明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



当初の目標が一休禅師のカットで達したので、部屋の片付けとギターの修理。   中学生の時、親戚の納屋に打ち捨てられていたのをもらって来た60年代の国産ビザールギターで、愛着が拭えず、同じ機種を再び入手し使っている。YouTubeで目にするB、C級ブルースマンやアフリカのミュージシャンが手にするかつての日本製安ギターが実に格好良く見える。音もまた個性的である。 一番好きなことを仕事にし、2番目を趣味とする。別のいい方をすれば、長時間やっていて苦にならないことを仕事にし、2番目を趣味とする。ギターは30分も弾いていればやることはなくなる。おかげで不可解で奇妙なくらい上達しないままである。もう一つ加えるなら、思い通りに行かず途中挫折に終わろうと、まったく苦にならないことを趣味にするのが良い。



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久しぶりに地元の幼稚園からの友人と話した。私は中身が昔から変わらない。これが久しぶりに会う友人を戸惑わせることを知っているので気を付けているが、彼は独身で美容室を経営するせいか、相変わらずの調子で話せる。彼の家に遊びに行った時、弟を抱えたお母さんがお宮参りに出かける所に出くわしたのを覚えているが、その弟が還暦だというし、お母さんも今年亡くなったそうである。脊椎狭窄症を患って彼は来年店をたたむという。美容学校時代、パーマの練習台にさせられ酷い目にあったことを思い出した。店名は私の命名である。技術に自信はあっても、センスが時代に付いていけないという。そう考えると私の場合は、見る人にどう見えるかはともかく、新作が未だ人生上の最突端だ、と思えるのは座頭市のセリフとは真反対に〝良い渡世だなぁ“と思うのだが、目が慣れておらず新鮮に見えているだけかもしれないけれど。



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初の入院は検査のつもりだったが、事に向かうエレベーター内で付き添いの看護師に「検査ですか手術ですか?」「まぁ手術です。」経験者から痛くないことは聞いていた。痛くなければどうということはない。とはいうものの、台に固定されながら、映画『フランケンシュタイン』の雷鳴轟くシーンが浮かぶ。助手が最低のボンクラであった。手首からパイプ掃除のワイヤーが繰り出されるような気配。2度ほど胸苦しい感じがあった。帰りはストレッチャーに乗せられながら天井眺め『ベン・ケーシーのオープニングだ!』 一休の『狂雲集』を読んで、一皮剥けた顔で退院の予定は、そう簡単に剥けなかった。明日は燃えるゴミの日である。



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今夜はスーパームーンだそうだが、まるで興味がない。夜道を歩いていて今夜は皆既月食だったな、と思いながらも見上げないくらいである。なのに夜空を描く時は、隙間があると、つい満月を掲げたくなる。訳の判らない空間に地球が浮かんでいるなんて考えたくない。昔は死ぬことと宇宙の果てについて考えないようにしていたが、死については、無邪気に作りたい物を作っていると、もっと怖い〝作りそびれ“があるので、それを避けるために寿命のことを意識する年頃になって来たので普通に馴染みのテーマとなった。夜空は相変わらず見上げない。例外といえば室内から、窓越しに見る月は安心である。



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最近の怪獣映画がずっと気にいらなかったのは、近代兵器に対応させるためだろう、巨大になり過ぎ、宇宙怪獣ならともかく、地球上の成分で出来ている以上、あの大きさ、動きはありえないだろう。なので過去の話にするしかないと思っていたので、戦中の話にしたゴジラは納得であった。ところで。 最近の大谷翔平の打って走る姿を見ていると、巨大怪獣と同様のことを感じてしまう。特にこちらは地球上でも日本の成分で出来てる生物なので、その大きさスピードに、余計違和感がある。しかしこちらはノンフィクションなので、しょうがないから、ただ唖然として笑っているけれど。



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久しぶりにコロナ明けの母のいるホームへ。取り寄せたサバの塩辛を持って行く。まぁ元気ではあった。帰りに敷地内で転ぶ(私が)しばらくボンヤリ歩くのは止めよう。タクシーに乗ると水分補給用レモンフレーバーのペットボトルを2本もらう。いや一つで、と遠慮したのだが。 MさんTさん、舞台合間の今拓哉さん4人で飲み会。人と飲むのは久しぶりである。家では相変わらず生のままのスピリッツで短時間で済ませ、近所のテーブルに味の素が置いてある定食屋で、黙って1人で飲むという、本来の状態に戻っている。元々私はこうであり、今はなき木場の河本の数十年が特別であった。毎日好きなことしているので、気分転換などまったくしたくない。思えば幼い頃夢見た、王様に石の塔に幽閉され、算数宿題しないで良いから好きなことだけやっておれ、が実現している。数週間は神経痛で天井見て暮らしだけれど。 記憶に間違いがなければTさんに、ヤクルトのエースの母親が焼いたという卵焼きを頂いて帰る。甘く懐かしい味。

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昨日、整形外科で医師と触れたのは脚の状態を見るために脚を少し伸ばした。それは家でもやっていたことで、しかも2回軽くやっただけである。これは硬いと。坐骨神経痛に苦しんで約三週間。特に2週間は仰向けのまま。普段、私の都合など全く考慮せず、あれやれこれやれと、思いついては、いってくる、ヘソ下三寸にいるもう一人の私も、激痛の前には、すっかり鳴りをひそめていた。 大きな声ではいえないが、○患者が処方される痛み止めまで飲んで効果なく、高校の友人の医師に頼んだ薬は今日届いた、激痛で行けなかった月一度のクリニックに特別に受付てもらった。幸い思ったほど結果は悪くなく、痛みに耐えるのはカロリーを使うのか3キロ体重減。原因は寝不足か。 形成外科の先生がゴッドハンド、あるいは特別なスペックを持っていないとしたなら、後は災難避けの霊力を持つ、新作、半僧坊のご利益しか考えられない。この半僧坊は、神経痛の痛みにも効く?ただし、効くまで3週間、それまでの生活態度を反省させるために設けた期間らしい。


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坐骨神経痛というものらしい。昨晩はほとんど痛くて寝られなかった。数年前になった時も、朝起きたら痛みが走った。脚の中でビリビリと炎症が起きてるような痛みである。元々腰痛持ちではあったが、椅子に座ると楽だったが、今回は椅子に座ると一番痛く、先日タクシーに乗って後悔した。まあ様々なバチが当たったといわれても仕方がない。仕方ないので寝転がったまま、半僧坊を削ったり、調べ物をする。ある思い付きをしたが、神経痛のおかげだ、という気はさすがにしない。

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夜、江東区古石場文化センターへ。小津安二郎の地元で、映画に特化したセンターである。小津コーナーには、私の小津像も収蔵されている。『影武者』の家康役から黒澤映画常連俳優の油井昌由樹さんを担当者に紹介する。いずれ講演会など行われるだろう。15の時、油井さんのアウトドアショップ、スポーツトレインに、まだどこにも売っていなかったバンダナを買いに行った。「UFOの写真見せてやるよ。」キャンプ用品で捏造したものだったが。85年油井さん司会の深夜の美術番組『美の世界』(日本テレビ)に出ることになり、その話をしようと思ったら『影武者』オーディションに受かって司会が榎本了壱さんとマリアンに。音声が社員だったスゥインギンバッパーズの吾妻光良さんだった。83年の2回目の個展に2人で見えて、勝った負けた、とやっていた。DMのチャーリー・パーカーのサイズで賭けていたらしい。このパーカーは当時写真家長濱治さんの所へ。長い旅路の果てにどいう訳か権現様を作っている私である。 油井さんはあれだけ出演して一度も黒澤にNGを出されたことがないそうだが、陰影を排除する手法を用いる私に印象的だったのは『どですかでん』で短い撮影期間に、晴天表現のため、黒澤は地面に影を描いたそうである。

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一日  


母の入っている施設にしばらくコロナが出続けていて中々顔を見に行けない。母も2度目の陽性となった。棟続きで病院なので対応は早い。幸い今回も無症状で、元気で歌を歌っているという。こういう時、電話の相手は笑っているので、様子が想像でき、また調子に乗っているのだろう。ご迷惑かけて、といいたくなってしまう。長らく商売をやっていたせいで、息子の言うことは聞かないくせに、外ズラは良い。おかげで楽しげにやっているから、その点に限れば助かっている。 私は外出をあまりしないわりに、咳が続くので、冷凍食品や調味料もアマゾンで取り寄せ、外出をさらに控えている。どうせ取り寄せるなら、聞いたことがない、地方のメーカーを選んでいる。便利になった。 どうせやるなら、死ぬ寸前までやれる仕事が良いと昔から思っていたが、足腰立たなくなっても、玄関までたどり付ければ、何とかなりそうである。火災にでも巻き込まれたら、何を置いても、作品から首だけ引っこ抜いて逃げようと、それだけは決めている。

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私が死の床でアレを作れば良かった、コレを作るんだった、と後悔に苦しむのをことさら恐れた理由が、死にそうだった父が退院して来たら、スポーツ新聞広げて水戸黄門を観ていてショックを受けたのが原因だと昨日書いたが、これは間違いないだろう。年齢と共に気になって来た。私の場合、作りたい物がまったく途切れずに常にある。ということは、死の床で、作れなくなった時も、何かはある訳で、それを想像してはウンザリしていた。父はどうだったのだろう。 しかし考えてみると、ほとんど外に出ず作ってばかりいる私は、人には退屈な生き方に見えているかもしれない。頭に浮かんだイメージが形となって目の前に現れる快感がどれほどのものか、これは私にしか判らないことであろう。大谷がパスタに塩のみと聞いて「人生つまんなくね?」 といった選手がいたらしいが、わかんねえだろうなあ、と大谷は思ったろう。 父と共通の話題はプロレスだけであった。ありがちなことだが、保守的な父はジャイアント馬場を嫌い大の猪木ファンだった。これもありがちなことだが、私は好き勝手な猪木を嫌ったのだが、父はそれを知らずに死んでいった。

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大谷翔平、手術後の経過も良く、新天地での活躍が楽しみである。私は普通の人と視点がちょっと違っていて、野球をすることによって湧き出る快感物質に取り憑かれた男の躍動する姿、笑顔を見たいのである。こんなあからさまな人間を始めて見た。 かつて、一時の性欲や手料理如きに胃袋捕まれ、結婚していく友人らに、友情を持って止めることを常としていた。それというのも、全ての人が、あの快感物質が湧き出ていると思い込んでいたからである。私にとって家庭生活=快感物質の湧き出るのを阻害するものでしかない。 学生時代の昼休み、小説を読んでいる間中、映像が浮かび続ける私は、他の連中がそうではない、と知って、びっくりしたのを覚えているが、そんな訳で〝お前ら頭おかしいんじゃないか?“と言わんばかりに説得していたことを、今では反省している。アレが湧き出ないなら、火中に身を投じる虫の如き行動も判らないではない。もっとも、全員アレに取り憑かれたら、人類の滅亡は間違いない。酒場でぐずぐず、なかなか家に帰ろうとしない男達は自業自得と思っていたが、滅亡を防いでいるのはああいった男達であろう。

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来年1月の古石場文化センターの小津安二郎生誕百二十年紀年関連行事で販売する小さなプリントを作り、その足で母のホームへ。同居していた時、急車車のサイレンを聴くとKさんじゃないか?とよくいってたKさん連れて面会。酔っ払って頭ぶつけ、ここの病院だけで3回運び込まれている。昔生傷男と呼ばれたレスラーがいたが、シワと傷が混ざっている。喜ぶ母。今日も喋りっ放し。 恒例行事としては唯一となった工芸学校時代の友人5人との忘年会。血糖値や尿酸値が測れるという中華製スマートウォッチの数値がいい加減だ、という話しから始まった。佳境近くで先輩がなんだかおかしい、といいはじめ顔面蒼白、脂汗をかき始め、救急車を呼ぶことに。心配顔の両サイドに座る2人が脳梗塞経験者である。どこも一杯ということで都心の病院に運ばれ点滴したらしい。私も無事だったとはいえ慢性膵炎を疑われたばかりである。妙な目標が生まれたおかげで、来年は健康に気をつけない訳にはいかなくなった。



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最近の怪獣が気に入らないのは大き過ぎて、自然災害の怖さになっているところである。大魔神やサンダ対ガイラの怖さに欠ける。それは近代兵器に合わせてそうなるのだろう。であれば話を昔に設定するしかない、とずっと思っていた。ネットで知って友人に「震電が飛ぶらしいぜ。」先日メールした。 ゴジラ第一作のオマージュなのだろう。残念だったのはアナウンサーに「いよいよ最後です、さようなら皆さんさようなら!」を何で言わせなかったのか?私が怪獣映画で最も怖かったセリフがあれだったのだが。 その後コロナが出て面会出来なかった母のホームへ。市川猿之助の騒動の最中だったが、今のホームへ転院したのだが、転院前から食が細くなりだいぶ弱り、転院後も話しかけても返事もせずボーッとしており、実のところ年は越せない可能性も、とちょっと思っていた。前のホームで職員全員が引っかかった母オリジナルのジョーク、真面目な顔して「どちら様ですか?」というボケたフリ(私にも一度かました)も懐かしく感じていたが、何がどうしたのか会いに行くたびに元気になり。今日はずっと喋りっぱなしであった。この調子なら、こちらでも必ずアレをやるだろう。

 

 



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千秋楽、宇良が勝ち越し新三役が期待である。以前、たまたまテレビを着けた際、取り組みを終え、花道を引き上げて来て、落ちているパンフを拾って着物姿の女性客に渡すのを見て、誰だ?と思って以来のファンである。逆に物言いが付いた際、盛んに髷を触って髷を掴まれたアピールしているのを見て、3度目の綱取り逃した大関を嫌いになった。そんなものである。宇良が膝を痛める前だったが、解説の北の富士が、膝を痛めなければ相撲が変わって化けるかもしれないといっていたが、軽量の異能力士から地位と体重アップとともに相撲が一変した栃錦をイメージしたのではないか?。 所有する60年代の国産ビザールギター、グヤトーンは、チャーが兄のお下がりで弾いた最初の機種であり、中学生の時に、親戚の納屋に壊れて打ち捨てられているのをもらって来た、私にとっても初めてのエレキギターで、捨てられたり壊したりして3台目なのだが、ボディが小さいくせにヘッド部分がやたら大きく〝栃錦の髷じゃあるまいし“いつか小さくカットしたい。



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