明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



これから手がけようという海外の作家の制作を決める前、次回作の第一候補は室生犀星の『蜜のあはれ』であり、本物の金魚を使って制作するつもりでいた。犀星の着流しの懐や袖の間から、コロンとしたメスの金魚がヌラリと行き来する様子などは、絵で描くのでなければ、作家を作る私の方法しかない。金魚は一部の人以外には若い娘に見える、ということになっていて、その娘役も決めていたのだが、少々画が細部にわたり、頭の中に浮かびすぎていた。制作に入るにはまだ足りないものがある、と私は判断した。作ってみなけりゃ判らない部分がなければ、面白い作品にはならないものである。完成して、私はこういう物を作ろうとしていたのか、と人事のように感心するぐらいでないとならない。 まだ作り始めていない某作家は、何点か画が浮かび始めた。この作家も動物を撮影する必要がある。おそらく最低でも2種類。 『貝の穴に河童の居る事』を制作することになり中断してしまったが、直前まで内田百間で、本物の猫を使って『ノラや』を構想していた。そして犀星で金魚、と妙に動物づいている。私は常日頃、本当のことなどどうでも良く、真を写す、という意味の“写真”という言葉を嫌い、まことなど写してなるか、と画面から排除することを心がけているといっている。本物の金魚や猫を使うことを考えるのは、上手い嘘をつくには、本当のことを混ぜるのがコツ、ではあるけれども、実はこれは写真である、ということを逆手にとって利用しているのであろう。 

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先日NHKの『ごちそうさん』を見ていたら、娘のふ久が食事中も勉強を止めず叱られていた。私の小学生時代を見ているようで可笑しかった。私の場合は勉強ではなく単に読書であったが。 床屋にいけば、そこの本を読み出して帰ってこない。学校の図書室では授業のチャイムが鳴っても出てこない。家族で縁日に出かけても、もらった小遣いを使わず、シャッターを半分閉じた本屋を待たせ粘る始末であった。家でもその調子で、小遣いを止められてしまった。ふ久同様、全体主義に馴染まず学校ではロクなことはなかったが、駄目なのは教師であって、鍵っ子だった私は友人に恵まれたのは幸いであった。 当時から愛読したのは人物伝の類で、それが結局現在に至っているわけで、人の姿を見てきたようにイメージするのはあの頃の読書の賜物であろう。 何度か書いているが、未だに思い出すと笑ってしまうのは、小学校の低学年の頃は、伝記の類は、その場で見ていた人が書いていると思い込んでいたことである。確かに見て来た様に書いある。仮に私が桜の枝を折っても、ジョージ・ワシントンのような訳にはいかない。私の周囲には気の利いた証言者など居らずガッカリしていた。  ようやく制作する人物の著作を読み始める。今まで何度も文庫を買っては読んでいる。しかし『貝の穴に河童の居る事』で細かいディテールを案外誤読していたことが判った。まして今回は海外の作家である。二種の翻訳を比べながら読んでみる。 T千穂のカウンターでも読み続けたが、相手をしないものだから、唯一読んだ小説が二十歳の時の『十五少年漂流記』というKさんが、老眼で読めやしないのに空いてる本を覗いていた。

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白石ちえこさんの写真の古典技法“雑巾がけ”による個展『ホエール ウォッチング』に出かける。東京の東側育ちの私は大田区はほとんど出かけた記憶がない。日が暮れる前に帰って来たいと思いながら電車を乗り間違えたりして遅くなる。私の方向音痴は不治の病である。 先日お邪魔したギター制作工房『ソングバード』の遠藤さんと初めて会った時に、一緒にいたのが白石さんで、当時はまだ写真を始めていなかったそうである。一方の私は、古典技法のオイルプリントに集中していた頃で、一日限定の99年の個展を別にすれば、2000年に『ピクトリアリズム展』を開き、同年技法の公開を主な目的として作ったのが当HPである。当時は一人荒野に立っている状態であったが、デジタル時代に突入し、その反作用で各種の古典技法を試みる人たちが増えた。そして白石さんが雑巾がけである。感慨も深い。 白石さんの作品は、古典技法を使いながら、今の風景を扱っているところが良い。私は当時、日本に古典技法の話し相手がいないので、海外のサイトのフォーラムのような物に参加したが、大半がアメリカ人で、日本のように廃れる時は徹底的に捨ててしまうのとは違い、状況は関係なく続けている点はさすがといえたが、いかんせん苔むした古城や南北戦争時代のような作品の、懐古趣味オジサンばかりで、すっかり幻滅してしまった。古典技法を扱いながら、それに“酔っ払って”いないところが白石作品の良さである。29日17時まで。 
遠出のダメージを癒すためにK本へ。閉店まで飲み、一度帰ってT千穂へ。カウンターには『相棒』のヒロコママでお馴染み深沢敦さん。座敷にはK本から流れてきたMさんがいて、今度作ろうとしている人物を訊かれてつい答えてしまった。当ブログのクイズにしようと思っているのだが。もっともMさんは、勘定を済ませた後に何度も「勘定すませたっけ?」女将さんの「もう一度もらってもいいですよ」。という毎度お馴染みの会話をしていたから、ちゃんと忘れてくれるだろう。K本の常連席で読んだことのある人は一人もいないことは断言できるし。

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眠れないまま朝。川口で金属加工の工場を営む友人に、こんな物できないか?とメールで問い合わせる。まるで拷問器具ではないか。というか拷問器具である。こんな物が作中に登場するのだからしかたがない。私が楽しそうに見えるとしたら、それは寝不足のせいであり、笑っているのは顔だけである。これを収める何か箱状の物がないか骨董商の○堂に電話をし、サイズや雰囲気を伝える。私の憂鬱が伝わってもいけない。せいぜい楽し気に話した。自信はないが演技はまあまあだったろう。 しかし主人公の作家自体、制作に入ってもいないのに、いくら出てくるといっても、少々フライングが過ぎやしないだろうか。胸に手を当てて考えてみるに、どうせやらなければならないのなら、嫌なことは先にやっておこう。おそらくそんなところであろう。なのに楽しそうに振舞う私。我ながら健気である。 昨晩は、あまりの憂鬱さに目が冴えてしまい寝付けなかった。寝付けないまま友人にメールをしたのであるが、私と違っていささか変態的要素を持つ友人は「面白い事考えてるな!!時間があるなら作れるよ!」と、私の気も知らずに無邪気である。おまけにこんな物も自分用に作ったのだ、と自慢気に、どんな使い方をするのか健全な私には見当も付かない器具の写真を添付してきた。作れるのが判ればそれでいい。しかたなく嫌々作るのだ、と気取られては、いくら変態的傾向を持つ友人だとしても失礼であろう。きっと友人は、私が喜んでこんな物を作ろうとしているのだ、と思い込んだに違いない。

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午前9時に古石場文化センターの音楽スタジオへ。今月二度目である。一年にもなるのに、やったことをすぐ忘れる物覚えの悪い三人である。同じ状態のまま足踏みし、遅々として前に進まず。忘れるのは練習直後に行うアルコール消毒の影響もあろう。 今使っているギターは、なんとなくピンとくるものがなかった。それはスタジオで大きな音を出すとよけい感じるのだが、先日、試しに50年代製の古いコンデンサに換えてみたら、音の抜けがすっかり良くなり、こんなにも変わるのか、というくらい気持ちの良い音になった。コンデンサ交換による音の変化は、有る無い両意見あるようだが、変わらないという人は耳が悪いか、私のギターと違って、もともと良いコンデンサが付いていたのであろう。昨日は間に合わなかったが、本日新たなコンデンサが届いたので、ソングバードの遠藤さんのところへ送り、置いてきたボロギターを再生していただこうと思っている。ヤフオクで入手した、誰しも呆れる酷い塗装のギターであるが、自分でやろうと思ってもできないこの違和感こそが持ち味である。そもそも他人との付き合いも、違和感こその味わいであろう。私にとって違和感の最大級が酔っ払いのKさんということになる。 11時に終わり、午前中から飲めるサイゼリアで、本日覚えたことを性懲りもなく消去した後某所に向かう。昨年ご近所の方々限定で披露した『貝の穴に河童の居る事』のスライド上映と朗読を、正式にやれないだろうか、という相談である。鏡花作品のリズム感は朗読に向いている。この元になっているのは、06年に世田谷文学館でやった、ピアノ演奏との江戸川乱歩の朗読ライブである。評判が良かったこともあり、一回だけの披露ではもったいないとずっと思っていたのだが、今年は乱歩生誕120周年である。7月のスケジュールを空けてもらっている。再演には丁度良い気もする。

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本日は千葉県は稲毛にあるギター工房『ソングバード』の遠藤雅美さんに会いに、トラックドライバーのSさんを連れてお邪魔する。Sさんは高校を出て一瞬、ギター制作の道がよぎったそうだが、食えるかどうか判らないと断念している。しかし結局50になろうというのに独身。高価なギターを何本も購入しお茶を濁している。人生は一度きり。今日は大いに後悔したまえ、という話である。 出掛けにイベント屋のSからメール。私がこれから作ろうとしている人物をズバリ指摘してきた。よくあのブログで判ったものである。伊達にパットン将軍のような奥さんを持っていないな、と感心した。 今日はヤフオクで入手したギターを持っていく。トーンは効かないし、配線部分がややこしくて私にはお手上げ。遠藤さんに見てもらうのが申し訳ないようなボロギターであるが、弾きやすいのと先日、別なギターのコンデンサを、ビンテージ物に換えたら音が激変したので、こちらも換えてもらおうという訳である。 稲毛まで約一時間。さっそく仕事場へお邪魔する。そこら中にギターがぶら下り、資料がうず高く積まれている。私にとっては実に落ち着く状況である。 遠藤さんと知り合ったのは随分昔である。私が黒人ミュージシャンを作っていた頃、人形用の楽器のことを相談したい、と知人に紹介してもらったらしい。遠藤さんは私が出たTV番組を観ていたそうで、日本TVだったというから83年の『美の世界アートナウ』であろう。音声を現スゥインギン・バッパーズの吾妻光良さんがやっていた。 遠藤さんは一線のカメラマンから、実践の中でギター制作を学んだ人で、そういう意味では私と同じ匂いがする。先生と呼ばなければならない人物は少ないに越したことはない。 Sさんに、せっかくの機会だから何でも質問しろよ、とくり返すが大人しい。物作りになるには少々好奇心不足であったろう。その後稲毛のモツ焼き屋へ移動。遠藤さんも72年ELPの後楽園コンサートを観たそうで、40年ぶりに再会した友人もそうだが、何かと最近話題になる。 地元に帰りT千穂へ。明日はSさんとスタジオである。

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次に制作すべき人物が決まったのなら、さっさと始めれば良い、という話であるが、そうはいかない事情がある。依頼された作品の場合、私はウケることばかり考えている。ウケるというのは依頼者に喜んでもらう、ということである。私に依頼して良かった、と思ってもらうためには、どんな手でも使うタイプである。一方自発的に己が作品として制作しようと考えた場合、創作の快楽を最大限味わいたい。妻や子供達のためにがんばる、などということは最もやってはいけないことである。両方ともいないけど。 私は自分の扱い方は心得ている。すぐ作り始めることなど、けっしてしない。著作を読み進めながら、人物の背景を調べる所から始める。粘土など手にせず、読書である。そうこうすると、もういい加減作らせてくれ、という気分になってくる。いやまだだ。お前はこの人物の何が解かったというのだ。そうして散々弓を引き絞っておいて、よだれを垂らさんばかりの状態で、ようやく御馳走に齧り付くわけである。その時には迷うことはない。 閉じこもって制作に没頭するような人々には多かれ少なかれ、その体質中にマゾヒズムが潜んでいるものである。ここで詳しく述べるつもりはないが、私は快感を高め、長引かせることに努力を惜しまない人間である。なにしろ本日は、ようやく制作する人物が決まったというのに読書すらせず、アマゾンで資料を注文するに留め、そして明日は読書をしないどころか、ギターの制作工房を見学に出かけようというのである。この先制作を開始したら、どれだけの快楽が待っていることであろう。ワクワクしてしまう。 いやここでもう一工夫。作るの止める。というのはどうだろうか?究極の快楽に悶絶したりして。

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一昨日K本でGさんに「先生今何作ってんの?最近持ってこないね」。といわれた。この七十近いGさん。K本のイメージキャラクターともいえる人物である。聖路加病院で何度か心臓手術をしながら常連席で気持ちよさそうに酩酊している。 本を出したり個展などやると、その内容にかかわらず先生と呼んでしまうのは下町の老人に有りがちなことであろう。時代劇の用心棒じゃあるまいし。なんで70の爺さんに先生と呼ばれなければならないのか。本来私はGさんに“いっちゃん”と呼ばれていたが、さる事情があり、たまにしか呼んでくれない。Gさんは人に思いつきで愛称を付けてしまうが、Gさんに付けてもらってこそ、といえるだろう。中には悪代官などという、付けられた方には承服しがたいであろう物もあるが、まあいわれて見ればなかなか鋭い、といえなくもない。 私は制作中の人形の頭部をポケットに入れ、K本の常連に見せるのを常としていた。それが最近ない、とGさんはいうのである。周囲が、または当ブログを訪れる方々が、薄々感じていたであろうことを、あっさりいわれてしまった。「なんだよ。駄目だよそういうことはっきりいっちゃァ」。 以前書いたが、常に次にやりたいことが途切れなかった私が、河童の本を出して以来、作りたい人物がいても、今作りたくて我慢ができない程の対象ではなかった。となれば、しばらく中断していたオイルプリントの再開だろうと考えた。すべての作品データはオイルプリント化を前提としている。しかし再開するオイルプリント用に誰か作れないか、と考えていたのだが、ようやく棚からボタモチのように降ってきた。 この人物は写真は残されているが、すべて写真館で撮影されたものである。つまりそれ以外の像は誰も見たことがないので、私の創作の余地が大いにあるということである。何度か作ろうと考えたことはあったが、今こそぴったりくる。制作に入り、ある程度形になってきたら、久しぶりにクイズとしてみたい。ちなみに外国人である。

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55年と67年に来日したインドの強豪レスラー『ダラ・シン』は同一人物か否か、というのは昔から意見が分かれていたことをツイッターで知った。私はひと目見て、これが同一人物に見える人がいるのか不思議で、「人形制作者の私にいわせると、この程度で似ているといっていては仕事になりません」とツイートした。しかし骨格などよく比較もしないでエラそうにいってしまったな、と本日見直したらやっぱり違っていた。一言でいえば、“聴こえて”来るものが違う。それは実際耳に聴こえる類の物ではなく、その人物の声が頭に浮かぶ、というのとも違い、そう表現するしか他にいいようがないような物である。そこで改めて思ったのが、特に実在した人物を制作する時、写真に示されている“形”とは次元の違う聴こえてくる物を私は基準に制作してきた、ということであった。似ている似ていない、よりむしろ肝心なこと、としてきたような気がする。それは制作に関してだけでなく、写真を見てムラッと無性に作りたくなる時も、聴こえてくる物にムラッと来ていたことが判った。 

今日は朝から映画が観たいと思った。近所で上映されている作品の中から『永遠の0』と『ゼロ・グラビティ』を選び、観たという友人にメールをしてみた。『永遠の0』は原作を読んだ話も聞いていたし『ゼロ・グラビティ』はメイキングを見て興味を持った。『ゼロ・グラビティ』は画面が揺らいでいるのが気になったが、宇宙酔い間違いなし、と返事が着た。それは肯定的な意味のようであったが、中学の時、スティ-ブ・マックイーンの『栄光のル・マン』で酔ってしまったので即却下。あれは地べた上の話だからまだマシであったが、そもそも危険な山を登る登山家をなぜ変態扱いしないのだ、と常日頃思っている私にとって、暗い宇宙空間に一人浮かぶ飛行士は人間にとって最悪の状態なのである。 『永遠の0』は岡田准一の面差しが終始良く、特にラストの表情にはやられた。エンドロールは丁度良い“お化粧直し”タイムであった。

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それはいかにもつげ義春が立ち寄りそうな湯治場の風呂であった。ちなみに私はたまたま目にした、確か『カムイ外伝』だったかのくの一のエロティックなシーンを見てしまい、その『ハレンチ学園』とはレベルの違うエロに打たれたのがきっかけで、小学生から中学にかけて、『ガロ』誌上で『ゲンセン館主人』はもとより、一連のつげの名作を読んでいる。佐々木マキも好きだった。それはともかく。夢の話である。 私が入っていくと、湯気越しに、老人達が湯に胸まで浸かり、ブラウン管型のテレビを見上げていた。それは木でできた簡素な台に乗っていたが、台はいかにも湯気でぬるぬるして湯船の上に突き出しており、地震でも起きたらテレビは転がり落ちて、ザンブリと老人達の目の前に落ちるのは間違いがない。一応は私も湯船に入ったが落ち着かない。しかも長く延長された電源コードを眼で追うと、ところどころ赤いビニールテープで補修されていたが、めくれ上がってしまっている。TVなんか観てないで、年寄りらしく囲碁か将棋でもやってりゃいいじゃないか。 私の見る夢の特徴は、どんなシチュエーションであろうと、登場する私は私がしそうなことや、いいそうなことしかしない。たとえば宝物の隠し場所や、犯した犯罪の言い訳など、いかにも私らしいのである。夢というのは短時間に見ているものらしい。シナリオやキャスティングなど、当然自分が創作しているのであろうが、短時間に、よくあんな突飛な創作をするものである。 午前中に、007『ゴールドフィンガー』のシャーリー・イートンのサイン入り写真が届いた。顔なんか覚えていないが、ベットで金粉を塗られてうつ伏せに死んでいるお馴染みのシーンにサインがされ、ご丁寧に、それにサインする老婆の写真も付いていた。私があのシナリオの発想の元に気が付いたのは夕方である。007には他にも様々な殺人方法が登場したが、確か湯船にヘアードライヤーだかを投げ込んで感電死させるシーンがあった。つまり金粉まみれの美女が出発点となり、湯治場でTVを見上げる老人とともに、湯船に浸かって感電に怯える、という夢に至ったわけである。

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K本にたまに現れ『貝の穴に河童の居る事』で最初に番頭役に、と考えた人は、最近見ないから死んでいるだろう。昼と夜を間違えるような酔っ払いであったから(最近も午後と午前の6時を間違え、何故シャッターが閉まっている、と店に電話してしまった人物もいたが)よく燃えたに違いない。と書いていたら本当に亡くなっていた。元ボクサーだと聞いていたし、河童の腕を折る役には良さそうであったが、当初考えていた舞台となる旅館を、江戸東京たてもの園に移築されている高橋是清邸にグレードアップした。となるとその人では、どう見ても下足番にしか見えないのでキャストを変更したのであった。もう一人。つい最近までK本に顔を出していたTさんも暮れに亡くなったと聞いた。腹水が溜まっており、やはり肝臓だったらしい。老けていたが、二人とも60をちょっと出ただけだったそうである。昨日、そんな話を訊いてK本からT千穂に行こうとしたら、Tさんが止めた方が良いといわれていた。Tさんはニコニコしながら周囲に焼酎を注ぎ続け、周囲を酩酊させる“注ぎ殺し”として恐れられていたが、それが自分にもかえってきてしまったらしい。お互い気をつけましょう。私は玄米を食べている。 ところで。私が高校生の頃、その美貌で映画雑誌を飾っていた女優がいた。ヨーロッパで活躍したが、1951年アメリカ生まれである。たまたまユーチューブを見ていたら彼女が歌も唄っていたことを知った。80年頃。相変わらずキュートである。だがしかし。検索はそこで止めておくべきであった。彼女はやってしまっていた。現在の姿は同一人物とはとても思えず、もうほとんど妖怪である。そしてその手の人達は、ゆえにエスカレートしてしまうのであろうが、客観性をすで失っているように見える。 そう思うと『恐竜100万年』で当時の少年達をときめかせたラクエル・ウエルチの70過ぎての美貌は、これはまた化け物の範疇であろう。こちらは全身“修理”していることは、昔から公言していたが。いやはや、それにしてもショックである。

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ここのところ無性に聴きたくなり朝からずっとジミー・リードを流している。レコーディングの時に奥さんが歌詞を耳打ちしないと駄目なくらいのアル中だったらしいが、時にヨダレを垂らさんばかりのヘロヘロ感はなんともいえず、余人をもって代え難し。 以前ヤフオクで入手した、あまりな塗装で、一緒にスタジオを借りるSに燃やして焦げたギターといわれてしまう国産のレスポールもどきであるが、この酷い塗装が良いわけで、これは自分でやろうとしても無理な、その違和感良いのである。ただヘッドにギブソンという嘘のブランド名が貼られている貧乏臭さがどうにも我慢がならず、ペーパーで剥がした。さらに別のギターからピックアップを移植したり、コンデンサを換えたりの練習台にしている。私は子供の頃から、開腹だけして手術室から出て行ってしまうような、何でも分解しておいて元に戻さず(せず)放ったらかしにしてしまうという悪癖がある。このギターはなんとしても死なせないようにしたい。
K本に行くと、当ブログをご近所に向けて発信しているものと思い込んでいる人がいて、オイルプリントの話なんかつまらない。娘が婚約者を連れてきたMさんの結末を何故書かない、といわれる。すぐ横にいるのだから本人に訊けばよいと思うのだが。 Mさんは以前から、娘には幼い頃から包み隠さず、大事なことは教えてきた、といっていた。なかなかできることではない。感心していたが、逆にいえば、昔の何を考えているか判らないお父さんと違って、包み隠さなかった分、娘に手の内を知られているということもいえよう。おかげで先手を取られて、こうきたらこうしうようと考えていたことが、すべてすかされてしまったらしい。さらに奥さんがあちら側の作戦参謀についている。私は昨年、制作上のことで奥さんには大変お世話になっている。よって奥さんの「きっとこう来るから、そういう場合はこうした方がいいわよ」。というような参謀本部での作戦会議の様子を、まるで聴いていたかのように想像してしまうのである。そう思うと、酒場で横で飲んでいる私に聴こえるような溜息をついているようでは、初めから勝負はついていたようなものであろう。その後は無事にことは進んでいるようで何よりである。

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古いアナログ用写真機材を扱う代官山のフォトシャトンが閉店だそうである。大判用機材はすでに揃っているし、眼に毒ということもあり、開店のお祝いにでかけて以来、一度も顔を出さずじまいになってしまった。代官山苦手だし。 店主の井上さんは、プリンターの田村さんの紹介で知り合ったが、もともとは井上さんが書いたクラシックカメラ雑誌の記事の作例写真の被写体が田村さんで、私が某所で田村さんを“発見”したことがきっかけであった。古典レンズに詳しい田村さんであったが、もっと詳しい人がいる、というので、当時井上さんが勤務する国立のカメラ店に、オイルプリントの試作を持って会いにいったのが90年代の始め頃である。井上さんには「いつか写真店じゃなく、薬品問屋で材料を買って写真をやるような人が現れると思った。」といわれた。井上さんから薦められた、製造から百数十年経っているアプラナートレンズは、私の古典レンズのイメージの原点となっている。 その頃、田村さんが勤めていたラボの暗室によくお邪魔したものであるが、そのプリントテクニックを真近で見て、全部自分でやった、といいたがりの私が、にもかかわらず、我流でやっていたモノクロプリントを止めた。こんなところまでやるには人生はあまりにも短い。以来プリントは田村さんにお願いし、おかげで無駄な時間を費やさずに済んだわけである。 一方、私が古典技法のオイルプリントを始めたのは、野島康三の作品に一目ぼれしたことがきっかけであったが、当時は写真展を開こうなどとは夢にも思わず、人形作りを放って何をしている、と思いながら熱中した。当時まったく気付いていなかったが、やり方によってこの技法は、嘘もホントもホントも嘘も区別がつかない。実はこの点が、江戸川乱歩同様“現世は夢 夜の夢こそまこと”な私には色々やり様があることになる。もう一つ。数ある写真技法が基本となる暗室技術、教養が肝心であることに対し、オイルプリントはむしろ“祈る力”が物をいう。そもそも私の人形制作法も、ただひたすら完成を祈る。という作り方なのである。

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先日来、大判カメラに使用するレンズを選んでいる。フォーマットを何にするかで当然変わってくるが、人物はこれ、ワイドの場合はこれ、といくつか選んだ。潔く、このレンズしか使わない、というのが本当は良いに決まっているが、なかなかそうはいかず、実に“男らしく”迷った。 最近は古典レンズも人気なようで、良いものは出てこないらしいが、こんなことになる前に、それこそガラクタも含め、所有欲を満足させておいたのは良かった。自分の趣味も大方判ったし。 結局一番肝心なのは、己のイメージ。世界をどう観ているか、観えているかにかかっており、道具は所詮道具である。 私の最も肝心な竹べらは、某所でもらってきた足踏み健康用の竹で作った。陶芸の専門学校時代、誰が作ったか判らない竹べらを、十年近く使った頃だろうか、片付けていてゴミと一緒に捨ててしまった。長年の相棒。ショックである。仕方ないので適当な竹で作ったが、気がついたらその日のうちに、何事もなかったように制作していた。以来、弘法ではないが、こだわりはなくなった。 他に肝心な道具というと、アイスクリームを買うとついてくる木のサジである。粘土との相性、弾力、共に他のものに換えることができない。などといって仮に失くしても、こちらはいくらでも補充がきく。私は頭部を作ってしまえば、裸体でなければ一気に作るが、その際のスピードは、このサジの弾力が支えているといっても良いだろう。 
ギターのコンデンサやピックアップを交換してみよう。と中を開けてみるのだが、そのごちゃごちゃした配線を見るだけでうんざりである。幼稚園児の時に、近所の幼馴染の家でモーター付きのプラモデルを一緒に作った。幼馴染は後にアンプやエコーマシンなど自作することになる器用な男であったが、学年が一緒でも二月生まれの私とは当時明らかな差があり、それも含めたうんざり感までよみがえってくる。私の電気関係苦手意識は、これに加え、様々なイタズラや熱帯魚の飼育で何度も感電しているせいであろう。

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写真の古典技法の一つである『オイルプリント』は紙にゼラチンを塗布したゼラチンペーパーを自製しなければならない。逆にいえば、和紙であろうとなんであろうと、好きな紙を選んで使える、ということでもある。この難関を突破さえすれば、扱いに注意を要する薬品を使用する点を別にすれば、ブラシで油性絵の具を叩いて画像を出す点など、子供でも面白いに違いない。 私は古書店で買い集めた技術書を元に制作を始めたが、テキスト通りにやっているつもりでも、一向に画があらわれない。欠けたページがあるのではないか、と何度ページを確認したことであろうか。当時、オルタナネイティブ・プロセスなどという言葉も一般的でなく、相談する人もいない。結局は用紙に塗布するゼラチンの具合がまずは肝心なことが判ってくる。精製されたゼラチン、菓子用のゼラチン、色々試したが、それぞれ使えることは判ったが、問題は気温が高いとゼラチンが硬化せず、厚くひくことが困難なことであった。ゼラチン層が薄いと満足する諧調が出ない。よって一年分の用紙を冬の間に作りためなければならなかった。西武百貨店と京都造形芸術大での過去二回のワークショップでも、可哀そうなことに、冬に暖房を切った中でゼラチン紙の制作を行った。 当時のテキストには特に気温に触れられていないのが不思議であったが、現在写真用とされるゼラチンは、その他のゼラチンに比べ硬化しやすいことが判った。何しろ普通にゼラチンペーパーが販売されていた時代から考えれば常識も違う。顔料を使う写真でなければ芸術にあらず、などという今となっては考えられない論もあったのが大正から昭和の始め頃の時代である。 最近は湿版写真にまい進中の田村写真の田村さんに、近日中のゼラチンペーパー試作をお願いした。ゼラチン紙はオイルプリントにとどまらず、その他のオルタナネイティブ・プロセスに使用できる。田村印のゼラチンペーパーがあれば、色々試みる人も現れることであろう。ばらつきのないゼラチンペーパーは三色分解によるオイルプリントのカラー化にも不可欠である。

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