明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



“まだらの紐”を使っての撮影の件だが、大の紐嫌いのK本の女将さんに知られたらまずい。うなぎは勿論、とにかく長くてニョロニョロが一切駄目である。先日、拙著に掲載している、永井荷風の遺品のこうもり傘。ページをめくったとたん、傘の持ち手の影が“紐”に見えたらしく、女将さん慌てていた。 今回の朗読ライブ『貝の穴に河童の居る事』では時間の都合でカットしたが、鎮守の森の姫神様が、人間共を紐に命じて脚にからませ、連れ戻すこともできるのだ。というシーンは、娘の脚に紐が絡まったカットがあった。出版時にK本の常連に協力いただき、ご近所限定の出版記念会を開いていただいた。その時はこのカットは出てきたわけだが、来てくれた女将さんがどんな反応だったかいまだ聞いていない。 本日はジェームス・ブラウンの映画を観に行くつもりであったが、『タウン誌深川』で大人し気に写っているが、飲むと声がでかくなる男が田舎から来ていた。映画は行かず結局ハシゴ3軒。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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先日弥生美術館で『耽美・華麗・悪魔主義 谷崎潤一郎文学の着物を見る』を観て来たが、図書館でのにわか勉強には出てこなかった着物と帯の組み合わせがあった。決まり事ばかりかというとそうでもないらしい。『痴人の愛』のナオミは一般ではしない着方だったとしても、それにより奔放な性格を表しているのであろう。一度モデルをお願いしたことがある呉服屋勤めの女性に色々質問していたら「女性が愛人の帯を締めているって状況も いいなぁと思います。」モニターの前でウ〜ムと唸る私。そ、それは深い。実に趣のある状況である。図書館の『着物の着付け』には出てこないだろう。ここ数日お勉強モードであったが、この一言でノッて参りました。 呉服屋の彼女は今回もモデルを立候補してくれている。そういえば彼女長い物飼っているっていっていたなあ。どんなの飼っているんですか?と聞いてみたら即座に3種類画像が送られて来た。予想どおりコナン・ドイルの『まだらの紐』調のソース顔の紐であったが、一本ショーユ顔がいた。共演はいかがかと聞いてみたら是非、と即答。増々ノッて参りました。及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシな私である。 ところで私その紐に触れるのか?

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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何度か書いたことがあるが、最初に浮かんだ画は一瞬で固定されてしまい、向きはおろか、構図もほぼ決まってしまう。そこから変えようと思ってもまず動かすことができない。他の可能性もあったのではないか、と思う事もあるが、だからといって変えようと思っても、最初のイメージを超える事はない。良いんだか悪いんだか。 先日書いた棚からぼた餅のようにイメージが浮かぶ時、それについて考えていた、という前触れもなく、いきなり来るので表層の脳とは別に丹田のあたりに別に書き手がいるのではないか、と考えたりする。寝ている間には誰でも経験する事であろう。あの短い間にいったい自分のどこの部分が、あんな突拍子もないシナリオを書いているのか。シナリオもキャステイングも演技も、ほぼ同時になされているのであろう。たいしたものである。しかし考えるのが丹田だろうとなんだろうと、結局自分の中に無い物は出てこない訳で、出来てみれば結局私らしいということになる。 夢でいえば私の場合、キャステイング、シチュエーションは突拍子なくても、私自身はいかにも私がいいそうなことや、やりそうなことしかしない。つまりスーパースターの横に立っていることはあっても私自身がスーパースターになることはない。

拙著にも載せたK本の猫モッコの若かりし頃の写真。持って行ったら女将さんが冷蔵庫のドアに磁石で貼ってくれた。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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『タウン誌深川』の“常連席にて日が暮れる”連載第6回は、おしゃべりは女性の専売特許ではないことをK本で知った、という話である。いいたいことをしゃべってばかりのピッチャータイプと、聞く側に回ることが多いキャッチャータイプがいる。写真はどれを使おう、とK本で撮った中からテーマに合っているカットを選んだ。このことは入稿前に一度書いたような気がする。挿絵としては充分役目を果たしているのだが、手前に静かに飲んでいる男、内容からすればキャッチャーに見えるだろう。その向こうに手振りを交えて話している人がいるからなおさらである。しかしその実態は、飲まなければ静かなのに飲む程に声がでかくなる癖のあるピッチャーであった。K本はいかにも音を吸収する凸凹とした雑物に満ちているが、近所の壁面がステンレス板に覆われた立ち飲み屋などでは反響してうるさくてしょうがない。この男がトイレに立つと、店内の空気がホッとするのが判り、それを店の人にいうと、知らない客までドッと笑った。 何がいいたいかというと、写真はタイトルやキャプションで、いくらでも違った物になる。ということである。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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一日  


弥生美術館『耽美・華麗・悪魔主義 谷崎潤一郎文学の着物を見る』を観に行く。美術館など何年ぶりであろうか。坂道の途中の古書店に寄り、「明治百年100大事件上」(松本清張監修)と「昭和を振り回した6人男たち」(半藤一利編著)を購入。昭和を振り回した6人の中に石原筦爾、松岡洋右、阿南惟幾が入っていたので。 最終日ということもあり、予想通り着物姿の女性で一杯。谷崎の『細雪』はレトロな着物好きにはバイブルとなっているそうである。作る方としてはまったく細雪には興味がないが。事前に関西と関東の着物は違う、と聞いてはいたが、まったく判らず。30分程で出て来たが、着物と帯の組み合わせに関して2つ収穫があった。 谷崎で私が手がけよう、と選ぶとしたら『瘋癲老人日記』『鍵』あまり有名ではない辺りから2つくらいだろうか。最も好きな『春琴抄』は谷崎を佐助にはしにくいし、春琴は成り手がいないので、乱歩の黒蜥蜴のように作る事になりそうだし。『痴人の愛』は私の作った谷崎は晩年なので、若い時代を改めて作らなければならないだろう。 帰り際、トラックドライバーSさんからメール。木場に帰って州崎のもつ焼きセンターへ。彼とはスタジオ借りてギターを鳴らしたものだが、ブラック企業なので最近は時間が取れず。OBのKさんが近所なので呼ぶと、本日すでに配布されているであろう『タウン誌深川』の連載“常連席にて日が暮れる”に酒場における酔っぱらい事情を書いたが、中でKさんの歳をバラした、と文句を言う。私にも1歳サバ読んでいたが、66だと本当の事を書いたら、飲み屋のお姉さん達に配りたいのにバレちゃうじゃないか、と。そもそもそのツラで50代はずうずうしいが、酔っぱらって永代通りに頭ぶつけて気絶したこと書いてあるのに、普通配らないだろう。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回



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ヤフオクで入札したり、ネットで調べごとをしているとすぐ夜が開けてしまう。かと思うとまだ明るいと思っていたら結構な時刻だったり寝不足が続いている。昨日K本に顔を出すと、愛猫モッコを亡くして落ち込んでいるはずの女将さんが出て来た。話しているうちそろそろがんばりますか。との言葉を聞く。店に顔を出すとはやく部屋に戻っておくれ、と泣いていたモッコがいなくなったことと無関係ではないだろう。そして本日、早くから顔を出していた常連客から、すでに女将さんが店に出ている、とのメール。丁度ライカR用のアダプターが届いたのでズミクロンF2をα7に着けて出かける。もともと写真嫌いで写真を撮るのを許さなかったK本だが、撮影許可をもらって撮影を始めたのが丁度一年前である。休業状態がこれほど長く続くとは思わず、客がいない間に店内を撮影させてもらおうと思ったが、いつの間にか女将さんの表情を撮るのが主となった。やはり女将さんあってこそである。そして今日はホッピー、炭酸、すべて栓を抜いてもらい、焼酎を注いでもらった。何ヶ月ぶりであろうか。皆興奮気味である。耳が遠いことを除けば、その動きは全盛時と変わらない。この一年何事もなかったかのようである。 しかし煮込みの復活は無さそうだし、ツマミといえば豆腐半丁、あとは持ち込みで、片付けから勘定までやらねばならず、これでは営業再開とはいかない。よって毎日通って来た超常連と、その連れて来た客のみ、となっている。

タウン誌深川のK本についての連載も6回目がそろそろ配布である。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回



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夕方清澄白河にて深川江戸資料館での 『朗読、音楽、スライドで味わう 乱歩と鏡花』の出演者の方々とようやく打ち上げである。興行などの事情はまったく判らないが、どうやら私の主催ということになっていたらしく、ギャラを私が分配し、領収書をいただくことに。GW中はこういう催事は人を集めるのは大変だと聞き、数日前の予約数を聞いて心配したが、蓋を開けたら補助椅子まで出すことになった。有り難いことである。 ピアノの嶋津健一さんと田中完さんとは世田谷文学館以来の再演である。当日も書いたが解釈、迫力ともに段違いであった。私は参加しないが、7月16日にお二人で神楽坂の店で乱歩の朗読ライブをやるそうである。 第2部の『貝の穴に河童の居る事』は語りの竹本越孝さんは朗読は初めて、ということで戸惑われた部分もあったようだが、画期的な物になった。義太夫というと悲劇調しかイメージにないが、越孝さんの河童の三郎の哀れな可笑しさが秀逸であった。鏡花の作品は、流れに任せて読む分にはリズムがあるし良い気分だが、正確に把握して、となると、スライドがあるから判りやすかったが一筋縄ではいかない。私は制作に一年かけて“解剖”したが、鏡花は時間の倒置法とでもいえばよいか、ちょこちょこっと時間をずらし入れ替えるところに悩まされた。今回は直前にリハーサル1回だけということで準備が足らず、私の場面転換にも不備があったが、クライマックスの越孝さんのまさに義太夫調の畳み掛けに、鶴沢寛也さんの義太夫ならではのパーカッシブな三味線は忘れられない。こちらも再演の機会を待ちたい。 いずれ乱歩、鏡花共にユーチューブにアップする予定である。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回



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図書館で着物の着付けや帯、用語辞典など違和感を漂わせながら並べている。家庭科が2であった私がなんでこんなことを、と思わないではないが。昔個展会場で、私の作ったピアノの鍵盤の数を女の子に数えられてしまったことは書いたが、せめて鍵盤の数くらい調べておこう、というわけである。それにしても約束事が多く、チンプンカンプンである。ところが以前被写体となってくれた女性が呉服屋に勤めていることを思い出した。深川江戸資料館の個展でも和服で来てくれた。そこでさっそくメールにて質問。現在の常識では無理があるようだが、なにしろ伊東深水がそう描いている。であればOKである。私は三島由紀夫に対するオマージュ男の死、として様々描いたが、それには未発表ではあるが、三島本人が魚屋になって魚をぶちまけ腹に出刃包丁を刺して死んでいる。ということまで演じて撮影させた、という事実が後ろ盾となっている。 ヤフオクで落札した物が届く。なんだか重い。開けると想像していたのと良い意味で違っている物がでてきた。明治に入ればすでにこんな物を使っている人は少なかったであろう。出品者もいっていたが、江戸期の物である可能性は高い。そこまで古い必要はなかったが、受け継いだ物を大切にする、新製品嫌いの女。ということにしよう。 図書館のトイレで手を洗っていてアイデイア浮かぶ。私の場合、どうしようかああしようかやっていて思いつく、ということはほとんどない。だいたい棚からボタ餅のように降ってくる。こんな時、いかにも思いついた、という顔をすると人にいわれたことがあるが、前に鏡があったので確認した。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回



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集中力は衰える物なのかは知らないが、私の場合は、今の所は相変わらずのようである。K本へ行く時間だ、と思いながら気が付いたら閉店時間を過ぎ、T千穂には間に合ったが、そういえば一日何も食べていなかった。という有様である。久しぶりにやってしまった。小学校の低学年の時、始業のチャイムが鳴ったのに本から目が離せず、図書室から出てこなかった事が何度かあり、一時期図書室を出禁になってしまった。夕飯だ、というのに本を読むのを止めないので、本を買わせないよう小遣いを貰えなかった時期もあった。本当は図書館に行きたかったが、道中危険が一杯で、とても行く気になれなかった。縁日に行く小遣いを縁日で使わず、閉店時間を過ぎてシャッターを半分下ろした本屋と家族待たせて本を選ぶ幼い私。実にケナゲな、と私は思うが母はそうは思わなかったらしい。幼稚園児の時、台風の最中、家で佃の渡し船の絵を描いていた。煙突になにかマークがあったけど、同じ物があそこにあったぞ、と母が止めるのも聞かず、マンホールの蓋の東京都のマークを見に行った。この話は昔何度となく聞かされたが、それはもう、生まれつきこうだ、という話であり、だったら私にはなんの責任もない、という話である。 子供の頃と違って現在では集中力を弱める方法を知っている。飲酒である。これがなかったら集中したまま止めるに止められず、寝るに寝られず、実に身体に悪いことになっていた。メデタシメデタシ。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回



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いつだったか江戸時代のお金持ちの旦那集が買うような春本は、顔料を使わない、エンボスのような立体感を出すためだけの版を使い、それは現代のような天井からの光では効果がなく、寝床で行灯の低い光源からの光で初めて効果が出るのではないか、という話を書いた。その時代に応じた光があるわけだが、たとえば怪談話も低い行灯の光で行えば、子供の頃懐中電灯でやった“お化けだぞ〜”の効果が出る。昔だろうと現代だろうとお天道様は上から来る。下からの光といえば、常態と違う、異界の世界を想像させるわけである。江戸川乱歩も自らの表情を下からの光で8ミリ撮影している映像が残されている。大映や新東宝他の怪談映画でさんざん使われた手法であるが、せっかく行灯を入手したので試すべきであろう。そういえば、深川江戸資料館の個展のチラシやポスターに使った気球にぶら下がった江戸川乱歩『帝都上空』だが、唯一下からの光で撮影したのを思い出した。夜の帝都を脱出する乱歩。それを追うサーチライト。しかし結局昼間版ほど面白くならなかった。 中学生になり講談社版の乱歩全集の配本が始まり、最初に感銘を受けたのが資料館の朗読ライブでも上映した「白昼夢」である。浮気者の女房を嫉妬のあまり殺害したドラッグストアの経営者。遺体をバラバラにして樽に詰め、数百日水を流し続け、脂肪が石鹸化した死鑞にして、経営するドラッグストアに飾っているという。その話を真に受けずゲラゲラ笑っている人々(警官さえも)連中が笑えば笑う程、真っ昼間であればあるほど怖い、ということを初めて知った。

河本の女将さんがたまに店に出ると帰ってこいよー、と泣いていた猫のモッコが亡くなった。何日も餌を食べないと聞いていた。兄弟らと煮込み鍋の下で生まれたが、いずれも短命であった。気難しい猫であったが、私には逃げることなく撮らせてくれた。霊園の骨壺は歴代の猫の遺骨であふれ、蓋が閉まらないらしい。 合掌。

 



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撮影用の小物はほとんど一度使えば捨ててしまう。音の出ない太鼓というが破れていなければ音は出るもんだろう、と思ったら本当に出なかった。ウサギが太鼓叩いて大喜び。これでおしまい。先日はやまって捨ててしまって後悔したのは番傘である。三島の背後の四人の着流しと質屋から出て来た樋口一葉に使ったから、まあ活躍してくれた部類であろう。穴が空いていて安かったし。 いずれ出番があるだろう、としまってあるのが、櫛や笄などの和装用小物である。鏡花でも谷崎でも同じ物というのも変なので、少しづつ集めておいた。しかし集めておこう、といかないのは着物である。『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)では、河本劇団?のメンバーの奥さんが着物をお持ちで、コーデイネートまで引き受けていただいたので助かったが、今でも思い出しては冷や汗ものなのは、制作が決まった時点で、その点についてまったく考えていなかったことである。前もって考えていたら、そのことがネックになり実現しなかったろうから、結果としてはそれで良かった。小5くらいの私だったら、私が思いついた時点で歴史が変わり、在りもしなかった着物が奥さんのところに出現などと考えただろう。 昨日も、ヤフオクで落札した物が届いた。これがあったらムード満点であろう、と思いついた物だが、骨董店で購入したらいくらするのか、と思うと出品者には申し訳ないような気がして厚く感謝しておいた。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回



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河本の常連Mさんと池袋に行く用事があったので、用事が済んだ後3時台であったがちょっと飲みましょう、ということになった。池袋は変わってしまって新しい店ばかりである。だったら飲ませてくれれば良い、と海の家風の店に入る。こんなところでなんとかハイを頼むと甘かったりするので、無難な所でハイボールを頼む。最近よくあるのが、つまみは安くてそこそこ美味い。ただアルコールが薄過ぎる店である。なにしろ河本の含有量の多いキンミヤ焼酎に慣れているので困る。上方落語だったか村醒め(村を出た頃醒める)庭醒め(店を出ると醒める)じき醒め(飲んでもすぐ醒める)というのがあるが、じき醒めどころか飲みながら醒める“飲み醒め”とでもいったら良いようなことがしばしば起きる。なんだかお小水を仕入れているだけのようで納得がいかない。 先日やはりMさんと、明るいうちからやっている1時間980円で飲み放題という店にいった時、自分で勝手に注いで良い、というと二人ともやることは一緒。炭酸にジャックダニエル。お互いのグラスの色の濃さを見ながら「我々の意地汚なさが出てしまいますね」。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回

 



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図書館で和服について調べている。こんな感じの画はできないものか、とイメージしたことについて調べているのだが。着付を勉強した人に聞いても、そんな着方はしないといわれる。確かにそうかもしれない。 ホントのことはどうでも良い、と日頃いってはいるが、なんでも有りかというとそうはいかない。特に知識のないことには慎重になる。自分は良いと思っても頓珍漢なことになっていては、伝わる物も伝わらない。2回目の個展の時だったろう。女の子が私が作ったアップライトピアノの鍵盤を数えているではないか。ぞっとした。ある高名なジャズドラマーには、トランペットの手が逆だ、といわれた。どちらでも良いだろうと思ったが、兄貴がまた高名なトランぺッターだったから、いやはやと頭を掻くしかなかった。 噓をつくには本当のことを混ぜるのがコツであるが、難しいのはそのさじ加減である。諦めきれずに調べても出てこない。3日も図書館に通い、今日出てこなければ諦めるつもりでいたが、美人画全集の中、伊東深水の一枚にそれがあった。これで良い。深水が有りだ、というのだから、恐れることはなにもない。

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回



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永井荷風の短冊“夜ごと鳴く虫もいつしか枕もと”をむき出しはいけないだろう、とヤフオクで古い短冊用の額を落札。昔入手した久保田万太郎作という、落ちてた釘で引っ掻いて書いたような“灰ふかく立てし火箸の夜長かな”とある徳利も久しぶりに出てきた。これで一献と常々考えていたが、見た目はそれらしくしているものの、ヘタクソすぎて使う気がおこらなかった。一応陶芸をかじったことがあるので、ド素人の作と判る。 せっかく行灯があるので寝床で読書しながら、ちょっと飲みたいと思いつつ止めたことは書いた。注ぐことを考えると、うつ伏せだと面倒だからだが、かといって茶碗では無粋である。小さな杯でチビチビやりつつ『嗚呼私はなんてチビチビした人間なんだ。』と飲むから良いのである。そこで日本酒で飲ろうと思うのが間違いで、度数の高い焼酎でいけば、シミジミとした様子を味わいつつ、面倒もなくなるではないか、と思いついた。 夜中の4時過ぎ、隣の部屋から、私にバレないように注意しつつ、おそらくアンパンの袋を開け、食べている母の気配がする。「アンパン食べてるだろ?」「判る?」「夜中にそんなもの食べて、身体に悪いだろ。」「大丈夫々。」全盛期80キロ超級だった母も老境に入りすっかり痩せ、特に今年に入ってからゲッソリしていたが、周囲に心配されるわりに食欲は旺盛で、最近少しふっくらと回復してきた。「いい加減にしとけよ。」しかし話しかけてしまったのがいけなかった。ショートステイの老人ホームで仲良くなった婆さんの話が長々と。行灯の灯りで聞くような話ではない。母が次にショートステイに出かけるまで、この風流作戦は中止。灯りを消した。

河童が人間どもを懲らしめるため、大きなイシナギを座敷に放り込んで欲しいと鎮守の森の姫神さまに頼みにいったが、今はクジラでも放り込めるらしい。

http://iinee-news.com/post-9101/ 

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『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回



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私の作る人形は関節でポーズが替えられるわけではないので、あるポーズが必要なら、その度作らなければならない。その場合は頭部一つにポーズを変えた身体を作るが、『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)の主人公河童の三郎は、泣いたり笑ったり一人でジタバタするするので、4種の身体と5、6パターンの頭部を用意した。それは短編とはいえ一つの作品をビジュアル化するには必要であった。それでも足らず、人間の出演者に動いてもらって、人形の不自由さを補ってもらう必要がある。そこで日頃飽きるほど眺めている河本の常連客から役者を選抜させていただいたが、この役者の評判が良い。河本の常連には、内容はともかく、見た目に使えそうな役者がまだまだ揃っているが、谷崎作品など手がけようとすると問題は女性である。多少の露出は必要になるし、そろそろ探さないとならない。

朗読ライブで最もどよめいたといわれるカット。河童が人間どもをこうやって懲らしめてくれ、と姫神様に懇願するが、人手不足で実現しなかった場面である。大魚は鏡花の指名通りイシナギを使用している。

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