明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



最近の手法がは、レンズやカメラの選択など、こだわる必要がなくなってしまった。切り抜いて拡大率の違うデータを同じ画面に配する都合上、レンズの味などむしろ邪魔である。カメラに付いてきたレンズキットのレンズは、陰影がなくても充分に立体感を表現してくれる。撮影時には、既に構図は決まっているので、三脚を立てて、何度も同じことをしてもしょうがない、数カットで終わってしまう。 繰り返しになるが、自分で始めた手法だから、といえばそうなのかもしれないが、考えてそうした訳ではないのに、それにしてもあまりにも私の性格、その他に都合よく出来ているのが不思議であった。 ただ行き当りばったり、とはいえ、ピンボールのボールも理由があってあっち行ったりこっち行ったりする訳で、無関係に思われるオイルプリントも、今の手法に至る遠因になっているのは間違いない、という気だけはしていた。口では説明出来ないけれど。ところで本日ネットで、イチローが「合理的になるには無駄なことをたくさんしないとだめ」というのを目にした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




友人の事務所で撮影した阿弥陀像が、たまたま黒いはずが金箔貼りのように撮れたので、そのまま使うことにした。となると寒山拾得用に撮影した文殊、普賢菩薩が合わなくなってしまったので撮り直した。 カメラやパソコンなど、苦手だったり嫌いなものに限ってやることになる。といって来たが、究極は生来の面倒臭さがりが、被写体制作だけで一年半をかけ、という面倒臭いにも程があることをやっている。座業者は多かれ少なかれマゾ的要素か痔を、もしくは両方持っているものだと、と思うのだが、それにしたって、ここまで面倒なことをという気がする。なんといっても一番の皮肉であろう。 工芸学校時代、まさか将来、写真展をやろうとは夢にも思っていなかった私が、カメラマン志望の友人と口喧嘩。「あの娘はお前が可愛くしたわけじゃないし、山だってお前が雄大にした訳じゃないだろ!」おかげで来月は雄大な中国の山々を作ることになる。あの頃は陶芸家になろうと自分の人生は自分で計画的に決めるのだ、と思っていた。カメラマン志望の友人の、「お前みたいな雑な野郎が、良い器なんが作れる訳ないだろ!」友人の予言だけがズバリ的中し、私は行き当たりばったり風船野郎の今日この頃である。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨晩豊干禅師を撮影し、朝までにターコイズブルーのキャッツアイの虎に乗せ、背後に阿弥陀如来を配する直前に、キーボードに水をこぼしてしまった。これで今まで二十台は壊してきた。今回は絵の具に使ったホントの?水である。となると、撮影しても画像制作が出来ない。制作になるとせっかちに変身する私はとても耐えられない。頭に来て寝てしまった。     本日は、なかなかやる気が起きない布袋尊の修正を進める。やる気を削ぐのはその表情のせいだが、それがかえって実在した風狂僧として効果的に転じないか、と考えを改めてみた。 キーボードを買い、豊干禅師再開。どちらかというとふっくらとした姿で描かれることが多いが、私の豊干は、ことさら痩身で、白髪が他にいないので白髪白髭にしてみた。そういえば、作家シリーズの初個展、江戸川乱歩と稲垣足穂、と眼鏡に禿頭が二人いたので、内田百けんを作り損ね、結局制作の機会を逸した。    月を指す寒山と文殊菩薩、箒と塵取りと普賢菩薩の拾得、虎に乗った豊干と阿弥陀如来、計3点で『三聖図』とする。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日友人の事務所で撮影した阿弥陀如来像がいつもと違うライトのせいか、高さ調査に置いた段ボールの反射なのか、飲みに行こうぜ、と大して確認せずに帰って見たら、黒光りしていたはずが、何もしないのに金箔を貼ったかのように黄金色に輝いていた。ならば、とこのまま使いたくなる。そうするとすでに撮っていた文殊、普賢 菩薩が、どうも見劣りして来る。再撮影にするか明日考えることに。その件を別にすれば、虎に乗る豊干禅師を今晩朝までに撮影するとすれば、人物造は『虎渓三笑』最後の一人陶淵明と布袋尊で終わることになる。布袋尊は一度完成していたが、ちょっとしたところを直して、後はいつでも出来る、と放って置いたのだが、自分で作ってなんだが、その表情を見るとどうも気が抜けてやる気が湧いて来ない、おかげで作ろう作ろう、と思いながら最後になりそうである。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私の寝付きの良いのは、寝る寸前まで起きているせいもある。お陰で無呼吸用の機器を着けないで寝てしまうことが多い。着けよう、と思った記憶はあるが〝ピストルで撃たれたよう”という、寝付きのせいで、気がつくと朝になっていた。眠ければいつでも寝リャいいや、という了見もいけないのだろう。クリニックに行くと、データがすぐに届くので。私の生活態度がモロバレである。女医先生の前で、職員室の小学生の如くになるのが情けない。反省しているかのような顔だけは得意である。治らないならせめて自分は正しいという顔だけはするな。はっきりいわれはしないが、間違いなく母の訓えである。 猫を虎化することを諦め、虎を猫化しようと企んだが、口だけでイメージがあった訳ではないので、まさに“月を見ないで指を見る“のことわり通り上手くいかない。虎のフォルムもカッコ良すぎる。しかしただ諦めるのも。目をターコイズブルーのキャッツアイに変えて悔し紛れとす。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日書いたばかりのような気がするが、無意識のまま作品が変化していることに気づいて、なんで?と考えるうち、そこから道に変化を生じて行く。そんなマイナーチェンジの繰り返しをずっと続けて来た。最近気付いた異変?は、陰影を出さないように撮影し、切り抜いて貼り付けたら日本画調になったので日本調ビクトリアリズムなどと言っていたのだが、その挙げ句に現在のモチーフに至ったはずだが、何故か、あまり日本画調には見えなくなっている。最初に手掛けた三遊亭圓朝と、一休宗純と比べると明らかだが、ディテールがより出ている。何も変わらずやっているつもりなので理由が全く判らない。しかしそれが嫌か、というとそうではないので、悩んでいる訳ではない。こんな時は、田村写真の田村正実氏に聞くに限る。それもまた写真を発表以来のパターンである。こうして気が付いたら、予定と違う所に立っている。 阿弥陀如来像を撮影。これに虎に乗った豊干禅師を並べれば、寒山と文殊、拾得と普賢合わせて3点で『三聖図』が完成である。

※寝たり起きたりしていてボケたのか、ブログを2回アップしたのに気づいて削除したが、すでん見て頂いた方がいたので再アップ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




豊干禅師が乗る虎は完成した。中国では虎と僧侶というのは特別な関係のようで、虎をも操る法力、とでもいうのか、今でも実際に虎を飼う寺があるそうである。 これで未撮影は明日撮影する阿弥陀如来像、豊干禅師、布袋尊、鴉、鯉、松ということになる。そして来月は『虎溪三笑』『慧可断臂』の山水風景、洞窟内風景の制作及び撮影、作品により、ところどころ顔を出す、岸肌や松の木である。 進行具合により、余裕があるようなら、寝ている虎をもう一度撮りに行き『四睡図』を手掛けられるかどうか。ただ無理をせず、制作中の作品の精度を高めることに重きておきたい。新シリーズへ転向後の最初の個展はあれもこれも、と無理をしたくなるものである。黒人ミュージシャンから日本人の作家に転向した時、これは今までの黒人ではなく、戦前生まれの日本人だ、と言い聞かせながら澁澤龍彦の脚を4回ほど切断したことを覚えている。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ここ数日、曇天かと思うと晴れるので、動物園で虎を撮る機会を逃していた。虎を見たことがなかった頃の絵師の虎風にするため、近所のトラ猫を撮って虎に変えたのは、もう5年は経つだろうか。マタタビの力を借りようと、チョコマカ動き回って思ったようにはなかなか撮れなかった。ところが虎もチョコマカは同様で、スケジュールによっては没にした『四睡図』も考えていたが寝転がりもしなかった。 作中にヌードを登場させる場合、素人を撮らせてもらう。プロと違って自分がどう見えているのか知らないところが都合が良いからだが、顔出しは差し障りがあるので顔を変えるが、私の場合コピーとペーストで粘土造形の要領でその人の成分のみで制作する。ところで考えてみると、人形にこそ使うべきである。架空の人物なら顔が違うも何も、ルールブックは私だからである。いうこと聞かない虎も、バラバラにしたり粘土扱いしたのはいうまでもない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『虎溪三笑』残るは陶淵明となる。小学三年の一年、産休の代用教員で担任された田中先生が、あまりに私が伝記、人物伝を読んでいるので、退職の際に内緒でいただいた世界偉人伝の中にもあった。李白と区別がつかなかったが。みんな吊り目でどじょう髭である。 その偉人伝の何が素晴らしかったか、というと、何処かのイラストレーターや人形作家が制作したような挿画でなく、由来の正しい肖像が使われていることであった。葛飾北斎を制作した時、北斎の自画像はいくつかあったが、迷わず記憶の中の田中先生版を選択した。ちょうどその頃、田中先生はかばってくれたが、私の絵は子供の絵じゃない、とほとんど教員総出でボロクソであった。子供が描いたら自動的に子供の絵だろう。だからというわけではないが、四年生になる頃には大きな活字と子供向けの挿絵を嫌い、母にねだって大人向けの『一休禅師』を買ってもらった、思えば小三ですでに出来上がっていた気がする。その証拠に通信簿には“掃除の時間、何をして良いか判らずフラフラしています“とすでにに書かれていた。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




爺いのくせに使いきれない金を人を騙してまで溜め込む連中の話になった時、方法はともかく、あんたと違って人は金を残して死ぬものなのだ、といわれた。 幼い頃、図書室に入り浸り、伝記、人物伝の類を読みまくった。これが現在の下地になっているのは間違いない。中学、高校は小説。作家シリーズは主にこの頃の読書体験がネタ元である。引越し時、蔵書が何分の1になると同時に、もう充分だろう。本は制作の資料のみにし、小説も楽しみのためにはもう読まないだろう。貯め込むのはもう良い。残りの時間は吐き出すために費やしたい。 子供の頃から、といえばそうだが、興味や必要ないことは見ざる聞かざるで来た。自分に何が必要かは最初から知っている。技術は必要になってからで充分、余計な物を持っていると余計なことをしたくなるものである。おかげで眼高手低に陥らず、眼と手がほど良いバランスになっている。 というのはあくまで私の渡世上の話であるけれど、知識、技術、イメージと、あの世に持って行けないのは金だけではない。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『虎渓三笑』は慧遠が仏教、陶淵明が儒教、陸修静が道教を象徴し、それが三人で笑う、すなわち三教一致、禅の精神を表現しているといわれる。これは実は後付けの解釈であり、ともう一つの解釈がある。慧遠は三十年山を降りない、という禁則を立てた、しかし尋ねてきた二人と夢中になって話合っていたのは真理についてであり、三人は真理について追求していたら石橋を越えてしまった。つまり悟りのためには、とらわれていた禁則などまるで役に立たない。それに気付いて三人は笑った。こちらが正解と私は思う。 そう考えると、メンバーは違うが、やはり三教を代表する三人が、酢の入った一つの甕を囲んでなめて酸っぱがっている『三酸図』は底が浅い。石橋の撮影場所が思い当たったので三笑図にしたが、これで良かった。 『三聖図』用の文殊、普賢両菩薩を撮影。これで後は虎に乗った豊干と阿弥陀如来で『三聖図』が完成となる。

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『虎渓三笑』の慧遠法師を撮影。三人次々撮影しようと思っていたが、自分で30年山を降りないと決めておきながら、うっかり超えてしまって笑っている。主役である慧遠法師は横並びの手前に持って来るが、その顔の向き、傾きを決め、それに合わせて他の二人を配すべきだろう。後は豊干禅師の一カットを撮影すれば、背景の準備、必要なパーツの撮影に入る。 ◯琴高仙人の鯉◯豊干禅師の虎◯一休和尚のカラス◯三聖図の文珠、普賢、阿弥陀如来像○虎渓三笑の石橋◯各場面用の松。 そして早々に実写でなく、石膏や粘土で作ることに決めてしまった洞窟、山水風景が、やったことがないだけに、まだ見えていない。上手く行った場合、ホントの事はどうだって良い、なんて言ってる私を以後調子に乗らせることになるだろう。 進行具合により没にした『四睡図』を最後に手掛けられる可能性を考え、寝ている虎も撮影しておきたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




単体作品だから、早く終わらせよう、とずっと思っている布袋尊、そのノホホンとした顔を見ていると、つい後回しにしてしまう。 作中に三人登場する『虎溪三笑図』の一人慧遠法師は、三十年は山を降りないと決めておきながら陶淵明と陸修静が尋ねてきて、帰りに送って行ったが話に夢中になり、つい虎溪の石橋を超えてしまい、それに気付いて三人で笑う話だが、慧遠法師に着彩した。 計画性に難のある私が、ただでさえ初めてのモチーフを手掛け、曲がりなりにもここまで来たのも、この『虎溪三笑図』を自分への戒めかのように制作を決めた事が大きいかもしれない。とんだおっちょこちょいだ、と作った私が虎渓三笑の轍を踏む訳にはいかないだろう。そう考えると被写体制作に未着手の『四睡図』はスケジュール的に今回は無理と判断した。寒山拾得に関しては今後も手掛けたい場面は多い。当初イメージしていたのは寒山拾得だけの個展だったが、中国土産の拓本が、掛け軸仕立てで飾られていた時代と今は違う。他のモチーフに手を広げたのはかえって良かった。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




月を指差す寒山、箒を持ち足下に塵取りの拾得完成。後はそれぞれに文殊、普賢菩薩を配すれば二聖図となる。最後の一聖、豊干は虎を撮影後となる。明日中に最後の単体作品『布袋満腹図』を完成させたい。その後の予定としては、いよいよ三人登場の『虎渓三笑図』にかかる。  数ある山水図のように、背景の山々は霞に煙って、と省略するのも可能だが、私がしばしば用いる手である、やり過ぎて可笑しい。それで行きたい。流れる滝も欲しいし、小さな東家も欲しい。なので、先日、芭蕉記念館に立ち寄った折に、収蔵されている私が作った芭蕉庵を撮っておいた。あれはかがんで見上げないと見えない、屋根裏を是非見ていただきたい。いわゆる〝羽織の裏”である。 いよいよ山深い風景を作業台の上に作ることになる。これは10代の頃、カメラマン志望の友人に放った売言葉に買言葉〝あの山だって、お前が雄大にした訳じゃないだろ”あのバチが当たったのは間違いないだろう

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




寒山と拾得第二弾撮影。月を指差す寒山と、箒と塵取りの拾得の全身像。それぞれ文殊と普賢菩薩を後で並べる。これに虎に乗った豊干と阿弥陀如来を並べ、『三聖図』とする。しかし煩雑になるので三作それぞれとしたい。私のように行き当りばったりで計画性に欠ける人間には、隣に何が並ぼうと光の影響はないので、撮れる物から撮りストックしておけるのは何よりである。自分の都合を考慮して始めた手法ではないのだが、すべからく都合よくできている。そうしようと考え企むと、こうはならないのが面白いところである。 これが完成すれば、寒山拾得に関すれば、後は寒山と拾得、豊干と虎が眠る『四睡図』が最後となる。ただし、どんなポーズの虎が撮れるかによる。冷房の効いてる部屋でトラ猫を撮影して虎にするより、猛暑の動物園の虎の方がグウタラしているはず、とふんでいるのだが。最悪『一起三睡図』となる覚悟も必要である



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ