眼鏡を作ろうとしても、つけてもつけなくても結果が変わらない。眼科でも検査したが、眼鏡は役に立たないことになってしまったようである。乱視も年々酷くなり、左右の度が違うのがまた厄介である。手元用はまだ効き目はありそうだが。しかしまあ何年も眼鏡は単なる伊達となってしまった。現にこのブログも小さめのスマホで細かな文字で書いており、しばしば、ばとぱなど間違うが。 これは慣れとしかいえないが、見えているような気になっているのだろう。身体というものは大した物である。私の場合、江戸川乱歩いうところの〝現世は夢夜の夢こそまこと”タイプであり、まことを写すという意味の写真という用語にずっと抗い続けている。これが十代や二十代なら大問題だが、ここに至れば。そういえば最近、こんな世の中で、十代や二十代ならえらい事だが、すでにここに至っていて良かった、と視力だけでなく思うことが多い。見方を変えれば、子供の頃に思い描いた、何処かの王様に石の塔に幽閉され、算数も宿題もやらないでここで一生好きな事をやっておれ状態に近いような気がしないでもない。