明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



絵画から作品化した人物は松尾芭蕉、葛飾北斎、一休宗純、臨済義玄の4人だと思う。余談だが、存命中の人物といえば伊集院静氏と吉本興業の大崎現会長だけだろう。 曽我蛇足作の激烈な喝!の表情が面白くて作った。禅宗では不立文字といって言葉や文字では伝わらない、禅画の発達の理由もそれらしい。となると蛇足の義玄を見て、座禅もした事ないのに、その気になってしまった私も、あながちおかしな話ではないのではないか?と度々言い訳している。 当初寒山拾得展なのに、とハジの方にでも、なんて思っていたのだが、事情がわかってくると、失礼しました、と納めるための古い厨子を入手した。それはともかく。 開祖義玄像は、中国の検索エンジンで検索しても少なく、蛇足または息子の二代目蛇足の作がせいぜいである。蛇足作の立体化に続き同じ構図で写真にする。考えたのはそこまでである。しかし原画にない血管を加えたりしていて思い入れが生じて来る。目は充血させたいし。別のカットもとも思うが、義玄の言葉を集めた『臨済録』でも読まないと画面が浮かんでこない。『臨済録』には手を出さないことにしていたが、つい入手してしまった。 今回の個展が終わるまで読まない方が身のためか。



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一日  


月一のクリニック。ここニ、三ヶ月、酒を飲む気が失せたことを聞いてみた。丁度薬が変わったタイミングだと思っていたが、「そういうこともあるかもしれない。」と曖昧である。まあ、飲みたいのに飲めない、とは違うので、むしろ良いのだが。せっかく二日酔いをしない肝臓を持ってあるのに、と思わなくもない。こんな効き目があるならアル中で苦しんでいる知人に勧めたいくらいだが、先生もその程度だし、検索してもそんな効能は出てこない。元々心臓の薬だったバイアグラのようなことが、なんて空想していたが。 臨済義玄仕上げに入る。これは古い厨子まで入手済みなので展示する予定である。しかし本来、臨済宗といえば栄西を作るべきだったかもしれないが、大元の義玄を作ってしまった。しかし私としてはたまたま蛇足描いた一休宗純と臨済義玄だが、蛇足の面識のある一休と違い、義玄は後頭部から前頭部にかけて盛り上がっている人間などいる訳がなく、明らかに手本があるはずなのだが見つからない。



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後頭部から頭頂部、前頭部にかけて盛り上がるという妙なカーブを描いている。実際はこんな人間はいないだろう。いやどうだろう。日本人と同じように見える青朝龍や白鵬の額のアールは日本人にはないものだろう。しかしこの臨済義玄の場合、何百年も伝わる肖像画の通りに立体化するから面白い。座禅一つしたことがなく臨済録も読んでいない私が勝手に創作したらつまらない物になるだろう。作れば良いというものではない。頭部と握った右拳に、下から支える左手の仕上げにはいる。法衣の仕上げは急ぐことはない。 明日は達磨大師の後ろ姿を作る。先日書いたように達磨大師が“ダルマさんが転んだ”と振り返っている。国宝、雪舟の『慧可断臂図』と違い、達磨は慧可の存在に気付いて注意を向けている。本来その前に慧可の頭部を作る所だが、頭部はすでに10個はあるので、今はすぐに撮影出来る状態の作品を増やしておきたい。 雪舟作の見所は背景の奇岩にもある。私は奇岩にする気はない。ただ、これを実写の洞窟にするか石膏で作るか。そこで趣は変わってくるだろう。昔からウソとホントの配合バランスが工夫のしどころである。

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曽我蛇足の臨済義玄像からおよそ200年後の長谷川等伯の義玄像は、構図こそ一緒だが、まるでインド人のような黒さで、何だか濃い。印刷もなかった頃、模写はどうやっていたのか、伝言ゲームのように、模写を繰り返しながら、それぞれ個性や工夫が加わり、同名異人的な変化も生じただろう。私にしたところで手本にはない、血管、筋を加え、どうせ喝!なら、と口をもっと開けた。今の所どこの坊様からもクレームは来ないが、義玄よりもっと偉い、禅自体を作った人物も群馬県で量産されているから問題はないだろう。 その達磨大師に教えを請うが許されず、己の腕を差し出してようやく許される後の慧可大師。雪舟の『慧可断臂図』では達磨大師に腕を差し出しているが、達磨は壁に向かったままである。私の場合は次の刹那、達磨が振り向いた所にしようと考えている。しかし今日つまらないことに気付いた。これではまるで達磨大師が“ダルマさんが転んだ”と振り向いているようではないか。私の地区では“インデアンのふんどし”というバージョンもあったが。


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無呼吸用装置をし忘れのせいで、寝てばかりいて、予定より遅れ臨済義玄ようやく乾燥にはいる。 二体目は誰にするか。『寒山拾得』の豊干禅師を手掛けておきたい所だが、常に乗っている虎を実写にするか、作るか決めかねていたが、虎を作るくらいなら人物を作りたい。猫を虎に変える策も考えてはいるが、寒山と拾得、豊干と虎が寝ている『四睡図』は寝ている猫を撮影するより動物園の虎の方が楽だろう。 となると三体必要な『虎渓三笑図』を作るか。これは人形展示は考えていないので、写る所しか作らない。修行のため山を下りない、と決めていたのに、客人を送って行きながら、話しに夢中になって、つい渡ってしまい、笑う三人の背景の石橋は、すでに撮影場所は決めてある。山深い背景は描かず、お笑い三人組と、石橋だけでも成立するだろう。西洋画ならモナリザの背景みたいなのを描いてしまうところだろう。陰影がないと、写真でもそんな省略が可能である。陰影を描かない石塚式ピクトリアリズムは今回のモチーフでこそ、真価を発揮するはずである。

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目が覚めると、無呼吸用装置を装着せずに寝てしまっていた。おかげで臨済義玄の完成一日伸びそうである。私のような不信心者が、ある宗派の開祖を作ることになるとは。一寸先は判らず、行き当たりばったり、成り行き任せの、あえて良いところといってみたい。”考えるな感じろ“でいくのが、特に今回のモチーフは肝心であろう。何でこんなことになったのか、経緯は後で当ブログを検証するしかない。そして初めから予定通りに制作しました、という顔をする。「絵を描くこととは考えないで作業すること」という横尾忠則さんと違い、幼い頃から今に至るまで、周囲は素っ堅気ばかりで「何だか判らないけど作りたくて作っちゃいました」が通じる人材は絶無である。”感じたんじゃない考えたのだ“という顔をついしてしまうのである。哀しい話しではあるが、今にして思うと、将来を案じた母の教育の賜物であろう。やってることの割に人間関係で問題は起きにくい。

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臨済宗に伝わる寒山と拾得の話を単にビジュアル化しようと思っていたのに臨済宗開祖を作ろうとしている。曽我蛇足の臨済義玄像の激しい喝!の表情を見て作りたくなった。図象で禅の心を伝えようという、臨済宗の意図通り、素直に受け取って、その気になっているといえるのかもしれない。座禅一つすることなく、臨済の言葉を弟子が書き取ったという、臨済録を一読もせず、というのは心苦しくはあるのだが。 などとずっとグズグズいっているが、そんなモチーフこそ私に創作上の快楽をもたらすことは明らかであり、グズグズいったり自分を焦らしたり、盛り上げるためには、どんな手でも使う私である。なので本日全身像制作開始のはずが、空手形で金メダルの喜友名諒選手の気合いを今一度臨済義玄の頭部の参考にした。というわけでご馳走を前に口中は唾液が溢れんばかりである。明日こそ。

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仙人や架空の人が多いこともあってすでに頭部だけが13個もあるという異例の状態で、今までとは勝手が違う。昨日は起きしなに、寝惚けながら、よりによってこんなモチーフを、何をやらかしているのだ、と最低な気分で目が覚めた。そんなこととの関係は不明だが、実は今年に入ってずっと腹が緩い。整腸剤も効かず、クリニックでずっと薬を貰っているが芳しくない。もっともそれでゲッソリ痩せることはない。ストレスなんて感じるタイプではないが、自分が思っている程ではないのか?  それはともかく。明日より、ようやく新シリーズ第一作となる、臨済宗開祖、臨済義玄座像の制作を再開する。結局、殊勝なことを考えても、物心ついて以来、取り憑かれ続けている快感物質に抗うことは出来ない。かつて噛みつき魔と恐れられた悪役レスラー、ブレッド・ブラッシーはいった。「俺の邪魔をするヤツは誰であろうと噛み殺す。それがたとえ俺のお袋でもな!」アメリカならともかく日本でお袋でもな、といわれても今一つではあったが。

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禅宗にはリアルに制作された肖像画が残されている。なので今日でもその面影を想像することが可能である。当初これも臨済宗か、と思っていたら、その殆どが臨済宗のものであることは最近知った。しかし臨済宗開祖、臨済義玄(~866)ともなると古すぎて正確な肖像というわけにはいかないが、曽我蛇足の作品は一休宗純がお墨付きともいえる賛を書いているし、2021年の私としては”そういうことにしておこう“といっても罰は当たらないだろう。蛇足の義玄は、その変わったハゲ具合が、まるで見てきたような描き具合だな、とは思っていたが、それもまた先達の肖像画を元にしたらしいと知って腑に落ちた。 久しぶりに霧吹きを購入、特に夏はこれがなければならない。昔の霧吹きは、大工センターなどで買っても5、6年はもったが、今の製品は霧吹きに限らずそうはいかない。粘土も準備済みである。



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“喝!”の表情が面白い、それだけで首を作った臨済宗開祖、臨済義玄だが、当初寒山拾得のはじの方に置いておこうなどといっていたのが申し訳ない、と中に納めるボロボロではあるが厨子を用意した。 私が参考にしたのは曽我蛇足が描き、一休が賛を書いた作品だが、義玄といえば、そのまた遙か昔の人であるし、どこまで面影を伝えるものなのか、とずっと調べていたが、中国で描かれた肖像を見付けた。しかし、まるで別人である。ここまで古いと、その歴史の中には様々な経緯があることが判ってきた。 私が探せていないだけで、当然、義玄の肖像は様々あるようである。元々穏やかな表情の義玄像であったが、北宋末、南宋初のある禅僧が、伝統的な義玄像を描いていた画工に”怒目奮拳“ の義玄像を描かせ、それが日本に伝わり、その中の曽我蛇足作を私が見たということになる。 座禅一つしたことない私が何故ビビらずにいるかというと、禅は“不立文字”文字では伝わらない、と臨済宗に禅美術が発達したようだが、となるとそれらの図像を目にし、その気になっている私には、意図通り、何某か伝わっている、と解釈しているからである。ビビるのは作ってしまってからで良く、後悔するのは作ったずっと後でも出来る。


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禅宗は不立文字という考え方故、その分視覚的な芸術的作品が残されているということなのだろう。臨済宗開祖、臨済義玄は、曽我蛇足の描いた凄まじい表情の”喝“に感じ、ただそれだけで作ってしまったが、まあ間違ってはいないだろう。 作家シリーズの時は、写真資料だけでは足らず、伝記、評伝の類を読みまくった。しかし、この千年以上前の人物は、蛇足の肖像画にしても、想像で描いた物だろうし、アプローチの仕方は同じ訳にはいかない。ただせめてどんな人物で、どんな言葉を残した人物なのかぐらい知っておかないと、あまりに無責任という気がしなくもないのだが、だからといって、臨済義玄の言葉を集めた『臨済録』を読むことは“考えるな感じろ”の妨げになりはしないか。という一抹の危険を感じているのである。蛇足の肖像画に感じ、作らずにいられなかった。これが全て、では足りないのであろうか。何て考えながら作り進めている。例によって誰に相談出来る話でもなく、今日も金魚をただ眺めるのであった。

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コロナ禍は、子供の頃に夢想した、王様に石の塔に幽閉され、ここで好きなことだけをしておれ、という機会を良くも悪くも私にもたらせたようである。単なる古典的説話として描くつもりでいた寒山拾得から、禅モチーフに寄って来てしまっているのも、おそらく偶然ではなく、理由があるに違いない。そう思うと自分の外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想という、その遙か昔、頭に浮かんだイメージにこだわりを見せた幼いあの頃から今に至る流れを最近考えないでいられないのも、妙な予感を感じてしまう。 今回どういう訳だか第一作となるであろう臨済義玄像の完成を前に、禅は不立文字というわけで、曽我蛇足の残した肖像画と私のへそ下三寸の判断のみで完成に向かうか、江戸川乱歩作品を読まずして乱歩像の完成はないように、義玄の残した『臨済録』を読むべきか、読まざるべきか。ちょっとしたきっかけで進行方向に変更が起きるものだから、人生も第三コーナーに差し掛かるとうかつなことは出来ない。

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最初に完成させるのは、今の所臨済義玄にする予定にしている。中国に、どんな義玄像が残されているのか知りたいところだが、~西暦866年の人で、2016年が臨済禅師1150年だったそうだから、そう気にすることはないだろう。 谷中の全生庵に、三遊亭圓朝像を展示したとき、搬出時に、全生庵が臨済宗の禅寺ということで、いずれ寒山実得を作ります。と口走っていたが、それがまさかの開祖を作ることになるとは。まず義玄にしたのも、いつまで経っても、臍下三寸の声に頭が付いて行けず、何であれやこれやを作るはめになったのか?という思いのまま日々暮らすのも、そろそろいい加減にしないとならない。最初に開祖を作ってしまえば目も覚めるだろう。 ワクチン二度目の友人からメールで、昨夜、猛烈な悪寒がして40.8度の熱が出て嘔吐したそうである。小学生の時、注射や検査は、名前順に並ぶので、ずっと一番か、二番目であった。終わった後、みんなの注視の中、思いっきり痛そうにしてやったのを思い出した。モデルナは副作用が大きいと聞く。 

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禅宗にリアルな肖像画を描く習慣、技術があったことで寒山拾得から土俵をはみ出し、一休宗純、臨済義玄にまで手を拡げることになった。肖像画のリアリティー、完成度は、その翌年、鏑木清方が樋口一葉や三遊亭圓朝像を描いたといわれても違和感を感じない程である。曽我蛇足の臨済義玄像は、今から千年以上前の義玄を後に想像で描いたのだろうが、一休が賛を書いているくらいで、臨済宗公認の義玄像だと解釈して立体像を作っているが、栄西の立体像はあるのに、義玄像は何故か今の所目にしていない。達磨のイメージを受け継いだかのような顔だが、特徴的な形状の額に、何か根拠がなければこうは描かないだろうという珍しい毛髪の禿げ方である。どうせ喝?というならと、より口を開けた。来週中には、曽我蛇足の肖像画を参考にして制作した一休、義玄の首が完成する予定である。 



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十人作った頭部のうち、一休宗純が一番大きい。ということは、一休が竹竿の先に掲げるしやれこうべも、それなりの大きさにしなければならない。顎の骨は取れてしまってない方が自然だろう。一休の時代は、しやれこうべくらい、ちょっと土を掘り返せば、いくらでも出てきたろう。 一休と、臨済義玄、どちらを先に作ることにしたのか、すでに忘れてしまったが、いずれにしても臨済宗つながりである。一休は小学生の時に読んだ伝記がきっかけだったが、臨済義玄は“喝”といっている肖像画を見たのがきっかけで、その画には一休直筆の画賛が書かれており、そんな連鎖も私を後押しした。つまり臨済義玄を知ったのは最近のことで、予定外に、突然作り始めたこともあり、展示する場合は端の方にそっと、なんて書いた記憶がある。知らぬこととはいえ、実に失礼なことを言っていた。そこでいささか貫禄あり過ぎ、つまりボロではあるが、義玄の座像が充分入るサイズの厨子を入手した。



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