明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


数年ぶりに検査したクリニックは、生活改善をして数値を良くし、美人に褒められたい、という患者の心理を利用しているかのように医師が美人ばかりであった。駄目になって美人に叱られたいと通院する輩もいないとも限らないが。私はどちらかというような余計なことをここでいうつもりはないが、脅かされるなら美人の方が怖いことは間違いがない。あれから玄米を食べている。今は便利でレンジでチンであるが。そのおかげか、もともと通じが悪い方ではなかったが、毎朝、一本!それまで!的に、はっきり勝負をつけてから外出している。 作りかけの川端康成と内田百間が抽き出しからでてきた。三島で『潮騒もしくは真夏の死』を手掛けても川端で『伊豆の踊り子』を手掛けるはずもなく、『片腕』の、女から外して借りてきた腕をかき抱く川端の制作を考えていた。そんな有様でも、無表情で見開かれた猛禽類的目玉のままの川端は面白かろうと考えた訳である。内田百間では『ノラや』を考えていた。百間さえできれば始めるつもりでいて、ノラは本物の子猫を使うつもりで、近所で一応口では動物好き、といっている年金暮らしの人物がいるので、任せることも考えたが、こんな実のない男はおらず、女の尻ばかり追いかけており、猫なんて放ったらかしに決まっていて、可哀想なことになっていたろう。脇役で夏目漱石を登場させる予定でおり、それが今回、柳田國男の起用ににつながったはずである。こう書いていると、なんだか随分昔のことのようである。 某文化センターの職員と飲んで帰ると、風濤社の編集者から新小岩の書店から『貝の穴に河童の居る事』の注文が5冊入っており、著者割引で購入可ですが、というメールが着ていた。確かにアレを新小岩で5冊とは、どう考えたって母である。知人に差し上げるのはかまわないが、アレを貰って喜ぶ人にしてくれといっている。

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パソコンのモニターの裏にコンビニの袋に入ったお菓子らしき物が見える。昨晩飲酒が過ぎて、またやってしまったらしい。かつて朝起きたら溶けたアイスクリームを頭に付けていた私である。だがしかし。中に入っていたのは『タニタ食堂監修のおやつ大豆ブレンド』酔いながらも一応健康を考えたらしい。そういえばコンビニ内をぐるぐる回った記憶がある。最近はいちいちカロリーが書いてあり、それを見てしまうと買う物がなかなかない。 図書館では久しぶりに制作用の資料としてではない読書。書架は御馳走で満たされている。そうはいっても油断はできない。私の場合、読んでいる間中、場面の映像が頭に浮かび続ける。誰しもがそうでないことを知った時は結構驚いたが、浮かび続けることじたいは当たり前だと思っているので問題はない。問題はその後である。養老孟司氏がいっていたのではなかったか。“人は頭に浮かんだ物を作るようにできている” この仕組みのおかげで私は幼い頃から苦しめられ、結果こんなことになってしまった。そう思うとうっかり図書館で棚から本を取り出せないことになってしまう。河童のダメージが癒える前に何かが起動してしまったら厄介である。というのも、今日はなんだかある書架のある列がピカピカしているような気がしたのである。君子危うきに近寄らず。今日は大方の時間を、ロック雑誌のギターを眺めてすごした。

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フェイスブックをやっていて高校時代の級友と再会した。といっても4月にもらったメールにまったく気づかず、慌てて返信したところである。どうもフェイスブックは要領が掴めないが、こういうことがあるならまんざらでもない。柔道の授業で彼と組み合っていて足の親指の爪がはがれそうになり、随分と恐縮し、心配してくれたのを覚えている。墨田区在住だというから会おうと思えばいつでも会える。 会えるものなら一度会ってみたくてときおり検索するのが、幼稚園で出合い、小学校の三年になるかならないかで転校していった成田君である。彼が何故印象に残っているかというと、まだ田んぼや畑の沢山あった東京オリンピック以前の葛飾区の、私がもっとも子供らしかった、と自分が思える時代の想い出が、彼とともにあるからである。一緒に地面に穴を掘ったり何かを隠したり、ほとんど小動物じみた時代であった。私は今でこそ制作に集中していると、特に今年は一日に3回しか“立ち上がらなかった”日があるくらいであるが、当時はとにかく落ち着きがなく、多動症一歩手前という感じであった。 私の実家の隣には旧国鉄のアパートがある。その庭には2人で随分色々な物を埋めたのを覚えている。家の鍵だったり、ビー玉だったり泥団子だったり。間違いなくまだ埋まっているのはコーヒーの瓶に洗濯糊を満たし、その中に入れた昆虫採集用の防腐剤を注入したフナである。理科室の魚の標本はテグスかなにかで蓋からぶら下がっているのだろうが。それが我々には判らない。洗濯糊を入れれば途中で浮かんだままになるだろう、と思うところが子供で、当然下に沈んでしまう。バカ加減が同じくらいなのでウマが合ったのであろう。 あまりに落ち着きがなく、しまいに児童相談所に連れて行かれて、面白くもない大きな積み木などで遊ばされ、いたいけな子供を演じるはめになったのもその頃である。結局私をジッとさせるには、絵を描かせるか本を読ませるしかなかったわけである。あげくに。一日3回しか立ち上がらないほど落ち着いた大人になった私である。成田君。君はいったいどんなことになった?

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読書  


作家シリーズは、おおよそ中学から高校時代に読んだ作家が中心で、ほとんどが改めて読み返さずとも画が浮かぶ作家であった。小学生のときは腹ぺこのくせに母が夕飯だ、というのに本から目が離せず、学校で昼休みが終わって授業開始のチャイムが鳴っているのに図書室から出てこず、ついに小遣い停止になってしまった。縁日用の小遣いも使わず、帰りに家族を待たせ、シャッター閉じかけの書店で本を選ぶくらいだったので、これは痛い。当時、少し離れた図書館に借りに行くことができなかったのが未だに残念である。それはテリトリーから一人離れて出かけるというのは、かなり覚悟がいる時代であった。当時は小学生や中学生の悪いのは見てすぐ判った。中学時代に授業中谷崎を読んでいて、先生にばれ、みんなの前で『卍』を朗読させられたことは拙著にも書いた。小学生ですでに算数なんてつまらないものが、大人になって必用になるはずがない、と判ったので、高校時代も数学、物理の時間はもっぱら読書である。赤点3つで追試無しの留年と決まっていたので、化学だけちょっとかじった。これが陶芸の専門学校に入りアパート暮らしになったとたん、本を買う金はないし、近くに図書館はない。それになにより酒を覚えてしまった。私にとってアルコールの最も悪い点は、飲酒中、まるでたいした仕事をこなしているかのような充実感があることである。当時の友人は、私が読書好きであることを知らないので、小説家を作っていることに違和感があるだろう。現在はというと、読書よりさらに面白いのが造形で、よって昔程は読まない。アンテイックな、焼けを防止する緑の布やダイヤガラスのはめられた本棚が増殖しているうちが華であった。本は積んでしまったら終わりである。積んだ本がじゃまで扉が開かない。 『貝の穴に河童が居る事』の制作が終わるまでは、本作以外小説は読まないと断っていた。しばらく図書館に居座ることになるであろう。

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金沢の鏡花記念館に、間もなく河童の三郎や三郎と向かい合う柳田國男のプリントが展示される。学芸員の方から連絡をいただき、鏡花のプラチナプリントも1点追加されることになった。最近写真の古典技法、特に耐久性にすぐれたプラチナプリントを試みる人が増えたようであるが、“泉鏡花のプラチナプリント”と発音できるのは、この一点しかない。そういってしまえば、“泉鏡花のカラープリント”と指差せるのも私のプリントぐらいである。こういったことは大事なことだと私は考えている。あらためて見ると、怪人二十面相をあえてプラチナプリントにしているのも、二十面相のプラチナなどもう永久に作られることはなかろう、と一人ほくそ笑んでいたのは間違いがない。 先日、地元の文化センターで鏡花の朗読会を、スライド上映とともにおこなった。鏡花作品には皆さん馴染みがなく、鏡花作品の舞台となる深川を、ただ酔っぱらって踏み歩いているだけ、というのが残念である。と書いたが、地元の文化センターの職員でさえ知らないのだから話にならない。鏡花記念館職員のブログに書かれた“〈深川もの〉の聖地である汐見橋を渡って州崎をめざし、州崎神社で“津波警告の碑”を確認、長年の念願を10年越しで果たすことができたのです。”を見せて、「鏡花ファンにしたら聖地なんですぞ」。と昨日職員に話したばかりである。すると、これを書いたのは本日電話をいただいた方であった。私が先日、やはりブログに書いた碑にはたどりつけなかったそうである。電話しながらつい立ち上がって、このすぐ目の前にあるんです、といってしまった。私は『貝の穴に河童の居る事』で鏡花がモデルにした房総の神社で撮影したが、あまりに鏡花が書く通りなのに興奮し、下から上がってくる鏡花が見え、すれ違いざま道をあけたくなったほどである。ファンとはそうしたものである。深川に住み、酔っぱらって踏み歩いているだけなのは実に残念である。

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以前大阪まで活き人形展を観に行ったがことがある。出不精な私にしては今思うと信じられないが、かつての名工の仕事ぶりが観られて大変勉強になった。多くは見世物興行に使われた物であったが、しかしリアルといっても、“リアルな死体”が多く見受けられたのも事実であった。医学用に供される模型というならともかく、リアルであれば活きているか、というとそれは別な話であることが良く判った。私は作品を写真に撮る場合、実際の人物を撮影したかのように錯覚させるつもりは毛頭ない。だいたいそう見えてしまったら私は単に写真家で、人形制作者としての存在がなくなってしまう。それを判ってもらう為ではけっしてないが、必要がないので、粘土の質感は案外丸出しである。人には人とはこうなっているものである。という経験によって得た常識を持っている。そこを押さえると、粘土だろうとリアルに見えてしまう。こうなっているからには、これは人である。というように。 一方今回制作した河童の三郎は、なにしろ架空の生き物である。そもそも実在しないのであるから、どう作ろうと私の創作物だと判る所がすがすがしい。間違われるとしたら実物大に思われることくらいであろう。だがしかし。 先日、めったに会うことはないが、私が黒人のジャズシリーズを制作していた二十代の頃からの知人と会った。できたての『貝の穴に河童の居る事』を見せて、ひとしきり苦労話など披露をしていると、知人が表紙の河童をさして「誰が中に入ってるの?」といった。私は耳を疑ったが、入ってませんよ。私が作ったんですよ。というと「ああそうなんだ」。と答えたから冗談ではない。長年の知り合いといえども、私が彼の営業内容を詳しく把握していないように、彼も同様だと思えばそうなのであろうが・・・。『そっかー。誰かが中に入っていると思うパターンがあったかー』。

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私は元来宵っ張りなこともあり、子供の頃から母に無理矢理起こされ、なんとか学校に通った。こんなにつらいことが身体に良いはずがない。結局岐阜の山奥の製陶工場を辞して以来、ほぼ寝たい時間に寝て起きたい時間に起きている。毎日体調も違うし、なにより考えることが違う。昨日寝た時間に何か思いつけば頭が冴え、就寝時間は遅くなる。そういった己の事情に従うほうが身体に良いに決まっている。と思っていたが、先日美人によってたかって規則正しい生活を説かれた。しかしこればかりは無理である。それでも以来、三食食べることは続けている。一日三食を実現するためには、空腹でなくとも起きたらまず食べるしかない。 そんな、かつて銀行員の歌なんて聴いていられるか、などといっていた私にはまったく縁がない堅気用語“出向”というオチで終わった半沢直樹である。毎回逃さず観ていたわけではないが、昼間にダイジェストをやっていたこともあり最終回を観た。実際はサラリーマンがあんな気持ちを顔に出してやっていけるはずがないだろうが、特に悪役の大げさな演技が楽しみであった。香川照之の土下座などほとんど歌舞伎調で、猿翁の演技指導の賜物であろう。私もやってみたいくらいである。 子供の頃の、たとえば花登筐の商人モノなどは、悪人が改心して良い人に転じるところが楽しみで観ていたものであるが時代が違う。半沢の恨みがましい表情に少々食傷気味であったので、倍返しされるところさえ観れれば、それが半沢であっても私はかまわないのであった。

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先日の検査の時、不必要にそろって美人ばかりの先生達に、よってたかって脅かされた。怪奇映画は美人が出てくるからこそ怖い。食事の指導では一日三食必ず食えという。しかもバランス良く。よくきく当たり前な話であるが、脅かされた後なので少々違って聴こえる。私は美味しいと思ったら、数週間は飽きずに食べられるタイプである。物によって何年でも可能であろう。逆に言えばバランスなどまったく考えない。いやそもそも考えて食べない。 不足がちである野菜も食べなければならないが、自分で洗って刻んだ生野菜ほど不味そうに見えるものはない。その晩はT千穂でまっさきに生野菜サラダを注文した。なにしろ脅かされている。最初に野菜から食べるべきだと聞いたことがあるが、出て来たサラダがやたらと大盛りである。チューハイに生野菜。想像していた以上に盛り下がる。とにかく平らげようと食べるが、どんどん気分が落ち込んでいくのが判る。六合目あたりに差し掛かると溜め息まで出てくる始末である。キリギリスやバッタの口にステーキを押し込んだら、奴らの気分もきっとこんなであろう。ゲッソリとしてくるが、食欲が収まり腹が膨れるという意味では効果がありそうだ。と思ったところに横にいたFさんが「多いようでも凝縮すればこれだけで、あとで腹が減るんだよな」。 昭和三十年代。沢山食べると褒められた時代があった。

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先日のお祝いの会で、始めて鏡花に接した人がほとんどであったろうが、私としては鏡花ファンのあこがれの聖地であるところの深川を、皆さんただ酔っぱらって踏み歩いているだけ、というのがなんとも残念である。なにしろそこら中に『深川もの』に登場する場所がある。 私が越して来たのは二十代も最後の頃であった。何度か書いているが、たまたま『葛飾砂子』を読んでいたら、登場人物が門前仲町の方から船に乗って、こちらに向かってくるではないか。思わず窓の下を流れる川を覗き込む。鏡花の乗る船?を追って、夜中にマンションを飛び出し、目と鼻にある現在は震災や空襲でチビてしまって全文判読不可能な石碑をあらためて眺めた。『「おお、気味悪い。」と舷(ふなばた)を左へ坐りかわった縞の羽織は大いに悄気(しょげ)る。「とっさん、何だろう。」「これかね、寛政子年の津浪に死骸の固っていた処だ。」』間違いなく鏡花が船から見上げたことは間違いがなく、その碑には『長さ二百八十間余の所、家居(いえい)取払い空地となし置くものなり。』と刻まれていたのに、すっかり無視され現在は人家だらけで海岸線ははるかかなたである。 私にしても深川に住んでいながら『深川もの』でなく『房総もの』の『貝の穴に河童の居る事』とは、と思わなくもないが、東京大空襲ですっかり焼き払われており、この辺りを撮影し、当時の風情を表現することは不可能である。 夜T千穂へ。隣にはいつものように酔っぱらって鏡花ファンの聖地を汚しつづける63歳である。アバラ骨折中で比較的大人しい。その日、ヨロヨロ10メートルほど小走りしている所をムービーでとらえたが、前のめりになり、転ばないように耐えると自動的に走ってしまうのである。これでガードレールや薮や地面におでこから突撃する仕組みが解明された。私の検索キーワードにこの人物の頭文字が出ると友人から教えられ、できることなら頭文字も避けたいのであった。

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金沢の鏡花記念館に展示するプリントをお願いするため麻布十番の田村写真へ。人形を作って自ら撮影する立場からすると、実際のサイズより拡大される醍醐味というものがある。『貝の穴に河童の居る事』の場合、書籍のサイズからしてむしろ小さくなってしまうのはしかたがない。主人公の河童を中心に選ぶ。そこでまず表紙。そして当初表紙になるはずで格下げになったカットがA3に拡大された。始めて見たが、甲乙付けがたい迫力で思わず声を上げる。三郎は90センチ程度らしいが、実物大にしたらどうなることであろう。 私の創作行為というのは、イメージした物を頭から取り出し、やっぱり在ったと確認したい、というのが根本である。一度書いたが、今年に入って目の前に現れた物がイメージしていた物を超え始めている。こんなことは考えたこともなく、それがただ己がイメージの貧弱さを示しているようにも思われ、手放しで喜べないところではあるのだが。ごく最近の例でいうと、ただお調子者の哀れで醜い河童のつもりで制作を進めていたのに、三郎の想定外の真剣な眼差しに、キャラクターに微妙な方向転換を施すことになった。自分の作った物に教えられるという初の体験をした。 『貝の穴に河童の居る事』から上記の三郎2カットに河童と対面する柳田國男の灯ともしの翁。鏡花の盟友である柳田國男と河童の共演には、これ以上の共演の機会はなかろうと未だ自画自賛中である。それに大団円を迎えるクライマックスの全4カットに金沢で撮影した鏡花のモノクロ1カットを12月初旬まで展示の予定である。 田村さんが藤圭子が亡くなる1週間前に入手したアナログ版を聴く。なるほど天才なり。私はもともと演歌は好きでなかったし、特に盛り場演歌はお茶の間に流すべき物ではない、とさえ思っていた。まあこれは小学生に解ろうはずがない。そうこうしてT千穂に着いたのは10時過ぎ。出演者がいたので、さっそくプリントを披露。“平地人を戦慄せしめて”いるところに横からノコノコと陸河童のKさん。人の労作をスポーツ新聞みたいに持つんじゃない!

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寝ずに仕事をすることに対し少々過信していたようである。自分で搬入する場合。上半身が見えるように梱包する。梱包というより上半身むき出しで立たせて運ぶ。そうするとかえって指等の、気をつけないとならない部分が見えるので、むしろ安全である。そろそろ出ようと玄関へ。そこでヨロっとして壁にゴツン。素材的にはパカっと割れるような物ではないが、修繕しないとならない。寺山修司の額には擦れた跡。帰宅後傷を直して再び会場へ。寺山も無事修復。反省する。 夜『にあんちゃん』をふたたび観る。さすがにこれほど濃厚ではなかったが、私の子供時代はご近所の関係が密接であった。窓から手を伸ばせば届く、お隣のおばちゃんには大変お世話になった。顔が汚れているといって唾つけたハンカチで拭いてくれたのをよく覚えている。7人家族でちょうどにあんちゃん世代だったろう。長男はスポーツ新聞を広げ、ビールを飲みながら来日するプロレスラーの解説をしてくれた。次男はある日ジーパンを履いたまま水風呂に浸かっているのを見て驚いたが、これで履いたまま乾かすとピッタリするのだ、といっていた。子沢山で、布団が押し入れに入りきらない。積んだ布団に挟まってレコードの広沢虎造『三十石船』繰り返し聴いた。寿司食いねえは子供が聴いても面白い。私の記憶では初めて作った人形は、割り箸と広告の紙で作った『反対人間』である。人間とは足裏で接して、地面の中に逆さまに存在している。地上の人間はそれに気付かず暮らしている。布団に挟まって空想に耽った。 にあんちゃんは最後の決意通りがんばったろう。日本の経済を支える一人になったに違いないが、結局日本はこんなことになっちゃいました。

※ HPで『貝の穴の河童の居る事』を販売する予定でしたが、手持ちの分がなくなって来たので止めることにしました。申し訳ありません。紹介ページは近いうちに作ります。

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ここ二年以上検査にいっていなかった。不摂生もいいところで、ロクなことになっていないのは明らかである。本日丸善の搬入日であったがクリニックを予約していたのを忘れており、結局、なんだかんだと間に合いそうもないので、明日朝の搬入にしてもらった。始めてのクリニックへ。結果はというと想像通り高得点を叩きだし、生活習慣の見直しを迫られることに。 三島へのオマージュ展のダメージ?が癒えぬまま、一年以上にわたり河童に打ち込んだわけだが、大変だった、といえども好きでやっていること。寝床を寝づらくして睡眠時間を削ろうと、たとえようのない快楽を得た。それが身体に悪いわけがなく、脳から溢れた物質が不都合な部分を修復するに決っている。という都合の良いことを半分想像していたが、親分たる脳に、子分の身体はついて来なかったようである。飲酒に関して訊かれ、一週間に時々とショージキに。何も指摘されず。 塗料など買い物をして帰宅。ヨーカドーにサイン用のペンを買いに出る。会場に置く書籍は出版社が運んだもので、勝手にサインをしてしまったら売れ残った場合古本になってしまう。表紙と表紙になりそこねた三郎の小さなプリントにサインをして置こうと考えている。家をでてすぐ、車の中から私を呼ぶ声。先日のお祝いの会で、朗読により参加していただいた今拓哉さんである。これはこれは。と思うと横から奥さんの岩崎宏美さんも。フェイスブックでご自分の横に拙著を置いてコメントいただいたお礼をいう。高得点に始まり高得点で終わった一日。

 《人・形展》 丸善丸の内本店 2013年09月18日(水)09:00 ~ 2013年09月24日(火)16:00

http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=2121

 

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この方に私の河童がウケなければ駄目だ、と思っていた方から拙著を褒めていただいた。何よりも嬉しい。表紙の三郎を何度も見てしまう、と。表紙はやはりこれで良かった。 GYAOで日活特集をやっている。それで判明したのは、私は日活があまり好きでないことである。社の作品傾向が一変してからは、また別の話であるが。 ついに観ることができたのが『にあんちゃん』(昭28)である。私が小学校3年の時、担任が産休で、かわりに転任してきた女性の田中先生という方が、『にあんちゃん』の話をしていたことがずっと記憶にあった。田中先生は一年間だけだったと思うが、私があまりに本好き、とくに片っ端から図書室の人物伝を読んでいるのを知っており、転任される時、世界偉人伝を内緒で下さった。人物伝好きは未だに続いており、それがこうじて立体化するに至っているわけである。 九州の廃鉱寸前の村が舞台である。父親の葬式から始まる。あまりにも貧しい兄弟。小学生の次男がにあんちゃんで、姉の松尾嘉代はまだうすボンヤリとした顔の少女。村の衛生状態の改善など奮闘する吉行和子がはつらつとして美しい。朝鮮人役の北林谷江、小沢昭一、自分のところも食べるのに精一杯なのに兄弟を助ける殿山泰司など今村昌平映画の常連が皆素晴らしい。小学生で重労働をし、居候の妹を少しでも楽にしてやろうとするにあんちゃん。かつてはこういった中から足腰の強い横綱や強肩の大投手が生まれたのであろう。最低の暮らしながら最後のにあんちゃんのセリフに感動。石炭を掘っていた時代の日本が描かれている。原発が大問題の今日。今こそ観るべき映画であろう。

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HPをアップしていたパソコンが壊れたため昨年来更新がストップしている。新しいHPビルダーを入手したが、私のサイトとパソコンを連携させること自体、やり方が判らなくなっている。せっかく出版したのだから、紹介ページを作りたいところである。せっかく河童をつくったのだから水木プロダクションに1冊送る。 18日より恒例の丸善本店のグループ展に出品する。どんなグループ展でも私の作品は浮いているが、特にここは可愛らしい少女ばかりで、オジさん制作専門の私としては、少々どころか大変居心地悪く、設置したら逃げるように帰ってくる。DMも少女だらけで送る相手がいない。それに知っている出品作家がだんだんいなくなり、居心地の悪さはつのってきて限界が近い。展示の機会もないジャズ・ブルース時代の旧作品を出品するのには最適であるが、今回は寺山修司も出品する。統一感まるでなし。 当時はまだ片手に人形、片手にカメラで撮影していたが、頭部が予定より大きくなり、全身を作ってしまうと、街を流しながら人形片手に長時間の撮影は無理、ということで、上半身だけにし、さらに中をくりぬいて軽量化をはかった。これを携え三沢まで撮影にいった。街を歩いて背景を選ばず、どこでも画になるのは、私の作品の中では永井荷風と双璧である。荷風に至っては、後ろにルーズソックスの女子高生が歩いていても、まったく違和感がない。 風濤社が拙著『貝の穴に河童の居る事』と『Objectglass12』を会場に置くように手配したそうだが、だったら表紙に使った河童の三郎も初披露、と考えたが、撮影のたび、何種もの表情の頭部と引っこ抜いてはすげ替えるようになっている。つまり撮影用のままである。参考出品は不可ということで止める。不細工な河童にしたつもりであったが、私の作品のなかではもっとも可愛らしいかもしれないのだが。 TVで『いねむり先生』を観る。著者の伊集院静氏はすでに作った。阿佐田哲也。作るのなら私のはずである。

人・形展 丸善丸の内本店 2013年09月18日(水)09:00 ~ 2013年09月24日(火)16:00

http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=2121



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次回の東京オリンピックには当初の予定より予算が多くかかるそうである。結局そんなことになる。 私はカール・ルイスを二回観に行ったくらいで、観る分にはスポーツが大好きである。前回の東京オリンピックは何しろ初の肉体の祭典であった。TVで真剣に観ていたこともあり、この年代の子供としては記憶が鮮明である。 私の中に故郷東京があるとしたら、間違いなく東京オリンピック以前の、ということになる。その後の東京は様々な物ができるし、子供としてはお祭りの中にいるような気分であったろう。結果気づいてみると、東京の変化に無感覚になってしまい、何がどうなろうとほとんど心が動かない。亡くなった父は戦争中のことをほとんど口にしなかったが、霞ヶ浦の航空基地の近くで子供時代をすごし、上官に常に殴られている若者を観て、何故あんな金ボタンに憧れて全国から集まってくるのか、と子供心に思ったという。あこがれと現実には隔たりがある、という話だが、東京に育った私からすると、何もわざわざこんな所に、と思わなくもない。しかしかくいう私も東京オリンピック以前の記憶は忘れ難いし、かなりやかましいが、聴こえてくる祭りの音を聴きながら一人閉じこもって制作に集中する。これが一番である。4キロ四方誰も住まない廃村や、狐が鳴くような所でも暮らしたが、慣れれば慣れるほど電気が消えるように制作意欲が薄れていくという実験結果が出ている。世の中になくても良いものばかり作ろうとする私にとって、それは当然であろう。それはともかく。 いずれ自分の故郷東京は2回目の東京オリンピック以前だ、という人間が現れるであろう。彼にそういわしめる東京というのはいったいどんな姿なのであろう。

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