明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

虚実  


現在制作中のTは、横にカメラを並べようと考えている。Tの使用したカメラは数種判っている。当初、同じ機種を調達してと考えていた。その辺りに詳しい方に打診もしていたのだが、どうもインパクトに欠けるような気がしてきた。当時、カメラは一般人が容易に手に入れることはできなかっただろうが、アンティックなカメラと思うと、物凄く希少な、というカメラとも思えず、Tが使用した物と考えると少々地味である。 私は何処かにいる誰かが、私が密かにこだわった部分に気付いてくれる所を想像してほくそ笑むのだが、仮にTの使用したカメラと同じものを使用して気付くのは、たまたまTの使用したカメラを知っている、ごく一部のアンティックカメラ好きオヤジであろう。私はそれでもほくそ笑むのか? 笑めないので結局こだわらないことにした。そして、Tだったらこんなカメラが似つかわしいだろう、というカメラをでっち上げることにした。蛇腹は赤か緑。そのぐらい派手がTらしい。実際は、そんな物を選ぶような人物ではなさそうだが、馬鹿々しいくらい事実こだわって面白い場合と、そうでない場合がある。
先日遅ればせながら『アバター』特別編を観た。初めて3D映画なるものを観たのだが、字幕が最前にくるのは仕方がないのだろうが気になる。遠景はなかなかだが、人物が大きく手前にくるシーンでは違和感があった。しかしそう思っていたのは始めのうちだけで、すぐ慣れてしまい、爆発でこちらに飛んできた木っ端に、不覚にも反応してしまった。実にリアルに出来ていて、今はここまで出来るのか、と感心した。しかし身体はまだまだ騙されないようで、山岳アクション物などでは、高所を好まない私はしょっちゅうゾッとするのだが、この映画では、一度もそうはならなかった。 昔ジョン・ウェインだか、ジョン・フォードが亡くなったとき、NHKのアナウンサーが、戦後の日本人が励まされて云々といっていた。私は連中に射的の的のようにされてるインディアンを見て、励まされる分けないだろ、と思ったのだが。日本人は案外励まされるのかもしれない。

過去の雑記
HOME 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




背景撮影のため、予め申請していた某庭園に出かける。昨日の予定が雨のため一日ずれたのだが、本日は程よい光線状態である。私はここがこれ程広いとは思わず、入り口でパンフレットを貰わなかったのを後悔した。高低差もあり、なかなか素晴らしい庭園である。携帯プレイヤーで、ピンクフロイドの『エコーズ』を聴きながら撮影する。ほんの一部が紅葉していたが、配布が年末で、実質新春号なので特に必要はない。そう思うと『谷崎潤一郎と人形町を歩く』から一年経ったことになる。早いにも程がある。  そういえば、あの頃から、特にここ数体、最重要である頭部の制作に使う粘土の量が、あきらかに少なくなっている。早合点はいけないが、私は少々腕が上がったのではないか、と密かに考えている。写真資料を漠然と眺めるのではなく、そこから立ち上ってくる何かを捕まえなければならないが、一たび捕まえれば完成は早まる。アダージョの制作では、私のほとんど知らない人物、時には嫌いな人物を作らなければならない。よってその人となりを早急に把握しなければならない。そんな繰り返しが、何かをもたらせたのではないかと考えている。  庭園には出口が何ヶ所かあるようだが、腕章を返さなければならないので、入園口に戻らなければならないが、例によって強度の方向音痴で迷ってしまい、行ったり来たりで、なかなかたどり着けなかった。  
帰宅後、10日で繋がると聞いていたインターネット、そろそろ10日は経っているのでは、とプロバイダのインター○に連絡してみると、どういう手違いなのか、放ったらかしになっていたことが発覚。なのでさらにあと10日だという。ふざけるな!ということで、卓袱台ひっくり返して他のプロバイダに代えてやる!といいたいところであったが、また再設定の作業をするのか、と思うとそういう気にならずに飲み込む。先方はひたすら謝るが、そうこうしているやり取りも、何秒いくらで料金が先方に行くと思うとさらに腹が立つ。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




N君はその実績から、某地方の陶芸展の審査員を一回務めた。 展覧会についての会議上、彼は審査員の一人として意見を求められた。ここで素直なのか日本という国を判っていないのか、N君は入選作が、ある技法に偏っているのではないか、と正直に発言した。「だって思ったこといえっていうから」。(N君談) その技法というのは、この会を牛耳る某作家と同種の技法であり、入選基準にも、その権力が及んでいる、ということを示している。その一言で、彼が審査員を務めたのは一回きりということになってしまった。しかし彼の意見が風穴を開けたせいなのかどうか、定年後も会の重要ポストに居座ろうとした某作家は、おそらく相撲協会の物議をかもした選挙のような場で、勇気をもって立ち上がった会員のおかげで、引退を余儀なくされ、隠居的立場に置かれることになった。N君はというと、「あの時は良くいってくれた」。と他の会員に感謝されただけである。 もしかしたらしっかり者の奥さんには怒られたかもしれないが、N君の実力からすれば、どうということはない出来事であり、これだから彼と飲む酒は相も変わらず楽しい、と再認識した私である。 数は力なりとは、どの世界においても同様であり、担ぎ手が多く、また優秀な人材が増えれば担がれた御神輿も自動的に高く上がり、そのかわり御神輿の下にいれば雨風を避けられるようになっている。よって日本では先生を越えられないシステムになっていて、越えるとバランスが崩れ、不都合が起きるようにできている。おかげで先生の死を待つことになり、サスペンスドラマでは家元がよく殺されている。 私が家元ならパーティーの席では、飲み物に絶対口をつけない。

過去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




特集が柳田國男に決まった当初、それに乗じてカッパが作れると喜んだのだが、背景は遠野ではなく、都営地下鉄は牛込柳町駅周辺である。 『遠野物語』は遠野出身の佐々木喜善から聞いた民話を柳田がまとめた物である。柳田の背景に具体的な形を持った“物の怪”を配するのは違うのではないか。まして遠野特有の『赤河童』というわけにもいかない。頭の中でイメージしてみると、天狗や河童に囲まれ、柳田が居心地悪そうにしているので、その類は登場させないことにした。それに前号の『円谷英二と勝どきを歩く』では巨大ダコを登場させたりして少々調子に乗りすぎたので、今号は落ち着いた物にしたい。 とりあえず近辺の神社仏閣など検索してみた。駅のすぐ近くに神社が在ったが、都心の神社だというのに画像が1カットもでてこないし、詳しい住所も判らない。今はもうないのではないか、もしくはデジカメ片手の散歩者が歯牙にもかけない神社であろう、と記録的な猛暑の中歩き回り、あるお寺の中庭を鬱蒼とした森に見立てることにした。多少妖しく色調を変え、いつになく早めに背景が準備できた。 編集部の方針としては、とにかく特集駅近辺での撮影を、ということで、画にもなっているしこれで良いのだが、背景がただ樹木では牛込も柳町もない。わざわざ現場まで出向いて撮っていることが、たんなる馬鹿正直に思える。柳田は今までアダージョで扱った人物で、もっとも顔が知られていない人物であろう。このままでは、ただ森を散歩しているご隠居である。私としては、円谷ほどでなくても、多少“その筋の人”ということが表現したいところである。そうこうして編集会議の日、取材で撮られた小さな没カットの中に件の神社があった。そのカットでは表紙に使えるかどうかは判断できない。時間的に無理だと思いながら、気になって仕方がない。結局我慢できずに締め切り直前。小雨降る中、近くの交番でもしばらく判らなかった『中守稲荷神社』に向かった。小雨のおかげで敷石など、しっとりとした味を出していたし、なにより注連縄、狐など柳田的アイテムを入れることができて、いくらかでも“その筋の人”ということが表現できたのではないだろうか。

過去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




夕方、丸善に作品を収め、歩いて日本橋三越で開催中の三重県物産展に向かう。専門学校時代の旧友N君に会うためである。彼は伝統工芸展において朝日新聞社賞受賞という快挙を果たした陶芸作家。今回は物産展ということで、作家としてのアピールは控え、産地の焼き物屋として販売員の札を着けて立っていた。彼の受賞に繋がった代表的技法の象嵌は大変手間のかかるもので、その点を横にいた中年婦人に聞こえるようにいっていたら、湯飲みを買っていった。彼とは私が18、彼が19か二十歳からの付き合いであるが、彼はいい加減にしろ、といいたくなるほど変わっていない。 卒業目前、私は女の子とアパートで酒を酌み交わしていた。学校が近くてプライバシーなどないので、貴重な一時、邪魔されてはと留守を装っていた。そこに彼と、現在中尊寺の近くで陶芸作家のO君が現れた。「絶対いるって。酒ばっかり飲んでるから倒れてるんじゃないか」という声が聞こえる。有り難迷惑な二人は、裏に回って雨戸をこじ開け始めたのであった。バツが悪い私は「入れよ」というし、彼らも急に用事を思い出してくれるほと気が利いていない。歴史という物は、こんなことで変わってしまうものであろう。もっとも彼女は現在、長らく連載を続けている漫画家の奥さんになっているから、メデタシメデタシといったところである。 N君には年寄りにマタタビのような妙な才能があり、昔、永代通りにある、魚○という行列のできる居酒屋に連れて行った時のこと。ここは頑固で有名なオバサンが切り盛りしている。彼は注文時に、一言二言喋ったに過ぎないのだが、翌日忘れたセーターを取りに行ったら、そのオバサンが「アラァ」と笑顔で迎えるという、信じられない光景を目にした。今回K本に連れて行って、彼のマタタビ効果を実験したかったのだが、その時間がないのが残念である。8時に洲崎の韓国料理『オウリム』で旧友5人が集まり彼を迎えた。中にはN君とは30年ぶり、という男もいたが、話の調子から何も変わらないので、感心というより少々呆れていた。こういった何も身につけていない、恥ずかしい時代をさらけ出しあったような友人関係は、これからでは作りようがない。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




91年より、時に人形制作を放ったらかし、廃れてしまった顔料絵の具を使用する(ピグメント)写真の古典技法『オイルプリント』制作のため、大正時代の資料を集めながら私は苦闘していた。ようやく画が現れ始めた頃だったろうか、手持ちのオンボロライカに付けるレンズを探していた。色々調べていてあるレンズに目が留まったのだが、世間では甘くてシャープではないという意見が大勢を占めていた。そもそもシャープで硬い描写のレンズなど興味がない。どうも世間の評価と私の趣味は異なっているなと思っていたところ、クラッシックカメラの雑誌で、三人の友人であるという投稿記事の中に、そのレンズを激賞しているを文章を目にした。作例写真は公園のベンチに坐る人物であったが、同じような趣味の人がいるものだと思ったものである。 それから程なく、友人のカメラマンが福原毅というカメラマンの事務所に行くというのでなんとなく着いて行った。福原といえば福原信三、路草兄妹、資生堂の一族で芸術写真時代の大物である。関係があるとは思わないが、当時それほどピクトリアリズムで頭が一杯な私であった。そこで古いカメラの話などしていると、入ってきたのが件の作例で写っていた人物であった。私は思わず「公園のベンチに坐ってた方じゃないですか?」それが現在『田村写真』の田村政実さんである。田村さんのプリント作業を見て私は我流のモノクロプリントを止め、田村さんにお願いして自分の作品を撮影して個展をすることになる。そうなると件のレンズで作例写真を撮った人物である。二人の学生時代からの友人で、古典レンズに造詣が深いという井上武彦さんに会いに、当時勤務していた国立の中古カメラ店を、ようやく画が出始めたオイルプリントを持って訪ねた。そこで古典レンズを紹介され、プリント大のネガが必用なオイルプリントに、大判カメラを使うようになり、オイルプリントでの個展も果たすことになった。
その井上さんがこのほど代官山に『FOTOCHATON』という1974年以前の機材を扱う店をオープンした。 デジタルの時代になり、それに伴い、製品に依存せざるを得ない写真の世界も様変わりした。しかし、焼け野原にも必ず芽吹く芽があり、すでにアナログ写真にも活発な動きがみられる。『FOTOCHATON』もその一つといえるだろう。

過去の雑記
HOME



コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




以前にも書いたことだが、最近酒場にはお喋りな男が溢れている。中に相手がその話に関心があるかどうか、全くお構いなしに、一方的に自分のしたい話をし続ける人がいる。こういう人達に限って家に帰ると寡黙だったりする。私も相槌を打つタイミングが上手くて、相手をリズムに乗せてしまうところがあるようなのだが。 只今私の中でブームの運送会社を定年になったKさんだが、“世の中から女が居なくなったら死んだほうがマシ”などといってる時の、この小さいオジサンの笑顔はなんともいえない。ところがこのKさんには呆れた。 同じ話を連日繰り返し聞かされていて、(聞いてる私も私ではあるが)さすがに私も、自分の話題をちょっとしてみようとした時である。話し出してわずか数秒。ふと見ると、たった今まで身振り手振りを交えて楽しそうに話していたKさん。全くの無表情になって、手元のお銚子あたりをボーッと見つめているではないか。人の話を聞いていない人はいる。しかし心そこにあらずとも、聞いているフリくらいはするものである。ところがKさん、電池を抜いたブリキの玩具のようにピクリとも反応しない。「60にもなって、人の話ぐらい聞けるようになれよ!」呆れてKさんのホッペタを捻りあげる私。「ちょっと他のこと考えちゃった」。笑うKさん。他のことって、あんたの考えてることって一つだけだろう!まもなく年金生活に入る人にいうことではないが、女性だったら、セックスもこの調子なんだろうなって絶対思うぞ。

過去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


昼間丸善に出品した作品の、乾かずに持っていって剥げた部分の修正などし、夕方、神楽坂でエッセイストの坂崎重盛さん、義太夫三味線の鶴澤寛也さんと『客人まろうど』という店でお会いする。 いつも桐箱に収めている、すでにさら地になったらしい、都内某所の瓦を披露する。以前は瓦同士を接着していた漆喰だか泥だか、これも貴重と大事にしていたが、出したり引っ込めたりしていて大分取れてしまった。寛也さんに、最近稽古場に来たという元首相の写真を見せてもらう。『コノ野郎!私が触らせてもらおうと、思ったことさえない三味線を弾いていやがる』。 本来だったら同席するはずの人物が脳梗塞で入院中で、そんな話から、坂崎さんは検査など一切受けず、血液型も最近知ったという。私は昔から、ヤク漬けで酒におぼれ、良くも悪くもロッカーの見本だと思っていたローリング・ストーンズの公演で、ミック・ジャガーがステージを走り回っているのを見て以来、人の不養生は信用しないことにしている。 蕎麦の実や蕎麦がきで日本酒を飲むのは良いものである。「今日は笹舟に乗った気持ちで」とおっしゃる坂崎さんにご馳走になる。私も今度使いたい。 神楽坂の路地は横溝正史の撮影以来である。方向音痴にはまるで迷路で、特に夜はどこを歩いているか判らない。どの店も満席で、飯田橋近くの“正調”居酒屋へ。メンチカツに黒ホッピー。店の名前は忘れたが、焼き鳥の、特にレバーがやたらと美味しかった。ホッピーに氷が入っていて、ホッピー1本で焼酎を5杯おかわりしたが、これはK本の焼酎の濃さに慣れてしまっている私が悪いのであろう。 木場に帰り、『T千穂』を覗くと定年になり迷走中のKさん。昨日思わせぶりなメールを残し、返事が来なくなったので気になっていた。細かいことは書けないが、身近で新喜劇を馬鹿々しくしたようなドサ芝居が演じられているので退屈しない。隣によく見かける人がおり、沖縄出身だそうなので、携帯プレイヤーに入れた70年代の南沙織を見せてあげると喜んでいた。私が海洋博前後の、コザがあり、車が反対走っていた頃の沖縄を知っているというと、齢を聞かれる。この辺りの人には私が若く見えるようだが、若いといわれても私には“この親不孝者”としか聞こえないので、齢の話はしたくないのである。 Kさんとはもう一軒、夜中の3時までやっている『Pッチギ』に行く。Kさんはまだ退職金が出ておらず、ツケが利くところしか行かないので、「笹舟に乗った気持ちで」とさっそくいってみた。ドサ芝居の見物料としては、とても安い。

過去の雑記
HOME



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




携帯プレイヤーで歩きながら音楽を聴いている。遅ればせながら初体験である。疲れた時など、街行く人を路傍の石ころと思い込むようにしているが、それをするにも便利である。ただし危ないのでイヤホンを密閉しないようしている。本日もラーメン屋に入ると長渕剛が流れていたので、ラーメンが不味くなると音量アップ。懐かしの『バッファロー・スプリングフィールド』。 18時。待ち合わせのため表参道に向かう。電車内、窓に写る己が姿を見ると、『マリー・ラフォレ』を聴いている人物には見えない。  二十数年前、滞在中のシカゴで知り合ったハーピストのシュガー・ブルーを来日させようと尽力した一女性、K子さんを囲んで懐かしい仲間が集まる。シュガー・ブルーの全国ツアーは、手弁当の日本側スタッフのおかげで実現を果たした。私はシュガー像を作り、パンフレットになった。K子さんの長女Yちゃんが居酒屋チェーンのオーナーと結婚したので、その中の『青山ゑびす堂』にミュージシャンのジョジョ澤度さん(ファーストアルバムのジャケ写は私が撮影)ハーピストの西村ヒロさん、ライターの妹尾美恵さんなど懐かしい仲間が十人以上集まった。生まれたばかりの子供を抱えたYちゃん。小学生の時から知っているので妙な感じである。 ヒロさんとは昔、恵比寿で営業していた屋台で盛り上がって、屋台が以後そこで営業ができなくなってしまった話などして笑った。屋台の親父も一緒に騒いだのだが。ヒロさんによると、その場にちあきなみのマネージャーもいたらしい。確かにしょっちゅう呼び出しベルが鳴っている男がいた。 ヒロさんのハープやジョジョさんの歌など出て、生まれて初めて生で食べた有機栽培の蕪や茄子が美味しいのに驚いたりしながら、大いに語らったのであった。木場に帰り、ネットカフェで本日のことなどアップしようとしたら、定年直後のKさんと立ち飲み屋のYちゃんから電話。皆さん昔ほど飲まなくなっており、飲み足りない。それではと出かけると、Kさんのロレツが回らず、聞き取れないで違う方向へ向かってしまい、戻るのも面倒なので今日は大人しく帰ろうとすると、通りかかった店から出てきて呼び止めるT屋のHさん。結局朝の5時まで。
房総に行く前にNTTに手続きしておいたはずが、その間なにも進んでいないことが発覚。ネットに繋がるのがさらに遅れることに。PCにメールを頂いていた方には申し訳がない。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




港にある手打ち蕎麦屋で、相変わらずの地魚の天麩羅で舌鼓。 さらに捕鯨基地のある和田町ならではの鯨の揚げ物、カルパッチョ、寿司、ベーコンなどを食べる。地元の住民が捕りたての青魚を買いにくる、すっかり顔なじみの魚屋では、毎回外せない鯨肉のブロックを入手。刺身、鍋、ステーキと、帰る寸前まで食べ続け飲み続けた。やはり二人で三升では足らず。 いつも思うのだが、昔給食で、小学生が硬くて不味い鯨肉を食べていた時、この美味い鯨や鯨の部分は一体誰が食べていたのか、ということである。臭みもなく雲泥の違いがある。
海外の団体が、頭が良い生き物だから食べてはいけない、と盛んにいっているが、この美味さは鯨の頭が良いせいなのであろうか?そう考えると私達野蛮人は、捕鯨船燃料基地確保のため乗り込んできたという、地球上で一番頭が良い品種の、黒船の乗組員をまず喰ってみるべきであった。




過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今回の目的の一つに背景の撮影がある。以前の片手に人物像、片手にカメラの一発撮り、という方法は、一体作れば一回の旅行で数十カットは撮れる。アダージョで試みているような先に背景を撮影し、それにあわせた人物制作は、一カットのためだけに作ることが多く、展示もできない像が溜まってくる。実に面倒で効率?が悪い。それもこれも、画になる背景の中に人物を配するのではなく、画にならない都営地下鉄付近の風景を使うためである。しかし一方かなりの制作用腕力もつき、先に背景を撮っておき、後に人物を溶け込ませる面白さも判ってきた。今回もそれなりのイメージを持って撮影場所を選んでいる。房総の撮影は、劇的な天候の変化で、後を振り返ると景色が変わっているという有様で、一日で三日分に相当する風景を撮ることができた。昨日の風雨のおかげである。町の祭りに出くわしたのも面白かった。山車が船の形をしている。狭い道路で酔っ払ってフラフラする人を注意してる人が、足元がおぼつかない。ヤカンに入っていたって中身は酒にしか見えない。
夕方、太平洋の夕暮れ。八月という感じはしないが、予定通り石川セリの『八月の濡れた砂』を聴いた。






過去の雑記
HOME


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




雲行きの怪しい中自転車を担いでTさんと早朝、南房総に向かう。江見に到着すると雨。近所の小父さん小母さんが駅員役のことが多いが、再雇用の駅員と思しき人が、しばらく電車が来ないので、車で別荘まで送ってくれるという有り難い申し出。いつも自転車を担いでくるので覚えてくれていたらしい。しかし駅前のスーパーで買い物をして、小雨の間に『カネシチ水産』で食事をしておきたい。ということでせっかくの申し出であったが、自転車でカネシチへ。ウニ、エビ定食を堪能。その間に金目鯛をさばいてもらい、もちらん頭ももらう。他にイカの沖漬け、アワビの肝その他を買い、スーパーで日本酒『寿萬亀』三升、野菜その他を買い、自転車、私等ごと別荘に配達してもらう。今回の目的の一つは金目シャブをやることである。仮に雨で担いできた自転車が乗れなくても、美味い肴で寿萬亀を飲めればとりあえず笑っていられる。全日雨にたたられたとしても、いっそのこと、グウタラで駄目な感じを味わいつつ飲み続けるのも一興である。外は強い雨。予定通り寿萬亀に金目シャブを満喫。


過去の雑記
HOME


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


先日完成させた中央公論Adagio用のYは、入稿直前に背景の変更、それにともない主役のYに当てるべき光線具合も変え、かなりの綱渡りであったが色校チェックも無事に済ませ、やることはすべて終え、ホッとしている。そんな時、先日よりPCの調子が悪く、ネットにアクセス出来ず、メールも見られない。復旧までしばらくかかりそうである。メールをいただいた方にはご迷惑をかけることになる。  少々疲れが溜まっている気がするし、人心地ついたことでもあり、週末、再び自転車かついで房総に出かけることにした。この間行ったときには、あまりの猛暑に自転車に乗る気になれず、釣りをのんびりすることも出来なかった。天気が気になるところだが、一応自転車を持っていくことにした。 最近、みんながイヤホンをつけて音楽を聴いている小さなあれはなんだ、ということで教わり、少々安いということで、壊れやすいというイメージの時限装置付メーカーの製品を買った。というのも、太平洋を眺めながら石川セリの『八月の濡れた砂』を聴いたらどんな心持がするだろう、と思いついたからなのだが、色々入れているうち、結局一番沢山入れたのは『大西ゆかりと新世界』なのであった。











コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




S運輸に40数年間在籍し定年を迎えたKさんは、ここ数日ご近所の飲み仲間、店のマスター、ママさん等とお祝いをくりかえしている。どこか遠くへ行くわけでもなく、寮を出て、相変わらず近所のアパートを借りて住むのだが。 しばらくゆっくりするつもりらしいが、ボケるから何かやったほうが良いと、どこへ行っても皆にいわれている。今の所、次に何をするアテもなく、急に寂しくなって寮の屋上から飛び下りようか、と時折考えるそうである。かと思うと、その屋上で同僚と女を取り合い決闘をし、血だらけになったすえ勝利した話を嬉しそうにする。30代の頃は3人の女性と同時に付き合い、それが露見し4人で話し合ったが女性同士が意気投合して、皆ででカラオケにいったそうである。人徳といっていいのか判らないが、女性好きで異常な寂しがり屋のKさんは、皆に呆れられながらも愛されているのは確かである。私もなんでこんな運送会社の小さなオジさんとしょっちゅう飲んでいるのだろうと思うのだが。(酔うと何いってるか判らないし) 先日Kさん主催で、定年のお祝いを兼ねたカラオケに呼ばれた。私は極度の人見知りだし、本来知らない人ばかりの、そんな所に出かけるはずがないのだが、Kさんを祝おうという人たちなら大丈夫かも、と平均年齢のやたらと高い集まりに出かけたら、何ということもなく楽しく過ごせた。私を幾つだと思っているのか私が歌うたび、なんでそんな古い歌知ってるの?といわれるのには閉口したが。 普段一人閉じこもって粘土と格闘していると、創作活動などという渡世とは無縁な人たちと飲むのは単純に楽しい。そのかわり、子供や奥さんなど家族のためにがんばり、それが生きがいだとする人達に、私の渡世では、それは一番やってはいけないことで、そんな“不純”な動機でがんばった物など、人様にさらしてはいけないのだ、などという話はしない。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


入稿  


『回転禁止の青春さ』は青春歌謡の傑作だと、相変わらず飽きずに聴いている。「俺は行くのさマイペース。一人歌って一人で褒めて♪」私がマイペースという言葉を初めて知ったのは、小学生の時、渡された通知表に書かれているのを見たときであった。てっきり褒められていると勘違いし、通知表をもらうと、いつもは家に帰る覚悟ができずにグズグズしているのに、寄り道せずに帰ってしまった。作品を個展で発表するようになったころ、一人歌って一人で褒めるのもなんなので、せめてお前等だけは俺を褒めろと、友人に強制したものである。美樹克彦がTVに映るたび、前は目方誠という名前だった、と父はいっていた。
前日、時間も迫りヒヤヒヤしながら雨の中背景を撮影したが、これが大逆転の大成功であった。こうしてみると、先月すでに撮っていた背景は、面白くも可笑しくもない。危ない所であった。やはり迷った時は危ないほうに行くべきである。Yが“その筋”の人、ということが表現できたのも良かったが、アダージョの中でも、かなりの出来のような気がする。そう思うのも例によって、出来立てで目が慣れていないせいかもしれない。4時半にデータを送信し、5時に木場で待ち合わせた南陀楼綾繁さんをK本に案内する。ディープサウスの黒人だらけの店に、一人訪れた白人の気分にならないように。 昔『本とコンピューター』という雑誌で南陀楼さんに、宮武外骨の制作を依頼されたのは随分前になる。撮影したのは早稲田大学の図書館だったろうか、その頃は片手に人物像、片手にカメラで撮影していた時代である。その時のカットは拙著『Objectglass12』にも番外で載せた。出来たばかりのYの首をカウンターの上に置いて、Yのことや、出版の話などして過ごす。『洲崎パラダイス赤信号』の舞台、洲崎に行ってみたいということで、パラダイス入り口に立つ、私が昔アルバイトで作った恥ずかしの銅像や、舞台になった千草あたりを案内する。帰宅後、いよいよ明日で定年で仕事を終える運送会社勤務のKさんから「寂しいから来てよ」などと電話があり、徹夜で寝てないのに行ってみると、すで酔っ払い状態のT屋のHさんと笑っていた。帰ったのは午前4時に近かった。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )