明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



スケッチをすると最初の悪戯描きが越えられず、捨ててしまった紙片をゴミ箱を漁って、なんてことがあり、スケッチはしない、しかし『蘭渓道隆坐禅図』と『月下達磨図』は要素が多いので、スケッチしてみたが、風景もこれから作るので、さすがにあっち行ったりこっち行ったりしている。最初から決まっているのは主役の向きと、達磨大師の満月に寺院の多層塔がシルエットになっていることだけである。 水墨画的な構図から、曽我蕭白の広角レンズ調ではないが、より写真的構図を試してみるのも良いかもしれない。とはいっても陰影はないし、私の頭の中のまことだけで、外側の世界のまことは一つも登場しないので、実写と間違えられるという不首尾だけは犯す心配はない。そのためとはいえ、とんだ山深い遠方まで来てしまった。

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ノートに描いた『蘭渓道隆坐禅図』は、水墨画的である。これがカラーであり、人形であり、写真である、とすれば面白いかもしれないが、作品として良くても違う気がして来た。 ジャズ、ブルースシリーズの頃、ミュージシャンだから楽器を待たせたけれど、私が作りたかったのはあくまで人物である。なので個展2回目にして、楽器を作らずケースに入れたままという策を講じた。 昨日書いたが、拡大された連中の目を見て〝私自身が作った覚えのないものが目の奥に宿っているように感じ、これは拡大して初めて見える私の無意識のように感じられ“ あれはどちらかというと、フランケンシュタイン博士が死体を繋ぎ合わせて作った怪物が雷の力で動き出した時「It's alive!」といった感じに近いのではないか?そこで広角レンズ的に背景を出来るだけ押し込み、主役の蘭渓道隆師をより大きくしてみた。


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無学祖元師の袖口から顔を出す龍は、展示用とは別に撮影用に大きめの龍を作ったが、拡大することを考え、一枚鱗を作り、それを撮影して、一枚づつ画像として貼り付けることにした。場合によっては実物大のセンザンコウぐらいになる可能性もある。私自身は細部に神が宿るなどと思ったことは一度もない。肝心なのはあくまで主役の表情である。初めて拡大した時、私自身が作った覚えのないものが目の奥に宿っているように感じ、これは拡大して初めて見える私の無意識のように感じられ、機会があれば拡大したいと思って来た。 『蘭渓道隆坐禅図』のスケッチを見ていて、水墨画のイメージであるのでどうしても構図が長焦点的である。高所から下を覗くようないくらが広角的にしたらどうか?曾我蕭白に、獅子が子を崖から、というモチーフの『石橋図』がある。広角レンズで覗いたとしか思えない不思議な一作である。まったく謎の人物である。




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蘭渓道隆坐禅図は、めったにしないノートにスケッチしている。昨日、これを一番長大なプリントにしようと思ったが、ロール紙なら、長辺はいくらでも長く出来るが短辺はロール紙の幅となる。となると縦長の構図にする必要がある。ノート縦半分の縦長に構図を変えた。ついでに似たモチーフである『月下達磨図』も背景を変えた。満月に寺院の多層塔がシルエットに、これはそのまま。それが不自然にならないためには満月の高さが肝心である。私が自然だ不自然だ、とはどの口がいう、という話しではある。 月岡芳年が『月百姿 破窓月』で月下の達磨大師をそうしたなら、私はこうする、と。どうもこのモチーフに関して芳年が気になる。原因は、良く中国人と間違われる達磨大師は、インド人なので、よりインド人風に、としたのに、芳年は達磨大師ペルシャ人の血混入説を取ったか、ペルシャ人のような達磨大師にしている。〝クソ〜、やりやがったな“ついお里が出てしまう私であった。

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蘭渓道隆坐禅図は、七百数十年前の人物を、陰影のない斜め45度の肖像画から作り、仙人が住まうが如き風景の中で、面壁座禅する。ハードルの高さ多さを考えると、今までやって来たこと全て投入の必要がある。そう思うと、この一作を一番長大なプリントにしてみたい気がする。これを可能にしたのは一にも二にも陰影の排除である。かつての日本人は判っていたな、つくづくと思う。 幼い頃の、頭に浮かんだイメージは何処へ消えて行ってしまうのだろう、という疑問が私の原点である。それが消えて行く前に可視化して〝やっぱり在った“と納得する。それがほぼ可能になりつつある今日この頃。かつて、この決断を後悔としないために、どれくらいの年月を要するものだろう、と思った様々なこと等思い出す。

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フェイスブックは何年前の今日、こんなことありましたと知らせが来るが、10年前の今日、面と向かって殺す、といわれた。 私は人間の男ばかり作ってきたが、写生嫌いで、男のデッサンなど一度もしたことがない。しかしフォルムとしては、力道山時代から様々な人種の様々な男の裸を観てきた。更にボクシング、相撲等。私の特徴は学ぼうと企んだことがすべからく役に立たず、無意識に蓄積されたものだけが役に立つ。その男達のイメージに陰影、立体感をもたらせたのは、酒場であろう。家に何が居るのかは知らないが、なんとか帰宅を遅らせよう、ともがく男達のブルース。娘を嫁にやる父親のわずかなため息は耳に残るし、かと思えば家に複数台洗濯機がある、という娘がいる父親もいる。しまいには面と向かって殺すといわれる始末である。しかし取材はもう充分。最近はもっぱらテーブルに味の素が置いてある定食屋で一人静かに飲み、挨拶と注文以外話すこともなく店を出る。もっぱら藤竜也、高倉健スタイルである。



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2000年にHPを立ちあげ、2006年に身辺雑記 をこのブログに変えた。初日のブログを見ると、作家シリーズ を始めて来年で10年となるので、キリが良いので三島由紀夫で止めようか、なんて書いてある。次の展望がある訳じゃないのに。シャレのつもりか〝スッパリとやめるには三島こそふさわしい“なんて書いている。その後も作家シリーズは続け、20年のふげん社の個展『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』が最後となった。三島でやりたいことをやり尽くし、おかげで2年後同じくふげん社で40周年に寒山拾得となった訳だが、それもふげん社が、拾得が普賢菩薩の化身である、ところから名付けられたということがきっかけだが、こんな偶然、客観的存在がシナリオを書いているとしか思えない。行き当たりばったり、すなわち〝考えるな感じろ“が功を奏したといえるかはともかく、作用しているのは間違いがない。

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旧HP  


ずっと行き当たりばったりで来たが、その割に何かに導かれるように、一点に向かっている気がする。子供の頃、こんなつらい目に遭うのは子供だからだ、大人になったら好きなことだけやってやる。と誓ったものだが、1つ140円のベランダにぶら下がっている物干を溶接しながらの初個展から、世間の動向、需要など考えず、友人に止められたりしながら22年の『Don’t Think, Feel!寒山拾得展』で40周年も過ぎた。オイルプリントの技法公開のため2000年から立ち上げたHPは消えてしまったが、データは友人が保存してくれている。ネットに上げないと見ることは出来ないらしい。今でさえ、自分がいつ何をやったかなどネットで検索する始末だが、父が何年に亡くなったか覚えていないし、その頃何を考えていたのか。俯瞰で眺めてみたい気もする。当時身辺雑記は毎日ではなく、短文であったが、消えた6年分の身辺雑記と現在のブログを合わせると24年間に及ぶ。そう考えるとウンザリしてなかなか着手に至らないのであるけれど。

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白鹿  


蘭渓道隆師の構想は3点が決まっているが、無学祖元師も同じく3点にするなら、円覚寺の山号〝瑞鹿山“の由来である建立時に禅師の説法を聞きに白鹿が現れた。に因んで白鹿に囲まれた禅師にしたい。私が参考にした円覚寺の木像は、笑っている訳ではないが口角が上がっているところが、伝わり聞く禅師の穏やかなイメージと重なり、この表情で、蒙古兵に剣を向けられても微動だにせずの場面を作ったが、白鹿に囲まれても有効だろう。となれば何かというとお世話になる上野動物園である。 鹿の角は一年に一度生え変わるそうで、撮影はしばらく待った方が良さそうである。こんなこともネットで検索できることは有り難い。 小学生の頃『ジャングルブック』の猛獣が人間の目を恐れるという描写を真に受け、上野動物園のライオンや虎を睨んで回った私だったが、連中にはまったく相手にされず。

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来月には撮影に入りたい。もう2年近くフォトショップに触れていない。しかし外側の世界にレンズを向けず、眉間にあてる念写を旨としているので、まずは被写体を作らなければならない。この極度の面倒くさがりが、と自分でも思うのだが。 今回時間がかかったのは、久しぶりに人物像もちゃんと展示するために、360度作っていたこともあるが、それより何よりも、禅宗で高僧を描いた頂相は、師の教えそのものとして伝え継ぐための物であることを思うと、作家の顔を作るのとは訳が違う。さらに、決まって斜め45度を向いた陰影のない日本絵画から立体感を推察するのは困難であった。行きがかり上〝日本人は何で陰影を描かないんだよ“とボヤく訳にもいかず。

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昨日書いた『一休和尚雨宿り図』は、橋の下にしたのは雨宿りメンバーを横一列に並べるためである。 以前から考えるだけになっていることに、作った人物をビートルズの『サージャントペパーズ』のジャケットのように、作るたび並べることをやってみたい。特に陰影を排除してからは互いの存在が干渉しないのでただ並べるだけで良い。雨宿り図もそうやって次々並べていこうと考えていた。 まずは一休の両サイドに夜鷹と乞食を考えた。一休の女色にまつわるイメージを、胸元露わな夜鷹に担当させようと考えたが、次の展示がお寺でという話になり、いったん鞘に納めることに。 考えてみると、役目が終わった人物も、首だけは引っこ抜いてある。豊干禅師や慧可禅師、陶淵明、寒山と拾得、鉄拐仙人、蝦蟇仙人など、エキストラとして雨宿りさせるのも一興かもしれない。鉄拐仙人は、分身の術で魂を飛ばしている間に弟子に予定より早く残して来た身体を焼かれてしまい、傍の乞食の死体に乗り移り甦った。この表情では使えそうにないけれど。



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絵師であり太鼓持ちの英一蝶のユーモアは好物である。先日島流を恩赦で許され、江戸に帰って逗留した江東区の一蝶寺で『雨宿り図』を観たが、このモチーフが好きなのか、代表作に6曲1隻の『雨宿り図屏風』がある。琵琶法師、獅子舞、子供、武士、魚売り、犬、馬までもが、ある屋敷の門前で雨宿りをしている。禅の精神を表しているという『虎溪三笑図』は三教一致といって仏教、道教、儒教の三人の人物が笑っているだけだが、雨宿り図はそれどころではない。 私はいずれこれを一休禅師でやりたい。竹竿にシャレコウベか、役立たずの象徴と皮肉った朱鞘の長い竹光を持った一休と横一列に、胸元露わな夜鷹、乞食、物売り、鼻垂れ小僧、犬など並べ、橋の下で雨宿りしている。生涯を庶民の中で生きた一休和尚。横数メートルのプリントでいつか個展をやってみたい。 先の予定を立てて、至らぬ場合後悔するから考えないようにしているが、主役の一休和尚はすでに完成している。なんなら我が家の襖絵にして暮らすというのもオツかもしれない。いや風狂というよりただ酔狂となろう。




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80年代の終わり頃、写真の素人なのに野島康三作品に一目惚れし、大正時代頃、芸術写真と呼ばれた一連の手法の中で、オイルプリントという技法を、神田の古書街に通い詰め人形制作を放って打ち込んだ。友人等に止められたが止められず。発表したい訳ではなく、ただやってみたいだけだったので、私自身ハラハラして、画像が出るようになり止めた。 ところがその後写真を始め、個展をするようになると、だったらあれを、とオイルプリントによる『ビクトリアリズム展』(2000)となった。その後もニジンスキーをモチーフにしたり個展を行なったが時期尚早は否めず。しかし現在はデジタルの反作用で古典技法が花盛りである。 私があれだけ夢中になったのは、厳選した作品を最後オイルプリント化して一生を終えるためだ、と思い込んでいた。しかしそうならなかった理由がテーブルに味の素が置いてある定食屋の暖簾に書いてあった。今は手法自体が行先を示してくれるが、確かにオイルプリントではそれはなかった。



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一日  


昨日はつい鍵っ子が野に放たれたなんて意味不明なことを書いたが、被写体から陰影を削除して得られたのは、創作上の自由であり、それによって解放された呪縛は、創作上のことだけではないような気がしている。日本人が初めて描いたという英一蝶の水面の影ではないが、公園の川面に映ったボートの影を描いてからいわれ続けることになった〝子供の絵じゃない”担任の全員参加の交通安全ポスターを〝私の絵だけ出すの忘れた”発言。フェイスブックで再会した娘は私は休み時間も絵ばかり描いていたという。高学年になり、図工の先生に私の版画が国語の教科書に採用されるかもしれないといわれたが、青森の女の子に決まった。落選理由はまた馴染みのセリフを聞くことになった。中、高は美術部にも入らず。独学我流の果てに、写真なら作れない物は撮れば良い。さらに陰影を排除してようやく。 野に放たれた割に買い物と、テーブルに味の素が置いてある定食屋以外ほとんど出かけないけど。

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『月下達磨図』構図決まる。といっても最初に浮かんだものとほとんど変わらないが、その時は『慧可断臂図』で一度行った方法で岩壁を作るつもりでいたが、入手した水石によることにしたので若干視点が変わった。夜空というと満月を上げたくなる私だが、蘭渓道隆の坐禅図に譲りたくなったが、構図上達磨図の方があっている。満月の中に少林寺?だか多層塔がシルエットになってる。少林寺の巌窟にて面壁九年の修行をした訳だが、シルエットが少林寺だとしたら、少林寺の巌窟というには遠いな、とちょっと気になったが、あくまでイメージ上のことである。なんていえるのも陰影の呪縛がないからこそである。ようやく野に放たれた鍵っ子時代の私という思いがする。
慧可断臂図



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