明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

撮影  


平日なら人はいないだろうし、午前中なら背景の建物が日陰になり、フラットな光線状態で撮影できるだろうと、朝の6時半に家を出る。前の晩、たいして食べていなかったので、6時から開いているT屋で朝食をと思ったが、夜勤明けのタクシー運転手のオヤジ達が、すでに宴もたけなわの可能性が高い。目立つことが嫌いな私は、つい飲ってしまって同化しかねないので、なか卯で朝定食を放りこんで出かける。 現場に着くと前回と違って、さすがに人通りも少なく、落ち着いて考えることができる。以外と扱いが難しいな、と数カット撮り、建物を正面からと思ったその時、バキュームカーが到着し、正面玄関にピタリと横付け。まるで、撮影に間に合った、とポーズを取っているかのようである。今時、バキュームカー?と思ったが、綺麗な青い車体なので、給水車かなにかだろう。陽が当たる時間まで間があるし、作業が終るまで待てばいいのだが、こういう場合、私はそうは思わず、これは撮るな、ということだろうと考える。なにしろ、あまりなタイミングである。このまま正面から撮っても良いことはないはずである。間違いは無い。結局、バキュームカーを避け、建物の部分をフィルム1本撮影し帰った。丁度いつもT屋に顔を出す時間なので、運送会社のKさんの顔を見て帰宅。 午後Dの塗り残し部分を仕上げ、撮影。

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9D  


背景の撮影は人ゴミを避けながらだったこともあるが、なにより光の調子が良くなかった。明るい曇りか、晴天の午前中が良いようである。いずれにしても午前中なら、背景の建物が日陰になり良さそうである。本日中に着彩を残し完成させる予定。今回制作の9Dは、生前彼を観た人や、特に坪内逍遥が、あまりにも写真と違う、というので、つい挑発に乗った形で、写真では残されていない表情の9Dにしてしまった。一ヶ月以上かけ首を完成させ、締め切りも迫っているというのに。あの時の私は、“腰抜け”といわれたバックトゥ・ザ・フューチャーのマーティーのような状態だったかもしれない。  当時は動きのある写真を撮ることは不可能だったので、9Dとしてみれば、記録のつもりで被写体になっていたのかもしれない。そう思うと、確かにジッとしているから早く撮ってくれ、とただ立っているだけのような写真が多い。そのせいか、ことさら大きいといわれる目も、遠くを見るように、むしろ目を意図的に細めているようにさえ見える。写真嫌いだった、という話も聞く。しかし中にはポーズを取った写真もあり、それは写真感材の発達、高感度化を待ったように、その多くが、すでに全盛期が過ぎつつある頃に集中しているようだが、ひとたびポーズを決めたとなれば、痩せてどちらかといえば貧弱な身体なのにかかわらず、まさに磐石の構えで、9Dが未だに特別な存在だということを、容易に想像させるものである。
Dから9Dになったが、HP開設10周年記念に、誰だか判った方、何名様かに、ささやかなプリントを差上げようかと考えている。いくらかヒントもあったかと思うが、刀に尺八を持ってる、などは、解りにくくしているかもしれない。

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一日  


背景の撮影。ロケハンで一度撮影し、本日二度目である。しかし人出が多く、落ち着いて撮影ができない。一本だけ撮る。現像してみて駄目なら出直すことにする。帰りに着彩用絵の具を買いに行く。銀座の交差点で、巨大なエリカ様のポスターを目撃。 帰宅後、荷物を置きK本へ。最近、雑誌やTVに取り上げられることが多く、土曜日など新顔で溢れている。昨日も随分な客が来たらしいが、本日は3回目の妙な客が見ものであった。みるみるうちに酔って行き、動きが激しくなり声が大きくなる。極太のミミズを飲み込んで苦しんでいる鶏のようである。常連席では面白くて目が離せない。前回は女将さんが、怒ろうにも笑ってしまったが、今回はさすがに怒られていた。連れの中年男性が、娑婆に出すのはまだ早かったようだね、という感じで連れて帰っていった。『WBC世界フライ級王座統一戦/亀田興毅VS暫定王者のポンサクレックを観るため、閉店前に店を出てスーパーで肴を買い観戦。ポンサクレックはやはり上手かった。それにしても、最近の格闘技戦、アナウンサーがうるさくて始まるまで音を消している。試合中は我慢するが、できるだけ小さくする。東京12CHの杉浦さんが懐かしい。解説はカミソリパンチの海老原。

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乾燥に入る。同時に刀や尺八の先っちょだけ作る。どうやら次号のアダージョの特集人物は二本挿しのようだし、刀を粘土で作らず、模造刀を入手して合成するのもいいかなと考えるのだが、“円月殺法”や“諸羽流正眼崩し”などと、部屋で1人刀を振り回してニコニコしている自分を想像して躊躇している。  本日は、義太夫三味線奏者の鶴澤寛也さんが、神楽坂に稽古場を開いたというので、お邪魔することになっている。できたものを乾燥機に放り込んで、なんとか一時間遅れて到着。稽古場というと板の間に神棚があるような場所を想像していたが、私がイメージしていたのは道場だったようである。すでにエッセイストの坂崎重盛さん、蕃茄山人さんがみえており、着席早々、遅れてきた分、最後に金粉が溜まったシャンパンをいただく。和風の戸棚に染付けの皿などが並び、上に坂崎さんが贈られたという浮世絵が飾ってある。よく観るとDである。しかも12人いる内の9D。まさに制作中で、本日も披露しようと持参した首の人物である。K本のカレンダーに始まり、最後にこれとは、よくできた話である。皆さんとは楽しく会話も弾む。坂崎さんとは育った地元が近く、学生時代アルバイトをされていた店の前を、鼻を垂らした子供の私は、何度も行き来したはずである。甥い子さんの某有名ミュージシャンは、中古カメラ市でお見かけする。寛也さんは、寛也さんの古くからの友人である蕃茄山人氏の紹介で、拙著で乱歩の『人間椅子』や、アダージョ『谷崎潤一郎と日本橋を歩く』でご協力いただいた。本日は実に楽しい集いであった。これで神楽坂の寛也師匠として、お弟子も増えることになるのであろう。

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明け方目が覚めると、作品に乾燥を防ぐための東京都推奨ゴミ袋を被せずに寝てしまい、表面が乾燥し始めていたので、慌てて霧吹きで水をかけ、袋を被せ、元に戻るのを待つことにした。その間Gyaoで『巨人の星』を観る。大リーグボール一号をついに打ち、倒れる花形とライバルに駆け寄る飛雄馬の姿に、つい涙。朝っぱらから何をしているのだ。始めてみた小学生の時には考えられないことである。  T屋に向かおうとすると、T屋の一番下のAちゃんが、ブレザーにチェックのスカートで見違える。今日は小学校の卒業式だという。T屋に行くと、かみさんは卒業式に出るので、昼から息子の高校の入学の手続きは、主人のHさんが行くことになったという。授業参観などいくと、先生に物申してもめるので、子供達には学校には来てくれるな、といわれている親父である。そうこうすると、Hさん腹が痛いと、顔をしかめて腹を押さえている。私が思うに、シラフで学校に行こうとしているからではないか。さすがに入学早々、親が先生ともめてはまずい。  夜アダージョの編集会議。ライターの藤野さんが、Dの顔があまりに長いので、ジャイアント馬場、その他、長いといわれる人と比べたら、さらに長かったという。打ち合わせの後、居酒屋へ移動し、次号の予定、その他について。編集長より、次号の候補を聞く。そうきましたか。 松尾芭蕉もそうだったが、現在の東京、まして都営地下鉄駅周辺では、背景にするには無理がある場合がある。芭蕉は近くに清澄庭園があったから良かったが、仕方がないときは、イメージ重視で、ということに。編集長の所へは、様々な問い合わせがくるそうだが、たまたまアダージョを手にしたお年寄りが、配布日の隔月の25日に、東京に来ることにしている、とか耳の遠いお年寄りから是非バックナンバーを、と熱心にいわれた話など聞く。「もう二杯飲んでたら泣いちゃうとこでしたよ」。男が一日に二回も涙するわけにはいかない。 帰りにT屋を覗くと、カーテン越しにHさんの姿、仕上げに飲ませてもらう。今日の学校での出来事など聞く。それにしても子供が五人もいて、つくずくたいしたものである。最近は身体に気を使ってアルコールを控えているようで顔色も良く、午前中起きてきても、二日酔いで、今人を殺してきたばかり、という血が滴った包丁が似合うような顔をしていない。

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一日  


最近、雑誌で下町や居酒屋の特集がやたらと多いが、江東区の特集にK本が出ていて、女将さんの後ろに私が写っているのを見つけた人からメールが着た。随分ボケているのだが。こんな特集が多いのも不景気なせいだろうが、東京にちょっと渋い町並があると、下町扱いする妙な雑誌もある。おかげで、K本に来て生ビールを注文したり、領収書を、などという人が来る。そんなものはK本にはない。
ようやく身体を作り始める。急遽イメージを変更したおかげで、刀や尺八まで作らなければならない。写る部分しか作らないので、いずれも先っちょしか作らないが。 やはり迷った時は、危険な方を選ぶべきである。やっちゃいけないことは楽しいし、身体に良くない物は美味しいに決まっている。といいながら、実際は、ヒゲに白髪が出るくらい迷ったのだが。 それまで、一晩で白髪になるわけがないと思っていたが、もともと密度が薄いヒゲなので、一本生えればそうとう目立つのである。自分の顔を、しげしげと眺めることなどないが、エレベーター付近に悪戯描きをする輩がいるらしく、管理人に相談された工務店のSさんが、効果があるとかで鏡を取り付けた。割れない素材だとSさんは自慢気であったが、エレベーターのスイッチを押すと、丁度鏡の中の自分と対面するようになっていて、酒を飲んで帰ってくると、自動的に反省することになるので、余計なことをしてくれたと、Sさんにいっていた。70過ぎで、酔っ払って尻餅ついて骨折したSさんには、効果があるから、飲むときは手鏡持ち歩くといいよ、といっておいた。一晩で白髪には、ネット上でも科学的に有得ない、有る、両論あるようだが。

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一日  


最近、朝T屋に行くと、かみさんや運送会社のKさんに、まだ頭作ってるの?といわれる。もうできたよ。後は仕上げだけ。と何度もいっているからである。実際、完成していたはずだが、モヤモヤしたものが取れずにいた。昨日、返却しなければならない写真帖の、坪内逍遥の解説を改めて読んでいて、モヤモヤの原因は、やはりこの一文だと気付いた。なにしろ、写真を参考にするしか方法はないのに、そこに肝心な物が写っていないというのである。確かに、当時Dについて書かれた物を読んでも、写真の中のDとはイメージが違う。写真嫌いだというので意識的にそうしているのか、または、ニジンスキーが舞台上でジャンプした写真が残っていないように、当時の写真感材の感度が低いゆえの、長時間露光の問題もあるのか。はたして“あの表情は”長い時間は無理と、三代後の御子孫から間接的に伺った。 それならば私が作ろう。もう1人の私が止めるのも聞かず、たった一晩で表情が一変。スリル満点である。  本日目が覚め、恐々首を手に取る。確かに写真とは違うDになっていた。T屋で毎朝のように顔を合わす運送会社のKさんや、タクシー運転手のTさんには、すでに二、三回首を見せているが、今日は余りの変化に唖然とさせることができた。この愛すべき酔っ払い連に“よくできてる”などといわれているようでは、私は駄目であろう。  帰りにマンションのエレベーター脇の壁に貼り付けてある鏡を見たら、髭の中に白髪が2本。昨日は無かったはずなのだが。

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制作中のDは、彫像が3体残されているという。検索したら、唯一Dの存命中に制作された、女性彫刻家制作の半身像を見つけた。それにしても、3体並べたら、同一の人物がモデルとは思わないくらい違う。 具象彫刻というものは、リアルに作ってあるので、モデルをそれなりに正確に写すものと、なんとなく思っていたが、私の手元にある写真帖とも大分違うように見える。デッサンもろくすっぽやったことのない独学者の私からすると、私の目がおかしいのか、と思うのも無理はない。前述の男性彫刻家の作品は、偉い人を偉いように作るため偉そうだが、女性彫刻家はまるで違っていて、なんとも頼りない表情で、あきらかに男性作家とは、制作のテーマが違う。私はこれが一番好きかもしれない。  随分時間をかけてきたDの首だが、明日は写真帖を返さないとならないし、いい加減、時間が無くなってきたが、ここへ来て私の病気が出た。これを書いている今も、頭の中では、今に至って余計なことは止めろ。と思っているのだが。原因は、先日も書いた坪内逍遥がいう、これらの写真には、本来の表情が写されていない、という箇所である。“特にあの立派な目が劇的には活きていない。あの爛々たる大きな目をぐっと睨ませて、如実に撮影し得たと想像して見たまへ、あの大きな厚い唇を思ひ切って引歪めて撮影し得たと想像して見たまへ”。そして決定的だったのは、先日、Dの御子孫の、当時は写真を撮るのに時間がかかったため、というご意見を伺ってからである。写真の中のDは、目の大きいことがバレないよう、注意している、とさえ思うほど、大きな目を見開いた写真がない。  ここに至って表情を変える、というのは危険すぎる。しかも、ポーズから衣装から、方向転換をしなければならないのだ。だがしかし、私が前述の彫刻家の巨匠お三方に、勝っている所があるとすれば、亡くなって100年以上経っている今、都営地下鉄のフリーペーパーの表紙にしようと考える酔狂度合いであろう。だとすれば、逍遥の挑発に乗る、というのも有りということか。


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図書館に行く前にT屋で朝食。カウンターには、いつもの運送会社のKさん。かみさんが、「首もうできたの?」「だいたい」。随分前からそういってる、といわれてしまう。今日は図書館へ行って、今日中にイメージを決めるつもりである。「今日Tさんは?」昨日タクシーの夜勤明けで、明け方から飲んでいたそうだが、T屋に来た時にはすでにベロベロだったらしい。薄い赤色の花模様の皿がある。Tさんその模様を、マグロの刺身だと思って箸で摘もうとしていたらしい。一休さんの屏風の虎じゃないんだからと笑う。Kさんが寮まで送ろうとして、後ろを振り向いたら交差点で、立ったまま寝ていたそうである。60をとっくに過ぎて危なくてしょうがない。 図書館に行き、関係図書を見ながら熟考するが決められず、3冊ほど借り帰宅。結局、羽織を着せることになりそうである。同姓同名が12人もいるが、制作中のDだ、ということを表すには帽子を被せるのもいいが、せっかく作った頭が隠れるのと、顔に影が出来るので、撮影時に注意が必要になる。TVの市川海老蔵主演の『霧の旗』を点けたまま首の仕上げをする。何故か妙な気分である。

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迷う  


ここへきて迷いが生じる。坪内逍遥は、Dの写真には、本来のDの表情は写っていないという。(異様ともいえる存在感は充分だが) 某公園の銅像は、身体こそ未亡人の監修の下、弟子に同じ格好をさせてモデルにしているから良いのだろうが、当時の識者もいうように顔がいけない。どうみても我が家にある写真帖のDと造形的に違いすぎる。しかし、作者は生前のDを観ているはずで、そこを表現したかった、としたら気持ちだけは解る。 当時の写真感材の感度では生きた表情を捉えるのには無理がある。先日のDの御子孫も、その点を指摘されていた。一方Dは、自分の特徴を、迫力を出そうとデフォルメした絵師を出入り禁止にしており、少々さえなくても、事実にこだわる人である。私は常に本人にウケたいと思って制作している。それがたとえ松尾芭蕉のように、何百年前に亡くなっていても同じこと。悩むところである。  それともう一つ、どういう格好をさせるかである。色々考えて結論を出したつもりだったが、ここへきて欲が出てきて迷い始めている。一番大変な首が完成したせいである。 悩むといっても御馳走を目の前に、どれを食べようか、ということに似ているのだが。幸いこれには締め切りがある。悩んでいるのも明日一日、とリミットを決めた。

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一日  


母と電話で話していて制作中のDの話になった。祖母がよく頼んでいた鰻屋の斜め前あたりに住んでたらしいよ。というと、昔、結納を済ませた後、両親と父と四人でその店で鰻を食べたそうである。
ようやく首が仕上げに入った。身体は表紙用としては意味があるが、肝心の仕事着でなく普段着なので、人物像としては面白くない。よって写る部分しか作らない予定。羽織を着せるので、先日、死んだ犬の法事で、喪服を着たままK本で飲んでいた建設会社のMさんに、谷崎に続いて今回もまた、羽織の紐をお借りしたい、と頼んでおいた。 Dについて、ちょっと知りたいことがあり、いい加減なこともできないので、関係者の方に質問したら、Dの三代後のDに、電話で直接訊いて頂だいてしまい、恐縮する。まったく冷や汗ものである。やはり、昔の写真感材の感度の低さは、被写体の表情にも影響があっただろう、ということである。三島由紀夫のように、撮影時、いくらでも瞬きしないでいられる、という妙な特技の持ち主なら別だろうが。  来週中には、背景の撮影にいく予定である。都合がつけば、件の鰻屋で鰻でも食べてみたいものである。

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肝心の首を制作する場合、3回は完成寸前までいく。完成が近くなると、毎日眺めている肖像写真から、それまで見えなかったものが見え始め、目が手を追い越して、これじゃまったく駄目だ。ということになる。これを3回ぐらいは繰り返すわけである。そんな時、出来たも同然などと書いてしまい、恥ずかしいことになるのだが、同じ写真でも、当初とは感じ方が変り、違って見えてくるのでしょうがない。特に今回は、決定的な写真資料である写真帖が、かなり作っていた段階で家に来たので、おかげで案の定、二転三転した。 この人物は、某彫刻家がいうように、力がはいっていなくて大きい。そこが奇妙でさえあるのだが、写真帖で解説している坪内逍遥は、写真の撮られ方が上手ではない、という意味のことをいっている。それに引き換え次の世代は、見る側を意識した上手な撮られ方をする、という。それは当時の写真の感材の感度の違いにもよるだろう。ほとんど外光を利用したスタジオ撮影のようだが、それでも感度が低ければ、ジッとしている時間は長くなる。よって昔の写真は動物と子供の写真が極端に少ない。逍遥は“Dのあの爛々たる大きな目をぐっと睨ませて、如實に撮影し得たと想像して見たまへ”といっているが、一瞬の表情を作ったまま固まっているのは大変だろう。 逍遥に、この人物の生きた肝心な様子が写っていないのが残念だ、といわれると想像してしまうが、本人は、たとえ貧弱に写っていても、本当のことなら文句もいわなかった人のようで、逆にデフォルメした表現をした絵師を、出入り禁止にしたそうである。私も出入り禁止にされるようなことは、なるだけ避けたいと思っている。

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一日  


昼過ぎに西麻布の『SPORTS TRAIN』に行き、油井昌由樹さんにお会いする。油井さんには何度も会っているが、ここに来たのは私が15歳の時以来である。何年ぶりか、計算する気にもなれない。 輸入アウトドア用品のパイオニアの店で、当時、まだ何処にも売っていなかったバンダナを買いに来たのであった。見たことが無い道具が所狭しと置いてあった。友人と金属探知機などで遊んでいると、油井さんが「君達にUFOの写真見せてやるよ」。すぐ種明かしをしてくれたが、コールマンの部品を吊るして撮影したものだった。 10年後、私は黒人の人形を作っていて、日本TVの『美の世界』という番組に出ることになった。油井さんが司会をしていた。会ったら10年前の話をしようと思っていたら、黒澤明の『影武者』のオーディションに受かってしまい、徳川家康になってしまった。司会は榎本了一さんとマリアンに変っていた。(音声はスゥインギン・バッパーズの吾妻光良さんであった)結局、改めてちゃんと会ったのは、そのまた約20年後である。今日は、たまたま『一個人』黒澤明生誕100周年特集を読んだばかりであったが、黒沢映画に4本出演し、晩年は公私共に付き合いのあった黒澤明の話を、油井さん制作のインタビューのDVDを観ながら伺った。黒澤がセットにこだわったのは有名だが、本物の中にいると、自然に演技が出来るものだそうで 一回も怒られず、すべてワンテイクだったそうである。色々興味深い話が伺え楽しい時間であった。  こう思うと、私も随分長いこと粘土をこねてきたものである。いつか榎本了一さんにお会いすることあれば、今は寺山修司作ってます、とでもいうのであろう。

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雨の中、神保町を本の探索をする。今日は深川図書館で件の写真帖を借りることになっているので嬉しくてしょうがない。大型の写真帖で荷物になるし、こんな雨の日はうっかりすると、格安の久保田万太郎全集あたりを見つけてしまうものである。そこそこにして図書館に向かう。3階で受け取り、芭蕉像の前を通り、コードレスのマウスが、やたらと電池を食うのでコーナンで電池を買い、小津安二郎生誕地のプレートの前を通って帰宅。すぐ制作にかかりたいところだが、そこをあえて我慢し、K本で飲むことにする。作りたい物が待っているのに、わざわざこういうことをするのが、私の変態的なところだが、美味い物は、腹を空かせたほうがより美味いに決まっている。 常連席では、建設会社の部長Mさんが、昨日12年飼った犬が死んだということで落ち込んでいた。板の間で添い寝をし、腕の中で亡くなったそうである。そういえば、知人も20年生きた猫が死んだと年賀状にあったが、これがあるから哺乳類を飼うのは厳しい。直接触れることのない、熱帯魚くらいが私には丁度よさそうである。それでも、頭を撫でられるくらい慣れていたフラワーホーンが死に、水槽は空なのだが、次に何かを飼う気に、なかなかなれないでいる。あれは、私に慣れているわけではなく、餌が食べたいだけだと自分にいい聞かせながら飼っていたのだが。
本日は写真帖を、あえてバッグに入れたまま取り出しもせず、飲んで寝てしまうことにする。楽しいことが間違いないことを目の前に、わくわくしながら飲む。こんなに美味い酒はないのである。

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市川海老蔵が婚約し、盛んにTVに出ている。あのカミさんの大きな目なら、睨まれたら1年間風邪をひかないといわれる、成田屋の伝統芸は安泰でろう。実際舞台で観ると、海老蔵の眼光はサーチライトの如しである。成田屋の代々には、たまたま目の大きな人が多かったようだが、あの家に、私のような小さな目の子供が生まれたら大変だった、と舞台を観ながら思ったものである。もっとも現代のアイドルなど、瞼を切開して大きくしている娘もいるそうで、そこにはさすがに睫毛は生えない。  
制作中のDについて、私には他の人と、何故際立って違って見えるのか、その辺のことを、すっかり解明し、教えていただけそうな研究者の方がいて、メールを出したらさっそく返事をいただいてしまった。そしてDがかつて住んでいたのが、某ウナギ屋の斜め前あたりだと、教えていただいた。 そこは私の母の実家があったすぐ近くで、祖母は死ぬほんの前まで天麩羅や鰻を食べていたが、鰻といえばその店に決まっていた。私が遊びに行くと、私に食べさせたいといっては、私と食べたものである。母の胃袋の丈夫さは、この祖母譲りだと思うが、神経質で好き嫌いの多かった父のせいで、普段食卓にのぼらない物を、私に食べさせたいという名目で作っては私と二人で食べた。私に食べさせたいなどと、いちいち恩着せがましいことであった。

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