明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



月に一度の検査を終え、『寒山拾得詩集』読むためサイゼリヤへ。寒山も拾得もいずれも趣の深いことを書いている。がしかし傍から見ると奇矯な狂人じみて見えた、というところがミソであろう。何故かサイゼリヤで『寒山拾得』を読む私。なんだか良く判らないが、一つだけ判っているのは、衝動がわいた場合、それに従え、ということである。性能の悪い表層の脳で企んだことはろくなことにならないが、衝動に従った場合、後で考えれば結果が良い。イベントでたった一度バレエを見ただけで、翌年の2002年。ニジンスキー、コクトー、デイアギレフで個展をするという暴挙に出た私である。しかも御丁寧に、当時誰にも知られていなかったオイルプリントで。結果、私の大好物の“地球上で私だけ”感は充分に味わえたし、多くの事を学んだ。 ところで。先日来、薄々感じていたのだが、『寒山拾得詩集』を読みながらの飲酒は何故だかやたらと効いてしまう。明るいうちに家に帰って寝てしまった。目が覚め、朝六時から開いているT屋に行き、『牡丹灯籠』の打ち合わせに行こうと思ったらまだ23時であった。まあしかたがない。と今こうして駄文を書いている。 こういうことは昔も経験している。岐阜の山奥で、陶芸作家を目指すため、好きなことしか出来ない二十歳の私は、性根を入れ替えようと、量産工場に就職した。街に出かけたおりに、名前は知っていたアルトサックス奏者チャーリー・パーカーのレコードを買った。私はもっとモダンなジャズのつもりで買ったら音は悪いし妙にうすら寒い。しかし安月給ゆえ元を取ろうと無理矢理聴いていたらはまってしまった。これがアルコールの効きが早かった。ジャズの理論など私には判らないが、そんなことでパーカーを聴いていたら多分判らないだろう。私にいわせればあの音はこの世の音ではない。

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笑顔  


森鴎外の『寒山拾得』は『寒山詩集』の序に書かれているほとんどそのままの内容である。 私は“詩”と付く物はすべからく苦手で、特例としては陶芸家の河井寛次郎と画家の村山槐多だけある。歌詞でさえ、憶えているのは幼い頃の童謡くらいである。頭に入って来ないから歌の内容で感動することはほとんどない。人の顔や、文字を認識できないという病気があるそうだが、ひょっとしてあれに近いのではないか、と思うくらいである。カラオケではモニターに歌詞がでてくるからいいようなものの、そうでなければ幼稚園児のレパートリーしか歌えないところであった。 届いたのが『座右版 寒山拾得 』(久須本文雄著)。平易な訳文が並記してあり、適当なページを開いては毎回これを読む、という読み方が良さそうである。まさに座右版。読むと場面が浮ぶ。 頭の弱い、イカレたコンビと思われていだが、ポロッと洩らす言葉が深い。まさにバカボンのパパである。三島由紀夫は大の「 もーれつア太郎」ファンであった。 そういえば近所に寒山拾得なみの笑顔の持ち主がいる。笑うと「カナカナカナ」と聴こえるのだが、私の分析によると、あれは笑い声ではなく、乾燥してくるみ大に萎縮した脳が、丁度マラカスのように頭蓋骨の中で鳴っているのだと思う。勿論、寒山拾得のような深いセリフは一度も聞いたことがない。この人物に何十回も聞かされたセリフがある。「みんな言わないだけで男はみんなオナゴが好きなの!」。『貝の穴に河童の居る事』を制作中のこと。河童の三郎が娘の白いふくらはぎに見惚れる話に、鎮守の杜の翁が「ちと聞き苦しゅう覚えるぞ。」そこで三郎はいう。「口へ出して言わぬばかり、人間も、赤沼の三郎もかわりはないでしゅ。」河童と同じこといってる、と感心したことはある。

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T屋で朝食を食べながら、先日母の見舞いに来てくれたかみさんと母の話をしていたら、大学生のAチャンが降りて来た。一度忙しいから、と断られたが再び「牡丹灯籠」のお露役を頼んでみたら来月末なら時間が取れそうだという。もとの話は深川の娘の話である。実現すれば、ホントに深川のお露となる。女中のお米は『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)で笛吹きの女房で、踊りの師匠役をやってもらったかみさんに引き続きお願いしている。 長女のAちゃんには『潮騒』の初江と、貝の穴では河童にお尻を触られそうになる娘をやってもらった。彼女は只今2人目を妊娠中である。つまり使える物は早く使っておかないと末娘のAちゃんだって、何があるか判りゃしない。 姉のAちゃんの時は、撮影当日、とても昭和20年代の田舎の海女の娘ではありえないヘアースタイルで現れたし、貝の穴の時は、初江からたった数ヶ月で見違える程痩せてしまって慌てた。なにしろ鏡花の原作が、ムッチリとした娘、という設定だったからである。後のお目出度ごとにつながる激痩せだったのであろう。 今回は日本髪だからAちゃんが例えモヒカン刈りにしようと関係ない。むしろ気を付けなければならないのは、お母さんの瞬きである。ある場面で、あれだけ撮ったのだから、とタカをくくっていたら目をつぶっているか半開き。1カットしか使えるカットがなかった。今度はデータをちゃんとチェックしながら撮影しよう。 後は河童の時に着物をお借りし、着付けまでお願いしたMさんの奥さんと二人のスケジュールが合いさいすれば、無事撮影できるだろう。

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藤井聡太四段29連勝。中学生が次々大人を倒して行く。この快挙は、これはもう何が起きたっておかしくないのではないか、と思わせてくれた。何が起きてもおかしくないなら、あとは陸上競技あたりで女子が男子の記録を打ち破るところを一度観てみたい。東京オリンピックのアベベの記録にあと3分である。 蘇州夜曲の「涙ぐむよなおぼろの月に 鐘が鳴ります寒山寺」のおそらく中国は寒山寺で土産物として売られているものであろう、寒山拾得の拓本をヤフオクで500円で落札。軸装された数万円の物から色々出品されている。伊集院光は骨董市で入手した軍票などを、本来の持ち主に届け感謝される、という風変わりな趣味を持っているそうだが、届け先で見たのがこの拓本で、あまりに自分に似ているので、ヤフオクで3本も入手したらしい。 伊集院光といえば、既製品の眼鏡では頭が大きくサイズが合わない私は、以前、オーダーでフレームを作ってもらったが、そこで伊集院も作ったそうで、作りかけの大きさに私もビックリした。しかしツルの部分の長さは私が勝った。 友人が寒山拾得?なんだそれは?というので、俺も良く判らないんだが、寒山がバカボンのパパで、箒を持った拾得がレレレのオジさん、という感じかなあ。

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用が済んだ資料はオークションなどで売ってしまえばいいではないか、とよく言われるのだが、そうはいかない。常に持ち歩き、電車内、酒場、作業中に読むこともある。粘土のかけらが挟まっていたり絵の具がついていたり。単に資料目的なので、大事に扱おうという気がないから散々な目に遭っているので売り物にはならない。 写真資料ではカバーできない、人となりを把握するのが目的だが、それを知ったからといって造形的に変わるかというとよく判らないが、変わると思って読んでいる。例えば子供の時に遊んでいて石をぶつけられ、額のここに傷があった、なんてどこかに書いてやしないか、とかも気になってしまう。逆に夏目漱石などはあばた顔であったことは書き残されているが、写真では修正されていて判らない。ついでにカギ鼻まで修正させて国民は騙されていた。 誰とはいわないが、特に交通局のフリーペーパーの表紙のために作った人物の中には大嫌いな人物もいた。そんなものは首だけ引っこ抜き、身体の部分とともに資料も捨ててしまった。 次に酷い目に遭う本は明日にでも届くだろう。『座右版 寒山拾得 』(久須本文雄著)こんなことを書いてしまうといかにも寒山と拾得を作りそうに見えてしまうが、円朝を作っている間は円朝一筋である。 『タウン誌深川』愛称通り特集 “明日できること今日はせず”連載3回目は「ヒトダマで失敗した話」挿絵はこちらを見つめる三遊亭円朝である。


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読書  


円朝2体目の座布団を作り、図書館へ。最近は書店古書店には近づかず、もっぱら図書館かヤフオクである。書店古書店は、余計な物まで目に入るのがいけない。もうずっと、制作中の人物の関連書籍以外読んでいない。そもそも置く場所もない。両開きの書棚をそろえ、紫外線避けにガラス部分を内側から布でおおった。その前に本が積まれたせいで、その両開きの戸が、私から本を守っている状態である。 一時期小悦が読めなくなってノンフィクションの類いしか読めなくなった時期もあったが、乱読の時代を経て、もう良いだろう、という気もする。 制作中は、その人物に集中するので、例えば圓朝を作っている時は円朝という膜に覆われて生活しているような感じである。そのぐらいにしておかないと頭上からアイデアが降って来た時、取りこぼしてしまう。 藤井聡太四段を見ていて、一つのことに集中するので人間充分だよな。と改めて思った。天才にあれだけ集中されたらかなわない。本来凡才こそが少ない能力をかき集めて1点に集中すべきであろう。オジさんも子供の時、片足だけドブに落ちたぜ。本読んでたからだが。 友人Hからしばらく連絡がないな、と思っていたら通風で苦しんでいたらしい。通風は放っておくと大変なことになることに気付いた、早くいってくれよ。という。そんなことはかみさんにいえ、という話である。色々検索したり調べたりして食事など気をつけているという。いってるそばから、今日は若い娘とモツ焼きだそうである。いったい何を調べているのか?

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私はずっと自分の作品を、人形でなく、人間を撮影するつもりで撮影して来た。それがここにきて、人間でなく人形だからこそ、こうなる、という手法に至るとは思わなかった。円朝撮影時に書いたが、目で見る分には、ムラ加減がリアルにみえた塗装が、不思議なほど汚れに見えてしまって撮影中にフラットに塗り直した。この手法はどうも、その質がより出てしまうようである。なので人形である、という質が露になった結果であろう。 8月10日〜20日に深川江戸資料館『深川 お化け 今昔』に円朝像と写真作品を展示する。今のところこの手法では3点(正確にいうと、寄席の前に立たせた圓朝は、陰影もあり、今までの作品に近い)お時間のある方には観ていただきたい。写真には見えないだろう。また写真であるなら、どんなデジタル処理をした、と思われるだろうが、実は切り抜いて貼って、多少の色調整くらいである。私の悪い癖は、人を騙す(惑わす)ような作品を作っておいて、上手く騙されると、なんで騙されるの?実はこうなんです、と解説したくなることである。そういえば、冗談で人を騙した時も、すぐ耐えられなくなってバラしてしまう。どうもたいした悪党にはなれそうもない。 円朝像の展示は背後に金屏風、両脇に燭台、火鉢鉄瓶を並べ、幕末、明治期の高座調の展示にしてみたい。ところが全生庵にも圓朝像展示が決まったので、もう一体、圓朝を作らなければならなくなった。2体作るなら、本来撮影用にもう一体は立像にするところだが、円朝ばかりはどうしても座布団に座った高座姿しかないだろう。

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合掌  


2008年11月のブログに私はこう書いている。“睨みの成田屋、海老蔵の仁木弾正の目力は凄かった。前から16列の、乱視の私にもはっきり届く。眼光をあたりにまき散らしながらの立ち回り。ようやく死んでくれた時はホッとしたくらいである。弾正の亡骸が担がれていくときは「ごくろうさん」の声。 成田屋に、私のような細い目の子が生まれた場合、一大事である。伝統継承のため、ちっちゃい目の娘と結婚してはならないという家訓があるのではないか。” 海老蔵丈の目にライトが反射して私の席からピカーっと光った。この経験から、交通局発行のフリーリーペーパーの表紙に、劇聖と称された九代目市川團十郎特集を編集長に進言した。團十郎に睨まれると一年間風邪ひかない、と江戸時代からいわれている。当時、インフルエンザが流行っていた。 家訓かどうかはともかく、後に目の大きなかみさんをもらい、無事成田屋のお家芸の睨みは14代團十郎になるであろう、勧玄くんに受け継がれていくことであろう。 私が制作した九代目團十郎は11月過ぎまで深川江戸資料館に展示されているが、その時制作したのは、表情が違う助六である。歌舞伎座修復開始の数日前に配布された。作っている最中、資料集めに古書店に行くと、店主から海老蔵丈は研究熱心で、九代目の資料を車でごっそり買って行くと訊いた。 それにしても残念。ご冥福をお祈りします。合掌。


HPhttp://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=fb88e22485fc4ffbefb3e6d52d43a763&p=1&disp=10#

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森鴎外も書いているが、なんだか判らない味がある。なぜ私の頭の中に寒山拾得が居るのかも、また良く判らない。たんに誰かの寒山拾得図を見て、と思うのだが、ならば覚えているだろう。もしかしたら。 小学生の頃、百科事典ブームがあった。うちにも小学館の『日本百科大事典』が来た。私は家族で縁日に出かけても小遣いを使わず、シャッターを半分閉じた本屋で店主、家族を待たせたまま本を選んだ。学校では始業のチャイムが鳴っても図書室から出て来ず、しばらく出禁になる。図書館に通いたくても、当時の小学生にとって下町はテリトリーから出るのにかなりの危険を伴った。そこへ来たのが『日本百科大事典』である。小学校高学年から中学にかけて、1往復は読んだろう。シュルリアリズム絵画もこれで知った。夢野久作ではないが、“胎児の夢”に近い。子供の私は懐かしさすら感じた。ツバメの巣がスープになることも知ったし、母に材料を買って来てもらい、お菓子を作ったこともある。 妙だな、と覚えているのは、ボデイビルの項に、三島由紀夫の写真が使われていたのと、シャンソンの項が、やたら力が入っていたことである。ところが数年前、この百科事典は『虚無への供物』の中井英夫が編纂に携わっていたことを知った。中井からボデイビルの項に、という打診は、三島にとって“今までで、こんな嬉しいことはない”という程のことだったらしい。“時間がない”三島は中井に催促したという。書斎の三島を見ると、背後に並んでいるのが『日本百科大事典』かもしれない。 私は“あ”の項から順に読んでいった。つまり“か”の項では寒山拾得に出合っていたはずで、小学生の時から毎日のように、中井英夫の洗礼を浴びていたことを思えば、可能性はある。

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新手法を私の大リーグボールだ、などとはしゃいでいたが、実のところ、あれほど絵のようになるとは思っていなかった。日が経つにつれ、釈然としない感じが大きくなっていた。何しろ意図していなかったのだから。結果が面白ければそれで良い、とはいかない。 しかし今回の圓朝の写真、今までで最も作り物めいている。この世の物である証の陰影がないからであろう。この人形じみたことこそが絵に見えるもっとも大きな現因ではないか。ということは、人形ならではの撮影方法を手にいれたのではないか、そう思ったら気持ちが変わった。当初人間でも応用可能かと思ったが、陰影を消すこと自体は機材さえあれば誰でも可能であるし、実際そんな人物写真をいくらでも見たことがあるが、絵のようにはなっていない。まあ当たり前である。よって作った人形でこそ絵のようになる。ということであろう。 この手法で圓朝が出来た時、いつか手がけたい、と思いながら写真では無理、と思っていた『寒山拾得図』が案外可能では、と思ったことは書いた。寒山拾得、森鴎外も味のある一文を書いているが、寒山と拾得という非僧非俗コンビである。昔から主に水墨画の画題となっていて、ずっと気になっていた。中国にある寒山寺は臨済宗の寺だという。臨済宗?一昨日訪れた谷中の全生庵、同じ臨済宗の禅寺ではないか。これは偶然なのだろうか?おそらく違うだろう。

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私の新手法はここ何年間か、浮世絵や日本画に興味を持ち、これをなんとか写真に生かせないか、とずっと考えていた。経験上、身も蓋もなく撮れてしまう写真にかかると、頭の中のイメージそのまま描く訳にはいかず、断念することが多々あったからである。そこで陰影を消す、あるいは減らしてみたらどうか。結果、画のような写真になった。手漉き和紙にプリントされていることも拍車をかけているが、想定外であったのは、私自身が目を皿のようにしても、絵にしか見えない。写真っていったい何なの? 制作当初ブログに書いたが、作った私にも正体が分からなかった。 96年に始めて自分の作ったジャズミュージシャンの人形を撮影し、人形と写真の個展を開いた。そこで某編集者が、被写体が目の前にならんでいるのに、写真は人物を撮った実写だと勘違いしたのである。この時も想定外のことであったが、これがきっかけとなり、私が作ったと一目瞭然なモチーフを、と翌年作家シリーズに転向した。 実写に思わせるために撮ったわけではないし、絵と思わせるために撮ったわけでもない。どうも私はずっと自ら惑わすようなことをしておきながら、なんで惑わされてしまうの?私の本当の意図までたどり着いてくれない感が残るのである。 と本日のブログはネガテイブな話になるところであった、しかし、実写に見えてしまう件はともかく、絵に見えてしまう件は、一つには被写体が作り物である、人間の実写と違う、という点が絵に見える大きな要因だろう、と今思った。となると、作り物でなければ出来ないことを私はやっていることになる。であるなら、何に見えようがそれで良いのだ。 頭が追いつく前に作品は出来てしまう。自分は何をしようとしているのか?後で理由を考えるのが常だが、その検証作業にこのブログは役に立っている。読んでいただいている方にはブツブツと迷惑なことだと思うのであるが。


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14歳の藤井聡太四段の連勝が話題になっている。有り得なくて、“マンガの原作でもボツになる”くらいの話だそうである。私は将棋のルールすら覚えられずにきたが、そういえば、と『聖の青春』を観てみた。いわゆる“羽生世代”の棋士村山聖の物語である。幼少時にネフローゼにかかり、羽生のライバルとして29歳で亡くなった天才。胸打たれる。 円朝の羽織の紐作り。相変わらずブキッチョで厭になってしまう。風呂で身を清め、4時に谷中の臨済宗国泰寺派、全生庵へ、山岡鉄舟が開祖で、圓朝も眠る。七世平井正修住職にお会いする。緊張して職員室に呼び出された中学生の如し。沢庵和尚と木に縛り付けられた宮本武蔵が頭をよぎる。ついでに池の中で杭に捕まり耐える姿三四郎も。全生庵では毎年8月の1ヶ月間、円朝旧蔵の幽霊画を展示する。その期間、私の圓朝像もどこかに展示いただけることになった。有り難いことである。帰りに山岡鉄舟、三遊亭円朝の墓に挨拶し帰る。 緊張しすぎて、いただいた名刺を忘れて来るという大失態。

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朝、食事をとりにT屋へ行くと、案の定、カウンターに、先日階段から転げて九回目の救急車に乗った67のオヤジがいた。昨晩からの酒が醒めず、ロレツが回らず、何をいってるか判らないが、どうやら事故の時、道路だか階段の血溜まりを拭いてくれ、朝5時まで病院まで付き合ってくれたというマスターに、お詫びの品を買いにいくという。いちどパンをもって行ったが、それで済まそうっていうの?とみんなにいわれてのことらしい。遠くに住む兄弟には迷惑をかけたくない。とぬかすので、江東区民に迷惑かけるのはいいのかよ?そろそろ救急車のスタンプ溜まっただろうから、もう霊柩車も乗れるだろう。 そこへ母から電話。昨日谷崎用に病室を撮影する話をしていたので、今日も天気が良く、昨日のような夕日が出るだろうから、チョコアイス持って来い、という。最後の一つが本当の用件であろう。サイレンの音を聞く度、隣にいるオヤジじゃないか?と思うという母なので電話を代ると、いつ見舞いに来てくれるの?といわれていた。 夕方、病院へ。7階に上がると、すぐに『ウサギ追いしー♪』と歌声が聞こえた。またボケた婆さんがいるな、と思ったら母であった。迷惑だから止めろ、と止める。私が子供の頃から、機嫌が良い時、台所で洗い物をしながら、この調子で歌ったものだが、ここは病院である。 撮影。母はどかなくても良いの?というのでその布団をできれば使いたいので、人が入っているように、膨らんでた方がいいからそのままでいいよ、と始める。別に母を撮ってるわけではなく、いずれそこに谷崎潤一郎が寝ることになるんだから、スカしたカメラ目線は無駄、というがレンズを向けるとどうしても。


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本日も母の見舞い。シルバーカーと携帯電話を持ってこいといわれていた。それにしても母がこれほどチョコレート好きだとは思わなかった。必ず買って行く。カラオケなどやるデイサービスやショートステイを母は楽しみにしていたが、この病院までが楽しいという。思えばサラリーマンと結婚したつもりが脱サラ、父が亡くなった後もさらに10年働いた。友人でも外出もままならない、なんて話はザラにある。そう思うと有り難いことである。 病院の都合で一時的に大部屋から個室に移された。大きな窓から夕日を眺められる部屋でなかなか良い。そこで谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』用にこの部屋を撮影しておこう、と思いついた。大谷崎が入院するにしては質素な病室ではあるが。私もただでは起きない、と自分で呆れてみた。谷崎に夕日を眺めさせ、老境の黄昏時を表現してみたい。病室を撮っておいて、寝ている谷崎を作って、後から本当の夕日、もしくは夕日風照明を当てて合成する.私にはおなじみの作業であり、谷崎の眼鏡に夕日が反射しているところなど想像した。やはり今回も夕日による“陰影”がポイントであろう。私の大リーグボール3号は使えないことになる。本当は谷崎にはチューブだらけになって欲しい所だが、残念ながら?この部屋には点滴などない。口を開けて寝ている他所の婆さんを撮影しておいて、という訳にはいかないし、夕日が当たっていなければ使えない。帰りに錦糸町の丸井の中のユザワヤへ行き、円朝の羽織の紐用の紐を買う。泉鏡花からむしり取って使っていた。

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一日  


田村写真に、円朝作品3点をプリントしてもらいに行く。35ミリのネガからさえ古典技法の引き延ばしが可能になった“タムラシステム”?のテスト作品を観て、その仕上がりに驚く。サイアノプリントなど深みがあり、プラチナより良いくらいであった。これは考えられない。 先日、“新たなギター奏法を始めたミュージシャンがいて、音楽通を気取る友人が、あの奏法は技術上、弾けない、あるいは苦手な曲がある、なんていっていたのを思い出した。”と書いたが、陰影を廃する新手法私の大リーグボール3号は万能ではない。円朝の3作目『◯◯亭前の三遊亭円朝』では背景が寄席内部の灯りが漏れる夜景である。その前に立つ圓朝にどうしても陰影は出る。背景が版画調に仕上がったこともあり、丁度中間の陰影具合で制作したが、例えば場末の温泉宿の一室、裸電球の下に、どこから流れて来たか半裸の女。なんてシチュエーションを考えた場合、裸電球が女に作り出す陰影こそ、見せ所であろう。これは現実である。逆に陰影を消す、というのは非現実の証であるからこそ、ヒトダマや、蠟燭に手描きの炎が使えた、ということになる。つまり昔の日本画ではこういうモチーフは扱わなかった。陰影どころか暗くもなく、行灯が置いてあるから夜なんだ、という有様である。今後作風を統一させ、作り続けるには、陰影のある現実世界には一切手を染めない、くらいでないと中途半端になりはしないか? 星飛雄馬は、一人に打たれただけで何故次の大リーグボール開発に向かうのか、1号と2号を投げ分けて行けば良いじゃないか、と小学生の私は思ったのだが。

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