明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



『蘭渓隆面壁坐禅図』は、禅師、眼前の地面を辺りを半眼で。禅師を囲むように岩窟内の岩肌。背後の入口、岩窟の開口部は、外との明暗差でまるで禅師の光背のような感じである。そのはるか向こうに見える山並み。その上空には雲にくるまるように龍。こちらから見ると、まるで禅師の頭上から法の雨を降らせているようである。 それもこれも陰影がないからこそで、各オブジェが干渉し合わないから自由である。かといって構図だけの話ではない。 雪舟の『慧可断臂図』では達磨大師に弟子入りするため、慧可は左腕を切り落とし、哀し気な表情ではあるけれど平然と差し出せるのも、陰影がないからこそである。陰影などあると小指一つでも、アウトレイジの中野英夫の如き耐え難い有様になってしまうだろう。もっとも私の断臂図では、我慢できずに血を滴らせてしまったけれど。



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水石といえば聞こえは良いけれど、ヤフオクで入手した、早い話が、山や河原から拾ってきた石ころである。とはいうものの、用途別に2種類5個を選んだ。360度使えるので、これで全て賄えるだろう。水に濡らして様子を見る。濡れて落ち着いた感じが良さそうだが、濡れて光ってはいけない。一番嫌いな梅雨の時期、唯一の楽しみだったのが雨の日に、閑散とした清澄庭園に出かけ、全国から集められた濡れた庭石を眺め、帰りに伊せ喜でどじょう丸鍋で一杯やって帰ることだったが、伊せ喜は今はない。 画面を2つに割るように滝が流れる予定だが、果たしてそれがうまくいくかは、やってみないと判らないが、やったことがないことを試すほど面白いことはない。蝋燭の灯や人魂は墨汁で筆描きしたものを使ったが、一見奇妙ても結果がイメージ通りならOK。と平野レミがいったかは知らない。
三遊亭圓朝



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達磨大師が面壁坐禅をして真正面を向いている作品はある。しかし視点と達磨大師の間に距離があり、すぐ目の前の壁に対面している感はない。対面している壁が10メートル先だろうと面壁というのなら話は簡単である。 取り掛かる前に、現在壁を背にする臨済宗も、蘭渓道隆存命の七百数十年前は、開祖達磨大師同様面壁坐禅で、袈裟も着けていたことも確認して制作を開始しており、その時から表情をどう表すか、と考えていた。振り返るのは一度やっているし。 斜め45度向いている禅師像も立体にすれば、どこからでも撮れる。どんなお顔なのか真正面から見てみたい。この二つのテーマを一作に。 迫った壁から禅師を描くのでれば、広角レンズ的表現を使うしかないだろう。64年の東京オリンピック。グラフ雑誌を見て、トラック競技の縦列のカット。なんで後ろの選手が大きく見えるんだろう?長焦点レンズのことなど知らなかった。


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一日  


久しぶりにカメラを引っ張り出す。かつて使った特徴的な描写のレンは使わず、カメラに着いていた広角系ズームレンズ一本である。自分で作った被写体がそのまま写れば良く、実物より良く写るというレンズは全く不要である。むしろそんなことがあってはいけない。陰影を排除する石塚式ピクトリアリズムは、何が良いといって、私の原点である人形制作を自覚させてくれることで。被写体が完成した時点で目的の半分は済んでいる。 この手法に至ってから色々考えることも多かった。かつてオイルプリントなどという、修験者の技のような物も経たことも良かった。大リーグボールも1号があったから2号があり、2号があったから3号がある。

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幼い頃の私は大人の前でしばしば余計なことをいってしまう子供であった。もし建長寺で蘭渓道隆の頂相と座像を見たとしたなら、繋いでいた母の手を離し、そばにいたお坊様に「何で名前が同じなのに顔が違うの?」といってしまう可能性があった。その後の母の厳しい躾のおかげでその点は収まったけれど、作ることになると話は別である。松尾芭蕉が門弟達が師匠はこういう人だ、と遺しているのに無視され続けていたので門弟の描いた絵のみ参考に作った。 今回陰影のない平面的な肖像画をもとに制作して判ったのは、調子の描かれていない画面から立体感を類推するのに有効なのはひとえに、人のデイテールに対する記憶のデータ量だ、ということである。『ミステリと言う勿れ』の久能整が人の数だけ真実がある、といっていたが、事実と思われるのは、ご本人が賛を書いた唯一の寿像(生前に制作された像)であろう。斜め45度を向いたそれを真正面に向けるために、面壁座禅の向かいの壁に目があったなら、という策を用いて真正面を向いた『蘭渓道隆面壁坐禅図』を制作する予定である。

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まずは蘭渓道隆と、水石による背景の制作だが、前回はほとんどが遠景だったが、今回は違う。チェックしてみると、虎溪三笑図で使えた庭園の岩も、そうなると使えそうにない。なのでまずは蘭渓道隆の、天童山と想定する背景と、面壁坐禅する巌窟の奥の壁から外に向かう背景を作った方が良さそうである。陰影があったら巌窟の奥で、面壁していたら真っ暗で表情どころではないだろう。 背景を先に用意して、それに主役を合わせるというのは、見るべき場所が少ない都営地下鉄周辺を表紙にするために、都営地下鉄のフリーペーパーで編み出した私の大リーグボール2号である。おかげで、軍医総監姿の森本鴎外を、年齢を逆サバ読んで入学した東京医科大学の前に立たせたし、天童山の巌窟で蘭渓道隆師に面壁坐禅をしていただくことも、おそらく可能だろう。上空には法の雨を降らす龍を。


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今月中に撮影を開始することが出来そうである。被写体である人形の制作体数の割に時間がかかったが、それは何より、肖像画である頂相、あるいは頂相彫刻が、それ自体が師、また師の教えそのものである、として作られて来たことに対する重さによる。人形や彫刻などの人像表現の究極である、という思いを改めて強く持った。 鍵っ子だった私は、当時の百科事典ブームのおかげて中井英夫が編纂の百科事典の、別巻の日本の美術のなかの頂相や頂相彫刻のリアルさに飽きずに眺めたのは、幼い私にも何か感じる物があったのは間違いがない。何故ならギリシャ彫刻などでは、見向きもせず。しいていうならシュールレアリズム絵画に、世に生まれ出でて間がないクセに、明らかに郷愁としかいいようのない物を感じたことだろうか。 半ズボンで畳に腹ばいで眺めた頂相彫刻あの時の私を思い出すと、様々な局面で、その度選択してここまで来たつもりでいるが、果たしてそうなのか?と思わないでもない。

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『蘭渓道隆天童山坐禅図』は背景に岩壁が迫る予定だが、そこを瀑布が縦に流れ落ちる。いずれ使うこともあるだろう、と一応滝のデータがあるのだが。長年〝夜の夢こそまこと”なんてやって来たものだから、そのおかげでホントのことが土俵から追い出されていき、ホントのことが合わなくてなって来た。まさに自業自得。イヤそれで良いのだが。 滝が流れ落ちる山も、手のひらに乗る石ころを使う。久しぶりに庭園の岩のデータを見たら、それも合わなくなっており、もう中国の深山風景は石ころでないとダメになってしまったかもしれない。ホンモノの石ころを〝まことを写す“写真機を使って撮る。絵のように見えるけれど、輪郭線だけはない。

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まだ出来てはいないが、出品作は決まったので、キャプションを考える。歴史上のことや人物の敬称など、最終的にお寺のどなたかに、チェックしていただく必要があるだろう。そういえば97年、作家シリーズ初個展の時、江戸川乱歩のご長男、平井隆太郎先生に来ていただいたが、先生の前で、父乱歩のことを、何と呼べば良いのか、口にしてからコンマ何秒悩んだのを思い出す。先生には個展タイトルに〝夜の夢こそまこと”を使う許可を事前にいただいたが、初出版も『乱歩 夜の夢こそまこと』だったし、結局私に一生ついて回ることになりそうである。それは頭に浮かんだイメージはどこへ行ってしまうんだろう、と思い悩んだ鍵っ子時代に始まっている。今回も、私の頭の中に確かに在った。と確認することになるだろう。

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蘭渓道隆像は、生前に描かれ、本人の賛まで書かれているものが残されているのなら、それが実像に近いだろう、私は素直にそう思うが、様々な時代に作られた像は、顔もそれぞれである。しかし私とは解釈の違いがあり気が付かなかったのだが、私と同じ試みをしている先達に気がついた。 あの人の顔は◯◯だ、という時、意見の相違が生じるのは、その人物のどこを見ているかによるだろう。陰影のない肖像画は、解釈の幅がある。 浮世絵の役者絵や美人画は、陰影のある肖像を見慣れた現代人からすると、皆んな同じような顔に見える。しかし陰影のない肖像が当たり前の時代には、人物の個性がちゃんと描かれているように見え、ファンはこぞって買い求めた。 先達といっても、ご本人にお会いしたことがない、という意味においては私と条件は一緒である。私も平面の画像からずっと人物を立体化して来た。譲る気はない。よって、あの像の作者の正体は調べないでおきたい。

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帆柱  


『半憎坊荒海祈祷図』の半憎坊が雷鳴轟くシナ海において、刀印を結び呪文を唱え、すっくと立つ帆柱を作る。嵐の中、帆は下ろしているだろうから、滑車の付いたただの円柱だが。荒天の背景はこう作ろう、と構想だけは頭にあるが、果たして上手く行くかどうか。いずれにしても昭和30年代東映痛快時代劇調で行きたい。白馬童子は鉄砲の弾を刀で避けていた。大川橋蔵だとばかり思っていたのだが。 続いて蘭渓道隆の合掌する腕の仕上げ。人間大あるいはそれ以上になるので、初めて指の関節部分の皺を作る。次からはそう作ることになるか。40数年、こうして、ほんの少しづつ変化して来た。蘭渓道隆は中国から持ち込み、自ら植えたビャクシンの樹が、建長寺で今や大樹となった。その七百数十年を想い合掌している。歴史の再現ではなく、今だからこそ可能なイメージ作品となる予定。

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母のホームに行く前に、お菓子でも買って行こうと思って家を出たが、人が出歩く気温ではない。買わずにタクシーに乗ってしまった。次に展示を予定している寺に行ったことがあるといっていたので、和尚様のサインを頂いた本を持って行った。96歳。大分ボケて来たが、幸せだというから何よりである。終わり良ければ全て良しである。 禅師2人の法衣は現在の物とは一部違っていて、どうなっているのか判らず着彩に入れずにいたが、鎌倉時代の彫刻にその部分が写っている写真を見つけた。初個展で私が作ったピアノの鍵盤を数えている少女がとんだトラウマになったが、以来、薮の中で息を潜めている一匹の豹のような目が、お前判ってないな?と見ている気がしてならない。そんな目を、そこまでやったか、と呆れさせたら私の勝ちだと思っている。

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制作中の作品は、今まで制作して来た物とは趣の違いを感じるが、数百年間手付かずのモチーフを1人手がけている孤独感は格別である。先日、酔っ払いに自己満足だといわれたが、自分が満足していないものを人に見せるほど図々しくなく、ツラの皮も厚くない。実に楽しそうに見えるかもしれないが、私は飼っていた金魚が死んだり糠味噌がダメになったことはいちいち書かない。 21の時、この決断を後悔としないためにあと何十年かかるものか。見上げた岐阜の製陶工場の天井を未だ覚えているが、後悔にしなかった、間違いなくこれで良かったのだ、と自己満足を感じたのは、ついこの間のことである。簡単に自己満足というが、簡単に満足行くなら話は早い。人生は一回限りだし。

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『東アジアのなかの建長寺』村井章介編(勉誠出版)の中に各地に残る蘭渓道隆像、絵画が11点立体像が18点が掲載されている。初めて宗より本格的禅を日本にもたらせた人物だけある。 そのうち絵画は、おおよそ私も参考にした、生前に描かれた頂相を元にしていると思われ、地方から建長寺を訪れ写している。しかし立体像となるとそうはならず、参考に制作されたのは一点もないように見える。これはいったい何故なのだろう。建長寺で木を刻んだり、模刻が許されなかったとしても、絵画を写すことが出来たのなら、それを元に制作すれば良かったと思うのだが。 私が松尾芭蕉を作った時、門弟が描いた肖像画が無視されて来たので、門弟の作品のみを元に制作したが、建長寺の木像さえも、生前描かれた肖像画を元に制作していないように見えたので、斜め45度向いた肖像画の立体化を試みた。一番見たかった正面の顔だが、どうせなら面壁坐禅図にするつもりでいる。

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蘭渓道隆師3カット目は、手植えした建長寺のビャクシンの樹が大樹となった七百数十年を想い、合掌する予定である。この場合数珠を手にするべきかどうか。数珠の持ち方も宗派によって違う。幸い質問させていただける方のお陰で、この場合、数珠は不要とのこと。 3カットは、それぞれ個人的にテーマを担わせている。『天童山坐禅図』は長辺2メートル超のサイズで天童山山中の風景の中に描く。2 『面壁坐禅図』斜め45度の肖像画から立体化した。正面を向かせ、面壁坐禅を壁側から描く。3 『ビャクシンの樹』参考にした肖像画とほぼ同じ向きにして、肖像画を参考にしたことを示し、さらに腰から上のアップとし、人間大あるいはそれ以上に拡大する。

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