明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



まだ着信拒否のしかたがわからないので、朝っぱらからKさんからのメールで起される。 Kさんから何度も電話があった時、しょうがないな、とこちらから掛けると「モシ?」と、何か用?みたいにいうので、いつも腹が立つのであるが、電話のモシモシというのは、幽霊、妖怪の類はモシモシのように、2回続けていえないことから、そういう者ではありません、という意味でモシモシという、との説がある。『やっぱり河童なんだな』。と思うわけである。 乾燥に入り、あとは着彩、防水処理で完成の、水上用河童の泳力実験は、そういえば、ルアー釣りを始めた頃、水を張った浴槽でルアーの動きを確かめたものだが、ちょうど同じことを河童でやるわけである。こういう時のために“独身者の部屋はノックをせずに開けるな”という言葉があるのであろう。 泳ぐカットは頭に浮かんだ瞬間から、泳ぐ向きからなにから構図は決まっている。例によって頭の中では変更が効かない。モヤモヤと浮かぶのではなく、パッと浮かんだイメージは、何故だか私の場合動かせないのである。 それは後頭部を見せながら、ツイーっと泳いでいく予定だが、何しろ若い娘の尻を触ろうとして、そのことだけで頭が一杯という想定である。一直線に進む姿が『馬鹿じゃないの?』というように見えるべきであろう。幸い私は、娘を触ることに必死な現代に生きる河童を見ては、「馬鹿じゃないの?」としょっちゅう思っているので自信がある。

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人間というものは勝手である。私は昔から梅雨が大の苦手。サウナも苦手、湿気が大嫌いである。この時期の唯一の楽しみは、雨の中、人のいない清澄庭園の濡れた石を眺め、近くの『伊勢喜』でどぜう鍋で一杯やることであったが、老舗だった伊勢喜も閉店してしまった。 作品の舞台である梅雨の季節に、河童を撮影しなければならないせいであろう。ベタベタと汗ばんだ胸に手を当てて考えても、不快な気分が起こらない。除湿もしていない。さらに「梅雨明けはいつだろう?」いつもと逆なことを思っていっている。  来月1日に、出演者として参加いただくMさん邸で、Mさんの奥さん役、若い娘役の打ち合わせである。背景となる写真を見ながら撮影プランを説明するのだが、今回は、Mさんの奥さんに着物をお借りするにあたり、女性二人のコーデイネイトをお願いすることが主目的である。 映画やTVを見ると、観客動員や視聴率を期待されたり、演技力を買われて出演するのであろう。この顔、役に合っていないな、ということはしょっちゅうである。 その点私の作品には、余計な物が必要ない分、長年その渡世を歩いていたら、こうなりました。という顔の持ち主を選んだ。 そして翌2日にも房総へ撮影に行くはずであったが、予定の河童3体目には取り掛かかってもおらず、なのにここに来て、甲羅が気に入らなくなってきた。そこらに有ったのを背負ってみました。という感じである。作り直し。とりあえず甲羅と頭の皿は、1セットを使いまわすことになる。

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実話裏歴史SPECIALVol.15 (ミリオン出版)その死に歴史あり!日本の自決秘録
http://taiyohgroup.jp/index.php/module/Default/action/Detail?item_id=120510040
昨年の三島由紀夫へのオマージュ展より『男の死』が2P掲載されている。(文中三島の死が72年になっている)このシリーズは、三島自身が演じ、亡くなる寸前に篠山紀信氏に撮らせた未刊の写真集『男の死』の存在を知らぬ私が、これは三島本人にウケるだろうと考えたのが三島に三島好みの人物になってもらい、様々な状態で死ぬ様を描いた本作である。本家が出版されるより一日でも早く発表しないと滑稽だ、と思って制作したが、どうも本家は出さない約束が結ばれているらしい。急ぐ必用もなかった訳だが、これは順次、作り足りない物を加えていくつもりである。昨年中止になった深川祭り。今年は神輿を担ぎながら、恍惚として死んでいる三島を作る。それにこうしてみると、血が大好きであった三島なのに、展覧に供する作品として少々遠慮している。血も足すつもりである。 どうせやり尽くした、満足した、と死ねないのは判っている。完成など最後までしなくても良いのである。
房総の海に浮かべて泳がすつもりの河童は、棲み家である内陸の沼から空を飛んで、房総に遊びにきたおかげで災難に遭う。といっても自業自得なのだが。最初の一体目が坐っているところで、猫背でもあり、泳いでいる状態に延してみたら食用蛙くらいのサイズになった。はたして思惑通り、水中モーターを着けて、水スマシのような航跡を描きながら泳いでくれるであろうか? ※今気がついたが、なにもモーターで自力で泳がさせずとも、今回も数日手伝いに来る予定のKさんに、テグスを着けた河童を引っ張ってもらう手もあった。その様子をはたから見ると、海水浴に来た河童が、子河童に泳ぎを教えているように見えるであろう。

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T千穂に行くと、カウンターには常連がおらず、一人飲んでいると、橋の設計をしていた方が隣に。展示にいつも来てくれていて、人形というと可愛いらしい女の子しか知らなかった、と喜んでくれている。江東区は橋が多い。そんな話から、橋の構造や機能美の話を伺っていて、亡くなった父がサラリーマン時代、イカリの設計をしていたことをいうと、イカリは海底の様々な地形に対応しなければならないので難しいのだ、という一言でフイに涙が溢れそうになった。  父が設計をしていたのは私が小学生の頃で、当時世界一のタンカー『出光丸』のイカリの設計をした、というのが子供の私には誇りであった。しかし、まったく愛想もハッタリもない父に聞いたところで、誰がやったって同じだ、くらいのことしかいわない。そういわれると、大きさの違いだけでみんな同じように見えるし、わざわざ設計士などいらないようにも思えてくる。難しいというのは生まれて初めて聞いた。 父の葬式でも泣かなかった私が泣けたのは、もう一回ある。亡くなって随分経って、父と来たことがある日曜大工センターで買い物をしていた。私は昔から男が人知れず工作するイメージにツンと来るところがある。それがたいしたものでなくとも、友人の家でマッチが井げたに積んであるのを目にしても、一人でこんなことしてるんだ、とツンと来るのである。買い物を終えた時、それは子供の頃から見ていた、父の日曜大工する姿だ、と急に気がついた。帰りの駅に向う道中、滂沱の涙であった。 本日はカウンターの向うに、泣いた涙も引っ込む店長の顔があったから助かった。母に今日聞いた話をメールで報告し、返事も何も、この件には二度と触れないよう念を押しておいた。

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せっかく鏡花作品で河童を作っているのだから、これに乗じて色々化け物を作ってしまおうか、と当初考えないでもなかったが、出て来ない物まで作るわけにもいかない。出て来るとしても、見た目は山に住む動物で、妖怪といっていいものどうか、という物ばかりで、河童以外では、かろうじて女の顔をしたミミズクが出てくる。毛も羽毛も同じような物である。粘土でモジャモジャした物など作らず、実写の合成ということにした。  窓を開けっ放しで寝てしまったおかげで風邪をひいた。咳が止まらずテイッシュも一箱があっという間である。そんな時、Kさんよりバーミヤンで食事するから来てくれ、という。この人物、素面で女性と会うとき、“恥づかしいから”と不気味なことをいって私を誘う。どうせ30分も飲んでいれば、恥のハの字もなくなってしまい、横の私のほうなど見向きもせず一人で喋っているのだが。今日も風邪ひいていると断わっても、しつこい。そこで思いついてカメラを持っていくことにした。例によって例の展開であったが、私は対面の彼女の顔を数カット撮らせてもらった。 女の顔をしたミミズクといっても、そのまま貼り付けるわけではなく、ミミズクの頭に人の顔の合成はかなり無理がある。つまり化け物ではあるのだが、可愛らしさも表現したい。完成したのは一晩明けた朝であった。 そこにまたKさんから、昨日撮った彼女の写真が欲しいとメールが着た。私はどちらかというと親切な方なので、ただ撮った物ではなく、完成したばかりの、巨大な両眼がランランと輝く方を送ってあげた。返事がないところを見ると、そうとう喜んでくれたようである。

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制作中の鏡花作品は、人間界と異界、その中間で構成されており、人間界は異界とのコントラストをつけるため、と合成が多いため、味はないが、鮮明に(見える)今のレンズ。異界はコントラストの低い怪しい旧いレンズ。と色分けするつもりである。先日の小雨降る中の某所の撮影では、主に人間世界の背景を撮るつもりで今のズームレンズを持っていった。それともう1本。テストを兼ね、いつ買ったか覚えていない広角レンズを持っていった。所有するなかでは使った記憶が僅かなので駄目レンズ(妖怪撮るには良いかも)のつもりでいた。 普通、絞り開放で画面に表れるフレアは、絞ると減るはずだが、このレンズはどういう訳か絞ると余計に出てしまう。ファインダーの中は、ただでさえ低いコントラストなのに、サンマでも焼いてるような、ほとんど白煙に覆われている状態である。これは無理、と開放のみで一応撮っておいたが、このレンズで撮ったのは、全体の八分の一程度であろう。フィルムだったら、さらに撮らなかった。 しかし帰宅後RAWデータを現像してみると、このレンズの柔らかな立体感に驚いてしまった。おかげで今時のレンズのカットから、必用な数カットを選んだ後は、現像する気がなくなってしまった。 この厄介なレンズは画面の湿度が凄く、河童には最適であろう。 合成作品がほとんどとなった今。レンズの味。いわゆるボケ味が邪魔になる。と思い込んでいたが、いやおそらくそうであろうが、今回はそんなレンズを使っての合成を異界の者共で試すつもりでいる。上手くいくようなら、コントラストとお体裁だけは一人前の、今のレンズを使わずに済む、というわけである。

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ここのところいつにも増して、一日中連絡してくるのが、退職金と年金でフラフラしている人物である。今日も朝からベロベロ。ほとんど何をいってるか判らない。しかし何かしらキャッチーなことをいわないと私を呼び出せない、とは思っているようで、『大変なことが起こった』。(良い場合と悪い場合がある)『ショック。バチが当った』。日替わりでこの調子である。 私のおかげで夜中に電話が来なくなった、とニコニコしているT千穂のマスターのような人もいるが、私は近々、携帯の着信拒否のやりかたを覚えるつもりである。その暁には、私がいかに楯になっていたか、周囲の人間は知ることになるであろう。行きがけの駄賃として、「○さんが女性と付き合うコツを聞きたいからサシで飲みたいってさ。」。と囁きながら、○さんの携帯番号のメモを渡す。なんて趣向はどうであろうか。 夜。ひとごこち付いたし、うるさくてしょうがないので、T千穂に顔を出す。KさんにとってT千穂は、ここから出撃するための基地である。時計を見てはソワソワしだし、どこにどう出撃するか、Kさんが唯一頭を使う場面である。  今日は運送会社の後輩であるSさんに、「荷物運んでた人がお荷物になってどうする」。といわれていた。まったくである。私としては、「あんたもカッパの一種なら、カッパを作ってる人間の気持ちを考えろよ」。といいたい。いや、どこかでいってしまった気もする。そして今日も最後の出撃場所に消えていった。 それにしても、おかげ様で、とはいいたくはないが、Kさんと会ってる間は制作のことは忘れ、その後は制作がはかどることは否定できない。四六時中制作のことが頭から離れない私としては貴重な“ツール”といえよう。そして制作中最近くり返し聴いているのが、3大レクイエムの一つといわれる、フォーレの『レクイエム』である。少なくともカッパの存在を許さない美しさで制作に集中できる。

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昨日の撮影は梅雨の夕暮れの室内で撮るつもりが、一年でもっとも日が長い日に撮影に出かけてしまった。改めてもっと日の短くなる時期まで待とう、と昨日は殊勝なことを考えていたのだが、やはり我慢できなかった。 こんなグウタラでノンビリしている人間はいないが、こと創作のことになると我慢が出来ない。室内に入る外光をシャットアウト。白熱灯のみが煌々と輝く室内に変えてしまった。近いうちに開け放たれた戸の外には、暗い鎮守の森が現れることであろう。寝不足で時間の感覚がおかしくなりながら朝までに3カット仕上げた。 人形の撮影を始めた頃、三脚を立て撮影し、そのままにして明日も続けて撮ろうとした時のこと。すべて同じ状態のはずなのに、昨日の様に上手くいかない。写真を始めたばかりで訳が判らない。私はこう思った。シチュエーションは同じでも、昨日の私と今日の私はすでに違っている。つまりシャッターチャンスは外側にはなく、自分の中にあるものだ、と。イメージがすでに私の中にあり、チャンスは今である。  台風の日。幼稚園児の私はクレヨンで佃の渡し舟を描いていた。煙突に見覚えのあるマークが描いてあったな。と思うが、母が止めるのも聞かず、台風の中を、マンホールの蓋に描いてある東京都のマークを見に行ったのであった。 つまりこういうところは生まれつきなので、私には責任はない。と2日続けていってしまったりなんかして。

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梅雨の夕方の設定なので、小雨混じりの中出発し、某施設をロケハン。5時半で閉まるというので、ギリギリまで粘るが、外光が明るく、思ったような室内光とのバランスにならず。 帰りにK本に寄ると、「今日は夏至だよ」。よりによってこんな日に。
撮影用レンズは揃った。イメージとしては、人物はちゃんと写るのが取り柄だが、特に特徴がない最近のレンズで撮る。異界の存在との区別をつけたいのと、合成のし易さからである。出演をお願いした皆さん、全員一同に会せる機会も少ないだろうが、三島由紀夫の『男の死』で、特に『潮騒』でかなり無茶をしたので、なんとかなると考えている。成否を決するのは、ひとえに背景と人物に当る光の質を合わせることである。 一方異界の者共は、かつてのペンタックスマウント。捻じ込み式マウント時代のレンズの中から、異界向けレンズを選んだ。梅雨空の薄暗く、ジットリした草むらの中の河童。そんなシチュエーション用である。 河童が3体になったら、舞台である房総にでかけ、しばらく撮影してくる予定である。河童2体目の制作。これは私が小学生の時に発売された、懐しい水中モーターを着けて泳いでもらう予定である。サンダーバードでいえば4号といった役どころである。製造元が変わったせいか、イメージよりパワーがないので贅沢に2連にする。 まさかこの齢になり水中モーターを手にすることになるとは。 果たして思ったように泳いでくれるだろうか。当然あの頃のように、浴槽で浮力その他、実験しなければならない。 小学生の私が浴槽で河童を泳がせている私を見たらどう思うだろうか?『泣くな。お前は生まれた時からこの調子だったじゃないか。つまり生まれつきだ。お前に何の責任もないのだよ』。せめて鏡を見ながら血糊で流血した跡は掃除しておこう。

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作中に旅館が出てくる。その看板だが、乱歩の時も『目羅博士の不思議な犯罪』の目羅眼科。『D坂の殺人事件』の古書店『三人書房』いずれも板に彫った物を背景に合成した。今回も旅館に見立てた建物に貼り付けるつもりでいるが、編集者に送ってもらった筆文字のフォントが今回はどれも気に入らない。書を集め始めて目が肥えたせいである。田舎の旅館の先々代が、地元の名士に揮毫を頼んだ、というような味が欲しい。 私は託児所代わりに幼稚園から小学4、5年まで習字塾に通わされたので、太い筆を持つ限り、今でもまあまあであるが、いかんせん楷書どまりである。そこで想い出したのが、私の初個展の題字を書いてくれた、陶芸家を目指していた頃の友人Nさんである。 知り合った当時笠間に住んでおり、私より3つ程年上であったが仲良くしてもらった。その頃も自分で作った筆で、煤を集めて毎日書を書いていた。  絵付けのバイトをしていて、ある日、忙しそうなので私が食事を作った。彼が近所の畑から引っこ抜いてきた長ネギの、青い部分を捨てたら慌てていたのを想い出す。東京生まれの私には、青い部分は捨てる物であった。 その後Nさんは郷里の岡山に帰り、私は人形制作に転向した。岡山で展示があった時にお邪魔したが。周りの山があまりに緑ばかりで花を植えたら、その中にポピーでなくケシが混ざっており、警官が慌てて抜きに来たといっていた。しかし抜いても生えてくるらしく風にそよいでいた。 奥さんが闘病生活の末に亡くなって以来、憔悴して気力が無くなり歯まで抜けた、といっていた。しかし今日久しぶりに電話をしたら、陶芸は7、8年前に止めたそうだが、書だけは毎日書いているという。私の思ったとおりである。あの頃も女性にフラれても書だけは書いていた。頼むと二つ返事。そういう人ではないので、これは相当元気だ、と嬉しかった。

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無い物は撮れないのが写真だが、作り物で代用して、面白い場合とそうでない場合がある。只今、ビジュアル化に向けて制作中の鏡花作品は、巨大な魚が登場する。これがまたイヤにデカイ魚で、物によっては2メートル近くにもなるというし、まためったに獲れないとも聞く。仮に市場などにあったとして、また撮ることができたとしても、合成する背景と、光の向き、性質が合わないと上手くいかないし、それにただドンと寝ていてもらっても困るわけで、私の演出どおりに演技をしてもらう必用がある。 編集者は作ったらどうか、というのだが、私は実物にこだわった。何故なら、鏡花はナマモノは苦手で、ヌラヌラドロドロが嫌いなくせに、いやだからこそというべきか、ヌラヌラドロドロについてリアルに描写するところがある。この魚も捕えられたあげくに血を滴らせる。昨日注文した血糊はそれ用なのである。 実物には実物にしかできないことがある。 この魚の入手がネックだ、としばらく調べていたのだが、血糊を先に注文したのが呼び水となったか、青森の鮮魚店から色良い返事をもらった。もちろん巨大魚を入手するわけではなく、7月中にお子様サイズが入荷したら送ってもらう手はずが整った。それを巨大魚に変身させるわけである。円谷英二の蛸以来ということになるが、熱帯魚を永く飼っていたので、大きな魚の貫禄、ということについては知っているつもりである。

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朝、久しぶりにT屋に朝食を食べに行くと、Kさんが、私が部屋で倒れているんじゃないかと心配した、という話を、ここにも報告に来たらしい。前日夜中まで一緒に飲んでおり、実質、半日携帯電話に出なかっただけである。もし私が実際死んでいたとしても、まだフレッシュで腐敗も始まっていなかったであろう。しかも肝腎な私の部屋のチャイムを鳴らす前に、周囲に電話してしまうは、管理人の所に行くは。あげくに無事を確認して涙が出たとは。勝手に泣いてろ、という話である。呆れるのも少々飽きてきた。

撮影用の血糊を注文する。血糊といえば、江戸川乱歩の『盲獣』の撮影の時、ペットボトルに絵の具を溶いた物を用意して雪を求めて撮影に行ったが、イチゴのカキ氷にしか見えなかった。リアルにすることが目的ではなかったので、最終的には血糊を消し、切断された足先が、積もった雪の間から覗いているだけにした。 絵の具でなくインク系の物を使うとか、やりようがあるだろうが、メーカーは血糊に見えるよう研究しているだろうし、安い物なので一瓶注文してみた。私は独身である。入浴の際、鏡の前で鼻や口から垂れ流したり、プロレスの流血試合風に額から大流血してみることも、我慢する理由がない。三島由紀夫は血糊はマックスファクターだか何処かの何が良い、といっていたらしいが、どうせなら三島と同じものを使いたいではないか。証言者は肝腎なことを覚えておいてもらいたい。  Kさんは酔っ払ってコタツの角に額をぶつけて大流血。旗本退屈男を超えるトレードマークを額に刻印した。しかしよく四十七文字の中から“へ”を選んだものである。Kさんこそ“持っている男”といえるだろう。畳の血痕は消えないらしい。

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河童の目玉が気に入らずやり直し。随分作ってだんだん良くはなったが、血管の描写がいまひとつ。昔、義眼屋で聞いた方法をためすことにした。義眼屋では施術中の幼児の泣き声が、隣りの室から聞こえてきて凹んだ。  姫神様の髪だが、結局エクステンション用の人毛を購入した。美容員に貰った物は色が気に入らず、知人に貰った物は、知人の顔が浮かんでしまって気がすすまない。大体、ご丁寧にコヨりで束ねられ、和紙に包まれており捧げ物のようで不気味である。この知人には十数年会っていないが、無事かどうかも気になってしまう。以前も書いたが、キューテイクルだ緑の黒髪だ、などというのは頭に生えている間の話である。 届いた物は色は漆黒、細いので、人形の大きさにも違和感がない。ただ届いた日は姫様の頭部にあてがっただけで、すぐにしまった。 良く人形を作っていて怖くないか、と聞かれるが、そもそも私は男の中年や老人を作ることが多く、人間のジャンルでいえば、もっとも安全かつ無難な部類ばかり手掛けている、といって良いだろう。作者が怖がってどうするという話だが、今回は女性である。そこに人毛が加わったおかげでいつもと勝手が違う。人工の物ではこうはいかない。そして私が始めて人毛を植えるのが、姫神と河童という、両者とも人に非ず、ということになった。黒髪の妖力を借りることにしよう。

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制作中の泉鏡花作品は今まで制作していた作品と違い、鏡花本人が主役ではない。登場させるつもりもなかったが、せっかく鏡花がウチにいるのだから、出てもらうことにした。それもおそらくヒッチコックのように、さりげなく出てもらうことになるだろう。それと本来サプライズゲスト、ということで、出版後に知ってもらうべきなのだろうが、完成まで間がある。当ブログも、近所に生息する、河童みたいな人物のことばかりではしょうがないので書いてしまうが、先日完成間近の河童と並べて撮影した柳田國男に、かなり重要な役割を演じてもらうことになっている。『遠野物語』の柳田國男と河童の共演が、本作の一つの目玉となるかもしれない。娘の尻を触ろうとして怪我をする、愚かな河童を愛情ある眼差しで、やんわり諌める。「和郎たちは、一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ。」 河童について鏡花は柳田の影響を受けているわけだが、柳田本人は、鏡花の河童の描きかたには少々不満だったようである。
夕方、麻布十番の田村写真に出かけ、eBayで落札してもらったトリプレットタイプの“トンチキ”なレンズを受け取る。アナログレンズをデジタルカメラに使用すると、レンズのもっともトンチキな周辺部がカットされてしまうのが残念だが、その分出来るだけトンチキなレンズを選んでみた。 地元に帰り、K本にて読売の取材を受ける。閉店後T千穂へ。K本の常連も流れていたが、土曜日のせいで、皆さんK本の焼酎でかなりイカレていた。一方、活ける河童こと、トンチキKさんだが、先日またやってしまった『Kさん祭り』のせいで体調不良で大人しい。良き事なり。 T千穂の常連はパチンコで当ったSさんに全員ご馳走になった。

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動物園その他で鏡花作品に登場させる生き物を撮影する場合、アフリカなんとかやアメリカなんとか、などという物を混入してはならず、純国産種に限るべきであろう。となると、あの迫力ある食用蛙も、昔は日本にいなかったわけだから、使うことができない。その餌として輸入されたザリガニも同様である。ザリガニはともかく、食用蛙はちょっと惜しい。子供の頃、蛙やザリガニには申し訳ないことをした。ほとんど殺戮の限りを尽くしたといって良いだろう。特に蛙は2B弾という物をお尻に挿され・・・。
夜作業しているとチャイムが鳴り、玄関が開いてKさんの声。「脅かすんじゃねェ」。意味が判らない。実は朝から携帯が見つからない。一日中電話をくれていたらしい。連絡つかないので管理人の所にいってきたという。 T千穂に行ってみると、話しがすっかり広がっていた。すぐそばで飲んでいるのだから自分が確かめにくればいいのに、K本にも電話してしまって、確認を頼んだりして話がよけい大きくなっている。そもそも管理人のところへ行く前に、まず私の部屋のチャイムを鳴らすべきであろう。玄関は開けっ放しである。まったく人騒がせである。  それにしても妙だと思ったら理由が判った。二人以上でないと入れない店に予約してしまい、私を必死で探していたのである。とりあえずその店に行くと、サザエとアメリカンチェリーが皿に乗ってでてきた。シュルレアリズムのいわゆる“手術台の上のこうもり傘とミシンの出会い”並の奇妙な画である。さらに殻から中身が取り出され、奇妙さがアップ。感心して眺めていると、Kさんは孤独死がどうの、とどれだけ私を心配していたか、という話を女の子にしている。しかも腹の立つことに私とそっくりなシャツを着ていて、いかにも仲が良さそうに見える。黙って聞いていると私が無事だと判った時、涙がでてきたそうである。あの時泣いてたの判った? 『このカッパ野郎!』。

 

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