明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



最近弾いているギターはフライングVといって、オリジナルは1958年に発売された物で、以前オリジナルと同じ、コリーナという希少材を使っているというので買ったのだが、なにしろ矢印状のヘビメタ御用達の形をしており、恥ずかしくて御茶ノ水の楽器店街を急いだものである。 一人で弾いていると次第に退屈してくる。かといって、誰かとバンドをやろうにも、自分の下手さ加減に見合う相手など、そう都合よくいるものではない。そこで自分一人の自宅録音を始めようと考えた。想えば中学の2台のテープレコーダーから始まり、オープンリールの4トラックから多重録音ができるカセットデッキなど、同じことを繰り返してきた。しかし作業が煩雑で、メカ音痴の面倒臭がりではなかなかうまくいかない。こんなことなら真面目に励んで、バンドに入れてもらったほうが早いくらいである。しかしネットで検索してみたら、パソコンを使った自宅録音が考えられないほど便利になり、進んでいるのを知ってムクムクと虫がわいてきた。  最近こんな話をメールしているライターの妹尾美恵さんから、人間、15歳ぐらいに好きだったことが一番好きだと聞いて納得した。なるほど、確かに熱帯魚を飼って、自転車に乗ってギターを弾いて録音していれば、まったく当時のままである。小説家として誰か一人というと未だに中3の時にはまった谷崎潤一郎ということになるかもしれない。問題は周りの人間が変わってしまうことで、気をつけないと解散後に、ギターを持ってジョンのアパートに遊びに行ったら、もう1950年代じゃないんだから、来るときは電話してから来てくれよな、といわれたポールのようなカタチになってしまう。私の将来を案じた母は、幼いころから皆と歩調を合わせよと口うるさくいってきたものである。そんなわけで私は日ごろ周囲に、最近酒が弱くなった、目が覚めるのが早くなった、足腰がどうのと、ことさら吹聴している。中身がこんな有様なことを、気取られないよう心がけているというわけなのである。

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EGO  


今月11日、EMIミュージックジャパンから、ながらく廃盤だった高橋幸宏氏の『EGO』が再発となった。ジャケットのオブジェを制作したのだが、初版発売からすでに21年たっている。当時黒人ばかり作っていた私に、何故この話がきたのか今思うと不思議である。レコード会社を移籍した第一弾で、“死と再生”というテーマと、岩肌のようなモチーフで、という依頼であった。イメージを掴みかねた私がテストで作った物を見た担当者に、1か100か思いっきってやって下さい。などといわれたので、知人の陶芸工房で土と石膏を使い、徹夜で仕上げた。顔の部分は、窯のなかで陶器が倒れないようにあてがったりするのに使うただの土である。水分を含んだ感じがよかったので、撮影が終わるまで乾かないよう、霧吹きで水分を補充し続けた。スタッフとともに仕上がりを見に来た幸宏氏が帰った後、デザイナーが黙っているので、冗談のつもりで「やり過ぎですか?」というと、まさかの「そうですね」という答えが帰ってきたのを覚えている。社内的に賛否いろいろあったようだが、それでも無事に発売となった。当時唯一、ジャケットデザインについて評が出ていたミュージックマガジンで、立花ハジメがLPサイズで見たいジャケットだと評してくれたのが嬉しかった。今見ても古びていないと思うが、名盤の声も高く、廃盤を惜しむ人が多かったので良かった。

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ディアギレフは先日書いたような人物であるから、コクトーその他が残したデッサンは臼のようなデカ頭の凸ッパチに描かれていて、かなりの悪意を感じる。嫌な面をもっていたのは想像がつくが、コクトーに私を驚かせてみろと奮起をうながし、ピカソにチャンスを与え(革新的な作品『パラード』として結実する)ヘアートニックの臭いに辟易とさせながらも?一目も二目も置かれていたわけである。レベルが地の底に落ちていたフランスバレエ界に(金でダンサーが買える状態)高レベルを保っていたロシアのバレエを持ち込み、それに当時の前衛的な画家、作曲家を起用しセンセーションを巻き起こした。そのディアギレフが組織したロシアバレエ団が今年100周年である。各国で催事がもようされるようだが、残念ながら日本は素通りである。ついこの間バレエブームだといわれていたのが馬鹿々しいが、日本では所詮『白鳥の湖』止まりなのだそうである。2007年の庭園美術館の『ディアギレフのバレエリュス展』などディアギレフの、と銘打っているのにかかわらず、ディアギレフの肖像写真一つ展示されていない始末で、観た人はディアギレフが何だか判らずじまいだったであろう。 私はニジンスキーを作りたくて2002年にニジンスキーで個展を催したが(オイルプリント中心に立体像は発表せず)展開を考えるとディアギレフを軸にすべきだと思い直している。ディアギレフの生前、悪戯描きのようなデッサンをふくめ、レオン・バクストの油絵など数々残されているが、立体は残されていないようである。そんな人物を作っているときの私の快感は大変なもので、今こんな物を作っているのは地球上で私だけだろう。と考えただけで脳のなかを、いかがわしい快感物質が駆けまわるのである。ソファーに肘をかけ、気だるげな視線の先には脅威の跳躍を生んだ、ニジンスキーの偉大な臀部から太股の筋肉であろう。となると、隣に座らせるのはストラビンスキーが第一候補。なにしろ妙な顔であるから私が作るに値する。レオン・バクストではインパクトがイマイチ。画になるのはコクトーであろうが、さすがのコクトーがディアギレフの隣りで貫禄負けするのを、ディアギレフを知らない人は納得するだろうか。それでは時に金を融通したココシャネル、面白さでピカソはどうか?  物心ついた時からこの調子の私の創作行為は、快感物質の中毒症状だというのは間違いがない。何しろ2002年の個展など、バレエを一度観ただけで翌年開催してしまったのだから、その症状は深刻である。

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ここ数日、WBCのサムライ・ジャパンに釘付けである。特に本日の決勝戦は昨日アダージョ14号表紙を入稿したばかりなので気分も良い。私はスポーツに関しては世界的レベルにないと観る気がしないので、子供の頃からプロ野球には興味がなく、一度だけ観戦したプロ野球も王や長島より、阪神のバッキーがうすらデカかったことしか印象にない。そんなわけで、日本選手が大リーグで活躍する昨今は、たまにTV画面を眺めることもある。
サムライといえば、ベランダにぶら下がっている物干しを、一つ140円でひたすら溶接していた頃、知人に中近東に石油タンクを作る溶接工として行かないか、と誘われたことがある。行けばサムライになれるぞ、といわれたのを覚えている。酒が飲めない国だったような気がするが、自殺者が後を絶たないといわれていたし、そもそもサムライなどまっぴらな私であった。

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完全に狂ってしまったニジンスキーを、いくらかでも記憶を取り戻さないかと旧知の仲間たちが集まり、ニジンスキーにバレエの舞台を見せたという、ある日の記念写真がある。ディアギレフがニジンスキーの肩に親しげに手をのせ、破顔一笑。周りにはカルサヴィナ始め、かつての仲間たちという、関連書籍によく転載される有名な写真である。ディアギレフはかつてニジンスキーの才能を見出し、愛人にし、自身が率いるロシアバレエ団の花形ダンサーに育てたわけだが、ニジンスキーはいつしか関係に嫌気がさし、ディアギレフの知らない間に結婚してしまう。怒ったディアギレフはニジンスキーをバレエ団から即座にクビにする。そこまでされるとは思っていなかったニジンスキーは、あわてただろうが後の祭り。ディアギレフという優秀なプロデューサーから見捨てられ、踊る機会も次第に少なくなり、ついに精神に変調をきたし、喋ることすらなくなっていく。それから何年も経ったある日の写真である。ディアギレフは相変わらずダンサーを愛人にしスターにするということを繰り返していたのだが、とはいえ、昔のことはとっくに水に流した、といわんばかりのディアギレフの笑顔は嘘くさいと思っていたのだが、入手したロシアバレエの写真集『MEMENTO ALBUM』のなかに、興味深いカットがあった。連続して撮られた別カットである。それを見ると、お前が狂おうが時間がたとうが許すことはない、という顔に私には見えるのである。


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一日  


先日、アダージョ14号用の背景を撮影した。アダージョの場合、背景を先に決めて、その現場にあわせて造形することになる。都営地下鉄駅周辺が背景と決まっているわけだが、画になる場所ばかりではないので、そのかわり、主人公に現場に合わせてもらうことになる。今号の小津安二郎が弁慶の7つ道具よろしく、映画用カメラ、ヤカンなどと、少々賑やかだったので、次号はあっさりといきたいと考えていて、できれば多少サスペンスタッチに、と思うのだがどうだろうか。佳境に入る。
野村総研のリチャード・クーは、プラモデルを作ってあたかも実際の飛行機を撮影したかのような写真を撮っている。ごく近所のプラモデル屋にも顔を出すそうだが、特に実際飛ぶことのなかったドイツ軍の飛行機を飛ばすところが良い。私も写真がほとんど残されていないブルースマンなどは別にして、過去にさんざん写真に撮られたミュージシャンを人形作ってまで撮っても面白くないと、作家シリーズに転向したのでよく解るのである。肝心なのは、被写体に当たる光だというところや、クラシックカメラに類するコンタックスやコンタレックスを使っているところなども、よく解っている人物だと感心する。撮り方は企業秘密で、などとぬかすところが野村総研だが、といっても野村総研が何屋なんだか私はよく解っていないのだが。

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一日  


朝っぱらから近所の小学校の子供たちが「‪イエス・ウィ・キャン♪」と連呼しているのが聞こえる。‪イエス・ウィ・キャンごっこでもしているのか。私の子供時代なら、さしずめ「アンポッ・ハンタイ」であろう。
アダージョ次号用の人物の頭部が完成する。この人物は、作る前から髪を何筋か風で顔にまとわりつかせ、ネクタイもなびかせることだけ決めていた。先日、特集場所のロケハンをして、構図もあるていど考えたのだが、問題は風向きである。浮かんでいた画の髪とネクタイのなびいている方向が、背景の構図と向きが合わない。思い付いたのは、作り始める前だし、髪が何筋かと、ネクタイのなびく方向など、左右どちらに換えたっていいようなものだが、私の場合、始めにイメージが閃くと、それがフィルムに感光したようにこびりついてしまい、以降はどうにも融通が利かなくなるのである。そうなると、いくら考えたってファースト・インプレッションを越えることがない。来週背景を撮影するとき、左右の向きをかえて撮影することにした。  同時に作っていたディアギレフは、巨体をソファーにもたれかけ、細部の仕上げを残すだけとなった。

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ついに携帯電話を持つことになった。最近は仕事その他連絡はもっぱらメールであり、電話を使う機会も少なく、まして歩きながら電車の乗り降りの際まで電話を離さない連中に腹も立つし、私自身持つ気などさらさらなかったのだが。
以前東北に旅行に行った時、それを知らず、電話が通じないのはおかしいと、実家に連絡してきたHに番号を知らせる。旅行先の友人は、専門学校の同級で岩手の陶芸家である。 学生時代、私のアパートは溜まり場で、鍵をかけて出かけても、帰ると6畳間に10人以上で酒盛りしているありさまであった。卒業まじかのある日、誰にも邪魔されないよう雨戸まで閉め、女の子と卒業を惜しんで酒を飲んでいた。すると外で「絶対いるって、酒とラーメンばかりで倒れているのかもしれない」という、岩手の友人と、もう一人、今は三重県で陶芸家の2人の声が聞こえた。雨戸がこじ開けられていくのを内側から見た光景は未だに忘れられないが、心配してくれていると思うと腹を立てるわけにもいかず、何ともバツの悪いことになった。今だったら、携帯電話で居留守も上手く使え、想い出も、もう少し美しかったことであろう。 私には携帯電話など必要はなかったが、我が家の電話はよく受話器がはずれる。連絡が取れないと死んでいるんじゃないかと心配なので、と今年80になる母に送ってこられたら仕方がない。それにしても、未だに倒れてるとか死んでるとか、部屋で腐っていたらとか、いい加減にしてもらいたいものである。何のためにK本に通ってキンミヤ焼酎で防腐処理を続けているのか、というのは今思いついた冗談である。

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イラストレーターの内澤洵子さんが、ブログ『空礫絵日記』で右と左の区別がつかない話を書いている。私の友人にも、右といいながら左を指すのが、男女それぞれ1名ずついる。2人の共通点は他にもあり、水平垂直に弱い。ポスターをまっすぐ貼れないし、壁にかけた額は曲がっている。自転車で転んでハンドルが曲がっても、タイヤとハンドルを垂直に直せない。私は幸い左右の区別はつくが、奇数偶数の区別をマスターしたとはいいがたくはあり、彼等は私に「お前、そこ曲がってるじゃねェか」と鬼の首をとったようにいわれる筋合いはないのである。内澤さんはさらに、東西南北の区別のしかたを小学校の高学年になって、ある方法で見つけ、これで小学校が卒業できると涙が出たそうだが、私が想像するに、世界地図でヨーロッパが左でアジアが右、北極が上で南極が下をマスターしたのではないか。世界地図など低学年でも見るので違うかもしれないが、私はそうであった。というか、未だにそうである。何かの場面で東西南北にどうしても触れなければならないとき、薄っすらと、世界地図が目の中に浮かんでいる。 街中の地図を見るとき、人さえ見ていなければ顔を地図なりに曲げてしまう話は以前にも書いたが、極度の方向音痴はフライボールは取れないし、プールのとんぼ返りターンはどのくらい返っているか判らないなど、子供時代は不都合が多々あったものである。しかし齢は取るもので、今ではフライは取れなくても構わないし、とんぼ返りターンの機会もない。反面大人になると、社会人として常識的にマスターすべきことが出てくるわけだが、知ったかぶりして遠くを見る目でもしていれば、解ってないことなどバレないものである。少なくとも私はそう思い込んでいる。

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午後2時より古石場文化センター会議室にて。全国から会員が集まるので、展示中の小津安二郎像も観てもらえるだろう。私は会員ではないが、制作に助言いただいた小津の義理の妹である小津ハマさんに改めてご挨拶し、プリントを差し上げたいので特別に参加させていただいた。会場に着くと、チラシやテキスト、会員提供のお茶菓子と共に、アダージョも配られていた。活動状況、収支報告の後、3バージョン残される『大学はでたけれど』(1929)の比較上映。15分前後の作品だが、小津といえば編集の妙というのがあるわけで、微妙な違いが興味深い。ハイライトは『生まれてはみたけれど』(1924)の子役藤松正太郎氏の講演である。この作品は、今年の正月から小津作品をDVDで数十本観る以前、一番好きだった作品である。日ごろ子供たちに偉い人になれ、といっている父親が社長にペコペコしているのを見て、ショックを受け拗ねてしまう子供たちが楽しい。藤松氏の出演場面だけスクリーンで流したが、原っぱで遊ぶ子供たちの中に藤松氏がいた。撮影所の蒲田周辺で撮影されたそうだが、この作品を観たとき、いささか広くはあったが、私の育った昭和30年代の葛飾の風景そのままなのに驚いたが、東京は東京オリンピックの前後では別物であり、以降、東京の風景がどれだけ変ろうとも不感症になってしまい、何が壊されようと、残念という気が爪の先ほど沸かない私である。そんなところは東京人の証といえよう。 子役から小津組の録音部に転進した藤松さんだが、フィルムの一コマを誰かが紛失したことがあり、試写の際にそれに小津が気がついたといっておられたが、35ミリのいわゆるカメラ用のフィルムは、そもそも映画のフィルムを流用したものなので、1コマはフィルムの1カット分ということである。高速で流れるたった1コマの欠落に気付くというのは、尋常な神経ではない。質疑応答では、劇中、子供たちがスズメの卵を取ってきて飲むシーンがあり、これは当事の子供は普通にやっていたのか、という質問があり、各地の会員の、私はやっていたという意見が出たりして、和やかなうちに終る。 小津ハマさんには無事プリントをお渡しすることができたが、帰ったら仏壇に供えます、といっていただき、お菓子までいただいてしまい恐縮する。ご遺族にそういっていただけるのは冥利につきるわけで、帰りにK本に寄って、祝杯をあげたのはいうまでもない。

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齢のせいか睡眠時間が短くなったが、自分がどのくらい寝たのか気にしないようにしている。暗いうちに目が覚めてしまうと、どうにも腹が減り、T屋に鮭に卵と海苔の朝定食を食べに行く。6時頃にはタクシーの運転手が飲み始めており、9時も過ぎると全員ろれつが回っていない。この中で飲まないでいるというのは、ヌーディストビーチで、一人服を着ているようなもので、つい焼酎のお湯割りなど飲ってしまうが、睡眠時間を気にしないようにしているのは、例えば2時間しか寝ていないことに気付けば、がっかりするからなのだが、この2杯でそんなことも忘れ、今日はあれを作ろう、あそこをどうしようという気分が沸いてきて、早く家に帰りたくなるので、一日の始めに良いリズムが生まれているのではないだろうか。幸い体質的に二日酔いをせず、検査をしても、そちら方面はAが並んでいるので、お医者様には、たいしてアルコールを好まない男という顔をしているのである。 T屋では早朝から奥さんが定食を作ったり酒を注いだりしているが、10時を過ぎると、亭主のHさんが交代のため、殺人を目撃して、呆然としているような顔をしてゴソゴソと上から降りてくるのである。そしてしばしば、ついさっきまで一緒に飲んでたよなあ、と思うのである。

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ここ最近、やること山積みで外に出ることも少ない。いきたい展覧もあったが行けずじまいである。神保町の、オメガスイーツの自分の作品すら観に行けず、写真作品に入れ忘れたサインのために、わざわざ木場まで持ってきてもらう始末である。こちらにはひき続き写真作品を提供していく予定で、画廊では、はばかれる作品も、こちらなら面白そうである。 子供の頃、下町の路地の奥にある小さな工場で、いかにも地元から一歩も出なさそうな老夫婦が、裸電球の下で作業している後ろ姿があまりに侘しく、ゾッとしたものだが、気がついたら自分がそうなっていた。そう思うと、あの老夫婦も案外楽しくやっていたのではないか、と思う今日このごろである。なにしろ若大将は遊んでばかりいたし、植木等は無責任が一番だと、笑いながら歌っていた。今とは時代が違う。
アダージョの、月に一度の打ち合わせに京橋の中央公論新社に集合し、蕎麦屋に場所を移し、今後特集する人物を話し合う。各自、様々な人物を提案するわけだが、毎回、造形はまだしも、背景に人物を配するアイディアに苦労している身としては、話としては面白いが、そんな奴を商店街しかないような所へ、どうやって持っていくんだ、とそうニコニコと飲んでばかりはいられないのだが、話としては面白いので、ニコニコと飲んでしまうわけである。数人の候補が出たところでお開きとなる。雪の降るなか木場に帰り、T屋に寄ってさらに飲んで帰宅。

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デイアギレフは乾燥が終れば仕上げをして着彩である。すぐ取り掛かる予定はないが、問題はニジンスキーである。興味を持ったきっかけは、まだエトワールではなかったバンジャマン・ペッシュの踊る『薔薇の精』であった。印象的だったのは、実はモリモリとした筋肉質の男が、女性的ななまめかしさで、妙なコスチュームで踊るその異様さである。同時に出演していた、格上で、より王子様タイプのマニュエル・ルグリが薔薇の精を踊っていたら、これほど興味を持たなかったであろう。その後、動く映像が残されていない、伝説の男ニジンスキーの写真を見て打たれたのは、やはりその異様さである。ニジンスキーの得意としたのは薔薇の精や牧神、ペトルーシュカという操り人形、シェエラザードの金の奴隷などの“人にあらず”の役柄に限っている。その肉体は異常な発達をみせる太股のせいもあり、奇妙なバランスで獣じみている。伝説的な跳躍を可能にしたニジンスキーの肉体はグロテスクでなければならず、そして、そこにこそ私は魅かれ、ニジンスキーをニジンスキーたらしめた秘密があるはずである。私が以前手がけたとき、どこかに美しく作ろうという気持が働いていたことは否めず、2代目ニジンスキーはそこを踏まえて作られることになるであろう。 同系の?怪しい魅力を放つ身体に関しては、私の中に、ある膨大なイメージの蓄積がある。幼稚園児の力道山時代から、目を皿のようにして観続けたプロレスである。今でこそビルドアップされた見た目に美しく鍛えられた男達が増え、私の興味は薄れているが、かつては己の身体の特徴を生かし、また能力を際立たせるため鍛えた人々の、異形な肉体の宝庫であった。人の頭を鷲づかみにして出血させ、のたうちまわせる握力のフリッツ・フォン・エリックは、開いた手の親指から小指までが32センチあった。ニジンスキーと同じく、ジャンプ力を売りにしていたアントニオ・ロッカ(猪木のアントニオはここから取られた)は、子供の私には爬虫類じみてグロテスクに見えたものである。そういえばリッキー・スターという、リング上で回転したりジャンプばかりしていた、バレエダンサー上がりのレスラーさえいた。こんな愛すべき男達の話になると、ついヒートアップしてしまう私だが、つまりニジンスキーは単純に、美しく描こうなどという了見では、間違いなく作れない人物なのである。そして、何故私にとってニジンスキーが魅力的に映ずるかを考えると、肝心な部分は掴んでいるという気がしている。

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