明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



朝T屋に行くと、奥さんの代わりに、いつもは10時過ぎに昼定食の準備に下りてくる主人のHさん。先日50になったという。「これを機会に外に飲みに行くの止めようと思って」。「どのくらい?」「5年くらい」。「ウソだろう?」「ホントだって。だけど、お祝いとかあったときは別だよ」。 中学卒業まで裸足だった運送会社のKさんが来る。昨日、今日と、飲みすぎと寝不足で会社を休んだらしく顔色が悪い。「Kさんちょっと飲みすぎなんだよ」。定年真近のKさんにHさんが説教。横で訊いていると、虎が狼に説教しているようである。いや目糞が鼻糞に、が近い。 帰り際、Hさんから今晩満月だと訊いた。来週早々締め切りのアダージョに、丁度満月を入れようか決めかねていたのである。「Hさん、今晩さっそく満月でお祝いだろ?」
帰宅後着彩を始める。細々と部品はあるが、ほぼ黒ずくめなので、時間はそれほどかからなかった。夕方完成。続いて、マンションの屋上に続く階段に三脚を立てて撮影。階段の高さによって、様々な光の状態を選べる場所があり、丁度50センチ前後の人間を撮影するのに最適である。すでに撮影済みの背景に合わせて構図は決めてあるので、フィルム1本で終了。現像に出している間、ほぼ満席のK本にて30分だけ過ごす。1カットを選び、フィルムのスキャニングに麻布十番の田村写真に行くが、休み。あとで訊くと、急遽写真展のレセプションに出席ということであった。これで今日はやることがなくなってしまったが、これは、アダージョの表紙に、今晩の満月を入れろ、ということだと解釈する。  明け方に一時間ほど寝ただけなので、T屋で飲んで寝てしまおうと行くと、朝、いつも夜勤明けで飲んでいる、タクシー運転手のTさん。すでにベロベロである。T屋の客は、酔っ払っては、オチもない話をする客がほとんどだが、生まれも育ちも深川のTさんは、話をしていて楽しい。 地獄に行っても、鉄砲で鬼を4人は倒せる、といっていたN大射撃部出身のTさんは全日本で14位になったことがあるそうだが「20人くらいしか出場してないんだけどさ」。と笑っている。「麻生の太郎は、俺より幾つも上だけど、大会に、いつもいー女連れてんだよ」。「三橋達也も射撃やってましたよね?」「達っちゃんは良い人でさ、俺ら学生に・・・」ロレツが回っていないが、大会を見学に来た学生に、あっちの草むらで煙草吸ってこい、といってくれた、といっているようである。幼い頃、洲崎パラダイスの遊郭の女達に可愛い、と拉致され、見つかった時は、ほっぺたが口紅の跡だらけだった、というTさんに三橋が出演している『洲崎パラダイス赤信号』勧めておいた。 T屋に置いてあるアダージョの谷崎特集を見て、「石塚さんの作ったタニさんは、どうでもいいんだけどさ、この三味線の彼女が良いんだよなァ」。「来週1冊持ってきますよ」。屋上で満月を撮影し本日終了。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




小学生からの幼馴染Tより電話。「昨日のブログのタイトル“幸せはパリで”みたいだな」。私は今忙しいのである。 佳境に入った人物像のメール画像を見て、「よく似てる」。Tは単に、この人物の定番のコスチュームについていっているに過ぎないと思ったが、どうやら某所の銅像が頭にあるらしい。「あんなのと一緒にするな」。  この人物、没後から現在にいたるまで像が作られ続け、各地になんと1500から2000体ある、といっているサイトを見て仰天したばかりだが、Tには、門弟たちが描いた肖像画が、いかに無視され、勝手なものが作られているかを話し、最近作られた笑止千万な像の、除幕式の画像を送った。「幕を外した時、どよめいたと思うんだよな」。しかし私には判っている。悪い男ではないのだが、子供の頃からの付き合いであるから、Tの物を見る目については節穴以下であることを知っている。黒人の人形を制作していた頃、私の作品のマネをしている、といっては、度々雑誌の切り抜きを持ってきたものだが、『この男には、これと私の作品には、何か共通点が見えるらしい』と、毎回ガッカリさせられた。あそこにお前の作品と、ソックリな物を売っている、と訳の判らない、ジャンクショップに引っ張っていかれたこともあった。  昔、私の家に遊びに来る友人達には、「お前等だけは、私の作品を無理してでも褒めろ」。と申し渡していたものだが、唯一Tには、「作品については何も触れないでくれ」。個展会場には、なるべく来て欲しくないのだが、初日に来ても、私の友人のような顔をするな、といってある。私の知り合いと知って、誰かが作品について話しかける怖れがあるからである。 長い付き合いなのに、私のやろうとしていることが、爪の先ほども伝わらない頓珍漢な男であるが、私の父もそうであったし、興味がない人にとれば、私など、無駄な物ばかり作る変わり者である。  彼がブログをやっていようものなら、幼馴染の私の重度の方向、数字音痴ぶり、電車の乗換えができなかった私に、切符を買ってくれた話など、口を極めて書きそうだから、この辺でやめておく。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ようやく乾燥に入る。乾燥させながら細部の仕上げ。そうこうしていて編集長より、その次の特集人物が決まった旨のメール。 アダージョは、私が提案した人物が特集となったのは過去二人だが、この人物も、私が昨年より進言しつづけた人物で、背景として、さる施設を使おうとすると急ぐ必要があった。ただこの人物を制作するには、乗り越えるべきハードルがあまりに多く、しかも高く、決まったら決まったで、慌てることになるな、と考えていた。そこで私は、決まってもいないのに、すでに人物の評伝を2冊入手し、読み始めていたのである。しかし結果、よけいビビることになってしまった。どうするんだ私。  アダージョでは、アダージョで手がけない限り縁のない人物、中には、蛇蝎の如くに嫌いな人物さえいたが、反面、この人物のように、アダージョにでもかこつけないと、手がける機会などない人物もいるわけである。個人的に個展などで発表するにしても、例えば作家のシリーズなど、あるテーマを設定して考えるわけだから、興味があるからと、闇雲に作るわけにもいかない。 と、書いていて、私も大人になったものだと思うのである。かつて、オイルプリントという、すでに廃れてしまった写真の古典技法を、神田の古書街に何年も通って、集めた文献をたよりに制作し続けた頃は、発表することなど思いもよらないのに、他の仕事をせずに没頭していた。周囲には呆れられ、頭では、こんなことは止めなければならないとハラハラしているのに、止めることができなかった。結局数年後に、発表することになり、自分で驚いたわけだが、一技術、2~5年はかかることも判った。 話は脱線したが、発表の出来ない物は作るな。これは私の中の戒めでも、最上位にあるものである。というわけで、この人物は、アダージョでないと、手がける機会がなく、うかつなことも出来ない人物である。8号で古今亭志ん生を作ることが決まった時、複数の落語ファンから、これをしくじったら大変だぞ、と脅されたものだが。 悩んで身悶えるのは、乾燥中の人物が完成してからにしよう。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アダージョ次号の人物は、古すぎて誰も知らないわけだし、想像で作ればよいだろう、と傍からいわれる。私はもともと資料その他、何かを参考に作るのが嫌いで、架空の人物専門であったので、むしろ、そのほうが得意だと思うのだが、具合が悪いのは、その人物と生前、交流があった弟子達が、肖像画を残している、ということである。私は常日頃、本当の事などどうでもいい、と頭に浮かんだ勝手なイメージで作っているが、上手い嘘をつくには、本当のことを混ぜるのがコツである。実在した人物である限りは、そこにはこだわりたい。  弟子達の描いた肖像画は、作風、画力に違いはあるが、鼻、口、耳は、ほぼ同じ形というのが面白く、本人の遺品や書き残された文字などを見るより、よほど本当に実在していたのだ、という気にさせられた。輪郭はまるで違うが、年齢、体調にもよるだろう。目つきも違うが、弟子達の師匠に対する感じ方が、目の描き方に出るのであろう。そういう場合は、すべて多数決で決めていった。そうしていくと、ある弟子が描いた物が一番実像に近い、と私は判断したが、それがモデルの生前に描かれたものだったので、得心した。  それにしても全国各地にに多数ある、銅像、石像の類は、弟子達が、師匠はこういう人だ、と懸命に描き残しているのに、まったく無視され、まるで昔話の爺様あつかいで、好き勝手に作られている。地元の商店会の会長や、酷いのになると、浮気がばれて怒り心頭のカミさんの親父さんに、「お父さん、○○様のイメージにぴったり!」などと点数稼ぎにモデルに使った物まである。というのは私の想像だが。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




午前中制作していると、Hさんから電話。蕎麦屋行かない?丁度昼飯時なので行ってみると、早速ビールを飲んでいる、まだ酒が抜けていないようでロレツが回ってない。「あれから立ち飲み屋に入れたの?」「?一緒に行ったじゃない」。「違うよ、それは1回目。2回目の話だよ」。訊くと木場公園から一軒目の立ち飲み屋以降、ステーキ屋も寿司屋も、立ち飲み屋の差し手争いも、まったく記憶にないらしい。つまり昨日、私と話したことは、前半部分しか覚えていないことになる。しかも帰宅後くさや臭いと風呂に入り、また居酒屋に飲みに行ったそうである。実際は4軒目なのに、本日2軒目のつもりで。そこで運が悪いのは、仕事が終って1人で飲んでいた、件の立ち飲み屋のご主人である。幸いアルバイトに、2回目の入店を阻止されたことは覚えていないわけだが、公私にわたる説教を延々とされたらしい。訊いてみると、あんたの出る幕じゃないだろう、という話であったが、大人しい立ち飲み屋の主人は、心配してもらって、と礼までいったそうだから、説教をする方もする方だが、される方もされる方である。  今朝目が覚め、「腹減ったー」と、牛丼を買いにいったそうだが、大盛りじゃないんだ、と不満をいった倅をどやし付けたらしい。そして例によって牛丼は食べずに、こうして蕎麦屋に。「可哀相に、昨日の皺寄せが息子に」。というと、ここへ来る途中、警官が交差点に、あまりに無駄にゾロゾロいるんで、文句いってきたという。 一緒にいると、退屈することのない愉快な男だが、残念といえば、彼の記憶の中に私との歴史が、おそらく半分くらいしか保存されていないことである。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




御茶ノ水で粘土を買い、帰りにT屋に寄る。主人のHさんに、木場公園で八丈島の物産展やってるから、くさやで飲もうと誘われる。今忙しいので、というと、「すぐ寒くなるから、ちょっと覗いてくるだけだよ」。よく考えたら、そんなことは絶対ない男である。 ムロアジとトビウオのくさやを焼いてもらい、焼酎『情け嶋』700mlを。周りは飲んでいても紙コップで日本酒かビールである。目立つのでテントの奥へ。くさやは美味しいが、昔と違って匂いが薄く、なんでもマイルド方向に行ってしまっているのが不満である。ああだこうだ飲んでいると、2本目も空く頃、中学生まで裸足だった運送会社のKさんが合流。外は良い天気で、結局三本。これから宴会だというKさんと別れ、帰り方向に。Hさん「立ち飲み行かない?」私は冗談じゃないよ、忙しいんだから。というはずが、口から出るのは真逆の言葉であった。「だけどまた水飲まされんじゃないの?」Hさん立ち飲み屋では水を飲まされ、実質、出入り禁止状態である。行って見ると、店に姑が出ていたためであろう、酒が出てきたようである。店を出ると、「ああ腹減った、ステーキ食いに行こう」。これが出ると黄色信号なのだが、私もいい気持ちで忘れていた。ステーキ屋に行くと小さなステーキを頼むが、Hさんいってるだけで食べようとしない。おかしな癖である。ビールを飲み、Hさん店主と散々喋って店を出る「腹減った。寿司行こう」。日本酒を飲み、アナゴと何かを摘む。そろそろ帰ろうということになったが、「支払いは済ませてあるから」とHさん。隣りにいて、支払ったところは見ていないが、そういうこともあるか、と私も不思議に感じない。出口で当然呼び止められる。店を出ると、Hさん、さっき出てきたばかりの立ち飲み屋に、また入ろうとしている。入り口で入店を阻止するアルバイトの女の子と、差し手争いをしているHさんを残して帰った。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




夜中に一時間ほど、アリゾナの友人K子さんとスカイプでTV電話をした。起き抜けだか仕事の前だとかで、化粧前の顔はやはり映してくれず、室内や窓の外、日の出の景色を見せてくれた。  昨年亡くなっていた友人のことを知らせるため、各地で陶芸家となっている友人等と久しぶりに話をした。全国に散らばっているので、そう簡単には会えない。そこで思いついたのが、モニターの前に酒と肴を用意し、遠く離れた連中と酒を酌み交わしたらどうだろう、ということである。それなら男同士見つめあっても、間がもたないということもないし、ビデオ会議のように、複数の連中の顔を観ながらでも可能であろう。特に陶器を作っている連中は、飲み始めた頃に出会っているので懐かしい。何故あの頃、あれほど飲む必要があったのか、という謎について、話し合ってみたいものである。モニターを見ながら、その手前にある肴はなんだ?とかいいながら飲むのも楽しいであろう。しかし、昔から、私が面白がっても周りが乗ってこない、というのはよくあることで、また始まった、喜んでいるのはお前だけだ、という顔をされるのがオチである。だいたい、私と同年輩で、土をこねているような連中は、みんなアナログなデジタル音痴である。かくいう私も、かつてはそうだったからよく判る。メールをするようになったと思ったら、いつの間にか返事が来なくなる。メールが着てたのは判ってたけど。とみんなそんな調子である。 糸電話の糸は長いほうが楽しいように、遠く離れてた人とやったほうが良いだろうが、近くの人で良いから、とにかく、一度やってみたい。だったら会って飲めばいいじゃないかと、娘の長電話に呆れる親のようなことをいってはいけない。
頭部ができて、さて一気に胴体を作ろう、と意気込んだところで、粘土が足りないことに気付いた。それならばと、今日は両手を作ることにした。ノラ・ジョーンズがラヴィ・シャンカールの娘だとは知らず驚く。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


笑顔  


頭部が完成し、胴体に入るところで、いつものことだが、気になるところが目に付いた。微笑ませているつもりはないのだが、なんだか笑って見える。ナニ笑ってんだ、と直しにかかるが、何故か、なかなか笑うのを止めない。思いのほか手こずってしまった。私は、架空の黒人を作っていた頃、そのごく初期を除いて、表情を作ることはしない。人には、“泣き笑い”という表情もあるが、おおよそ表情のあるものは、その表情にしか見えないが、無表情なものは、見る人の状態によって、様々な見え方をするものである。能面は、その最たるものであろう。まして撮影までするようになると、光線のあて具合で、様々な表情を抽出することができるようになった。そのような理由もあるが、この人物がここで笑っているのもおかしいと、仕上げを含めて時間がかかってしまった。 こんどこそ完成と、例によってポケットに頭部を忍ばせ、K本に顔を出した。いつもだったら常連に、予告編を披露するところであるが、今回は止めておいた。誰も見たことがない、数百年前の人を見せても、何かいってくれようとする、酔っ払った常連を困らせるだけだと思ったからである。  今日もまた、閉店が近づいてきた頃には、人の言葉尻を捕らえて、馬鹿々しい冗談や、いえば良いというものではないだろう、という類の駄洒落が飛び交っていた。なんでそんな単語が出たのかしらないが、家へ帰っても思い出して笑ったのが『関の宿六』。三島由紀夫の首を切り落とした刀に、『関の孫六』というのはあったが。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


ようやく頭部が完成する。こんな完成が遅いのは初めてである。もっとも資料など調べて、誰が本当のことを伝えているか、誰の鼻が捏造だろうか、などと、頭の中でモンタージュを繰り返し、デフォルメされた昔の日本画を見ながら、考えている時間が長かった。少々ホッとしてT屋に朝食を食べに行くと、いつもの運送会社のKさんと、タクシー運転手の集団。組合の話ばかりのオヤジは、主人のHさんに怒られたそうである。酒場の(早朝とはいえ)カウンターでする話ではない。今日は楽しく盛り上がっていたが、あのオヤジは、どうしても話がそちらにいってしまう。しかも、今は組合に入っていないというから、おかしなオヤジである。  運転手がみんな帰り、奥さんとKさんと3人になり、タクシーの話から、今月13日に、私がタクシーの中から目撃したモノの話になった。オチがなく、ただ怖いので、このブログにも書かなかった。しかし午前中の明るい中で話しても、怖さは伝わらないようである。私は主人のHさんに、この話をしないよう二人に口止めしておいた。今度私が最後の客の時、この話をして帰ってやろうと思っていのである。怖いもの知らずなようでいて、主人のHさん、この手の話に滅法弱い。T屋にも二人居ついている、といって奥さんに笑われている。 以前、横にいる運送会社のKさんが法事の帰りに、あまりに酔っ払っていたので、Hさんが骨壷を預かった。ところがKさん、パチンコにいったきり12時過ぎても帰ってこない。最後の客の私は、怖がってもう一杯、もう一杯と引き止めるHさんを一人残して帰った。面白いのでまたやってみたいのである。
それにしても、骨壷置いていったり預かったり、面白がって書いてる私を含めて、ブログの登場人物がオッチョコチョイばかりである。先ほど当ブログの訪問者数を知り、想像していたより多かった。トップページを経由しない人が多く、カウンターが上がらなかったのである。T屋の話はいい加減にしておきたいが、行動範囲が数百メートル圏内。作っているか飲んでいるかなので、書くことがないのである。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アリゾナ在住のK子さんから、ネットに繋がっていれば通話料がかからないので、スカイプでTV電話を、といわれていた。始めは私からいいだしたことであったが、TV電話を面白がる相手もおらず、そのうちウエブ用カメラもどこかへいってしまっていたのだが、近所のヨーカドーでカメラを買い、ようやく開通した。  以前ウィンドウズの機能の何かで、友人と2、3度試したが、カメラの精度が低いのは、男同士見つめ合うには、かえって好都合であったが、音声が遅れるのが鬱陶しかった。大体、会話に「・・・。」がやたらと多くなり、次に何を話すか考えるのが苦痛になる。やはり用事のない男同士が見つめ合うものではない。かといって女性は、素ッピンというわけにはいかないので、抵抗があると訊いた。現にK子さんは、裸電球のこちらの映像が暗いとかいいながら、自分のカメラはオフにしており、人の顔観て笑っていた。  続いて田村写真の田村氏と電話。男同士でも、話すことがありさえすれば便利である。最近の互いの計画について話し合った。これだけ鮮明なら、制作上のことも、作品や機材を示しながらの会話が可能であろう。これでやり方が判ったので、母には週に一度でも時間を決めて、サンフランシスコの孫の顔を見させてやりたいと思っている。
今朝はT屋に朝食を食べに行ったおり、奥さんに、旦那に誘われて立ち飲み屋に行ったら、私には酒を勧めておきながら、自分は身体を気遣って水を飲んでたよ。褒めてあげてね。といっておいた。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




朝T屋に行くと、珍しく主人のHさん。例によって人一人殺したばかりのような寝起き顔だが、今日は早く起きたか、殺してから30分くらい経った感じであった。カウンターには、今日もタクシー運転手のTさんと運送会社のKさんだが、もう一人、いつも組合の話ばかりしている同じタクシー運転手の某さん。おかげでいつもは愉快なTさんも、真面目な顔で相手をしていた。「今日は2時から新年会で、部長として挨拶しなきゃなんないのに、去年と同じベロベロだよ」。
4時まで制作し、蕃茄さんとK本へ。先日も国立からわざわざ、古石場文化センターの展示を観に来ていただいたばかり。K本や深川を気に入っていただいたようである。そもそも『谷崎潤一郎と人形町を歩く』の鶴澤寛也さんを紹介していただいたのは蕃茄さんである。寛也さんの、美しい着物姿が載っている、最新号の『ミセス』を見せていただいた。ある作家に「黙っていたら日本人形」といわれた寛也さんは、「じゃ、しゃべったらフランス人形?」といったそうである。蕃茄さんと二人、まったく寛也師匠のおっしゃるとおりですね、と語りあった。それにしてもその作家、私達とちがって、思ったことをすぐ口に出してしまうタイプのようである。  次にT屋に行くと珍しくやっている。土曜日はたいていどこかへ飲みに行っているのだが。タクシーのTさんもいる。早朝からずっと飲みっぱなしらしい。蕃茄さんやTさんが帰った後、店を閉めたHさんに、近所の立ち飲み屋に誘われる。モツ焼きで日本酒を何杯か飲んでいると、Hさん、これ飲んでみて?と自分のグラスを勧める。さっきから同じ物を飲んでるのに、おかしなこというな、と飲んだら、ただの水である。「えっ、さっきから水飲んでたの?!」店の人を見ると知らん顔をしている。Hさん、店のそんな仕打ちにも、黙って耐えなければならない理由があるようである。そうか、解った。みなまでいうな。間違いなく酒を飲ましてくれる、次の店に付き合うよ。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


朝、T屋に行くと、すでに白髪に赤い顔した地元のタクシー運転手Tさんに、まだ60手前なのに、中学まで裸足だった運送会社のKさん。このメンバーでの、一言もためになる話が出ない、ぬるい一時は、私にとって何物にも代えがたいものがある。二人とも夜勤明けに飲んでいるわけだから、この脱力状態に巻き込まれるのは、一日の始まりに相応しいとはいえないのだが。元日大射撃部のTさん「俺、地獄ってないと思うけどさ、もしバットにとげとげついたみたいな棍棒もった鬼が出てきても、4人くらいなら鉄砲で倒せるんじゃないかと思うんだよね」この話は2度目である。「昨日の清水の次郎長観た?仕事中じゃなかったら石松助けにいったんだけどなあ」笑っている。これはいかん。振り切って撮影に向かう。  あらかじめアダージョ編集部より撮影許可を取ってもらっている。受付で書類にサインをし、撮影開始。向うから二人のおばさん。「かわせみいますか?」「いえ、鳥を撮っているんじゃないんで判りませんねェ」「あら、そう?さっきからヘンな所にカメラ向けてるから」「・・・・。」どうせ私はヘンなところばかりにカメラ向けてますよ。今日は人形を持ってないから良いようなものの、結構気にしているのである。だがしかし、今日の私はいつもと違う。腕には(財)東京都庭園協会の腕章である。これはつまり、ヘンなところにカメラを向けていても、深い事情があり、私はちっとも悪くない。ということを示しているのである。つまり堅気としての撮影である。シャッター音を気にし、カメラを懐に隠すこともない。罪悪感のカケラもないすがすがしい私は、青空の元弁当まで食べ、撮影を終えた。腕章を返しに管理事務所に行くと、園内の地図を示され、どの辺りで撮影したかを訊かれる。地図には升目がびっしりと引かれ、魚雷戦ゲームのようである。一枡1平方mで100円。「池の水面はカウントしないことになってます」。計算機片手の事務員。今回広い園内の、極一部を切り取ったのだが、真上から地面を撮ったわけじゃなし、遠景まで写っているから、「あのー、こっちの方まで写っちゃってますけど・・・」。もっとも、それは書類上のことで、今回は園の紹介もするということで使用料は免除、ということであった。地図の升目には驚いた。 自転車での帰り道、自転車に乗った若い警官が、人通りのない道とはいえ、車道を逆走してきた。成人式を迎えた諸君と違って、この齢になると警察官と気軽に交わることもない。この際なので、すれ違いざまに、下町の方言で思いっきり注意してあげた。 夜、高橋の『伊せ喜』にて、中央公論新社の“特命科”こと、アダージョの新年会。昨年暮れにここで鯰鍋を食べた時は、翌日各地で地震がおきた。メートルも上がり2次会は沖縄料理の『でいご』へ。編集長の、ある特集人物の提案に、一同唖然。大反対のデザイナーWさん。私は『に、日本に来たことないだろ?』しかし、これを逃したら二度と作る機会はないだろうと賛成。まあ明日になれば、昨晩の編集長の冗談、面白かったなあ、ということになるのではないか。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




友人から電話。どう?アダージョの進み具合は。「今日、頭を作り始めた」。アダージョ2月配布号の締め切りは今月末なのに。「写真も残っていない大昔の人なんだから、イメージで作ればいいんだろう?」確かにそうである。数百年前の、肖像画しか残っていない人物なのだから、たとえば与謝蕪村のように、自分のイメージで描けばばいいこと。確かにそうである。かつて私はイメージで架空の人物ばかり作っていたし。しかし、この人物は間違いなく実在した人物である。生前の姿を知って肖像画を描いている人間が数人いて、その肖像画を比較して、耳鼻口はこれ、目は多数決でこちら、と考えているうち開始が今日になってしまった。  何度も書いたことだが、私がアダージョで夏目漱石を作った時、資料写真の鼻筋に疑惑を感じ、大事をとって正面を向かせた。しかし直後に開催された、江戸東京博の『夏目漱石展』に展示されたデスマスクは、一般のイメージと違った見事なカギ鼻であった。(昨年、松涛美術館で開催された『野島康三展』で、犯人は野島の弟子の一人と判明した。ただしクライアントに無断で写真師が修正するとは思えず、漱石自身の指示によるものであろう)同時に会場に展示されていた、映画『ユメ十夜』の宣伝用に500万かけて作られたという等身大の漱石像は、鼻筋がまっすぐであった。私はそれを観て思うわけである。『シビアさが足りねェんだよ!』  アダージョは15万部配布されている。しかし表紙に関して読者が云々することはほとんどない。だが、どこかの誰か、例えば会社帰りにアダージョを手にしたミスターX。彼はかつてその人物のファン、あるいは卒論のテーマにしていて、そのXに、『こいつ、こんなことまでしていやがる』とウケているところを私は夢想し、そのいるかどうかも知れないXに対して、私は手を抜けず、ファイトを燃やすのである。『そんなこと誰も気にしていないよ』とは、再三再四いわれることだが、Xに『シビアさが足りねェんだよ!』とだけはいわれたくないのである。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




只今パリにおられる“バレエの伝道師”鈴木晶先生が、1/10のブログで『中央公論Adagio 谷崎潤一郎と人形町を歩く』をご紹介いただいている。ニジンスキーやディアギレフを作る私を“ニジ友”とは光栄のいたりである。そもそも私とは縁遠いはずのバレエダンサーに興味を持ち、バレエを一度しか観たことがないのにニジンスキーで個展を開くという暴挙に出たのは『ニジンスキー 神の道化』(鈴木晶著)を読んだからである。私は子供の頃から人物伝の類が大好きで読み続けているが、読んだだけで個展を開いてしまうほど、のぼせてしまったのは、『ニジンスキー 神の道化』だけである。 協力いただいた鶴澤寛也さんが美人だ、と書かれているが、元バレエダンサーでミュージカル女優に転じた『シド・チャリース』の脚線美を認められていて、私もEbayでポートレイトを落札したりしているシド友?で、こんな著作を書かれたら必ず読みたいと思っていたのが『バレリ-ナの肖像』である。
画像だけで、発表もしないまま改造をくりかえしてきたディアギレフの2体目であるが、これは自信作、と自負して、ソファーまで作り、隣りにジャン・コクトーや、ココ・シャネルなど坐らせてみたいと、いつか開催するはずの個展に備え、仕上げを残して放っておいたのだが、ところが昨年暮れにその頭を見たら、どこが自信作だよ、とガッカリしてしまった。原因は解っている。谷崎潤一郎である。これは作った私にしか判らないことであるが、谷崎を作ったことにより、私の何かが、一段階登ったのである。傍から見てその変化は判らないかもしれないが、長いこと作っていて、数年ごとにしばしば起こってきたことであり、変化のきっかけとなる作品がポイントごとにある。こうしてジワジワと作品が変化してきたわけで、『ああ良かった、自信作などと調子に乗って発表せずに』。胸をなでおろした私であった。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


訃報  


昨晩、専門学校時代の先輩から電話があり、同期のSが、昨年の夏に亡くなったと訊いた。骨髄性白血病だったという。 Sと会ったのは高校を出てすぐ、18の時であった。ボート部出身の頑丈な男で、クソ真面目で、煙草のポイ捨てを注意しては、自分で拾うような男であった。私の実家に遊びに来たときも、照れもあり、私が母にぞんざいな口を利くと、「お母さんに向かってなんだ」と本気で怒っていた。 ある昼休み、もう1人、同い年の山形から出てきたTと、学校の隣りの寺の石段に呼び出された。何かと思ったら「お前等キスしたことあるか?」Tはよせばいいのに「飲み会のたんびだよ」とホラを吹いた。思いつめた顔で「そうなんだ・・・。」そのせいではないだろうが、ほどなく煙草をむせながら吸い、無理して酒を飲むようになり、雰囲気が変っていく。2年目の夏、突然、卒業したら結婚するといった時には驚いた。おかげで私は初めてスーツを着るハメになった。私もまだ若く、「何がメデタイか判らないので、オメデトウなんていわねェよ」(未だにそう思っているが、今はさすがに口からでまかせをいえる)  その後岐阜にいた私は、瀬戸で某作家の工房に務めているSの所へ遊びに行った。その頃は常に酒を飲んでいる状態で、事故を起し、顔に傷を作り、他人の作品をくさし、屁理屈のような陶芸論をふっかけ、喧嘩。まさに酒乱であった。瀬戸にはいられなくなったと訊いた。奥さんは二人目に替わっていた。それからまた随分たち、出身地の川口で作品展をやっているというので、何で知らせないんだとみんなで集まった。しかしさらにヒネクレた人間になっており、なにより作品の覇気のなさに、大口叩いたあげくがこれか、と陰鬱な気分にさせられた。その日集まった連中とは、以来Sは決別することとなる。子供を2人作った2人目の奥さんとも別れ、3人目の奥さんと群馬にいる、というのは訊いていた。山形のTとは、Sがああなったのは昔、お前が吹いたホラが原因だ、と会うたび笑っていたのだが。 ここ20年会っておらず、その間どう生きていたかは判らない。知りたいとも思わないが。しかしこれだけ時間が経ってみると、想い出すのは、私に無駄に目をキラキラさせてんじゃない、といわれていた頃のSであり、何かを観て描くのが苦手な私に、真面目にデッサンやれ、と説教をしたSである。みんなで集まりカレーを食べた時、遅れてきて、残った手のひらに満たないカレーで、ドンブリ3杯食べていた。着ていたセーターから毛糸の帽子、舌ったらずの喋り方、未だに想い出すことができる。 合掌。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ