明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



毎年大晦日には、昨年出来なかったことができただろうか、と振り返る。そうでなければ、ただ一つ歳をとっただけになってしまう。こんな怖いことはない。今年はなんといっても、GWの深川江戸資料館の個展『深川の人形作家 石塚公昭の世界』であったろう。今まで撮影用に写るところしか作っていななかった作品を仕上げ、ジャズ、ブルースシリーズ時代の作品など、人形作品を約30体。広い場所でしかかなわない一辺が2メートルほどのプリントを数十点展示することができた。また関連イベントとして05年以来、再演の機会を待っていた、江戸川乱歩の朗読ライブが実現したし、出版記念の個展もかなわなかった『貝の穴に河童の居る事』も女流義太夫のお二人を向えての朗読ライブが実現した。そして今では観光地となっている清澄白河ということもあり、6810人の入場者を数えた。 これをもって中締めの展覧会となったかと思う。来年、承服しがたいが、私もついに大台を迎える。その前に実現したのは気分的に違う。  今年は公私共々様々な友人知人に助けられた。またスヌーピーの名言“配られたカードで勝負するしかないのさ”を改めて噛み締めた一年でもあった。
HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




87の母はご他聞にもれず今日のことは忘れるくせに昔のことは覚えていて、戦前のことも昨日のように話す。しかも半分独り言のようにああだったこうだったと朝っぱらから。ごく最近、私としては初耳の父の意外な話を聞いた。  私は工芸の学校を出た後、二十歳で岐阜の田舎の製陶工場に就職した。すぐにでも陶芸家に弟子入りしたいところであったが、トラックの運転手で金を貯めて同級生となった8歳も年上の苦労人がおり、好きなことにしかしない私は、さすがにこのままでは生きていけない、とロクロもない量産工場で我慢を覚えよう、と殊勝なことを考えた。もう一人、30近い同級生と二人、用意された古い木造の家は1階は普通の部屋で上が収納スペースなどなく、かがまないと向こうへ行けない抱えきれない太さの梁がある屋根裏部屋になっていた。乱歩ファンで猟奇の徒である私としては嬉々として屋根裏部屋を希望した。そこへ父が東京から尋ねてきた。壁の隙間から降る雪が見え、二人でコタツで寝たのを覚えている。 母がいうには、父は可哀想で連れて帰りたかった。といっていたという。私にしてみると私に対して“可哀想”などと口が裂けてもいいそうにない父だったので、相当驚いた。もっとも父も、私が好きで屋根裏部屋に住んでいるとは夢にも思わなかったろう。当時写真に興味がなかったので、あの不気味な屋根裏部屋が1カットも残っていないのが残念である。
HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




江戸川乱歩作品の映像化はなかなかこれぞ、という作品が生まれない。乱歩のすばらしい着想はいただくが、私だったらこうする、と独自の工夫を加え失敗する。乱歩作品は整合性その他、多少問題があろうと、ああでなくてはあの味は出ず、他に方法がない。 というわけで、満島ひかりはたいした女優ではあるが、第3話『人間椅子』でようやく最後まで観ることができた。私の場合、そう考えて、できるだけ忠実に制作したが、問題があるとしたら、作者の乱歩を『屋根裏の散歩者』『盲獣』『人間椅子』の犯人役にしてしまったことであろう。それでも乱歩を『芋虫』にするわけに行かなかったし、“もじゃもじゃ頭の”明智小五郎にするわけにもいかなかった。しかし、ご家族がまだお住まいだった当時の乱歩邸で撮影させていただいた時、乱歩愛用の椅子に座わって編集者に記念に写真を撮ってもらったが、胸の内から「ユルス」という声が確かに聞こえたのだったが。
HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




同居を始めた母は、私が寝ている時と食事をしている時以外、作りっぱなしなので呆れている。私としてみると実力不足を時間をかけることによって少しでも補おうという腹なのである。以前は昼ごろから制作を始め、夕方ごろ河本に飲みに行き、さっさと切り上げ朝まで制作というパターンだったが、近所の人達と飲むようになり、その人達に拙著に登場いただくくらいの付き合いになった昨今、一番集中するはずの夜中に寝てしまうことが多くなった。年齢など理由は色々あるだろうが。  中に“注ぎ殺し”と異名を取る人物が居る。注いでくれるのは有難いのだが、酔っ払っているので焼酎がほとんど、お湯が申し訳程度だったりする。6回戦の元ボクサーも前のめりにテーブルに沈めた。それが発覚以来、殺されないよう、我々も注意するようになった。しかし最近また強力な“注ぎ殺し”が一人増えてしまった。定年過ぎてサンデー毎日だといっている。明日のことは気にしない。こうなってくると“毒”がどれだけ盛られているかさっぱり判らない。来年からは自分のグラスには自分で注ぐことを心掛けよう、と思ったのであった。
HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


風涛社の忘年会。例によって九代目の首をもって出かける。今の段階ならいくらでも直せるということもあるが、良いと思っていたのに持っていないと変わってしまうようで気が気でない。この癖も20代の頃からである。 ここでしか会わないのが、同じ日生まれのトムズボックスの土井章史さんである。同じ日というのは土井さん以外知らない。我々もいよいよ来年は大台となってしまう。10年くらい気絶でもしていたようで納得できない、と思っていたが、駆け込むように、ここ2ヶ月くらいに次々と体調に異変が起き、上手く出来ている物だ、とへんな感心をしている。昔、20年以上使ってきた同じ日に買った洗濯機と冷蔵庫が2日違いで壊れて、時限装置が仕組まれているような気がしたが、人間も似たようなものであろう。使い方を少し注意せよ、ということだと反省をしている。先日知人のカワウソ似の酔っ払いの引越しを手伝ったら、座ってばかりのせいで、すぐ足腰にきた。この酔っ払いはコタツの角にオデコをぶつけ数十針縫ったのだが、これが大流血させた角か、と。階段がものすごく急で蒲田行進曲を演じるのは時間の問題であろう。これがまた有名なパンの直販工場の上でパンの良い匂いが実にこのオヤジと合わないのであった。バターで重いこのパンは、忘年会でもウケていた。
HP 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




九代目没後10年の演劇雑誌がある。乳母の証言まであり、ついこの間まで生きていた人という感じで実にリアルである。7代目の5男として生まれ、座元である河原崎の養子になるのだが、幼い九代目の毎日のスケジュールの過酷なこと驚くばかりである。伝え聞いた7代目が取り返しにいったというくらいである。しかしこの時代の修行が後の“劇聖”を生むことになったのであろう。私の知りえた限りで言えば九代目は揉め事の仲裁に入ったり、荒事のイメージと違って苦労人らしく思いやりのあるやさしい人物のような印象である。そういう意味でいえば、武張ったところのない、私の團十郎はこれで良かったと考えている。 どんな格好をさせるか、のヒントにならないか、と過去のモノクロ写真ばかりでなく、12代目が海老蔵から12代になった当時の雑誌を見ている。子供の頃TVに出ている12代目を観て『海老蔵ってヘンな名前?』と思ったのを覚えている。 何しろ頭部が完成している、というのは私にとって90パーセント以上出来上がっているような物で清々しい気分である。中に埋もれている初代から考えると相当な時間がかかっている。やはりこの顔は只者ではなかった。これで正月の間、作るべきものがある、というお目出度い状態となった。
HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




全国から集められた写真を下に作られた『舞臺之團十郎』(舞臺之團十郎』刊行會)大正12年で坪内逍遥はタイトルに反して舞台の團十郎は実際はこんな物ではない團十郎は写真に撮られるのが下手だ、とぼやいている。私も最初は拍子抜けした。間接的に12代目に、当時の写真の長時間露光では難しかったのでは、とアドバイスをいただいた。写真嫌いであることなど様々な理由で舞台本番の迫力はとらえられていないのであろう。ただ舞台の扮装で記念写真を撮影したが如しである。しかし、荒事の團十郎を作るということから“冷静に”なってみると、高村光太郎のいう、力の入っていないという事ではちゃんと写っているといえるのではないか。実際現役時代の打團十郎を見ているであろう、先達の團十郎三体は、坪内逍遥同様こんなものではない、という頭で作ったのではないか?確かに高村光太郎ではないが、私にも少なくとも写真とは違うように見える。光太郎に『團十郎の首』というエッセイを書かせてしまう何かが團十郎の首にはあるのだろう。1作目を作ったときはこのエッセイを読んではいたが気にならず、観てはいないがこうだったのではないか、と想像で作ったが、時間も経ち、改めて光太郎の『團十郎の首』によって頭を冷やし、私にはこう見える、という團十郎の首になった。頭は薄いが壮年期、つまり先発3体に比べ、私の団十郎はかなり若い。後は普段着か、柄を描かないですむ舞台衣装にするかである。私の多くの作品がそうであるようにただ立っているだけにすなるだろうが、足の構え、首の角度で、ちょっとニュアンスを出したいところである。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




團十郎の身体の方針がきまらず、久しぶりに円朝の首を引っ張り出す。こちらがレギュラーサイズだが、團十郎が大きすぎて小さく感じる。あちらをやったりこちらをやったり数体を平行して作った方が目が練れるのを防ぐことができる。案の定円朝の修正点が見える。こんなことを毎日繰り返している。岡本綺堂はいう、『團十郎もうまい、菊五郎もうまい、もっとも俳優ははその人らしい扮装をして、その場らしい舞台に立って演じるのであるが、円朝は単に扇1本を以て、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙をつくしたものといってよい。名人はおそるべきである。』同時代の名人三人だが、どちらかというと円朝と縁があったのは團十郎より菊五郎の方のようである。夕方ついでがあったので、江戸資料館に寄って、貸し出した高麗蔵時代の11代団十郎のサイン入りブロマイドを引き取る。展示はされなかったが。いわゆる“海老様”である、知人の100歳になる御母堂がファンということで差し上げることに。改めて團十郎完成の後収まるケースを見てから帰る。やはりなんらかの格好をさせたくなる。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私のように独学で、作る方法としてただ祈る、じたばたとただ祈り続けるしか方法を持たない人間とすると、不思議でならないのが、繰り返しになるが、知りえた團十郎像3作のうち、歌舞伎座の朝倉文夫作、本人を撮影して制作した浅草寺の新海竹太郎作、ラグーザお玉作。これが同一の人物を制作したとは思えないほど異なっている。これはいったいどうした訳か。ラグーザお玉作はまだ見ていない、という高村光太郎はそれらをボロクソにくさし、『團十郎の首』というエッセイでは、自分だけは團十郎の秘密を把握している、みたいなことを言いながら未完に終わったようである。これが現存していれば答えが出ていそうだっただけに惜しい。彫刻家でないのが残念だが、私が知る限りこの謎を解明していると思われるのが明大の神山彰氏で“この人物の写真は、見る側の期待や欲求に応えていないという。本人が写真嫌いなことは有名なのだが、そういうことではなく、ここには“美ならざるもの”がある。“美たりえないもの”それまで対象たり得なかった物が呈示されている異様さが感じられる。何も美化されることなく、ただ眼前にあるものがただ写っている。そこにあるものがただ写ってしまっているという不思議な感覚であり、そこから團十郎の写真が持つ独自の迫真性や奇妙な切迫感が生じている。” そして当然のように私の團十郎もまた先達3作とは別人なのであった。

HP






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


迷う  


九代目市川團十郎像の頭部は完成している。実はまだどういう装束にするか、半身か全身か決めかねている。映像の編集したり(切っただけだが)ユーチューブにアップしている間に決まるだろう、と思ったが、まだ決まらない。着物でも模様を描き込まなければならないのは真っ平だし、着物に山高帽やフロックコートなどはいかにも文明開化期の歌舞伎役者っぽい、というのは私の思い込みで、それほど面白くないような気もするし、花川戸助六は前回は写るところしか作らなかったが、今回は展示用である。九代目の写真を見ると、なんでこんなに、というくらい完璧な収まり具合で、いずれは挑戦してみたいが全身像は、あれを見てしまうと今のところ作る気にはなれない。フロックコートの半身像なら年内に間に合うと思っていたのだが。ケースを用意し、いつまでも待つ、といわれているからといって、いつまでも迷っていられると考えてはいけない。


HP



































コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




小学生のユーチューブ講座で学び、ようやく乱歩3本のうちの2本をアップした。本日は『貝の穴に河童が居る事』前半部分である。 スライドは画像を順番どおり事前にパソコンに入れておかなければならなかったが、当日の朝、大幅な変更が出て、どたばたと並べ替えたが十分とはいかなかった。こういったものはタイミングによって面白くもつまらなくもなる。舞台の脇で私がスライドを切り替えたが、下手糞なハードルの選手のように歩幅の調整でアタフタした。この作品は河童の人間に対する復讐譚であるが、じっくり始まり中盤進み、最後に急な展開で河童の機嫌が直り郷に帰っていく。越孝さんのクライマっクスのたたみかけは義太夫ならではである。宝塚でも弁士でも少女マンガでも女性の描く中年男や老人には違和感があるが、竹本越孝さんの柳田國男演ずる?ところの翁が巣晴らしく、となれば女性だけに姫神様、少年といっても良い河童の三郎の演じ分けは見事である。そこに人間椅子で佳子役を演じてもらった鶴澤寛也さんのパーカッシブな三味線が絡む。作者の鏡花に観て貰いたいような画期的な演目になったのではないかと思う。いつか機会があればちゃんとリハーサルをして再演を試みたい。本日は私の失敗そのままの前半のみとなるが、後半は御祭り事の話の場面で祭礼鈴などと一緒に男根が出てくる、書籍では遠慮しすぎと印刷の都合でなんだか判らなかったが、加工前の画像と間違えてしまった。しかもその間の画像が無いため3メートルほどの男根が長時間さらされる結果となってしまったのでちょっと短くしたい。よって本日は河童が人間に腕を折られ、鎮守の森の姫神様に仇討ちを願い出るところまでである。

貝の穴に河童の居る事 (前半)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




まずは江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』と『人間椅子』。『白昼夢』もできたのだが、1カットまずい物が写っているので、その映像だけカットしたいのだがやり方が判らない。それは出版の際、『盲獣』の1カットのために北関東の某所まで行って撮影した物で、行ってみたら撮影禁止でがっかり。オリンパスXAの広角機種とハーフカメラで隠し撮りをした。しかし文化財に指定されている物を血まみれにしてしまい、撮影禁止の上にこれはさすがにまずいだろう、と没にしたカットを、この朗読ライブの『白昼夢』に使ってみたのだが、会場だけならまだしも、ユーチューブで公開はまずいだろう。何事も悪事を働くと後処理が面倒である。
乱歩は2005年に世田谷文学館でやった物の再演で、今回はスタジオでのリハーサルも充分。朗読の田中完さんピアノの嶋津健一さん、共にパワーアップしている。


『 屋根裏の散歩者』

『人間椅子』


HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




江戸資料館の個展の関連催事であった朗読ライブ『乱歩夜の夢こそまこと』と『貝の穴に河童の居る事』だが、早くユーチューブにアップしたいと思いながら雑事にまぎれムービーの編集もほとんどやったこともなく、時間だけが経ってしまった。團十郎の首も完成したことからちょっとやってみよう、と、まずはフリーソフトで試したが、思ったようにいかない。そこで解説ページをいろいろ検索したが要領を得ない。出来る人は出来ないということをすっかり忘れてしまって、判りやすくやっているようでそうでもなかったりする。そういう意味でもっとも判りやすいユーチューブの解説を見つけた。利発そうな小学生の解説講座である。この先生私には少々早口だが、それは繰り返し見れば済む。小学生に教わることになるとは思わなかったが、実際大人たちが有難う、、判りやすいと感謝のコメントを数々残している。 これで乱歩編はまず『屋根裏の散歩者』『白昼夢』『人間椅子』に分割した。後はタイトルを付け、軽くしてアップということになるのだろう。その次に『貝の穴に河童の居る事』に取り掛かる。全編では長すぎるのと、リハーサルが殆どできずに切り替えのタイミングが命の私のスライド操作の失敗した部分をカットし、ダイジェストとしたい。というわけでそれこそ“坊ちゃん”先生の講義の続きを拝聴することにしよう。

HP

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


九代目團十郎は目が大きいことで知られるが、睨みの團十郎が、普段は目力は弱い。ちょっと目を吊り気味に作っていたが、鬘を着けていないのに、これでは不自然であろう。出来上がっているつもりであった目を直している。子供の頃大川橋蔵主演の『銭形平次』を家族で見ていたが、ある時髷を着けていない橋蔵がインタビューを受けていて、その変わりようにびっくりしたのを覚えている。随分引っ張っていた。 写真で見る限り、高村光太郎がいうように歌舞伎座の團十郎像のように、ゴツゴツと武張ってはいない。荒事のイメージがそうさせるのであろう。團十郎像はすべて晩年に近い感じで作られているようだが、私が同時代人でなく、実物を見たことがないことを利用し若目に作っている。  落ち武者会の焼肉店の店長に凄く美味しいと聞いたセンマイを譲ってもらう。子供の頃モツを処理して卸している家があった。遊びに行くと、いつもマナ板に雑巾をひろげているのが不思議であったが、迎えに来る母もそう思っていたらしい。あの雑巾が旨いものだとは知らなかった。 母が白内障の手術をして1ヶ月をとうに過ぎ、術後すでに5回は通院しているだろう。その病院でキムタクが撮影しているらしい。

HP



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




30年ちょっと通った居酒屋がある。ところが支えていたつもりだった超常連が出禁になってしまった。国も政権が変わるとこういうことになるようだが、超常連は女帝支持者の集まりであり、被害妄想的現政権はそれが癪にさわるらしく、国外追放になってしまったというわけである。張り出された追放の文面は誰が見ても異様であった。 拠り所を失ってしまった我々は落ち武者の如く、散り散りになり愚痴を言い合っていたが、本日、落ち武者会の忘年会とした。我々の心配といえば、事情を把握していないであろう天岩戸に追いやられ気味の女帝の様子であるが、その点は密偵の報告を待つ他はない。 しかし愚痴というものは二、三人で額付きあわせて自虐的に言い合うから盛り上がるのであって、改まって10人以上集まってみるとただの宴会であった。

HP


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ