明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



11月30日は水木しげるの命日だったそうである。水木しげるの幸福の七カ条というのがあった。 第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。 第二条 しないではいられないことをし続けなさい。 第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべき。 第四条 好きの力を信じる。 第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。 第六条 怠け者になりなさい。 第七条 目に見えない世界を信じる。  私には何のことはない。ごく当たり前のことであり、努力もなしにほっといて自動的にこうなる。改めて並べられると、一つ欠けても実現しない、必須条件が漏れなく並べられているように見える。おかげで私は知り合いに「何でそんな状況で笑っていられる?」といわれる。 このうち六カ条については当ブログで毎日書いているような気がするが、第五条については、これを書いてしまうと訪問者の涙を誘うこと必至であり、それは本意ではない。



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最近の怪獣が気に入らないのは大き過ぎて、自然災害の怖さになっているところである。大魔神やサンダ対ガイラの怖さに欠ける。それは近代兵器に合わせてそうなるのだろう。であれば話を昔に設定するしかない、とずっと思っていた。ネットで知って友人に「震電が飛ぶらしいぜ。」先日メールした。 ゴジラ第一作のオマージュなのだろう。残念だったのはアナウンサーに「いよいよ最後です、さようなら皆さんさようなら!」を何で言わせなかったのか?私が怪獣映画で最も怖かったセリフがあれだったのだが。 その後コロナが出て面会出来なかった母のホームへ。市川猿之助の騒動の最中だったが、今のホームへ転院したのだが、転院前から食が細くなりだいぶ弱り、転院後も話しかけても返事もせずボーッとしており、実のところ年は越せない可能性も、とちょっと思っていた。前のホームで職員全員が引っかかった母オリジナルのジョーク、真面目な顔して「どちら様ですか?」というボケたフリ(私にも一度かました)も懐かしく感じていたが、何がどうしたのか会いに行くたびに元気になり。今日はずっと喋りっぱなしであった。この調子なら、こちらでも必ずアレをやるだろう。

 

 



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土俵ぎわで粘る私に、あるベテランデザイナーはいったものである。〝プロはさっさと済ませて遊びに行くんだよ“確かにそういう人だったが、人それぞれだろう。こちらもそうしたいのは山々だが、粘るには粘るだけの理由がある。昼過ぎに喫茶店で本を読もうか迷ったが、行かなくてよかった。おかげで会心のうっちゃりを決めた。頭部を作っている間は、ちょっとしたことで結末が違って来たりするので、迷いがある間は首をポケットに入れて飲みにも行けくが、納得がいってからはもう外には持ち歩くことはない。首さえ出来てしまえば出来たも同然である。 注文していた逸話集届く。小学校の図書館室に出会って以来の伝記好きが、今に至ることになった訳だが、死んだはずが蘇ったり妖怪と戦ったり、目次だけ見れば小学校の図書室のようだが、いずれも高僧の伝説となれば話は違って来る。



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長期的な予定は立てず、と決めていたのに、ネット上で余計な資料を見つけ注文してしまった。ネット上の各所で上中下を見つけたが目次を見てまずは下を。幼い頃から大好物の伝記、逸話の類である。先の予定を立てるのはまだ早いと抑えていたのだが、誘惑に負けてしまった。 蘭渓道隆の顔の最終調整、最後の一ニュアンスを加える。以前も書いたが、文学賞の受賞者の一覧を見ても、ほんの短い間に個性は薄くなっているように私には感じられる。まして七百数十年前に来日した宗時代の中国人である。私が最も実像に近いと判断した肖像画は、なかなかユニークなご面相である。何体か残されている木像(それぞれ顔が違う)には生な感じに欠けている。原因の一つは肖像画だけが蘭渓道隆の生前に描かれていること。もう一つは私の想像だが、当時の絵師、彫刻師はおそらく師の写し、模写が主な修行だったのではないか?私は人形は人形に写真は写真に学ぶべきではないと考えている。独学我流者が同じ轍を踏む訳には行かない。

 



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千秋楽、宇良が勝ち越し新三役が期待である。以前、たまたまテレビを着けた際、取り組みを終え、花道を引き上げて来て、落ちているパンフを拾って着物姿の女性客に渡すのを見て、誰だ?と思って以来のファンである。逆に物言いが付いた際、盛んに髷を触って髷を掴まれたアピールしているのを見て、3度目の綱取り逃した大関を嫌いになった。そんなものである。宇良が膝を痛める前だったが、解説の北の富士が、膝を痛めなければ相撲が変わって化けるかもしれないといっていたが、軽量の異能力士から地位と体重アップとともに相撲が一変した栃錦をイメージしたのではないか?。 所有する60年代の国産ビザールギター、グヤトーンは、チャーが兄のお下がりで弾いた最初の機種であり、中学生の時に、親戚の納屋に壊れて打ち捨てられているのをもらって来た、私にとっても初めてのエレキギターで、捨てられたり壊したりして3台目なのだが、ボディが小さいくせにヘッド部分がやたら大きく〝栃錦の髷じゃあるまいし“いつか小さくカットしたい。



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建長寺に創建時から残るのは蘭渓道隆手植えのビャクシンの木と鐘だけだと思っていたら、もう一つ、開山蘭渓道隆が坐禅したという坐禅窟の存在を知った。現在対面坐禅の臨済宗も、江戸時代前期辺りまでは、禅宗の開祖達磨大師同様、壁に向かって坐禅をしていたそうである。背景として座禅窟を撮れたとしても、こちらに背を向けることになり諦めたのだが。 面壁坐禅といっても、鼻が壁に着くような距離ではない。となると壁にレンズが埋まっていると想定し、入り口に向けて背景を撮れば、蘭渓道隆の画面一杯の坐禅姿の周りに外部からの光で蘭渓道隆の背後から後光で包まれる、かのような画にならないだろうか? 東京の昭和30年代の下町ではしつこい男は嫌われ、小学生が「男は諦めが肝心。」などとぬかしていたものだが、さらに何事においてもすぐヘコタレる私だが、こういうことになると突然変身し、まるでマムシに蛸足の如くしつこく諦めが悪い。しかしシャッター音の小さな小型カメラを手に見張りに立たせ、様々潜入して来た私も。聖域に立ち入ることはさすがに出来ない。



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存命中の人物を作ったのは、指折り数えて9人だと思う。ミルト・ジャクソン、チャック・ベリー、マイルス・デイヴィス、スティービー・ワンダー、BBキング、シュガー・ブルー、高橋幸宏、伊集院静、大崎洋。伊集院静さんが逝去された。 氏の行きつけという山の上ホテルのバーで背景を撮影した。4年続いた都営地下鉄のフリーペーパーの表紙を担当した時、それまでの作った人形を手持ちで現地に行って撮影する手法は、棒立ちの人形を手持ちで絵になる背景を探して撮っていたが、毎号の特集場所が、絵になる場所が少ないこともあり、棒立ちの人物ではとても持たない。そこで開発したのが、首が完成した頃、背景を先に撮って、それに合わせて人物を造形、最後に背景に合成する、私の〝大リーグボール2号“だったが、その典型的な作品である。撮影用にウーロン茶でも良かったが、お店の方に伊集院さん愛飲のウイスキーを用意いただいた。撮影後、編集者は仕事があるので、仕方なくグラスのウイスキーは、私が始末をさせてもらった。合掌。



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建長寺の最深部に開山、蘭渓道隆が坐禅をしたという坐禅窟が残っていることをYouTubeで知った。私が作っているのも坐禅中であるし、まさに私の出番ではないか。七百数十年前の開山が坐禅する光景を再現するのは私しかいない。一般には公開していないようであるが、いざとなればユーチューバーが撮っているのだから、何かしら方法はあるだろう。と思ったのも束の間であった。 現在壁を背にする臨済宗の坐禅だが、蘭渓道隆の時代は開祖達磨大師と同じく壁に向かって坐禅をしていたようである。坐禅窟の中に蘭渓道隆を配するとなれば奥の壁に向き、こちらに背を向けることになる。顔が人形の命ならば私の写真作品も当然そういうことになる。実に残念であるが、この場合は、知らないで作ってしまいました。といえる話ではなく、画になれば良い、という話でもさらにない。

 



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先月CT検査で引っかかり、MRI再検査となり再び日本橋へ。長期的な目標を持たず、途中挫折の危険を避けるというアイデアがすでに功を奏している。臨済義玄は修正を終え着彩のみだが、蘭渓道隆、無学祖元、一休宗純以降、何を作るか何も考えていない。『臨済禅法系図』も眺めるだけに留めた。つまり目標達成目前である。これが長年続けた作家シリーズで、最終となった『三島由紀夫へのオマージュ 椿説男の死』で初めてやり尽くし感を味わい『寒山拾得』を思い付いたタイミングだったら待合室の座り心地は随分違っていたはずである。 通りの向こうに高島屋が見える。中学生の頃、まだレコード売り場があり、ここではポリドール版トニー・シェリダン&ザ・ビートルズのハンブルグ録音とグラハム・セントラルステーション『リリーズ・ユアセルフ』Tレックスの『電気の武者』を買っている。これらどうでも良い記憶で、容量の少ない貧弱な我がハードディスクを無駄使いしている。



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ずっと不思議だったのが、自信家でもないのに独学我流者が、一度入った物は出て行かない、と学ぶこと、知ることに対し、恐れを抱いていた事である。それは〝草木同様人間も自然物、肝心なものはあらかじめ備わっている“との思いもあり、それが現在の禅的モチーフに繋がった、と良い流れ形に収まったつもりでいたのだが。 昨日のブログを書いていて、知ってしまったことによりブレーキがかかり、快楽を阻害されるのを恐れていたのかもしれないと思った。写真の素人なのに廃れた古典技法オイルプリントにチャレンジし、バレエを一回見て翌年ニジンスキーで個展を開いてしまう一方で、鏑木清方作の圓朝の表情一つで疑心暗鬼に陥いる私は、たとえば臨済義玄は、今からなら絶対作らない。蘭渓道隆、無学祖元も、来年になればそう思う可能性が大きい。ファーストインプレッションで作ってしまえ、と。たとえそうであっても結果が悪かったことは一度もない。 後悔、反省は後でするものである。この調子で行けば、後悔、反省は死んだ後になりそうである。



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誰だったか思い出せないが、我が姿を遺すなと言い残した高僧がいた。千年以上前の開祖の立体像がないのでさすがに疑心暗鬼になるのだが、絵は良いけど立体は駄目なんてことは考え難いのだが。 2001年ジャン・コクトーを出品したイベントで、筋肉モリモリのダンサーが、身体中に薔薇の花びらを着けて飛び回るバレエを一回観ただけで翌02年、コクトー、ディアギレフ、ニジンスキーの個展(アートスペース美蕾樹)で、ご丁寧に廃れた古典技法オイルプリントで行ってしまった私である。知らずに何かしでかしている恐れは大いにある。しかし後悔反省は後でするもので、来廊いただいたニコラ・バタイユ氏の芳名帳に残るbravo!はお宝である。 坐禅を一回もしたことがなく、左手が上だと知って作り直すことぐらいは日々起こる。臨済義玄は、由来は違えど後頭部だけに毛があるのは共通しているので準じることにしたが、妙な禿げ具合はどうするか未だ決めかねている。



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昭和四十六年の『禪文化』特集臨済義玄師千百年の〝臨済義玄像図説“を読む。最初に大きく紹介されているのは、やはり私が参考にした一休の賛が描かれた伝曽我蛇足作だが、東福寺の明兆作の義玄像を初めて見た。それは〝怒目憤拳の像ではなく、穏やかな表情である。明兆は室町前期の人物であるが、一千年以上前の人物の実像を知るのには限界がある。その他の義玄像が列挙されていたが、特に新事実を知ることはなかった。 ここでも臨済宗開祖の立体像は出てこず、私が知らないだけで、開祖が我が立体像は作るな、と言い残したかのようである。相変わらず中国の胸像が一つ出て来るが、そこらの児童公園にあるかのような物である。 曽我蛇足作の義玄像は、奇妙な頭髪で、奇妙過ぎて、かえって根拠あり気である。頭髪を描き直す前の義玄像を前に、出来ればこのままにしたい。おそらく想像で描かれているし、本人も剃り上げたことだってあったろう。だがしかし。 千年以上前の人物のヘアースタイルで何をブツブツいっている、という話だが、こんなことでずっとドタバタして来たのが私の渡世である。



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表現  


臨済宗の師の姿を後世に残すという思いには感銘を受けるが、今にして思うとではあるが、絵画、彫刻しか残されていない時代の人物を手がけるきっかけ、流れがあったように思う。 初めて陰影を排除する作品となった三遊亭圓朝を制作した時のこと。圓朝が自ら落語を創作するようになったきっかけは、圓朝の才能、人気に嫉妬した師匠に、圓朝がやろうとする演目を、ことごとく先にやられ、演目を変えざるを得ないという妨害を受ける。ならば誰も知らないオリジナルを作ることにした。なのに後年落ちぶれた師匠を助け、遺児を嫁ぐまで面倒を見たり、弟子思いの人格者なのである。ところが圓朝と子供の頃から親しく接した鏑木清方の肖像画の傑作といわれる圓朝像が、写真とはプロポーションが違うし、何より何か企んでいるような顔である。私は何か見落とし読み違いをしているのか、と明治時代の演芸誌など、読めるだけの物を読み漁った。結果、清方は後年、自分の圓朝に対するイメージを優先して創作し、その表情は芸に対する執念を表したのだ、と結論し、人間を表現する ことに対する思いを新たにした。清方に敬意を表し、私にはこう見える、と同じ構図で制作した。

 



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先日久しぶりに蘭渓道隆の首をポケットに入れて建長寺に行って来たが、久しぶりに見て、治す所が目についたので最後に修正を施す。建長寺で、収蔵されている木像が使われた催事のポスターを見て、ポケット内の首は、これに違を唱えることになってしまうな、と思わないでもなかったが、いつものようにに、出来る限り調べた挙句であるから私なりにやるしかない。 建長寺にはビャクシンの樹と並んで創建時に作られた国宝の鐘がある。七百数十年変わらない鐘を背景にしても記念写真にしかならない、と撮らなかった。夏目漱石が〝鐘つけば銀杏散るなり建長寺“を作り、それが元となって正岡子規が〝柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺“を作った。夏目漱石はワシ鼻を写真師に修正させているが、私は騙されなかった。文学上のことはいくらでも議論になるが面相にこだわるのは私だけのようである。



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建長寺には、開山蘭渓道隆の立体像といえば、これ、という木像があり、昨日も建長寺で催事のポスターに使われているのを見た。私が作ったのは、だいぶ面立ちの違う国宝の肖像画をもとに作った。お墨付きともいえる本人の賛が書かれた生前の作である。木像は死後の作だというし、レントゲン写真で度重なる修正の痕跡があり、頬がこけ垂れ目は共通だが、頭の形が違う。十一代住職を務めた京都建仁寺の後年作られた木像の内部から、禅師生前の作と思われる顔の部分が体内に収まっているのが発見され、そのレントゲン写真を見ると、頭の形が明らかに肖像画に近い。これにより、肖像画が蘭渓道隆の実像に近いと判断し、立体化した。つまり建長寺の蘭渓道隆像とは恐れ多くも趣きの違う像を作っている訳である。もし肖像画が実像に近いとするならば、それに正面を向かせれば七百数十年、誰も見たことがない禅師の正面図ということにならないだろうか? 



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