朝6時半ごろ茨城へ向け出発。田村写真には色見本とデータを午後出版社にバイク便で届けてもらうようお願いする。今回著者の指名ということであったが、編集者が立体を扱ったことがなくイメージがつかめないらしく、なんとなく不安が伝わってきていた。
昔は道路がひどく、父が田舎へ行くというと、車酔いの地獄が待っていた。着いてしまえば親戚の連中と遊んで楽しかったのだが。自転車や竹馬に乗れるようになったのも、ここでの夏休みの間であった。 亡くなった叔父というのは私の父と違って社交的であった。物心つく頃、叔父自作の家具調の巨大ラジオが家の床の間に収まっていた。高さは1メートル数10センチあり、幅は60センチ以上ある家具調のラジオであった。父の葬式の時、熱そうにお茶を飲んでいるのを見て、私の猫舌が父方由来であることを知った。 場所を移して会食となったが、前に座ったお二人は、小さいころ鎌をもって追いかけられた覚えがあるが、水戸の天狗党三総裁の一人の直径の子孫である。アダージョで徳川慶喜を作ったが、天狗党からすれば慶喜に見捨てられ斬首になったことになるわけで、4番目に首を切られたらしいといっていた。話を直接聞けて良かった。献杯の挨拶を急にさせられていたHちゃんは、彼が中学生、私が小学生だったろうか、父が家に遊びにきた彼に映画を見せてやろう、と近所の映画館に行き、立ち見で観たのが進藤兼人の『薮の中の黒猫』であった。太地喜和子のデビュー作で、中村吉右衛門が化かされる相手役であった。父が亡くなった時、ビールを注ぎながら映画を観にいったことを覚えているか訊いたらうなずいていた。モノクロとはいえ、私たちが始めて巨大なヌードを観た日である。忘れるはずがない。役所に勤めていると訊いているが、こういうときの挨拶は手慣れていて感心した。私など、こんな時、何をいっていいのかさっぱり判らない。 そこへ編集者よりメールが届く。さっそくデザインに入るという。喜んでくれているようで、肩の荷下りる。帰り際、今回施主の従兄弟が私のブログを見ているらしく「Kさんが気になってしょうがない」。実際会うと、そう良いものではないのだが。
帰りの電車で、ろくに寝ていない私と母はうつらうつらしてしまう。母はおそらく2時間程度しか寝ていないだろう。帰ったら寝るようにいって上野駅で別れる。帰宅後一休み。法事と締め切りが重なり疲れた。その後T千穂へ。Kさんが広くなったおでこを隠そうと、最近前髪を密かに伸ばしているが、ちょっといじったら、横山ノック、あるいはたこ八郎状になった。笑いをこらえて、さらに伸ばすべきだと薦めておいた。どんな生き物だと見学に来る人のためにも一工夫すべきであろう。 しばらくして母より電話。あのまま家に帰らず、カラオケだという。開いた口ふさがらず。
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