明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



一休宗純を軸に制作してみよう、と考えていたが、昨日ブログを書いていて、男ばかり制作してきた私からすると、一休は男の種々相を描くにはうってつけであり、その点からも良い。 最後、具体的な誰でもなく、男の種々相を描くのに羅漢像を作り続けるのが良いのではないか、と考えていた。その際、4人だ6人だ五百羅漢だなどと目標は決めず。それはいうまでもなく一休和尚のせいで恐れ続けた途中挫折を避けるためである。しかし恐れの原因が明らかになった今、その原因で鬱憤を晴らすべきではないか。結果的にはおかげ今で制作している物が人生上の最突端である、とやって来られたのであるから、感謝しながら鬱憤も晴らすという、一筋縄ではいかない和尚には、そんな心持ちを抱えてアプローチして丁度良い気がする。



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冥土の旅を前に〝作り残し“に苦しむだろう。と長年ウンザリしてきた。それに対処するため変化を続け、これが出来ていなかった先週、昨日にさえ戻りたくないよう心がけてきた。結果的に一休和尚のおかげといって良い。そんな時〝死にとうない”と美女の膝枕を涙で濡らす和尚を作ろうと思った、というのが何だか可笑しい。一休の首を横にして眺めると、すでにそう見える。 長い間男ばかり作ってきたが、一休という人物、シャレコウベ掲げて歩いて良し、女の膝枕を涙で濡らして良し、男の種々相を描くには最適な人物といえそうである。ただし食わせ者の和尚に乗っかって、陰中より水仙花の香り、などと調子に乗るのは禁物である。うかつに手を出すと巴投げを食いそうである。

膝枕でなく手のひらだが。



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中学入学後、授業中も江戸川乱歩と谷崎潤一郎 を読み耽った。『鍵』の若い妻への嫉妬心を利用して回春を企てる老作家の心情など、中学生には理解すべくもなかったが『痴人の愛』のナオミが歳上だったのに、気が付いたら『瘋癲老人』の背中がすぐそこに見える年齢になってしまった。そう考えると『狂雲集』における一休の性への執着、喜寿から米寿にかけての盲目の美女との出来事が事実であれば見上げたものである。淫乱だ色狂いだと言い募ると、嫉妬しているようで癪に触るのでいわない。美女の膝枕で「死にとうない」と涙した一休。私が手掛けるに値する場面である。〝美人の陰に水仙花の香あり“ 爺ィ何をいっていやがる、という話だが、水仙花の香漂わせる表現力が私にあるかは不明だが、水仙花がどんな香りなのか機会あれば嗅いでおきたい。



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天皇の落胤としての出自、外に出された母親への想い。応仁の乱。ライバルとの確執、どこまで真に受けて良いのか晩年の盲目の森女との関係。時代が変わってとんちの一休さんに変じ、仕舞いにはアニメとなる。これほど様々な解釈をされ、これほど利用されまくった人物はいないだろう。先日の一休フォーラムは満員だった。 小四で読んだ『一休禅師』おかげで生きるということは死に近づくことだ、と知らされたことを制作中の今に至って気が付いた。この破戒僧に騙されてはいけないと思いながら、このままでは済まされないという思いもある。結局今までやって来たようにやるしかないのだろう。



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小学四年で読んだ『一休禅師』の一休和尚のイメージそのままの雲水姿の一休に取りかかる。背景も撮影した。まさかこの爺さんの〝門松は〜“が、あれもこれも作りたかったのに、と悔やみながら死ぬに決まっている。と私を何十年もウンザリさせ続けて来たとは思わなかった。雲水姿の一休を作っていて突然気が付いた。 『狂雲集』での、あからさまな一休にも及ばない訳には行かない、来年一月には冠動脈に何やら突っ込まれる目に会うというのに遠慮などしていられるいるか、と思う反面、書いてることを鵜呑みにして爺いに一杯食わされるのではないか?一筋縄ではいかない。

 

 



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三島作品に登場する死の場面を本人にやってもらう。これは三島にウケるだろう。これ以外、三島に関しては何一つやりたいことはなかった。2020年の『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』(ふげん社)で初めてやり尽くし感を味わった。江戸川乱歩と共に中学時代授業中も読んだ谷崎潤一郎をやりたくはあったが、椿説男の死ほどの歯応えがあるとは思えなかった。長らく続けた作家シリーズだが、三島でやり尽くし感を感じていなかったら、未だ作家を作っていた可能性はある。薔薇十字社版『男の死』の出版の噂に怯えながらの10年2回に渡った。趣旨違えど一日でも早くと、結果出版5ヶ月前に開催出来た。薔薇十字社版は、自決直後の出版を楽しみにしていた三島があまりに哀れで未だに未見のままである。

F104椿説弓張り月

 



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一休が『狂雲集』に書いていることは解釈が色々あるし、風狂僧のいうことを鵜呑みにして良いものか。80近い老人が盲目の美女と、あんなことを。かといって一休禅師を描こうという時に、避けて良いものか。といってどう発表するのか? 一休の〝門松は〜目出度くもなし“このおかげで小学生の私は、生きれば生きるほど冥土に近づくことを教えられ、おかげで死の床であれを作れば良かった、これを作れば良かった、と後悔に苦しむに決まってる、と長年恐れ続ける原因となった。そう考えていたら来年冠動脈に何やら突っ込まれる羽目になっている。なのにグズグズいってられるか。それこそ後悔することになる。と思っていたら『ゲンセンカンの女』から電話。話すのは何年ぶりか?「今日は風邪気味で。ところで一休のことで今度相談があるんだけど。」



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来週、風邪か治っていれば、一休宗純の背景を撮りに行くことにする。雲水姿の一休は、竹竿にシャレコウベと朱鞘の大太刀を持ち替えたり、あるいは何も持たず。この今後、一休作品の基本となるだろう。まさに小四で読んだ『一休禅師』のイメージである。この一休の〝門松は〜目出度くもあり目出度くもなし“が、実はあれもこれも作れば良かった、と死の床で後悔に苦しむことを恐れ続けた原因だったとは。小四で和尚に生きれば生きるほど冥土が近くなることを教えられてしまった訳である。しかしその対抗策に、一日も後戻りしたくないよう変化を続け、やって来た。結果的にこれで良かった。しかしそうと判ればこの一休和尚はただでは済まされない。今後大いに働いてもらわない訳には行かない。



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97年、浅草にあった土蔵を改造したギャラリーで作家シリーズの初個展を行った。その時関西TV『痛快!エブリデイ』で書生みたいな扮装してレポートしていただいた。気球に乗る江戸川乱歩を「これは誰ですか?」と聞かれ「コロムビアトップです。」とボケそうになった記憶がある。永井荷風の人形を持って撮影風景を撮影したが、カメラが遠い二人だけの所でも気遣ってくれた。人形を国定忠治の刀のようにささげ持ち撮影することから〝名月赤城山撮法“と人知れず呼んでいたのを雀々さんに初めて話した。今ではスマホで誰でもやっている。ご本人、東京で知られていないと思い込んでいたようで、我が家での撮影で書棚に雀々さんが載ってる本を見つけて驚いていた。苦労人らしい気遣いの人だったが、後に著書『必死のパッチ』で苦労し過ぎ、と驚いた。随分経って独演会にも出かけたが、覚えていただいていて記憶力にも驚いた。東京人の私には師匠より雀々さんの方が好きだった。合掌。



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最近、どうも偏った話ばかりであるが、ひとえに一休和尚が原因である。制作中に初めて入院し、よくある手術ではあるものの心臓の手術をすることになり、思いの外平静でいられたのは、長年変化を続け、先週にさえ戻りたくないくらいを心掛けて来たおかげであり、なぜそうして来たかというと、一休の門松は〜のせいだった、という、なんとも奇縁としかいえないものを感じている。そして昔入手し、既読だったものの、まさか一休を作ることになるとも思わず処分してしまった『狂雲集』を再読している。小四の時に読んだ『一休禅師』に始まり、まさに締めとなるものであり、〝どうするどうする“との掛け声がやかましく聞こえてならないのである。



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小四で知った一休の“門松は~目出度くはなし”の影響だったろう、年寄りが笑ったり買い物カゴぶら下げて歩いているのが、もうすぐ死んじゃうのに平気でいるのが奇妙に見えた。中一の時だった。母方の祖父が亡くなり、学校に連絡が来て帰宅した。数日前にもう長くないというので顔は見ていたが、祖父の家で祖父が寝かされていた。死体を見たのは幼い頃以来であった。割烹着姿の近所の方々が忙しそうにしており、私など邪魔なので別棟の叔母の家に行っていろ、と。明るい午後であったが、日本テレビ系で『性教育を考える』という番組でスエーデン制作の性教育番組が放映されることを私は知っていた。美術のデッサンのシーンで男女の裸体がボカシなく映され、何よりハイライトは出産シーンであった。つまり一日で人間の出産から骨になるまでを目撃することとなった。 その晩の寝床、障子の向こうでは両親が話している。掛け布団や見上げる天井、何だか空々しい。私もここに確かに在るのだろうが、それは本当のことなのか?いいようのない感覚に襲われた。授業中はもっぱら江戸川乱歩と谷崎潤一郎を読み耽り、三島の自決も起こる。70年代の始まりの頃の話である。



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死の床であれも出来なかったこれも出来なかった、と後悔に身を捩ることを長年恐れ続けて来た原因が、小4で読んだ大人向け『一休禅師』の〝門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし“だった、と気付いたのは2年前にシャレコウベを竹竿に掲げた一休を作った後のことである。そして対処法として、これを作っていなかった先週にさえ戻りたくない、くらい変化を続けることを心掛け、初めての入院でその効果を知ることとなった。それが一休を制作中であったことが、また出来過ぎな話しであった。自分の成すことが〝自分とは何か“という命題に取り組むことになるのであれば、次の次は、一休宗純の個展もありか、と早めに寝床にこもって。



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7、8年ぶりの風邪ひき。こんな時は読書に限る。どうもパンツを履いていない感じでスースーするので粘土を注文した。そうとしかいえない気分である。米櫃の米見て安心する人あれば、金庫の金見て安心する人もいるだろう。 先の制作予定は3体までと決めている。浮かんでしまうのは止められないが、何が起こるか判らない。作り残して苦しむ可能性を減らすための策である。まずは浄土宗の寺用の法然と大燈国師の頭部の制作を始めたい。もう一人、宗教家でない人物が浮かんでいたが、少々先走り過ぎ。代わりに一休宗純の坐禅姿を作ることにしたい。ついでに一休のもう一つ別バージョンも考えてはいる。



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人物を元に作品を作る場合、常に考えているのは見てみたい物である。仕事で依頼されない限り存命者を作らなかったのは、わざわざ私が造形せずとも、生きているなら実物を使えば良いと思うからである。  一休和尚には、シャレコウベ枕に酔い潰れてもらった。そこまでやったなら、坐禅像も見たい。琵琶湖辺りのススキっ原の中に座らせて画になりそうである。琵琶湖湖畔にススキ原があるのかどうかは知らないけれど。 そういえば蘭渓道隆と一遍上人の鎌倉の出会いも、異形の一遍上人が作れる、と立ち上がりそうになったが、事実でないと知りがっかり。こういうことになると瞬間湯沸かし器と変じるのであった。



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人はただ無闇に学べば良いというものではないだろう。博物館に行っても、作られた物が、時代とともにだんだん良くなって行くとは限らないのは、そこに問題がありそうである。独学我流者である私は、やりたいことが浮かばないならまだしも、常にあるし、他人にはそれはわからないから相談のしょうもない。余計なことを学ばず、自分を守ることに勤めた。一度入ったものは出ていかない。 モチーフは変われど自分の中から湧いてくる物にずっと向かい続けて来た。それが結果、自分とは何か、ということに向き合うことになるなら結構なことである。そんな私なりの手段を持っているので、坐禅する人はをいくつ作っても、私はすることはないだろう。高僧の肖像画や彫刻は、大抵、椅子に座ってすましている。一休和尚の坐禅姿は近いうちに作ることになるだろう。



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