明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 




寒山拾得については寒山詩の序文に痩せている、と書かれているのに何故殆どが肥満体として描かれているのか?謎はもう一つある。禅僧にはどうでも良いことかもしれないが、作ろうという私には大事である。寒山拾得の風体は乞食坊主調で、爪も伸びたまま。髪もボサボサ、なのに星の数ほど描かれた寒山拾得は、髭が描かれているのは見た覚えがない。仙人も含めて、この類の登場人物は長命、或いは世俗を離れた隠遁者を象徴するためか、髭を生やしていることが多い。何か理由があるとしか思えない。 そんなこともあり、制作中の寒山もしくは拾得は、今の所、青年または少年のようである。この笑顔のようで笑顔でない不気味さは、何処か藤子不二雄Aの漫画の登場人物を連想させる。ひょっとして、と検索してみたら、果たして藤子不二雄Aは、曹洞宗49代目住職の息子として、富山県氷見市の光禅寺という古刹に生まれる、とあった。ビンゴ!寒山拾得図を幼い頃から目にしていたに違いなく、人間の二面性、あの笑顔に影響を受けていたのは間違いない、と私は思うのであった。



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寒山拾得の方向が決まり、悩みは残り一つとなった。虎である。 数年前、豊干禅師の乗る虎を、虎を見たことがなかった絵師の味を出すためトラ猫を撮影し虎に見立ててみたが、生きた猫では思ったようには行かない。かといって粘土で虎はウンザリである。動物園でグウタラする虎の方が良さそうである。 ところで今回のモチーフは、個展デビュー時の架空の人物に戻ったつもりでいたら、小学時代に、学芸会で大国主命の紙芝居や八岐大蛇を作って人形劇をした頃にまで戻ってしまった。『怪獣大戦争』で観たキングギドラを学芸会にかこつけ作ったのが、八岐大蛇である。作った首は八本のうちの一本だったが。 仙人を作るようにり、龍が気になってしようがないが、それでは小学生である。ところが昨晩テレビを着けたら『キングオブモンスターズ』。怪獣大戦争のリメイクではないか?そこに出来の悪いキングギドラが出てきて、私にいうのである”虎を動物園のホンモノ使うと、合わないから龍虎図は出来ないぜ“ このタイミングで何を見せる?私は良く思う、上の方で絵図を描いてる奴が居るだろ?



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ようやく寒山拾得に取り掛かり、これが寒山になるか拾得になるかは判らないが、一つの頭部が取りあえず形になり方向性は決まった。随分長い間、取り掛かれず、ただ金魚を眺めていたが私には判っていた。ここで頭を悩ませ、粘土をひねっても、解決策は見出せず、粘土の無駄になる。こういう時こそ頭を空にすべきで、金魚を眺めていたほうが良い。   そうこうして、気が付いたら一休宗純の首を作っていたが、それを作ったから門松や、の“目出度くもあり目出度くもなし”に至り、寒山と拾得の笑みが”可笑しくもあり可笑しくもなし“だ、と思い当たり、ようやく着手出来た。 そして“笑顔であり笑顔でなし”の顔輝派たろうとする私は、表情に、顔輝派が使ったことのない調味料をちょこっと加えた。 ところでテレビで『キングオブモンスターズ』を見る。ゴジラ、キングギドラの造形、その他気に入らず最後まで見ていられなかったが、少々考えることあり。



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寒山拾得に惹かれたそもそもは、岸田劉生も麗子像に取り入れた不気味なアルカイックスマイルである。そう思って様々な寒山拾得図を眺めてみると、実は殆どユーモラスな二人組であって、例の笑顔はほんの極一部であり、中国の顔輝の14世紀作由来のようである。それもあくまで伝とされているけれど。そして直接影響を受けた顔輝派ともいうべき寒山拾得図は、私自身は他に極一部どころか15世紀と17世紀各一点しか知らないのである。昨年、寒山拾得展を決めた時点では正直いってそこまでとは知らなかった。 それが寒山拾得の制作に、なかなか取りかかれない理由の一つでもあった。しかし、たまたまた臨済宗の一休禅師を作ることになり、それは小学生の時に”門松や、冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし“に、いたく感心したことを思い出したのが、横道にそれるように作り始めた理由だった。そう思ってみたら、寒山拾得の笑顔も、“笑顔であり笑顔でなし”だな、と思ったのはつい先日ブログに書いた時である。ついでに陶芸家を目指した十代の時に、河井寛次郎の”鳥が選んだ枝、鳥を待っていた枝“に感心したことも思い出した。それでようやく、これまで作った架空の登場人物とは違い、あくまで顔輝作調で行くことが決まった。


 



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長い間制作してきたが、続けるだけなら、夢や目標など必要ないようである。その時頭に浮かんだ物を、目の前にぶら下がったパン食い競争のパンのように食いついて来ただけである。これには挫折しにくいというメリットがある。長い目標だと、途中で折れることもあろうが、目の前では折れようがない。 一方デメリットといえば、気が付いたら知らない街角に一人立っていて、何で私は頭にガマガエル乗せた人を作っているのだ?とじっと手を見る羽目になる。いや理由があってこうなっているのだ、ほぼ毎日書いているブログに記録されている。と読み返してみるが、つい最近のつもりが、すでに他人のブログを読んでいるが如しで、自分でも良く判らない。そしてあのブルース・リーのセリフ”考えるな感じろ“が繰り返し出て来る。なるほど、そういうことなら考えたって判らなくて当然であろう。そしてこれも良く出てくる。“これで良いのだ”。


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鉄拐(てっかい)仙人と蝦蟇仙人のコンビは、大昔から絵師にとって魅力的なモチーフだったらしく、ダントツの人気である。我が家にはすでに掛け軸がぶら下がっているが、ヤフオクで手描きの染め付け皿を落札した。40センチもある。そんな物どうするんだ、という話である。 二十歳で岐阜の山中にある磁器の量産工場で線をひいたり釉薬がけをした。この位の皿なら今でも楽勝だろう。何が嫌だったといって氷が張った釉薬に手を突っ込むことで、さすがに工場長がヒーターを入れてくれた。 陶芸作家を目指しながら、好きなことしか出来ない私はこのままではいけない我慢を覚えよう、と殊勝なことを考えたのだが、性能の悪い頭で考えたことは必ず外すことを後に知ることになる。遊びに来た女の子が、これを読め、と澁澤龍彦集成の一巻、エロチシズムを置いていった。確かにそこにはお前に似合わないことしているんじゃない、と書いてあり、一読、陶芸作家の道は雲散霧消となった。 澁澤の眠る鎌倉浄智寺は、臨済宗円覚寺派鎌倉五第4位だが、本を置いていった女の子とは京都南禅寺で豆腐を食べたことを思い出した。本日は皆既月食だそうだが、作品には何かと満月を掲げる私だが、本物には爪の先程にも興味がない。

 



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寒山拾得展を考えていて、何故か道を踏み外したかのように『虎渓三笑図』を始めてしまった。“晋の慧遠 (えおん) 法師は、廬山に隠棲して二度と虎渓の石橋を越えまいと誓ったが、訪ねてきた陶淵明 、陸修静を送って行きながら話に夢中になって不覚にも石橋を渡ってしまい、笑い、別れた。”三人の画が浮かび面白く思い、つい手を出してしまったが、面白いといえば、子供の頃読んだ『一休禅師』の”目出度くもあり目出度くもなし“正月の京の町を竹竿にしやれこうべを掲げて歩く姿が浮かんだ。しかし一休は少々唐突である。一休があるなら臨済宗の祖、臨済義玄があってもおかしくないだろう。一休の唐突感も減じるに違いない。 こう書いてみると、40年前に架空のジヤズ、プルーシリーズで個展デビューして以来の行き当たりばったりな私の心の動きそのものである。 つまり突然降ってきたイメージに抗しきれず作ってしまう。しかし子供じゃあるまいし、と一応抗しきれない自分を恥じる、その作った物の唐突感が目立たないよう、別の物を作って補う。そうこうして40年経ってみたら、頭にガマガエルを乗せた仙人を作っている、という始末である。



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資料を全く見ずに作れるというのは楽しい。アドリブで顔が変わっていくのも悪くない。というより幼い頃から写生、デッサン嫌いの私が長い間、写真資料を参考に作家シリーズを良くやって来たものである。もっとも、独学者である私の勉強になったことも間違いないようで、おかげで、架空の人物については、澱むことなくスムーズに制作が進む。そのことに気付いていなかったので、頭部がスラスラ出来てしまい、いったん立ち止まって仕上げにかかっている。八人分はおおよそ胴体の制作に入れる所まで来た。(ガマガエル一匹を含む)一休禅師は、リアルな絵画、木像が数種残っており、どの部分を取り入れるか考えながら作るので、まだ仕上がっていない。

日曜美術館の再放送を見ていて気が付いたが、モナリザを含めて、ルネサンス頃の絵画は鎖骨を何故だか描かない。当時、醜い余計な物と見なされていたのか?理由は判らない。”鎖骨の窪みは赤ワインを注ぐためにある“ というような鎖骨マニアは当時存在しなかったようである。そんなセリフは聞いたことはないけれど。



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朝、食事の前に、人形の首を手にしてしまうと、作業を始めてしまうから注意しなくてはならない。案の定、朝食ならぬ第一回目の食事は夕方の五時過ぎになってしまった。何しろ、食事とトイレ以外は作りっ放しである。これを何ヶ月であろうと続ける。引っ越し前の、コロナ禍以前は、手に粘土を着けたまま、人形の首をポケットに入れたりして近所に飲みに行ったが、そうでもしないと四六時中作っている。座っている時間、という意味では、座禅する修行僧を超えているのは間違いない。タバコを吸わなくなった分、せめてこうしてブログに駄文でも書かなかったら、集中し過ぎて一方方向に行き過ぎてしまう。もう何年も殆ど三百メートル内で暮らしている。散歩も嫌いだし、キヨロキヨロするのも嫌いである。 好きでやっていることなので、気分転換など必要ないし、最近は読書も制作に係わる物以外殆ど読まない。まさに幼い頃夢みた、王様に石の塔に 幽閉され、ここで好きなことだけ一生やっておれ、状態である。 そしてしまいには、こんな生活に、ピッタリなモチーフに、よくたどり着いた、と一人感心しているのだからお目出度い話である。



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立体を造形するということは、陰影を自ら作り出すことに他ならない訳だが、図書館で浮世絵、かつての日本画を眺めながら、陰影を取り除けば、これらの自由さを写真に取り入れられるのではないか、と思い付き実行するまで時間がかかってしまった。これは私が被写体制作者と撮影者という二刀流のせいである。左手と右手で一人ジャンケンをするような物かもしれない。 しかし自由に仙人など造形していると、このモチーフを手掛けるようになって、再び陰影を炙り出したい欲求にかられている。 被写体から陰影を除く、私の大リーグボール3号たる石塚式ピクトリアリズムだが、小学生の頃、巨人の星を見ていて、一人に打たれたからって、他の連中は打てないのだから、打者によって投げ分ければ良いじゃないか、と思った。そんな場面も僅かにあったが、確かにつまらない。 いい加減なくせに、私も大リーグボール3号を始めたなら、以後他の球は一切投げない、といいたがりの所がある。しかし仙人に手を染める程?の人間となった今、何を四の五のいっていやがる。と三本脚のガマガエルにイボイボを着けながら思うのであった。



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己の魂を口から吐き出す、分身の術を持つ鉄拐仙人は、師に会いに行くため術を用い、抜け殻となった身体を、七日経って戻らなければ焼くように弟子に申し付け出掛ける。ところが弟子の母親が危篤となり、六日目に焼いて母の元に帰ってしまう。七日目に戻った仙人は、仕方がないので、かたわらの脚の悪い乞食の死体を使って蘇る。 男の場合、ボロボロの物に惹かれる、という性質がある。よって、まだ着られるのに、まだ使おうと思ってたのに、集めてたのに捨てられてしまってがっかりした経験は誰しも持っているだろう。これからの季節、まだ食べられるのに、はいただけないが、鉄拐仙人も、分身にかわりに行かせるという横着はするもんではない、という話である。何故だか判らないが、この仙人、蝦蟇仙人とペアで描かれることが多い。 最初に完成させるはずが、どうも引っかかる。昨日原因が判った。ボテッチエリのビーナスの誕生で、横でフーフーしてる人物を連想するのであった。急遽、脚の悪い乞食調に加工。

 



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立体  


臨済義玄は口をさらに開け、血管を浮き立たせるところ以外は、それが作法とばかりに、左手の上に、握った右手を乗せるところまで、そのまま描きたい。それが私の場合は立体である、ということで充分であろう。余計なことをしては怪我をする。だがしかし。その表情に惹かれ、予定していなかった開祖制作にかかわり、知らなかったこととはいえ、思いのほか気を揉んでしまった。これは元を取らせて貰わずにはいられない。なんていうとまたバチが当たりそうだが、せっかくの立体である。陰影のない石塚式ピクトリアリズムを敢行した後、その激しい表情に合わせ、陰影まる出しのライディングで撮ってみたい。立体は一度作ってしまえば、何処からでも撮れるし何処からでも光を当てられる所に面白さがある。

 



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つい横道にそれて作ってしまったみたいに臨済義玄は、展示の際には端の方に、なんていってたバチが当たったか、以来日中から薬を盛られたかのように眠くてしょうがない。 臨済宗の開祖となれば、寒山拾得こそ脇に回るべきでかもしれない。 凄まじい喝!の形相を描いた曽我蛇骨(じゃこつ)の画は、一休宗純が賛を書いており、一休は蛇骨から画を学び、蛇骨は一休から禅を学んだ間柄である。蛇骨の義玄像は見てきたように描いているが、本人を知らないという意味では私と同じ条件である。こうなるといつも無条件に参考にするのは引っかかるので、一日かけて調べた。 元来資料などない時代から模写され続けた鼻毛、耳毛まで描かれた温和な表情の義玄像が日本では室町時代に模写されているが、中国北宋末、南宋初の禅僧が、伝統に乗っとった義玄像を描いている画工に命じて、あの形相の義玄像を描かせたのが起源だと判った。 これで納得した。ここまで古いと、現代、末席に座す私にとって事実だ、といってしまって良いだろう。喝!と言い始めか言い終わりか判然としない口をさらに開け、喝の瞬間にし、側頭部に血管を浮き出させた。これはジャズ時代から緊迫感を出すために用いてきたが、今回は首筋にも浮き出させるつもりである。  禅宗には“不立文字、”という言葉があり、その分、禅画の類が発達し残されて来た。そういう意味では、臨済義玄像は、すでに何某か私に対して効果を与えているといって間違いない。



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64年の東京オリンピックの時、隣のおばちゃんが「ボクが生きている間にはもう日本でやることはないわよ。」といったのを覚えている。幼い頃から人の形や様子に敏感な私にとって、様々な人種の様々な形、様子が観られたオリンピックは生まれて始めての祭典であり夢中になった。しかし一方、私の東京というとオリンピック以前の東京であり、以降、東京の何がどう変わろうと不感症になってしまった。世間もドタバタ何やら落ち着きなく騒がしく。”東京オリンピック以降の日本人は、薄いガス室の中で生きているようなものだ“といった人がいたが、おそらくその通りであろう。 私は引っ越しを機に、64年以前の生活に戻ろう、と箒にチリトリ、文机に座椅子の生活に変えた。小津安二郎の『お茶漬けの味』の佐分利信がちゃぶ台に座布団でお茶漬けを食べる姿に、やつぱりこれだよ、と思ったものだが、一年で膝、腰が痛くてギブアップ。貫禄が背広を着ているような佐分利信も、考えてみたら、今の私より大分年下なのであった。



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臨済義玄の首を作った辺りから、やたらと眠くてしようがない。時差ぼけみたいなものなのか、それにしては元に戻らない。男に酷い目に合い続ける女の物語である朝ドラも、最後は再放送ばかり見ていた。眠れないよりはマシなので午前中だろうととりあえず寝ておく。 午後から蝦蟇蛙のイボイボを粘土を丸めては貼り付けた。子供の頃はイボが移るとかいって怖がられたが、そんなこともなく。多少は毒があるらしい。 ここまで作ってしまうと生き蝦蟇蛙を入手し、撮影する気はなくなった。琴高仙人が乗る鯉は、これは撮影後食べられるので、活き締め血抜きされた鯉を入手し撮影したい。水墨画ばかり見ていたが、実は赤鯉という話である。緋鯉とはニュアンスの違う赤地味た鯉にしたい。大体緋鯉では撮影後食う気にはならない。蝦蟇仙人もそうだが、首の次に、持たせる物などを制作し、胴体の制作に入る。ジャズ、ブルースシリーズの頃は首の次に楽器を作った。手順は昔から変わらないが、蛙と違って形の決まっている楽器は作るのが苦痛であった。



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