明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



午前中NTTの工事。Wi-Fiは申込みから3日で届くはずが来ない。確認すると、工事終了後約一週間だという。話が違う。まあ今更どうでも良い。アリオ北砂にて食料の買い出し、こちらへ来て葉付きの大根を一度買ったがどこで買ったのか忘れてしまった。砂町銀座だったろうか。 買い物を終え、出口近くのソファーで遠近法について考えていて何だか行けそうな気がしてきた。モヤモヤとアイデアが浮かんだ時は、ます田村写真の田村氏に連絡する、そして私が荷物を担いで持って行くと、先回りして入口で待っていてくれる。そんな感じだ。陰影を無くす時も、整理が出来ていないまま相談に行った。 今はデジタルだから出来上がりの想像がある程度付くが、アナログ時代は、私より先に私のしようとした事を見ているわけで、そのプリントを見て、“私はこういうことをしようとしていたのか”と最初に観る田村さんの次に私が思うのであった。気球にぶら下がった乱歩はファインダーの中とはイメージが違っていたから自分で驚いた。しかしこうして思うと、昔から遠近感とは、何かと縁があった。両目で作る立体作品から始め、一眼の写真作品に変換するようになり、この狭間でああだこうだし続けて来たような気がする。そうこうしていたらソファに腰掛け2時間近く経ってしまっていた。

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以前は作品はスチール棚に立たせていたが、出品の度、埃を払ったり色を塗り直したり、東北の地震で落ちて壊れたりしていた。16年の深川江戸資料館の個展の際に、撮影専用に、写らない所は作っていなかった作品を作り足して作品が増え、当時母と同居していたこともあり、全て持って帰るのは無理、とトランクルームに預けた。その際に、某ゼネコン現場監督のMさんがトランクルーム、人形を収める衣装ケースを手配してくれ私と違って空間把握が専門で、無事に収まった。2メートル超のプリントは、薄いこともあり、たわませて押し込んだが、リコーイメージングで展示した際、でロールに巻いて貰い、これもおかげで収まった。収まったが、フィルムと、その他雑物が未だに出しっ放しで、これを収める前に、三島由紀夫を作り始めてしまったら、せっかく断捨離を済ませたのに面倒な事になりかねない。北斎を作りながら、押し入れから三島を出してはならない、と念じていた。北斎も仕上げを残し、おおよそ出来たので、仕上げる前に、出しっ放しの物の整理をすることにした。面白くも可笑しくもないが、面白く可笑しい事をするためには仕方がない。来月には三島を、また陰影の無い“石塚式ピクトリアリズム”で撮り直すべき旧作を押し入れから引っ張り出す事にする。





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制作  


最近、ブログを簡単だという方法でアップしているが、情報のリンクのし方が判らず、ブログだけアップしていたが、下書きのまま忘れてしまいがちで、大したことを書いている訳ではなし、一日、二日で気分も変わるしで、書いたまま放ったらかして、改めて書く。 人形を作っていて、一番面白いのは、首ができて、そこからおおよそ作り、乾燥させるまでである。ここは作っていて面白いし、かなり早い。乾燥が終わってから仕上げ、着彩はどちらかというと作業的である。頭部の制作は苦行に近いし、作業はやはり作業である。北斎は急ぐ事も無いので、自然乾燥に任せている。 都営地下鉄のフリーペーパーで円谷英二を作った時、勝どき辺りが特集場所であったので辺りの風景を特撮スタジオのミニチュアに見立てた。このアイデアは円谷以外には使えない。本当は東京タワーで使いたかったが、いつ廃刊になるか判らないので、勝どきで使った。これはたまたま合成を統合しないままのデータが残っており、後に女性のヌードを配し『円谷な女(ひと)』となった。座高百メートルを超える女がこの状況で毛づくろいをしている。これは5月の個展にも出品する事になっているが、(ふげん社では、私が面白かろうと考えながらすべった作品が全て評価されるのが有り難い。)今回の葛飾北斎も、何を凝視し、描こうとしているかで、面白さが変化するであろう。空席を空けておきたい。 昨年末、知人の開店祝いに、店内に火焔太鼓を担いだ古今亭志ん生を座らせた物を贈って喜ばれたが、新生児を北斎がスケッチしているなんて、お祝いにウケそうである。






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襷掛けの北斎、じっと何か見つめる。何を見つめているか。それにより印象が変わる。何か生き物が良いだろう。刑死人の生首を持ち帰ってスケッチしたのは北斎ではなかったか?作るのは面白いが、私が重要視するユーモアに欠け笑えない。仮に私が追いかけている女性がいたとして、その女性が何かペットを飼っていたら、北斎と共演してみる?なんて言ってしまいそうである。その場合は、実物を見てからにしよう。ブサイクなのを連れてこられても困る。 北斎はアグラをかいているので、一旦乾燥させ、作り難いフンドシなどは、乾燥後に作る事にする。 陰影有る無しで悩むなら、いっその事、同じモチーフ構図で、2種類の作品を作っても良いかもしれない。矛と盾を別々に。陰影のある”この世“に私自身未練がある。自分で作り出した被写体にさらに陰影を与えて撮るのは、被写体を自ら創作する人間の醍醐味である。 となると、陰影無しの方では、一度挫折した浮世絵的遠近法でやってみたくなる。上手く行くかは判らないが、策が無い訳でもない。晩年は日本と西洋的表現の狭間に生きた北斎で試すのも、これも何かの縁と言えるだろう。ただ、絵のように見えるからと言って、見えるだけで、絵と写真の違いは厳然としてあり、難しいところである。 


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一日  


昼間、日本を舞台にした『007は二度死ぬ』をやっていた。勿論、音楽が中国じみていたりおかしな所はあるものの面白く観られた。浜美枝の水着姿を観ていて、20年ぐらい前だろうか、青山辺りだったか、やっとすれ違えるような路地を歩いていたら向こうから浜美枝が来てボンドガール!だと驚いた事があったのを思い出したが、それよりも、私ほどの方向音痴が不案内な路地を一人で歩いていた事の方にむしろ首をかしげた。 北斎はまたしてもふんどしをチラつかせる予定である。何しろ画に狂う老人であるから、ふんどしも要らないくらいである。もっとも、西郷隆盛のように、特徴有る部位の持ち主ならともかく、ただズボラな老人にしたいだけなのでフンドシで充分である。 私の場合、道具としては、芯材を切断するノコギリ、かペンチ、手回しロクロ、芯材をロクロ台に固定するガムテープ、竹べら一本、カッターの刃、スーパーで貰えるアイスクリーム用の平らな木のプーン、粘土の節約、早い乾燥、軽量化のためのスタイロフォーム、霧吹きである。竹ベラなどブラシの柄だし、代用が効く物ばかりだが、唯一替効かず、これでないと駄目なのが、アイスクリームのスプーンである。これは最初期から使っているが、得に弾力が大事なのだが、これがないと。着衣の仕上げができない。それにしても霧吹きの調子が悪い。昔は、たとえホームセンターで買っても2、3年持ったものだが。ろくなものが無い。今度一生使えるような、霧吹きの銘器と言われているような物があるなら、調べてみよう。明日あたり、アイスクリームのスプーンで、襷掛けした着物に取り掛かりたい。

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月一回のクリニックへ、ここは美人ばかりだが、最近入ったスラッとした看護師は、私の手に付いた粘土を目ざとく見つけ「どうされました?」急いで出てきたので付いたまま。そもそも粘土、絵の具は汚いという感覚がなく、平気で手に付けたまま酒場に顔を出していた。ところが油が付くのが苦手で、フライドチキンなど食べると紙だらけになってしまう。「人形作ってまして。」「職人さんなんですね。」はぁ、頼まれなくても勝手に作る所が似て非なるところだけど。 引っ越し以来、かなり規則正しく3食食べている。今回も何かされましたか?といわれるぐらい成績が良かった。 当初北斎は、絵筆を持ち、描いている所にするつもりが、右手を膝に着いている画が浮かんでしまったおかげで、絵筆は持たせるが、前のめりに、何か描く対象を凝視する老人になった。北斎がぎっちょだ、という説さえあれば、左手に絵筆を持たせるのだが。最初に頭に浮かんだイメージを修整できない、というなんだかよくわからない私の融通の効かなさである。さらにここで私の第二の病気が頭をもたげる。画室の葛飾北斎、絵を描く事に生涯を捧げた人物をただ描くつもりでいたが、この画狂老人が何を凝視していたら面白いか、と余計な事を思ってしまった。私の癖というのか悪癖というのか、モットーといえば良いのか、"感心されるくらいなら呆れられたい"病が首をもたげ始める。つまり素晴らしい作品ですねと真顔で言われ居心地が悪いくらいなら、何やってるんですか!と呆れられる方がマシ、と言う訳である。

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ほとんどどこにも出かけず、昨日も今日も一昨日も、やる事は一つである。なのに良く毎日書く事があるな、と思う。まあ結局作る事ばかりになってしまうのであるが。何しろ朝薬を飲む事になっているが、薬が入った引き出しから薬を取り出し、それがうっかりすると、昨日の映像とごっちゃになり、昨日なのか、さっきなのか区別が付かず、念のために飲むのを止める、という事が稀にある。思い出す項目が少な過ぎ、これでは時間が経つのが早いのは当然であろう。 結局本日も作りながら考えた事を書くしかない。北斎は、右腕を腕まくりして描くべきものに集中している様子にしようと考えていたが、左腕は袖が邪魔だな。と考えていたが、丁度私が着用しているジャージが、裾が長くて邪魔だな、と鋏でちょん切ってある。それで出かけるわけじゃなしギザギザのボソボソである。と考えた所で、そうか着物は襷掛け、というのがあったではないか、と気が付いた。危なく北斎に"お前、俺の袖をちょん切ろうとしたろ?お前なんかと一緒にするな"と言われる所であった。襷掛けなんて作った事がないし、そうする事に決めた。

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錦糸町の画材屋に材料を買いに行く。北斎が右手で筆を持ち描いている所は断念した。どうしてもポーズが変えられない。逆にいえば描いていない場面にも使える可能性がある。一カットだけであれば、写る部分しか作らない。それは撮影時に、あちらからもこちらからもと、欲を出して撮りたくなるのを避ける意味もある。この一体では、二カットは物にしたい所である。 天秤棒を杖代わりにし、部屋が散らかるたび、片付けずに引っ越していた、どうしようもなくズボラな老人が、頭も髭も綺麗に剃って日頃絵を描いていたとは思えない。今回は頭はペンペン草程度に、無精髭を生やすのも良いだろう。髪振り乱した画狂老人風の自画像が残っているが、顔は険しい狛犬のようにデフォルメしている。 股間からはみ出す、ふんどしで手に付いた絵の具を拭くくらいな事をさせても良いかもしれない。そんな事を考えていると楽しくなって来た。誰も会った人はいないし、構う事はない。部屋が片付けられずに絵ばかり描いているような人間がどんな人間か、私の想像力を絞り出せば、なんとかなるような気がしないでもない。 起き抜けに三島の出品作を数える夢を見た。ほぼ正確であったが、二点知らない作品が混ざっていた。目が覚めていて"夜の夢こそまこと"というから良いのであって、実際寝ていて見る夢は使い物にならず。


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昨年の夏あたりから頻繁に見ていた夢、何かをすっぽかした、または何かをしでかし、非常にまずい、何をしくじったか、と煩悶し、結局何もしでかしていなかったという結構ストレスになる夢だが、これはイヤイヤ部屋を片付けていた事と無縁ではないだろう。何しろこの一年間長くて、なかなか歳を取らず、またうっかりして忘れていたのではないかと、不思議でしょうがない。それもようやく来月。長生きしたけりゃ、いや時間の流れを遅くしたいなら、やりたくないことをイヤイヤやっていれば時間は経たない事が判った。 本日起きぬけに久しぶりに例の夢を見た。ヤフオクに出品した物がすでに取引が終わっているのだが、それを入手するにあたっての、支払いをし忘れていた、まずい。としばらく葛藤し、徐々に目が覚めながら、ヤフオクに出品した事などないではないか。本日など二本立で『椿説弓張月 』の武藤太の責場は、背景に雪が積もった木が欲しいな、失敗した、5月には時間がないじゃないか。雪のない所に積もらせた事があるからなんとかなるかな、目が覚めながら、そうだ雪の季節はこれからだった。私の方向音痴は地図上の事に限らず、全方位的なのだが、夢でも相変わらずであった。 

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以前、サンディエゴ写真美術館の館長クラチコさんに作品を見て頂いた時、最後に何か質問は?と聞かれた。私が聞きたい事はただ一つ。私と同じようなアプローチをしている人はいますか?であった。ウーンと言って頂いた紙片にはシンディ・シャーマンと書いてあった。怖れ多いし大分違うと思うのだが、3つ年上の彼女に昔ちょっと惚れていたから嬉しくはあったが。 私は自分の倒錯性について思うのは、夜中に一人制作していて、今地球上で、こんなことしているのは私だけだろう、と思うと得もいわれぬ幸福感に満たされるのである。勿論、要らないから誰もやらないのだ、という可能性は横に置いておける私の性格もあるだろう。それは人と違う事をしたい、ヘソ曲がりである、などという陳腐な理由とは意味が違う。一般人が、家族に囲まれ団欒の中で感じる幸福感と、おそらく異音同義なものであり、逆に家族に囲まれた団欒の中では、孤独感に苛まれ私は耐え難い苦痛を味わう事になるだろう。この件に関しては私自身の倒錯性を認めざるを得ない。 こんな事を書くと、◯◯から間もなく過剰に反応したメールが来るだろう。 ''お前それは、北斎で何かやらかそうってフリだろ?蛸と絡ませた時、言ってただろ。いつもと違って北斎本人にウケようなんて考えてもいないし、子孫なんかいないからどうでも良いんだ。’’ こういうトンチンカンな早合点がいるから困る。私はただ画室で絵を描く葛飾北斎を作りたいだけである。


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一瞬で唐突に浮かぶイメージに最後まで支配されて良いのか。諦めの悪い私はそのせいで可能性を失っているのではないか、常に疑心暗鬼になるのだが、悔しい事にファーストインプレッションを超えたことがない。チャーリー・パーカーじゃあるまいし。今回はいつになく抵抗した。私が制作した人物でも世界的スーパースターである。今はどちらかというと、写真のモチーフとして作っている。ならばまずどんな絵にするか考えることにした。もちろんスケッチするわけでもなく、ミルクボーイやかまいたちを観たりしながら、何十年ぶりにコーンフレークを食べたくなったりしながらである。陶芸家をやっていた地元の先輩が、かつて小中の同級生が、連絡もよこさず突然遊びに来るので困るとこぼしていた。あいつら手を動かしてなければ暇だと思うんだよなと。堅気の人から見れば、手を動かし何か作っていなければ一服しているようにしか見えないであろう。 たしかに私など、あれだけ作りたくて我慢できずに首だけ引っこ抜いて来たのに、傍から見れば漫才観て笑っているだけのようにしか見えないし、書いていてもぐうたら者の、言い訳にしか思えない。だがしかし、先日書いたように常に葛飾北斎という色眼鏡をかけている状態であり、スケッチブックを前に励んでしまえば、いざ制作の時は、設計図通り作るプラモデルを作るが如き心持ちになってしまう。子供の頃から、塗り絵やプラモデルの下手くそさは自分でも呆れるほどであった。 長いこと作って来たから己の操作法は心得ている。そして北斎の爺い、随分と手こずらせやがったな、と。これをアップしたらようやく粘土を手にすることになるだろう。

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瑠璃色に水玉のご飯茶碗、湯呑がそれぞれ四客届く。ドライブインの、職員室の、集会所のアレである。希望通りの佇まい。水玉部分はフリーハンドで呉須(瑠璃色の顔料)ごとえぐっているように見える。その不揃い感が案外一味添えているし、そのディンプルが滑り止めとしての効果もある。やはりここまでロングセラーになると私の思った通り、製造者の思惑までもすり減って嫌味もない。新刊書店になく、古書店にある好ましさと同じである。 陶芸家を目指しながら、一年間製陶工場にいたおかげで、良い物を安く、という矛盾した事を、そう思われないための企業努力、企みがどうしても鼻についてしまう。売れなければ、点の一つ線の一本を工場長の指図で徐々に減らして行く経験もしたし、下請けの老夫婦がもっと仕事を、と明らかに目を泣き腫らして来るのを二十歳の私は見ていたから、おかげで余計な物まで見えてしまうのである。なので、引っ越し以来、まだ飯茶碗がない、とブログを書いていて浮かんだのがルリ水玉であった。 何本か引かれたラインは、朝ドラのスカーレットのタイトル冒頭に出てくる手回しのろくろ台に乗せ回転、遠心力を利用し指先で一、二度中心にむけ突っつくと真中に来る、そこで線をツーッと引く。工場で毎日やった。これは後に一度だけ役にたった。居酒屋で誰かが持ち込んたEPレコードを聴こうという事になったが、真ん中にはめるアダプターが無いという。そこで私がターンテーブルを回転させ、ツンツンとその度”芯出し”してレコードをかけた。






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蝋燭の炎は、一度筆で描いてしまったら戻れそうにない。そういえば、昔手塚治虫を作った時、手塚マンガのジェット噴射は蝋燭の炎みたいだったな、と蝋燭の炎を撮影して使ってみたが、流石にそのままでは出力不足は如何ともし難かった。 私は行き当たりばったり、いい加減な割に、一度陰影を消したら、以後すべてそれで行くべき、などと律義にけじめを付けたがるところがある。しかし、整合性、矛盾をものともせず、夜の夢を優先してこそ"乱歩チルドレン"である。今さら蝋燭の炎にレンズを向けて、などやる気がしない。後戻りはできない。じゃあ水はどうするんだ。いずれ直面することもあろう。円谷英二も、水と火には苦労している。 ところで、律義といえばどうにもならないのが、一度頭に浮かんでしまったら、構図その他変更が効かない件だが、やはりどうすることもできず。次何作ろうか、などと悩むことが全くない代わりに、この融通の効かなさは嫌になる。片手に人形、片手にカメラで街に出て撮影して歩いた“大リーグボール1号"時代にはなかった事である。諦めてファーストインプレッション通りのポーズで北斎を作り始める事にした。 






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葛飾北斎は、陰影のない”石塚式ピクトリアリズム“ですでに蛸と赤富士の二点ある。三作目は画室で絵を描く北斎に決めた。窓から富士山が見える、というのも考えたが、まずは夜、行灯、蝋燭の光でいきたい。江戸時代、蝋燭は、庶民にとって高価で、その多くは魚からとった油を使った、よって魚臭くて早く寝た。そんな時代である。夜は今の常識からすればかなり暗い。まずは痩せ我慢?せず、どっぷり付け汁、いや陰影にたっぷりひたしてすすってやろう。 正直言って”石塚式“の制作は、蕎麦を汁に浸けたいのに我慢を強いる手法である。何度も繰り返したように、造形する、ということは陰影を作り出すことに他ならない。今までそうしてきたし、自分で作った皺じみた男達の陰影をさらに強調する工程は格別である。それを一切しないのであるから。しかし私の大リーグボール3号たる石塚式は、技術的には簡単だが、被写体制作と撮影者が同一である、ゆえの葛藤こそが、二刀流に始めて意味を生じさせた。それに比べれば、これまでやって来たことは二人でやることをただ一人でやっていたに過ぎない。 ところで一度蝋燭の炎を筆で描いてしまった私は、写真的リアリズムの世界に戻る事など出来るのだろうか。何を今更しおらしいフリしていやがる。と書いてる自分がそう思う。

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葛飾北斎は、深川江戸資料館の杉浦日向子のコーナーに一年間貸し出し、昨年11月に終わったが、返却されないままであった。私も引っ越しなどあり、いつでも良いや、とそのままにしておいたのだが、作りたくなると、どうにも押さえ難くなる、よく口がもう豚カツになってるので、なんて人がいるが、今日は口が三島ではなく北斎になっている。昔は材料を買うのに翌朝まで待てずに、室内アンテナを切ってしまったり、色々しでかしたが、作りたいのに作れない、というのがカンシヤクの元である。催促すると18日に持って来てくれる、というのだが、我慢できない。かといって、わざわざ取りに出向かなければならないのも。北斎は通常より重たい。そこでどうせ持って帰ってから作るために首を引っこ抜くのだから、と出かけ、首だけ引っこ抜いて帰って来た。これで安心、始められる。 ところが私の欠点が露呈する。棚ぼたのようにイメージが落ちてくるのは良いが、そこから構図が固まって動こうとしないのである。北斎が描いている最中のつもりが、右手を膝に着いている。北斎が左利きであればよいが絵描きとしてそれなりの特徴であるから、私の耳に入っているだろう。実に困った。 私が憧れ続けているのは、スケッチブックを前に、ああでもない、こうでもない、と悩む事である。下手にスケッチなんかしようとすると、最初のイタヅラ描きで決まってしまうので、うかつに鉛筆も持てない。さてどうする。 Eテレで室生犀星のヨーカン好きをやっていた。


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