無事に済む環境にいなければならない。そんな環境にないからこそ、河本でグズグズ飲んで、不思議なくらい家に帰ろうとしなかったに決まっている。私に向かって「家に何台洗濯機あると思ってんですか!」といった娘を持つお父さんにも、是非、自身餓そこにホッピーの瓶を並べている写真とともに、カウンターに触れさせてあげたいものである。

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先日『タウン誌深川』用原稿を入稿した。今回の引っ越しについて書いたのだが、最後の引き金になったのが三十数年通った居酒屋、木場の河本の女将、眞寿美さんが亡くなった事であった。よって掲載する写真は、私が永井荷風の人形を持って、河本店内で撮影した作品で、五十代の眞寿美さんが、割烹着姿で背景に写っている。写真嫌いの眞寿美さんなので「ぼかしますから。」今思うと、一カツトくらいピントを眞寿美さんに合わせておくべきであった。 これはそれこそ三十年は店内に飾られていて、「河本に荷風来たんだ?」と言う客に「だったら私いくつになっちやうの?これお人形さん。」どいっているのを聞くたび微笑ましかった。 7月に河本廃業に伴い、作品が帰って来たが、それは同じく常連席で肩を並べたMさんにもらって頂いた。眞寿美さんが体調を崩し、入院から休んでいる間、眞寿美さんの弟さんが、常連の十人ほどは、自分たちで注いでくれるなら来ても良いよ、他は相手できないから断ってくれと言われた。寝ている眞寿美さんも、我々の声が聞こえていれば、寂しくないだろう。 しかし、休業と書いてあっても灯りが漏れていれば入って来る客もいる。それを主に断っていたのがMさんである。事情も知らない連中に対し、すっかり嫌な役を引き受けて頂いた。そんな事もあり、Mさんに貰って頂いたのだが、次号には、その河本に三十年飾られていたその物を複写してお届けする。

タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第16回『トラウマ』
『石塚公昭 幻想写真展き続ける作家た18年7/25~9/2 リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.Pyoutubeこ2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界


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吉祥寺の焼肉店の店長Kさんから短いムービーを送ってもらった。それはかつてのホッピーと煮込みの名店で、常連で女将の真寿美さんの誕生日をケーキにキャンドル立てて祝っている。私は30年以上通って最後の一年は許可を貰って写真を撮りまくったが、ムービーはというと猫のオシマの死んだときと、いつだったかのお酉様をガラケーで撮っただけである。それに比べるとスマホのムービーは鮮明である。この時期、真寿美さんが体調くずし、本来休業するはずが、同じく体調が悪かった厨房担当の弟さんに常連は来て良いけど、後は店に出られないので断って欲しいといわれた。しかたないので、自分たちで冷蔵庫から炭酸やホッピーを取り出し、栓を抜いて、飲んで支払い、片付けて帰った。声を聴いてたまに真寿美さんも顔を出してくれたし。私達は責任者である弟さんにいわれてやっていたのだが、それを快く思っていなかったらしい人物からある日、1年有り難う御座いましたの貼り紙とともに出入り禁止になってしまった。信じられない仕打ちである。もっとも私達は女将の真寿美さんと煮込み目当てに通ったので、真寿美さん亡き後、通う理由がない。それにしてもその短いムービーには、常連達と女将の、最後の輝きが収められていた。 28日のリコービル個展会場、平井憲太郎さんと山前譲さんのトークショーは大事を取って中止と決まりました。


石塚公昭幻想写真展-生き続ける作家たち- 2018年7月25日(水)~9月2日(日)

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『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載9回『牡丹灯籠 木場のお露』

展評銀座青木画廊『ピクトリアリズムⅢ』

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先日、キーボードが突然暴走を始めブログに間が空いた。その間に88か9になる母のいるホームに行ってきた。電話では毎日のように話しているが、久しぶりに娑婆に連れ出し、妹が日本に帰るたび行っていた寿司屋に行く。母と同居した頃は何かと出かけては遅くまで帰ってこない、その他、迷惑をかけられたが、すっかり落ち着き、息子の目から見て、ボケてる要素は見られない。思い込み、勘違いは数々あるが、それはそう思っているならそれでいい、とこちらがあえて訂正しないせいでもある。ホームに入る前の3ヶ月の入院で、コルセットで身動きできずにいたが、それでもボケずに耐え切った。私にも一度やった「どちら様ですか?」という得意のボケたフリでずいぶん驚かせていたらしい。 ホームに入った当初こそ色々いっていたが、他の年寄りを世話したり、揉めているのを間に入ったり、と母に言わせると職員に感謝されているという。それがどうも日々充実感を感じている理由のようである。ずっとここに居たいいう。母は本来人のことばかり気にかけている世話焼きであり、妹がホームステイで海外で世話になったこともあり、本当は、留学生の面倒を見るようなことをしたかった、と聞いたことがある。もっとも職員も、母がおだてれば木に上るタイプだと心得ているようで、そのたびに野菜ジュースをくれる、と数リットル溜め込んだのを私によこす。「いらないなら断ればいいじゃないか」「だってタダなんだから」。「一日ひとつ飲みなさい。いつまでたっても親だねぇ」。なんて自分でいっている。かつて、二人で回転寿司にいったとき、私と互角に食べるので、私にもう一皿食べろ、でないと同じ数食べたとブログでいいふらすだろ、といっていた母もすっかり小食になった。それでも、一時は痩せていたが、すっかり元に戻った、リハビリはイケメンの療法士のせいでがんばっているようだが、シルバーカーはハンドルにヒジを付いてそろそろ歩く状態であった。

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展評銀座青木画廊『ピクトリアリズムⅢ』

石塚公昭幻想写真展-生き続ける作家

『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載8回『昭和残侠伝“唐獅子牡丹”三島由紀夫』

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtub


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昨日の肥え桶転がして死んでいる三島由紀夫は今見ると良くやったな、と旧くからの友人からメールが着たが、なんのことはない。『仮面の告白』で三島は書いている。『坂を下りて來たのは一人の若者だつた。肥桶を前後に荷ひ、汚れた手拭で鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて來た。それは―汚穢屋―糞尿汲取人―であつた。彼は地下足袋を穿き、紺の股引きを穿いてゐた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。』『私はこの世にひりつくやうな或る種の欲望があるのを豫感した。汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』といふ欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私をしめつけた。』了解しました。お望みどおりいたしましょう。ただそれだけの話である。 『希臘の兵士や、アラビヤの白人奴隷や、蛮族の王子や、ホテルのエレヴェーター・ボオイや、給仕や、与太者や、士官や、サーカスの若者などが、私の空想の凶器で殺戮された。私は愛する方法を知らないので誤って愛する者を殺してしまふ・あの蛮族の劫掠者のやうであった。地に倒れてまだぴくぴく動いてゐる彼らの唇に私は接吻した。』『そこで私はいつになっても、理智に犯されぬ肉の所有者、つまり与太者・水夫・兵士・漁夫などを、彼らと言葉を交はさないやうに要心しながら、熱烈な冷淡さで、遠くはなれてしげしげと見てゐる他はなかつた。』 後に文学などとは縁がない、そんな若者に囲まれ嬉々として死んでいった三島である。仮面と銘打ってはいるものの、『仮面の告白』ですでに全部書いてしまっている。果たして三島以外の方法で、若者に囲まれ、腹を切り介錯までしてもらい死ぬ方法は他にあるだろうか?“君それをいっちゃお終いだぞガハハハ笑” 三島が最後にやりたかった、篠山紀信に撮らせていた写真集『男の死』は、まさに与太者・水夫・兵士・漁夫などに扮して死んでいる自分であった。私はその存在を知らず石塚版『男の死』考えたが。知った時ビンゴ!と思った。三島は死後、あらゆる人達がその写真集を観ている様子を想像して恍惚としたに違いない。奥さんの反対にあい出版されることはなかった。 『仮面の告白』は私からすればイメージの宝庫、ご馳走がうずたかく溢れ返っているように見えた。当時実現しなかった『唐獅子牡丹』は実現したし、イメージしただけで終わったのはサーカスの若者の転落死と、生前週刊誌の企画で“私のなりたいもの”で三島は白バイ警官に扮していたので、道端で横転し、縁石かなにかに激突死しているところであった。ちなみに私のなりたいもの、で植村直己が扮したのはコジキであった。

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『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載8回『昭和残侠伝“唐獅子牡丹”三島由紀夫』

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtub


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1時に北斎の身体役をやってもらった爺さんのアパートに集合。爺さんの後輩であるトラックドラーバーSさんに着物を羽織ってもらい撮影する。爺さんにはパンツ一丁で股を広げ、大蛸に奪われそうな画帖を死守する北斎の身体をやってもらったのだが、今回はポーズこそ同じだが、合成する着物部分だけなので、裸である必要はない。 私の撮影は、完成形が私の頭の中にあるだけで、現場は馬鹿馬鹿しいことが多いが、今回は馬鹿馬鹿しさの記録を更新しただろう。しかしこういうことを経ないとできない画が浮んでしまうのだからしかたがない。またこういうことに付き合ってくれる仲間がいるというのは何よりである。撮影終了後、元トラックドライバーと現役ドライバー2人と4人でサイゼリアに向かい打ち上げ。ビールで乾杯の後、マグナムワイン。以前は読書しながら一人で飲んでしまっていたこともあったが、可愛らしい母娘の視線を感じ、携帯電話見ながら、つい“待ち合わせているアイツはいつになったら来るんだ”的な演技をしてしまって以来止めた。こんな打ち上げは、撮影が馬鹿馬鹿しいほど肴になる。アナログカメラの頃は現像するまで安心出来ず、落ち着いて飲めなかったが、その点デジタルは確認できるから安心である。楽しく飲みながら、帰宅後その数倍楽しい作業が待っているかと思うとまたワインも進むのであった。帰宅後即作業開始。こういう時は勿体ないくらい酒が醒めるのが早い。陰影を出さずに撮影した画像は蛸でも着物でも、切ったり貼ったりが樂である。無事、裸の北斎に着物を着せ終わる。 

2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtubeより

『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載6回「夏目漱石の鼻」

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昨日は早めに寝て、朝6時に富岡八幡の骨董市に出かける。荷風の周辺に配置する何か雑物があれば、という訳である。焼けこげだらけの畳には灰皿が要ると思ったが、手持ちの灰皿は、荷風には可愛い過ぎる。もっと実利的で愛想がない物がよい。手持ちの行灯皿にする。 高価な物はむしろ不要であるし、あくまで雑物、力がこもらない方が良い。茶渋がこびりついたアルミ製急須を入手。以前、漱石の愛飲煙草朝日をここで入手した。探してみたら空き箱だったが荷風の煙草 光を見つける。覗いてみるものである。 深川資料館で展示した三遊邸円朝3点の他に今回新たに制作したのは三島、鏡花、漱石、荷風の4点。いずれも手透き和紙にプリントする。今回の手法にピッタリである。三島に日本刀を持たせ、鏡花には、やはり昔富岡八幡の骨董市で入手した、鏡花が持っていたものと同じ万古焼きの兔を膝に置いて『月と兔』とした。向かい干支を集めると縁起が良く出世する、と鏡花は集めていたが、私も干支は酉である。しかし期待した効果は絶無なり。さっそく荷風も傍らに煙草の光を配置し、アルミの急須を置いて本日ここまで。明日の最後の撮影は、皿の上に盛った煙草の吸い殻、というなんとも締まらない撮影である。


みそろぎ人形展9月13日(水)〜19日(火)丸善丸の内本店4Fギャラリー (出品写真作品)三遊亭圓朝×3/泉鏡花/三島由紀夫/夏目漱石/永井荷風
※『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載4回「哀しい背中」
※深川江戸資料館にて九代目市川團十郎像を展示中。11月12日まで。

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バスを乗っていたら路線を間違えてしまい、どうせなら、と最寄りの図書館へ。全生庵で御一緒?させていただいた鰭崎英朋の画集を見る。全生庵でもとびきり美人の幽霊を描いた人物だが、光の扱い方で、こんな方法があったか、と膝を打った。かつての日本画は表現優先である。川瀬巴水は真っ昼間にもかかわらず影を描かない。(描きたい時は描く。)なのに池や街中の水溜まりでさえ、空の光景が律儀に写って鏡の如し。私がかつての日本画を観て楽しいのは西洋と違ってルールブックは神様ではなくて私だ、というところである。 現実世界にはお天道様が一つ在るが、頭の中に光源などない。頭の中のイメージを取り出すといいながら、そこに思いが至らなかった。漱石の猫の頭数を足したり引いたりしていて夜になってしまった。 永井荷風はたとえ居候であっても、畳に焼け焦げ作りながら七輪で煮炊きをした。粘土で作った七輪に、鍋を作ってあったが、鍋の出来が撮影に耐えられそうもない。秋刀魚か鰺を焼かせるか。その場合、煙をどうするか。 円朝で蠟燭の炎は筆で描いた。火は“あの世”の所属にしたわけである。さて煙はどちらに。川瀬巴水はあの風景画を背景に美人画は描いていない、矛盾が生じてしまう。風景画と人物画は別手法で描いた、私が円朝に寄席から漏れる光を当てるかどうかで悩んだのも、その矛盾を持て余したからであった。私はまだルールを確立できず試行錯誤中である。

※『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載4回「哀しい背中」
みそろぎ人形展9月13日(水)〜19日(火)丸善丸の内本店4Fギャラリー
※深川江戸資料館にて九代目市川團十郎像を展示中。11月12日まで。

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夜中にぶら下げた牡丹灯籠に扇風機で風を当てながら撮影。最初に浮んだのはここにお露とお米が歩く後ろ姿であったが、後ろ姿では持っている牡丹灯籠は隠れて見えない。結局、頭の中のイメージなどはニュアンスとしてはある、という程度の物である。小学生の時、あるマンガのキャラクターを描こうとしたら描けない。頭の中には在るのだが。しかし、よーく考えてみたら、描けるほどには頭の中のイメージは鮮明でないことに気が付いた。あの時の驚きは未だに覚えているが、イメージの中に陰影がないことに、ついこの間気付いてビックリするくらいだから、まだまだ何がどうだか判りはせず、とにかく作って可視化しないことには安心できない。 お露、お米を別にすれば、後は高座の圓朝も必作ってみたい。両脇に燭台を立て、横には火鉢に鉄瓶まで置いたらしい。当時の絵にはみなそう描かれている。当時の寄席内部、高座がいかに暗かったか、というと、誰だか忘れたが、ある名人は、クライマックスになると、蠟燭の芯を切って、明るくするという演出をしたそうである。洋蠟燭と違って和蠟燭は、たまに芯を切る必要がある。芯を切ったからといって、たいして光量アップになったとは思えない。つまりその程度で効果があったくらい暗かった、ということであろう。

『◯◯寄席の前の三遊亭円朝(仮)』 

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LED  


昔から引っ越ししてまずするのが蛍光灯をすべて取っ払い、白熱電球に取り替えることであった。いまでこそいろいろな色があるが、昔の蛍光灯は寒々しかった。しかし気が付いたらLEDの時代に。さっそく牡丹灯籠に電球をしこみ、昨晩は天井から吊り下げ、熱を心配する必要がないので暗い中着けっぱなしで寝た。垂れ下がるひらひらした布も良い感じで妖しく、線香花火を最後まで見つめる懐かしい感じ。なんとかイメージした牡丹灯籠になった。 圓朝の両脇に立てる燭台は、ネットでの買い物の難しさ、LEDのサイズがあわなかったり光量が足りなかったり、電気音痴の私の理解不足で無駄な買い物をしたが、ようやく必要な物が決まり、再注文。ジオラマに使う小さなLEDは、蠟燭の灯りのように揺らぎまで表現してくれる。このシミジミとした小さな灯りが、圓朝の表情に合うといいのだが。 3時に母をホームに迎えに行き、送迎車で送ってもらい、そのまま近所で早い食事。すこぶる元気である。

HP

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朝起きて、昨日作った牡丹灯籠を観る。なかなか派手である。直径40センチほどの牡丹の花の集合体に取っ手が付いている。私が作ったわりに可愛いのではないか?中にライトを仕込んで、牡丹の中心から透けて見える予定であるが、これはやってみないと判らない。 圓朝師匠、いつまで待たすのだ、としびれを切らしているのが伝わって来る。鬼火を描いた墨汁を頭に塗ってみたら反射の感じが髪の毛っぽい。髪の着彩には昔から苦労をしている。鉛筆を使ったりいろいろ試した。見た目よくても撮影してみるとダメだったり、その逆だったり。以後髪は墨汁にしよう、と思ったくらいである。ところが調子に乗って黒紋付にも塗ったらこれが艶もありすぎたが、黒に見えない。 昔、喪服を買いに行った時のことを思い出した。なんだっていいや、と一番安いのを観たら、横のもう少し高いのと比べると、黒というより銀色がかった灰色に見える。香典袋の筆ペンの如し。次のだって、もっと高いのと比べれば灰色である。比べなければ気が付かないものを。これを観てしまうと、予定の一番安い灰色は買えないようになっている。 撮影用器材の入金が土、日と出来なかったので、撮影は来週の中頃になるだろう。

HP

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背景を1点作る。最初に頭に浮かんだイメージである。日本画や掛け軸はどんな比率か、決まりがあるのか判らないので、とりあえず縦長の背景を用意した。丁度手拭を縦にした感じ。こんな手拭あったら欲しいかもしれない。そこに鬼火を4つ配した。三つくらいでいいかも。あとは圓朝をそこに持って来るだけである。圓朝の完成に時間を掛けた分、何も手を入れずに済むだろう。この圓朝に、いい加減完成させよ、と数ヶ月頭の中で睨まれ続けていた。 今の所写真とはいいがたいが、何かを燃やして撮影しても私のイメーには遠く、筆で描くしかなかった。 九代目市川團十郎を手がけて以来、浮世絵から日本画の独特のリアリズムに関心が向いていた。それまでは浮世絵なんて、ただデフォルメしていて、と思っていたのだが。それを写真にどう生かせるかはよく判らないが、とりあえず日本画家を目指していたがヘタクソで挫折し、写真に転向した人みたいな演技プランでいってみよう。昔のピクトリアリストも人によっては絵画に対するコンプレックスがことさら芸術写真といいつのらせていた部分もあったのではないか? 鬼火は50以上用意してある。いずれお露、お米の周辺に漂う予定である。



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一日  


撮影を終えた帰りの電車内。Mさんからお誘いの電話があり、なんとか間に合う。聞くと本日は奥さんが娘夫婦の所にでかけており独身だ、という。私はというと、明日母がショートステイから帰って来る。そんなタイミングであった。席の向こうには、健康診断で再検査、というだけで「もう終わりだ」とそこら中でいい回っているカワウソ状のオヤジ。いつも肺に陰があるといわれるのだが、去年から咳が止まらない。人間に影がないんだから肺に影があるくらいで丁度良いと思うのだが。先日は「死にたくない」と泣いたそうである。再検査というだけでこれだけ過剰反応する人も珍しい。 Mさんからは泥酔して帰って来て料理を始め、もうもうと煙を出したまま床で大の字になって寝ていて、もう少しでかみさんに水をぶっかけられるところだった人の話しを聞く。翌朝本人は覚えておらず全否定だそうで、そういう人物には、料理中の動画を撮影して本人に突きつけるしかない。それにしてもお互い気をつけましょうとMさんと語り合う。カウンターで飲んでいた「相棒」の“ヒロコママ”こと深沢敦さんに薦められた門前仲町の店に移動し話しは多義に渡る。Mさんはまだ独身を満喫したそうであったが、足取りも怪しくなり解散。個人タクシーのMさんにさきほど「最近ブログが作る事ばかりで面白くねえよ」。といわれたのだが、おかげでこんな有様ではないか。
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毎年大晦日には、昨年出来なかったことができただろうか、と振り返る。そうでなければ、ただ一つ歳をとっただけになってしまう。こんな怖いことはない。今年はなんといっても、GWの深川江戸資料館の個展『深川の人形作家 石塚公昭の世界』であったろう。今まで撮影用に写るところしか作っていななかった作品を仕上げ、ジャズ、ブルースシリーズ時代の作品など、人形作品を約30体。広い場所でしかかなわない一辺が2メートルほどのプリントを数十点展示することができた。また関連イベントとして05年以来、再演の機会を待っていた、江戸川乱歩の朗読ライブが実現したし、出版記念の個展もかなわなかった『貝の穴に河童の居る事』も女流義太夫のお二人を向えての朗読ライブが実現した。そして今では観光地となっている清澄白河ということもあり、6810人の入場者を数えた。 これをもって中締めの展覧会となったかと思う。来年、承服しがたいが、私もついに大台を迎える。その前に実現したのは気分的に違う。  今年は公私共々様々な友人知人に助けられた。またスヌーピーの名言“配られたカードで勝負するしかないのさ”を改めて噛み締めた一年でもあった。
HP

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