明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



出不精に様々なことも重なり、例によって行かずに終わりそうだと思っていた谷中全生庵の、圓朝が集めた幽霊画展に出かける。最終日。もちろん圓朝の首を持って。 江戸川乱歩作品制作時に、団子坂界隈をうろちょろしていた頃であろう。一度観ている。しかしその時とは関心度が段違いである。 何種かの伝記を乱読しているうち、晩年は名声を得ながら名人の屈託のようなものが見えて来ている。会場ではポケットから出して圓朝の首に画を見せてあげた。幽霊画として個人的には恐ろしく恨めし気に描かれた画より、幽霊といやあ幽霊。はかなげな白い着物の美人画という作品が好ましい。 最近どうも眠気が取れない。図書館でも寝てしまうし、飲んでいてもよく寝てしまう。20代の頃、一つ140円でベランダの物干を溶接していた頃、面倒なので、炊いたご飯をしょっぱいおかずでかき込んでいたら、だるくて眠くてしょうがなくなった。思いついてビタミン剤を飲んだらポパイにホウレンソウの如し。まさかあれじゃあるまいな?と思いつつビタミン剤を。

タウン誌深川 常連席にて日が暮れる

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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最新作が一番良く見えるというのは結構なことだが、それは目が慣れていないせいもあろう。旧作から近作まで並べてみた深川江戸資料館の個展でそう思った。この中でどれが一番の作品か?と何度か訊かれたが、そういわれれば特にどれもこれもそれぞれ、という感じであった。 和服について、こんな状態はどうか、と思いついたは良いが、誰に訊いてもそんな着方はしないという。そりゃそうだろう、とは思った。しかしたまたま見た伊東深水の画集に1作品あった。深水がそう描いているなら有りであろう。本日テスト撮影。ところが考えるのと実際は違った。伊東深水に騙された。もっともここで諦める気にはならない。今度は台風が来ていない時に撮影しよう。

タウン誌深川 常連咳にて日が暮れる

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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圓朝両手も膝の上、乾燥も終える。首を多少動かせるように遊びがあるので、ただ差し込むと猫背と相まってうなだれ気味である。そうしたらライング云々でなくすでに怖い。この直後に「こんな顔かい?」あるいは「犯人はお前だ!」といいそうな“タメ”の状態に見える。鏑木清方の圓朝も『これから怪談するぞ』と私には見えるのだが。もちろん首をはずして真正面から見れば、特にどうということはない。立体の撮影の面白さはここにある。仕上げに入る。 圓朝高座引退後、圓朝作品の歌舞伎化が評判となるが、最大のきっかけは、九代目團十郎の舞台が不入りで大赤字をだし、そこで企画されたのが『牡丹灯籠』で、絵入り団扇などのグッズを配ったりして大評判となり、作者としての圓朝の地位は盤石となった。だがしかし。  江戸、明治の高座上に、燭台や火鉢、その上の鉄瓶、薬缶など知ったのは当時の風俗画によっている。一つ手元に、とブックオフにて『目でみる明治時代ー明治風俗画集成 全3巻』(国書刊行会)。1780円にてダンベルが入っているような箱届く。

タウン誌深川 常連咳にて日が暮れる

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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甲斐性のない情夫、村次のせいで、江戸中の岡場所を転々としてきたお秋。洲崎の遊郭へ。三人しかいない平屋である。女はまさに螢籠の中の螢。初めて読んだ作品だが、なかなかの短編作品であった。海っぺりの場末の岡場所に流れ着いた女郎にしては、少々言葉使いが優雅なのが気になったが。いやもっと気になったのは洲崎の遊郭は、もともと文京区根津にあり、東京帝大本郷校舎建設のため、これは不都合、と埋め立てが進んでいた洲崎に明治21年に引っ越ししてきたので、この頃洲崎には遊郭などなかったのだが。どうしたんだ山本周五郎? 木場の居酒屋『河本』について地元のタウン誌深川に連載を初めて1年が経つ。煮込みもなくなり、念願であった通常営業の再開はなくなった。そこで次号で最終とさせていただいた。誌上ではK本、女将のM美さんとしていたが、ちゃんと表記し、河本ファンは気になっていただろう。真寿美さんの元気な姿も1P。本日発行。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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さほど広くない寄席で、ある程度の高さの高座の上にいるとして、猫背の圓朝はちょっと俯き加減である。首はスッポ抜けるように作ってあるが、ほんの少し左右に振れるようにした。まずは左前方に浮ぶヒトダマを見つめるためで、それも目だけをそちらに向けるために、首の動きはわずかで良い。◯◯している、ように作ると、写真に撮った時にはオーバーになる。◯◯しているような気がする、程度に作っておけば、写真に撮ると丁度良い。動きは最小で良い。 脚の調子が悪く、杖をつき、片手で伝え歩きの状態になってしまっていた母だが、ちょっと調子が良くなったせいで、私に内緒で活動。圓朝の乾操に入っていたから良いようなものの1日無駄になる。こういってはなんだが、元気なのも良し悪しである。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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仮に圓朝が團十郎をライバルと見なしていたとしたら、團十郎の声色や芝居噺をやっている場合ではなかったろう。團十郎の天覧歌舞伎の二年後には今度は自分が明治天皇の前で口演する。 圓朝の口演を速記した速記本が、言文一致体運動を推進することになる。坪内逍遥の「圓朝のように書いてみたら」というアドバイスにより、二葉亭四迷が『浮雲』を発表する。 圓朝は晩年現役を引退し、新聞連載などに集中する。そしてなにより自作が次々と歌舞伎化されていく。芸風から菊五郎が演じることが多かったようだが、九代目團十郎も圓朝作品を取り上げている。かつて芝居噺を演じていた頃、声帯模写をしていた役者が、劇聖といわれるようになり、自分が創作した作品を歌舞伎として演じる。これは格別なものがあったことは想像に難くない。と妄想する。 鏑木清方は自宅に原稿を届けに来た鏡花と自身の会合の様子を描いている。ウチには九代目團十郎がいる。圓朝と團十郎でこんなことも可能ではないか?しかも写真で。ここを笑っておかないとあと笑えるところはない。 圓朝膝に置く手以外ようやく乾燥に入る。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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圓朝はデビューから鳴り物入り道具仕立ての芝居噺で人気者となる。庶民としては芝居見物よりお手軽に芝居を観た気になれる。歌川国芳の内弟子となり画工修行もした圓朝は舞台に配す背景の画を自ら描いた。さらに役者の声帯模写が評判だった。そのレパートリーの中には河原崎権十郎時代の“劇聖”九代目團十郎があったという。色めき立つ私。 後の井上肇邸での團十郎、菊五郎の天覧歌舞伎には圓朝も出席している。平行して読んでいる数種の圓朝伝にはまだこの二人の関係は出て来ないが、圓朝は芝居にコンプレックスを持っていた、という説は目にした。芝居噺の旗揚げより14年後に弟子に道具を譲って素噺に転向するが、圓朝は芝居というより團十郎をライバル視していたのではないか?お互いリアリズムを追求し、新たな境地を追い求めた。生年を調べてみると圓朝(天保10年1839年4月1日)團十郎(天保9年10月13日)。男はいい歳して学年でいうと俺の方が、などとよく口にするが、これはあまりにも近い。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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圓朝関連本を乱読していて、何で読んだか忘れたが、最初に評判になったのだか、なんだったか、門前仲町に侠客が経営していた寄席があった。昔、江戸、東京には町内ごとに、というくらい寄席があった。江東区の文化センターの職員が昔調べた記録があるそうなので近日中に見てみたい。 先日図書館で見た昔の寄席は、屋根付きの箱状の看板が軒から出ている。そこには屋号やら芸人の名が書いてある。素朴なモノトーンの図版で、詳細は判らないが、一枚板の看板ではないので中に灯りをしこんであるのではないか。乱歩の『三人書房』を再現した時もそうだったが、そんなことを推理しながら制作を進める。 すでに客を前にした圓朝がここにいるが、横には木製の角火鉢に鉄瓶だか薬缶としたい。両サイドには燭台。 その辺りを準備しながらのファーストカットは黒バックにバストアップの圓朝、斜め前方に浮ぶヒトダマ。それを上目使いに見つめる圓朝。という画が浮ぶ。ヒトダマはたっぷり墨を含ませた筆描きを反転させた物を予定している。 検索して出て来ないので圓朝の立体像は初なのかもしれない。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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三遊亭圓朝座像制作開始。ここからは早い。人にいえないくらい早い。特に乾燥後に手がける靴がないのでさらに早い。じっと我慢の頭部制作から解放され、快感を長引かせようと余計なことをしようと思うが、できてしまう。 当時の証言だけでは良く判らない圓朝の猫背。鏑木清方が描き残してくれたおかげでニュアンスはおおよそ。すべてにおいてデフォルメしており、本物より本物らしい清方の表現力の素晴らしさ。これから怪談を語るぞ、という表情は、しばらくじっとしていなければならない当時の写真では表現できないであろう。 今年のGW中の個展について飯沢耕太郎さんが展評を書いていただいていたのを3ヶ月も経って気付くという実に申し訳ない私である。『日本の写真家には珍しい洗練された「コンストラクティッド・フォトグラフィ」として成立しているのではないかと思う。と書いていただいている。コンストラクティッドを検索してしまった。“だんだんエスカレート”はそういうタチなので、この調子で死ぬまで続く訳である。“洗練された”などといっていただく機会はないので、しばらくリンクを貼っておくことにする。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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江戸川乱歩が上京して団子坂で弟等と営んだのが『三人書房』である。始めそれらしい古書店を撮影して、と考えていたが、乱歩が描いた簡単なスケッチを見て再現することにした。看板こそ板で作ったが、他は置かれた本から地面まで様々な場所で撮影し、レイヤーは百数十に及んだ。これは『D坂の殺人事件』の舞台である古書店に転用した。 圓朝は高座上の様子を作ることは決めているが、本日図書館で描かれた明治時代の寄席の外観を見て、これも作ってみる気になった。たまたま似た建物を知っているのでいけると踏んだのである。 寄席の前に圓朝が立っていて、と書いている、たった今、『牡丹動労』いや『牡丹灯籠』のお露が作者の圓朝が寄席に入るところを陰からそっと。という画が浮んだ。新三郎に焦がれ死に、化けて出るお露。『圓朝殿、よくもこんな惨い役目を私に。』ヨヨとむせび泣くお露。 今思いついたばかりで盛り上がっているが、果たして明日になったらどうか?

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ポケットに制作中の首を持ってでかける。なんでこんなことをするようになったのか覚えていないが、最初は黒人人形の首だったからずいぶん前である。楽しみのモトがポケットに入っていれば何をしていても楽しい。よく無造作にポケットに入れて、と言われるが、仕上げ前ならどうということはない。  深川江戸資料館に東雅夫さんと加門七海さんのトークショーを聴きに行く。ついでに江戸時代の長屋を再現した展示を観る。個展の時にもさんざん観たが、改めて灯火器を中心に観察。当然各家ごとに置いてある。ここの展示は、釘一本から昔と同じ材料で作られており、昔の大工技術自体も残そう、という趣旨で作られているので、見た目だけ再現とは違うところが良い。帰宅後、改めて先日届いた円筒形行燈を見ると、先程観てきた長屋の行燈とは大きさも違うし、朱塗りというところも艶めかしく、これは一般の家で使ったものではなさそうである。だったらそれを踏まえて撮影に使うことにする。 ネットのことだから本当かどうかは知らないが、中国では吉田沙保里は“絶望”と呼ばれているとあって笑う。格闘家には鉄人とか様々な呼ばれ方があるが、これは人ですらない。そう思うと吉田にバックを取られている選手を見ると、蛇に呑まれて上半身だけ外に出ている蛙に見える。それがまさかの銀。

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まずは基本の前を向いて座っている高座姿を。『わざと身幅の狭い着物を着て緋色の襦袢ちらつかせながら、弟子の肩に手を置いて紅絹の布を口にあてて軽く咳をしながら歩いた』という気障で各方面から大モテ状態だったのは、まだチョンマゲがあった時代のことのようで、鳴り物など小道具を使った芝居話で人気があったが、道具を弟子に譲り、現在の噺家のような素話に転向してからは、真面目な人格者のように伝わっている。 ところで圓朝を作る前に着物のことを調べていて、以前から興味があった日本画の画集をよく眺めている。実に興味深い。いずれ私なりの『寒山拾得図』が作れれば、と頭の隅でずっと思っていたが、この辺りで日本画が気になるは何かあるのか。それはまだよく判らない。

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圓朝、鏡花作品の夜の室内用に灯火器の類いを集めている。同じ物が鏡花にも圓朝にも登場するようではいけない。 特に行灯は様々な形があって面白い。円筒形の物は関西で発達したものらしい。二重になっていて、外側を回転させることにより光量を変えることができる。手頃な物があったので朱塗りの古い物をヤフオクで落札。一つで良かったが1対。それにしても現物が安かった割に送料が高い。寝床に置かれるようなせいぜい60センチ程度の物と思っていたら、ちょっとした冷蔵庫のような物が届いた。まだ御丁寧な梱包で、と呆れながら開けてみたら高さが私のミゾオチくらいまであるデカイ物がでてきた。イメージ通り、などと喜んで大きさを見ていなかった。ギョッとしたが、これならこれでやりようがある。 涼しくなったら背景の室内を撮ろうと思っているが、圓朝、鏡花、その他用に撮影するので、どの場面にどの行灯、この高さだから、こっち、などと現場でやっていたら撮影に集中できないので灯火器は別撮りにする。できたら鏡花の『高野聖』をⅠカット物にしたいところである。

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暑い中眠い目をこすりながら作った、最難関の頭部が完成している状態の嬉しさをどういったら良いであろう。なにしろあの三遊亭圓朝を、これからどう作ろうが私の自由なのである。だったら返す刀ですぐに身体を作り始めれば良いものを、わざと余計なことをして自分を焦らし快感をさらに高めようとする。小さな頭部に何十日もかけて、一応大変である。よほど良いことがなければやっていられない。またこの期間が弓の引き絞り効果となって集中力も増すのである。私の扱い方は良く判っている。 本日は圓朝の首をポケットにサイゼリヤへ。圓朝全集を開き、連れは後から来るんだけど、という体でマグナムワインの赤。 昔、ニューアルバムを鞄に旅客機に乗ったサンタナのメンバーが、酔っぱらって「この中にダイナマイトが入っている」といって大騒ぎになったと、昔音楽雑誌で読んだことがある。本日の私はダイナマイトとはいわないが、2B弾あるいは爆竹程度の物は持ってるぜ、とニヤケながら時間を過ごす。やはり九代目團十郎と圓朝は面識があったのだ。お互いリアリズムの人である。 連れは最後まで現れず。

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朝8時過ぎに寝るが一時間後には母のデイサービスの送迎車からの電話で起こされる。その後寝るが、3時間ほどで目が覚める。図書館に出かけるつもりであったが母不在の数時間。もったいなくて出かけるのを止める。 先日87歳になった母は幸いなことに、デイサービスやショートステイ、皆さんと歌ったりおしゃべりしたりが待ち遠しくてしょうがない。周囲に訊くとそんな年寄りは珍しいらしい。 母としては私が寝ている以外は常に制作していることが想定外だったであろう。そういつも昔話に付き合ってはいられない。 『リング上で俺の邪魔をするヤツは誰でもこの歯で噛み殺してやる。それがたとえ俺のお袋でもな。』噛みつき魔と呼ばれ、力道山の額からの出血で、お茶の間でのショック死事件を起こした悪役レスラー、フレッド・ブラッシーはかつてそういった。日本の子供である私には“たとえお袋でも”の部分の怖さが今ひとつ伝わらなかった。しかし現在、お袋に毎日噛みつかれているのは私の方である。

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