明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


蘭渓道隆を台から切り離し、禅僧の履く靴をおおよそ作って乾けば仕上げに入る。法然の頭部おおよそ完成する。耳毛まで描いてしまう臨済宗の頂相に比べると、想像を加える余地がある分完成は早いが、もう少し粘りたい。明日ははるか雲の上にいる、という設定の善導大師の制作を開始したい。かなり小さく作るつもりである。 子供の頃は、鉛筆、クレヨン、紙さえ与えておけば何時間でも大人しくしている、といわれていたが、今は粘土さえあれば、いくらでもやることがあり満足である。思えば私の満足は安上がりに出来ている。二十代の頃、粘土会社の社長に「石塚さんの使ってる粘土は小学生用ですよ?」といわれてちょっと高いのに変えたけれど。『情熱大陸』で冠動脈カテーテル手術を観た。一昨日こんなことされてたのか。



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退院  


後日、もう一回入院の予定だが、まずは退院。顔は見ていないが、隣のひどいイビキの爺さんと思っていたのが、実は私より7歳歳も歳下だった。膀胱癌らしい。私は退院だが、可哀想なのは、爺さんのイビキでやはり寝られなかった向かいの人である。脈拍が早くなって、夜中に看護師が飛んできた。「うるさくて寝られないんだよ」。イビキの主は平然と寝ていた。〝部屋変えてもらえないのかな?可哀想に“と思いながらとっとと病室を出た。 入院中、資料を読んだりYouTubeを眺めたりしていたが、どうしても余計なイメージが浮かんでしまう。制作予定は3体まで、のルールは新シリーズ開始のためすでに反故になっている。 帰りに図書館に寄る。『法然上人絵伝』上人の夢に出て来た善導大師との『二祖対面』の場面を見る。法然は善導大師を見ているので、顔はよこ顔、全てを顔のために作っている私としてはこれではダメである。



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昨晩は隣の老人のイビキがうるさくて困った。起きてる時は弱々しげだが、寝入った途端〝さぁ行け進軍!敵は我がものぞ”調。 午前9時にオペ室に。前回同様、カテーテルは手首からと聞いたので、鼠蹊部の剃毛はなしだ、と思っていたら術中の排尿に備えて、全開オーブンのまま何やら装着される。もう目を閉じ、まな板の上の貝に徹する。さすがに検査と違って長く、圧迫感など様々あったが無事終了。また流れる天井見ながら運ばれる。ベン・ケーシーのオープニングである。   本日のオペ室にはベン・ケーシーを知ってる人などいなかったろう。 ステントというものを入れると聞いていたが、バルーンによる拡張のみで体内には何も残っていないという。もう一刻も早く帰って大覚禅師と法然上人を作りたい。母の葬儀でアメリカから帰った妹にとって私は近所で酒飲んでグウタラしながら趣味の粘土細工をしているように見えるらしい。



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小4で知った〝門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”これが私に生きるほど冥土に近づくことを教え、死の床で、あれも作りたかったこれも作れば良かった、と後悔に苦しむに決まっている、と恐れさせて来た。シャレコウベ掲げた、まさに一休のその場面を作っていて、これが原因だと気が付いた。 しかし、それにより後退を許さず、変化を続け、常に今が最突端である、ことを心がける原動力となり、陰影を排除する手法に辿り着くことが出来た。途中挫折の可能性を低めるため、先の制作予定は3体まで、という名案まで編み出し、昨年の検査入院では、やれることはやってある。と平静であった。それがその直後、タウン誌の原稿用に、その一休和尚に数年ぶりに陰影を与えてしまい、気が付いてしまった〝鎌倉、室町時代の陰影を与えられたことのない人物にこそ私が陰影を与えるべきだ”。おかげで制作予定は3体まで、の名案はオジャンに。



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法然像は数々あるが、迷った時は最古の肖像画ということにしている。顔の右側面をこちらに向けた法然のイメージの大本と思われる。法然というと法然頭。後頭部が高く、真ん中辺りが凹んでいるような形をいうらしい。『おそ松くん』のチビ太のような感じだろう。『二祖対面』は法然上人が夢の中で見たという場面である。見上げた上空に浮かぶ善導大師と対面する法然上人。 善導大師は、はるか上空に、という設定で、ごく小さく作る。なので細部までは作らないが、そのぶん仰ぎ見る法然上人の表情で善導大師の存在感を表せないだろうか?まあいうだけなら簡単である。浄土宗の法然上人を作るなら、いずれ一遍上人を作ることがあっても不思議ではない。



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大覚禅師、蘭渓道隆は、入院を控え、退院したら乾燥も終わっていて仕上げに入れるよう、そこまで進めておきたい。同時に制作中の法然上人と善導大師の『二祖対面』は未だ法然の頭部の段階だが、上空の雲の上の善導大師を法然が仰ぎ見ている様子にしようと考えている。善導大師を小さく作り上空にいる設定。当初善導大師の台座を上から下まで雲で覆い隠すことを考えていたが、台座は隠さず、雲はむしろ最小限にすることにした。お互いを固定せず、それぞれそれぞれ単独でも置けるようにしてみたい。高僧の像は高いところに置いて、下から見るという設定になっているのだろう。下はともかく顎を上げて上向きの像は馴染みがないが、法然は上向きに手を合わせていることになる。



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大覚禅師(蘭渓道隆)部屋に放っておいても乾燥が進む、🌩️台から切り離して大まかな仕上げをし、退院後に仕上げを済ませ、着色すれば、すでに構図は決まっているので、撮影して切り抜いて合成すれば、一休和尚に次いで新たなシリーズの二作目が完成する。立つべき岩山は、手持ちの刺々しい石を使う。新シリーズは、鎌倉時代の人物を、デジカメで撮りました、という感じでかえって良いので、和紙プリントじゃない方が良さそうである。どの口がいってる?という話しだが、制作していて面白ければ良いので、前言撤回どころか、踏み絵ので上でツイストを踊りかねない私なのであった。



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大覚禅師(蘭渓道隆)立像は広い空を背景に、長辺150センチのプリントにする予定だが、それでも主役をできるだけ大きく、と考えてしまい、広角撮影の背景を随分トリミングすることになった。見せたい所を大きくというのは人情である。いったん乾燥に入る。 予定では上野動物園に鹿を撮りに行き、円覚寺開山、無学祖元師の周りに白鹿を配そうと考えていたが、母が亡くなったり、私も入院を控えていたりで予定通りには行かず。しかも共演がコントロール不可の生き物なので、主役を先に撮っておいて、とはいかない。 前回虎を撮りに行ったが、小学校低学年の頃『ジャングルブック』に猛獣が人間の目を恐れる、と書いてあったのを真に受け、上野動物園で虎やライオンを睨んで回った時は、ぐうたらしているイメージであったが、ずっと落ち着きなく歩きっぱなしで、仕方ないので帰ってからバラバラにして寝転がした。ネコ科にはいつも苦労する。

四睡図

 



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写真制作を始めて、そのほとんどをまことを写す、という意味の写真に争い続けて来た気がするが、一回りして、また元の世界に戻ってきた。といっても戻る条件が、写真どころ陰影を与えられたことのない時代の人物である。変わることこそ生きている証ではあるが、鎌倉、室町時代の人物に、陰翳を与えるというテーマにたどり着くために年月を費やして来たということなのだろうか。考えても仕方のないことだが、只今制作中の最新作の完成が、もっとも楽しみである。作っている本人は過去の作品の方が良いと思ったことは一度もない。新作は目が慣れていないからだ、という可能性は大いにあるけれど。 今後、実景や陰翳を撮影しようと、デジタルやAIが盛んになろうと、主役は相変わらず粘土感丸出しの自作の人物である。これを変える気はないし、いずれ効いてくるだろう。



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ここ十年弱、陰翳を排した手法の制作中は、実物の空や水の輝きなどとずっと無縁であったので、大げさにいうとパラレルワールドから久しぶりに帰ってきた感がある。帰ったといっても設定は鎌倉時代だが。蘭渓道隆の背景は雲に劇的な表情がある青空にしたい。私の場合、全てが主役の表情のためにあるので、モノクロ時代は定かではないが、逆光で沈む夕日を使った記憶がない。尖った岩山に立たせることを考えると、つい強風に法衣をなびかせたくなるが、荒天の中、帆柱の先端に立ち法力を発揮する半僧坊と違って、蘭渓道隆の強く落ち着いた内面を強調するため、背景の雲には表情があるが、それに対して法衣はピクリとも風の影響は与えないことにした。

半僧坊



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新たに始めることになった“写真どころか陰影が与えられたことがない時代の人物に陰翳を与えるシリーズ“(仮)1作目の一休禅師に次ぐ2作目の大覚禅師こと蘭渓道隆の背景は、禅師に光を与えるため順光の青空を予定している。どの口がいってる?というこの切り替えの早さは自分でも呆れるほどだが、こちらが面白いとなれば構うことはない。ただし小学生の時『巨人の星』を観ていて、一人に打たれたからといっても、各大リーグボールを投げ分ければ良いではないか?と思ったように、使い分けようと考えている。例えば陰影のない手法だと、スーパーのチラシ調にならずに無背景が使える。これは捨て難い。 いずれ葛飾北斎、松尾芭蕉も陰翳たっぷりに撮影するつもりでいる。特に北斎は是非『蛸と海女』用の海女を深夜、行燈やひょそくの灯りでスケッチさせたい。



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○○からすべてを学んだ的ないい方があるが、その例えでいえば、私の場合、作って来た人物に学んだ、といってもいい過ぎではない。小学校で図書室と出会って以来の人物伝好き。始業のチャイムが鳴っても出て来ず騒ぎになった。見て来たように書いてあるから、現場を見ていた人が書いている、と思い込んでいた。昭和30年代の木造の図書室には戦前教育の残り香があり、大分騙されたが、そこらを歩いているような大人とは違うキャラクターに夢中になった。    長らく続けた作家シリーズでは、この世にいない人物ばかりだったが、本人に見せてウケたい、と思って制作していた。創作とはいえ失礼があってはならず〝対話“が不可欠であった。このおかげで単に制作上のモチーフとはならなかったように思う。 禅宗関連の人物を手掛けるようになり、〝自分とは何か“をダイレクトに問われる機会が増えた。特に一休和尚には。

 

 



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蘭渓道隆の立ち姿を制作している。作りながらどういう画にするか考えるのだが空を背景に、中国の山の頂上と思しき鋭角的岩の先端に立ち、遠くを見つめる姿を思い付いた。日本は文化は発展してはいるが、未だ本格的禅が伝わっていないことを日本からの留学僧に教えられ、日本へ禅を伝える意を固め遠い国に思いを馳せている。あるいは真理について。そんなイメージである。 陰翳を排除するようになってから、どうしても長焦点レンズ的画面になっていたが、陰翳を与える、と決めた途端、カメラを手にして七百数十年前の高僧を撮影したなら?という去年の年末まで考えもしなかった単純にして明快なことに。 巳年というのは新たに脱皮するという意味があるそうだが、それにしたって脱皮し過ぎな気がしないでもないが“考えるな感じろ“で行くことに決めているので、臍下三寸辺りの私に従うだけである。



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ついこの間まで、かつての日本人は、何故陰翳を描かなかったのか、と考え“光源が一灯の世界と違い、日本には便所にまで神様がいる多光源の国である。その数八百万といわれ、これでは陰翳のできるはずがない“といっていたはずだったが、今は七百数十年前に、宗時代の中国より日本に初めて本格的禅を伝えた人物に、陰翳を与えようとしている。 人間、変化してこそ生きている証となる。とは思うものの、長い旅路の果てにようやく目的地にたどり着いた。と思うと砂漠の逃げ水のように遠ざかる。これはどうも私がずっと恐れてきた、死の床で、あれを作りたかった、これも作れば良かった、と後悔に身を捩って苦しむことは避けられない、ということらしい。江戸時代の長命だった某絵師も、あと十年生きられたら、と未練を抱えて死んでいった。

 

 



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大覚禅師こと蘭渓道隆は、生前描かれた国宝の坐像を見ると華奢なようで肩幅が広い。そのバランスで全身を作ると、すらっとした人物に作りたくなる。建長寺には『径行図』という立ち姿が残されている。それを見ると背は低い。頭部の感じから、私同様、国宝の頂相をもとに後年描かれた物だろう。しかし頂相が描かれ七百数十年経っている私と違い、容姿、背の高さなどについて伝わっていただろう。つまり背の高さのわりに肩幅が広い人物と判断し、芯材を大きくカットした。 ジャズ、ブルースシリーズから作家シリーズに転向した時、長らく黒人のバランスに馴染んできたので、澁澤龍彦を作りながら、これは昭和3年生まれの日本人なのだ、といい聞かせながら、脚を3回ほど切断したのを思い出した。



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