明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



円谷英二は自分でブログに書いたおかげで、スタジオ内でセットを眺めている、というより彼方を飛ぶ飛行機を眺めている状態をイメージしながら作ることになった。 円谷は若干表情が緩んでいるが、無表情が基本である。多くの仏像や能面は無表情ゆえに、見る側のコンデイション、心持ちにより様々な表情に見えるようになっている。そのため同じ人形を撮影しているのにかかわらず、複数の表情が用意されているのだろうと思われることがよくある。表情に限らずポーズに関しても同様である。撮影用に制作する場合は背景に合わせてポーズをさせることが多いが、人形作品として制作する場合は、動きはできるだけ少なくすることを心がけている。ただぽつんと突っ立っているのが良い。ただ立っている人物を作ってばかりで飽きないか、というとこれがまったく違う。首の角度、肩や腰のライン、足の前後左右の位置、その僅かばかりの部分に、やるべきこと、込めるべきことがいくらでもある。 今回は作りながら円谷の視線の先に、沈み行く夕日を背景に飛ぶ飛行機が浮かんだので、円谷に実際の夕日を正面から当てて撮影してみたい。歌舞伎の勧進帳で、六代目菊五郎の義経だったろうか。手をかざし遠くを仰ぎ見ると、観客には山並みが見えたという話を聞いたことがある。円谷の視線の先に飛行機が見えるのが理想であろう。

※弁慶と書いてしまったが菊五郎は義経。

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有楽町にプリント4カットを出しに出掛ける。やたら眠い。朝からマウスを何回も落としていた。どうにも我慢できずに茅場町のホームのベンチで二三度コックリして歩き出すが、すぐ隣のベンチでまたコックリ。 データからのプリントは、以前より随分安くなっていたので新しい料金表を貰う。『円谷英二と勝鬨を歩く』の表紙では判りにくかったかもしれないが、勝鬨橋を襲う巨大ダコの下をくぐろうと、平然と自転車をこぐ人物がプリントでは判るかもしれない。夏目漱石も色調その他、大分改良している。フォトショップで当時使い方をしらなかった機能がある。あまりに初歩的なことだが、独学ゆえにそういうことがままある。 帰りもやはり茅場町で一眠りしてしまう。朝まで制作していてろくに寝ていなかった。おそらく原因は、先日ネットで久しぶりに目にした寺山修司の映画『書を捨てよ町へ出よう』の冒頭部分 “何してんだよ 映画館の暗闇の中で そうやって腰掛けて待っていたって 何も始まらないよ” のせいである。これだけ時間が経っても、家出こそしないが私に徹夜で制作させてしまうのだから寺山の威力未だ不変である。随分前に閉館した銀座の『並木座』では、昔は上映した映画のポスターが安く買えた。友人がこのポスターを額装して未だに持っているのが羨ましくてしょうがない。このセリフの人物は今は寺山修司記念館の館長らしい。 記念館には人形抱えて、寺山の故郷を撮影しにいったおり立ち寄ったことがあるが『百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる』のキャプションを見てなんで涙が出るんだかさっぱり判らず。寺山の言葉にはなにか術が施してあるのは間違いがなく、普段使っていない筋肉がかってに動き出してしまうようなところがあるので、何気なく読むのは避けた方が良い。

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小雨の中、定期検診。腎臓も奇麗、肝臓も何もなし。肝臓に関しては、二日酔いしたことがないのだから当然であろう。もっとも酒場にいっても飲むふりだけで飲んでいないのだから当たり前である。K本においては、常連の左右の客がよそ見している間に隣のコップへ注いでしまう。あまりのスピードに気がつかれていない。他の店では、底に穴の開いたグラスを常に選んでいる。 円谷英二は上を向かせた。向いているといっても僅かではあるが。ソフト帽を被っていることもあるが、円谷のスタジオには背よりも高い東京タワーも立っているだろうし、上には様々な物もぶら下がっているだろう。それに円谷はタコも好きだが何より飛行機である。彼方を飛ぶ飛行機を眺めている所、といっても良いであろう。 考えてみたら、今まであまり上を向かせたことはないような気がしてきた。江戸川乱歩の『帝都上空』は縄梯子にぶら下がっているところだし、何体か作ったボクサーは、負けたと思わなければ負けではない、というテーマだったので、当然、うつむかせる訳にいかなかった。

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制作  


世田谷文学館では江戸川乱歩と横溝正史を出品するが、この2人に縁がある作家に渡辺温がいた。HPに載せるのを忘れていた。展示は世田谷にちなんだ作家、ということであり、渡辺温は特に縁がないようであるが、問い合わせてみると、没年に発行された私家本で、横溝旧蔵の『渡辺温集』が収蔵されているそうである。今後渡辺温を展示する機会はなかなかないであろう。この際にと、しまってある箱から取り出してみたら首がないではないか。思い出した。これはギャラリーオキュルスの『渡辺温オマージュ展』用に制作した作品であったが、後ろに回した手までそれこそ手が回らず、適当にしか作っていなかった。展示の際は、後ろが見えないよう、ぎりぎり背後の壁面に寄せて展示したような記憶がある。そこでいずれ手を作り治そうと、胴体から首だけ外しておいたのであろう。さてその首。どこにしまったか。一応合間に探して見るつもりだが、元々依頼されたラインナップに入っていないし、出て来なければ展示しないまでの話で、そう懸命に探そうとは思っていないのであった。まず初披露の円谷英二、横溝正史が肝心である。 友人がメールのついでに、お前は阿部公房を何故作らない、という。始めて読んだ作品は78年に出版されてすぐに読んだ『箱男』であった。確かに安部公房作品はやりようがある。考えないではなかったが、作るなら眼鏡が大きすぎない時代にするだろう。

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9月に写真の古典技法による4人展が決まった。先のことなので、まだ何を出品するか決まっていない。 古本街に通って主に大正時代の文献を集め、廃れていた『オイルプリント』の制作を始めたのが1991年である。当初まったく画が現れず、テキストに欠けたページがあるのでは、と本気に考えたものだが、それでもなんとか解明し、たった一日であったが、初披露が99年。そこから06年の丸善オアゾの『人・形』展に出品したのが最後で、『乱歩 夜の夢こそまこ』の制作を境に休止することとなった。それでもその後制作したデータは、すべてオイルプリント化を前提に常に考えていた。PICTORIALISMは『クラシックカメラ専科』に掲載された一文であるが、世の中のデジタル化がこれほど急激に進むとは思わず書いている。 もともと野島康三の作品に魅かれたのがきっかけであったが、まことを写す、という意味の写真という言葉を嫌い、マコトなどできるだけ画面から排除したい体質の私にとって、好都合な技法であることにすぐ気づいた。制作した人物像をオイルプリント化すれば、ウソも本当もなくなってしまう。さらにこの超がつくアナログ技法は、対極ゆえにデジタルと相性が良いことも判った。 しかし一方、発表して判ったこともある。日本では始めて目にする物に対して、まずこれはなんだ?ということになってしまい、ぱっと見てすぐに反応してくれないということである。それは作品の力不足にもよるだろうが、当HP制作の動機の一つもそこにあった。試みる人も増やしたいし、同じ説明を繰り返したくもない。 人形は粘土の質感丸出しで作っているのに、実写と間違われるくらいなので、人形作品をオイルプリント化するに際し、できるだけ暴走先走りは抑えた。だがしかし、時代は代わり、古典技法を手掛ける人も増えた。冷え冷えとした部屋に暖房が効いてきた感じである。もう余計なことを考える必用はないであろう。この4人展、私以外は女性だ、というから長生きはしたほうが良い。

世田谷文学館に出品の寺山登場『寺山修司の世界』

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結局、横溝の前に円谷英二を先に作ることにした。表紙用に作った円谷は隅田川に半身浸かっているので、ゴム製で胸まである魚市場だか釣り用のウエルダーのような物を履かせている。思えばこの格好でソフト帽を被っている状況は可笑しいが、本人の現場での姿を参考にしている。当初、本当の薄いゴムで作ってみたが、縮尺上の問題もあり、ホンモノの素材感が出ないので粘土で作った。そこに懐かしの整髪料MG5を塗った。撮影用だからそんなことができるわけだが。以前、澁澤龍彦邸にお邪魔したとき、有名な書斎の本棚にMG5が置いてあった。撮影時にどかされるようだが、まったく判っていない。私の中学生時代、入門用だったのがヴァイタリスと並んでMG5であった。それを澁澤が使っていたというところがカッコ良いわけである。しかし考えてみると、整髪料を使うようなヘアースタイルだったか?という気はしないでもない。懐かしくなって買ってみたが使う訳でもなく置いてあったのを、ゴムらしいテカリを出すために使った。今回は展示用であるから、普通にスーツ姿にする予定である。  Mさんの昭和32年に亡くなられた父上のモノクロ写真をカラーにした物は、自分で見てもカラーにしかみえない出来映えで、Mさんにも喜んでもらえたようである。私はウケを狙うと良い結果を出すタイプである。アダージョの表紙を隔月で4年続けていた頃、いつの間にか頭の中に登場したのが、スーツ姿の中年男である。こいつは各号の特集人物を、学生時代卒論で扱ったサラリーマンとして毎回現れる。こいつの“オマエワカッテナイナ”というにやけたツラを打破すべくファイトを燃やした。こう書くとノイローゼのようだが、神様じゃあるまいし、人の形をした物を作り出そうなどという人間は、多かれ少なかれ妙なことを考えているものであろう。

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作品の整理をしていたら、ある日本人ミュージシャンが出て来た。なんとも久しぶりである。このミュージシャンは先年亡くなってしまったが、プロモーションビデオ用に依頼されて制作した作品である。私がまだ黒人の架空のミュージシャンを制作していた頃で、日本人など作ったこともなく、しかも実在というより現役のミュージシャンなど自信がないので一度は断ったが、他の人形作品とともにどうしても、というプロデユーサーの意向であった。なんとか制作をして、ビデオの撮影が行われたのは某映画の炎上シーンが撮られたスタジオであった。つまり大きなスタジオである。そこにスモークを焚いて、チンダル現象といったか、スポットライトの筋状の光を強調した撮影である。群像としてならべてはいたが、所詮4、50センチの人形である。何もこんな大きなスタジオでもうもうと煙をたかずとも、小さなスタジオの方が効率はいいだろうに、と煙が充満するだだっ広い無駄な空間を見上げていた。 ところでビデオの監督が私の作品を気に入ってくれたのは良いが、某ミュージシャンの、というよりまるで私の人形のプロモーションビデオである。完成後TVで流れたのを観た人はいたが、制作側からはうんともすんともである。なんとか連絡を取ると、結局ミュージシャンの事務所から、これでは何のプロモーションビデオか判らない、ということで没になったという。それでも一応は使用されたし、没になったことは私には関係ないが、そこからこのプロデユーサー、私に対する制作費を払わずなんだかんだと逃げまわり、ようやく支払われた時には半年近く経っていた。それからまたしばらく経ち、TVで日本アカデミー賞の授賞式を観ていた。欠席した某巨匠の代わりにトロフィーを受け取っていたのは、件の男であった。

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私は十代の頃、夏休みに鉄骨運びのバイトをやった。そのせいで高校を卒後して、陶芸の専門学校時代から、製陶工場に就職の説明を聞きに行く当日まで愛用したのがつま先に鉄板が入った安全靴である。何トンに耐えられるかというグレードにより◯トン靴、というのがあったかもしれない。革靴に見えさえすれば良かった。この靴は、後に人形を作りながら4年ほど溶接の仕事をしたのでふたたび履くことになったが。 ところでその夏休みのバイトだが、想えば今の私より若いかもしれないが、当時の私からすると年寄りが軽々と鉄骨を運ぶのを目の当たりにした。私は腕力だけをたよりに意地になったが、ここにはちゃんと物理学の法則が働いていて、コツというものがある。ようやく判った頃には夏休みは終わろうとしていた。私はこの時のことを時折思い出すのである。コツが判った頃に人生は終わってしまうのではないか? そう考えると実に怖い。バイトの場合は一応コツが判ったので、コツが判らないうちに終わってしまうことはとりあえず考えないでいるが。 一番の難関はやはり人物の頭部である。最初に粘土をつまんで作り始める時の確信のなさ。これはなんとかならないものか。以前、祈るように作っている、と書いたことがあるが、あれはまったく本当で、終始祈りっぱなしである。そしてできたと思ったらまだだった、と迷走を続けることがしょっちゅうなのはブログに書いているとおりである。とりあえず来月世田谷文学館に出品する6体のうち、柳田國男は足を仕上げるだけだし、円谷英二と横溝正史はすでに頭部はあるので、あの苦しみはしばらくないのだ、という話である。

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Mさんの父上の写真は無事カラー化に成功した。某省の超がつくエリートだったそうだが、私の生まれた翌月に亡くなっており、時代的にカラー写真は一枚もない。初めてなので随分時間がかかったが、やればできるものである。 亡くなった時代に大きく差があり、カラーの母上にモノクロの父上、単独で見る分にはモノクロ写真は味があるが、スタジオで撮られた大判のカラーと、小さなプリントから複写されたモノクロでは、2枚並べると画質、情報量ともにどうしてもモノクロが見劣りする。そこで、できるだけ違和感を少なくするため母上のスタジオ撮影の背景を流用し、2カット並べて御夫妻がぴったりになるよう作った。この写真は今後Mさんの家族兄弟縁者が日々眺め続けていくわけで、これならば喜んでいただけるのではないか。 私の父が亡くなった時は、カメラに向かって笑っている写真がないので探すのに苦労したそうである。そしてバカ高い料金を取るわりにどうしようもない雑なプリントであった。そうした物なのかもしれないが背景のブルーが寒々しいので早々に処分させ、暖かい赤い夕日を背にした写真を作った。  世田谷文学館に展示する柳田國男の写真作品は着物姿に杖というおなじみの格好だが、展示する人形は『貝の穴に河童の居る事』で作った禰宜姿にすることにした。柳田の衣冠束帯姿の写真が残されているが、白装束の神官姿もなかなか味がある。作中では鎮守の杜の姫神様の後見人のような役所であり、異界に属する存在なので、トレードマークの丸眼鏡は合わないので止めた。そう思うと鼻の下の髭も横町の御隠居風なので、聖徳太子のような髭にすることも考えたが、この髭はあまりに柳田的なので、そのままにした。この翁が履くのが足半(あしなか)とい踵の部分がない草鞋で、現代の健康サンダルのようだが、丸眼鏡を着けるか、普通の草鞋にするかはまだ決めていない。

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今日から横溝正史の制作にかかるつもりでいたが、友人の入院、手術の報せにまったく手につかず。どうしても粘土に手がいかない。頭部がすでにできている場合、身体を作り乾燥の後、ロクロ台に接地していた足の部分を作る。乾燥後の仕上げはともかく、開始から乾燥までの間は、息を思い切り吸って海中に潜る鯨のようにして息継ぎなしで一気に制作する。この時気分に翳りがあると息が続かない。しかたがないので出品する写真作品の仕上げを済ませることにした。 夏目漱石を大きく配し直した。撮影地は東京大学内の三四郎池だが、悪天候による増水のため何度か撮影が見送られた。ようやく撮影開始、と思ったら目の前で老人が鯉の餌のパン屑を放り込んだので慌てたが、幸いあっという間になくなった。この場所、漱石が目にした光景であることは間違いないのだが、背後に高い樹々が茂り、人形を現場に持って行ったのに陽が差さず、結局後日別撮りすることになった。このあたりから、現場で像を手持ちの撮影に限界を感じ、背景を最初に撮り、それに合わせて造形するようになった。次の号『手塚治虫と新宿を歩く』では、どこを歩かせて良いかも思いつかず、ジェットエンジン付けて空に飛ばしてしまった。 K本の常連Mさんが若くして亡くなった父上と長命だった母上の写真が、並べると大きさのバランスが合わない、という話だったので、並べても違和感ないよう修正を引き受けることにした。しかし私がやるのだから単に大きさを揃えて済ますわけにはいかない。母上に合わせ、父上のモノクロ写真をカラー化。佐田啓二ばりの美男子で、昔の松竹のニューフェイスといっても通るであろう、

 

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せっかくウチに居るのだから、結局柳田國男の横に河童の三郎を並べた。 実際の風景をスタジオのミニチュアセットにしてしまう、というアイデイアは、どう考えても円谷英二以外には使い道がない。かといって、このフリーペーパーで手掛けることがなかったら、私が円谷を作る機会はおそらくないだろう。できれば東京タワーと円谷を並べてみたい。モスラは東京タワーをくの字にへし折り繭を作った。しかしそれは叶わず、実現したのは『円谷英二と勝鬨を歩く』であった。インパクトは東京タワーほどではないが、ゴジラ第一作で破壊された勝鬨橋だって悪くはない。しかしこの22号の後、25号が終刊号となり、営業的都合から、とにかく東京タワーを入れて欲しいという要望がくることになった。 円谷は明らかにタコ好きである。『ゴジラ』は当初円谷の構想では、巨大なタコが東京を襲うものだったらしいし、巨大ダコを度々扱っている。瀬戸内海から活き締めした新鮮なタコを入手した。撮影終了とともに刺身で食べるはずがウンザリしてしまい、茹でて冷凍にしてしまったのは不甲斐なかった。 スタジオに照明など配するのは当然として、スタッフがいてもいいだろう。当時階下に住んでいたフリーの映画プロデユーサーはゴジラと生年が一緒だといっていたし、小学生の時に円谷に手紙を書いたというのでお願いした。しかし様々な要素を画面に入れたせいでスペースが微妙になってきた。自ら衣装や手拭まで用意してもらい、屋上での熱演を考えるとカットとはいいにくい。入稿時間ギリギリまで悩んだのを思い出した。 文字が入らない分、多少配置を変えてみた。

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喉が痛いが市販の風邪薬など、どうせ効かないので飲んでも無駄である。特効薬など作ってしまったら儲からない、と半端な物を売っているとしか思えない。うがい薬と喉スプレーのみを買う。あとはK本の特別消毒液で、体内の消毒を怠らずに励むしかないであろう。 昨日ブログを書いていて気がついたが、フリーペーパーの表紙用に制作した作品であるから、文字の入るスペースを考慮している。私は普段、そんなことを考えて作っていなかったので、文字のスペースを、と当初随分いわれたものである。そこで世田谷文学館に出品予定うちの二点は、主役を大きく配置しなおして良くなった。 『柳田國男と牛込柳町を歩く』では例によって柳田が歩いて似合う場所等すでにない。そこで適当な神社を探すことにした。もちろん探すのは私である。こういう時、常にネットに助けられた。人形を作りながらロケハンなど悠長にはやっていられない。いくつか候補の中から、住宅地の中のひっそりとした神社に決めた。しかしここも後ろは普通の住宅である。前回も書いたが、一応街歩き用フリーペーパーとして、表紙に使われた場所を訪れる人がいるということで、住宅が邪魔だからといって消すわけにはいかない。幸いロゴで隠れて目立たないが、実際は今時の普通の住宅でかなり違和感がある。そこで今回はこの家に立ち退いてもらい、山深い場所の神社となった。 当時河童を登場させることも考えたが、牛込柳橋には適当な水気がなく、遠野の赤河童もムリヤリ感があるので止めておいた。この時柳田を作ったおかげで『貝の穴に河童の居る事』に神官の翁役で登場させることができたわけだが、裏テーマとして柳田と河童の共演があった。それは作者の鏡花を差し置いてまでやる意味はあった。思いついたとたん立ち上がり、そのままK本に飲みにいったのを覚えている。

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世田谷文学館出品用に作りなおすのは、まず横溝正史からに決めた。この場合は金田一の格好をさせているが、ただの着流しにするか、それはまだ決めていない。当時のブログを読むと、頭部の制作にかなり苦しんだようである。横溝の眉毛の形を生かすために予定の向きを変え、おかげで横を行く老婆の配置を換えている。この表紙は街歩き用フリーペーパーなので背景を加工するわけにはいかない。人物の表情一つ、眉毛の角度のために世界の左右反転など本来は気にしないのであったが。 この号では当初、同時期に神楽坂周辺に住んだ江戸川乱歩を背後にさりげなく立たせる予定でいたが、それが乱歩だと判らない人にとっては面白くもなんともないだろうし、文字が入る都合もあり断念。しかしすでにもう一体人形を登場させる、という気分になっていたので、『悪魔の手毬歌』で金田一とすれ違うおりん婆さんを登場させた。そして結局、不気味な老婆とできるだけ正反対の、携帯片手に路地を探索中の女の子を入れてバランスを取ることにした。狭い路地のことなので警戒され、自然な状態はなかなか撮れない。近所の寺で住職をやっている従兄弟に来てもらい、立ち話をしているフリして楯になってもらって撮影した。この場所は散歩ブームのおり、見学者がひきもきらずで、特に情報雑誌片手のカメラオヤジがやたら多く、いいかげんにしてくれ、と邪魔でしょうがなかったが、よく考えたら向こうからしたら私も同じ状態なのであった。

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盆栽用のアルミの針金をネットで注文する。人形の芯は昔からこれである。小学校時代の恩師、図工のK先生のところに遊びにいったおり、「コーテイングしてあって錆びないからいいんじゃねエか?」の一言で、以来使っている。最近こそなくなったが、昔は良く気が変わってポーズを変えることがあり、柔らかいのが好都合であった。しかしその分、制作中不安定だが、その状態で完成すれば自動的にバランスが良く、支えなしでも自立する。 K先生には高校卒業した直後、江戸川のガード下の屋台に連れて行ってもらい、始めて飲んだのが氷の入らない酎ハイと煮込みであった。おかげでK本でもずっとこれである。ホッピーの名店で私くらいなものであろう。K本では酎ハイの場合、最初の一本は注いでもらったあと瓶を引っ込めて並べない。昔、靴下に一本隠して勘定をごまかした輩がいて、以来そうしているという話であるが、なぜ最初の一本を引っ込めるとごまかし防止になるのか、未だにその理屈が判っていない。 K先生には寿司も2度程ごちそうになったが、最初に「◯◯の奴は高いもんばかり頼むんだよな」。必ず釘を刺された。教え子と一泊の麻雀旅行などしていたが、結局心臓を患い、惚けた後に寝床で亡くなった。先生は私がジャズシリーズから作家シリーズに転向したのを知らない。 仕事というわけではないが、近々写真の修整をする必用がある。そこで今までやったことのない試みをしてみようと思っている。アルミの針金が届くまで制作に入れないので一日実験していた。どうも風邪をひいたらしく喉が痛い。

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来月4月19日(土)~10月5日(日)世田谷文学館コレクション展『人生の岐路に立つあなたへ』 江戸川乱歩、寺山修司、円谷英二、夏目漱石、柳田國男、横溝正史の人形と写真を展示する。写真は2005年『SETAGAYA作家のいる風景』で世田谷を背景に人形を撮影し当館に収蔵された作品と、円谷英二、夏目漱石、柳田國男、横溝正史は『中央公論Adagio』で表紙になった作品を。『SETAGAYA作家のいる風景』は1点をのぞき、すべて現場に人形を持って行き撮影した作品である。唯一合成を使った作品は、少年探偵団が怪人二十面相を縄で縛り上げ、江戸川乱歩先生を囲んでバンザイをしているところである。文学館の方に近所の小学生を集めてもらったが、近頃は子供を集め許可を取るのが大変だと聞いた。当時の身辺雑記にこう書いている“今時の子供はバンザイを知らないのだろうか?まともにしてくれている子がいない。特にレイザーラモンのマネをして、上に上げた手を必ずへの字に曲げている子がいて、おかげで使えるカットが少ない。しかたがないので、この「ギャラはいくら」とヌかした小僧が何もしていないカットを選ぶ。” 連中もすでに大人であろう。 他に区内にあるボクシングの日本初の東洋チャンピオン、金子繁治の金子ボクシングジムで寺山修司を撮影したり、水道局員立ち会いのもと駒場給水塔を背景に江戸川乱歩を撮影した。特に生前乱歩が愛蔵し、当館に寄託されていた村山槐多の『二少年図』の前で槐多と乱歩を撮影したのは貴重な経験であった。 円谷英二、柳田國男、横溝正史は撮影用に写る部分しか作っておらず、身体は処分してしまっているので新たに作らなければならない。

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