明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



フラワーホーンの産卵は今回も孵化せず、卵にカビが生えて終った。カビないようにヒレで水を攪拌する行動を、一度目はしなかったメスも今回は扇ぐようになった。確かにオスが放精するのを見たが、種なしということがあるのだろうか。卵を守っている間は無敵のメスも、今となっては体格が違うし、オスにやられるのがおちなので、セパレーターでオス、メス分けた。ところがここ1週間ほど、大食漢のオスが餌を残すようになり、さらに餌に見向きもしなくなった。いやな感じだと思ったら、今朝はついに底で横たわっている。身体を起そうとジタバタするが、ヘナヘナしてコントロールを失っているようだ。 フラワーホーンというのは、人間の手で作られた魚種で、遺伝的に問題が起きやすいようである。丈夫で手間のかからない魚だが、今まで飼ってきて、25センチを過ぎると原因不明で死ぬことが多かった。カツを入れるため、塩を投入してみたが効き目なし。浮き袋の調節がうまくいかないのかガスが溜まっているのか、腹から浮いてしまいそうになっている。こうなると2、3日がヤマだろう。刺激にでもなればとセパレーターを外してみた。この状態ならメスがやられることはないし、逆に齧られるくらいであろう。諦め気分で作業を続けていると、1時間ほどして水槽から激しい水音がする。覗いてみると、オスは普通に泳いでいて、近寄ると餌を欲しがるではないか。そんな馬鹿なと、餌をやってみら1週間ぶりにパクついている。なんて奴だと呆れたのであった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


焼き鳥のK越屋には、最近なかなか顔をだせない。K本は息を止めたままでもたどりつける距離で、ちょっと顔を出して、常連席に挟まって馬鹿話して帰ってくればよいが、K越屋は親爺さんと飲んでると長くなるので、時間がない時は、親爺が飲み始める前の明るいうちに出かけ、新聞でも読みながら一人飲んで帰ってくるしかないが、最近はそれすらできないでいる。  K本には私が店内で撮影した永井荷風古今亭志ん生が飾られていて、荷風はいつココへ来たんです?などと女将さんと客の間で、しばしば話題になってるのをみていて、K越屋にも何か一つと思っていた。どうせなら親爺さんのキャラクターからして笑える物でないといけない。そこで先日、文化センター搬入の帰りにK越屋の前を通り、店先で焼き鳥焼いている親爺さんに、あのあたりを見てこんなポーズを、といって撮ったものを届けた。店内にある、何かのロケのおりの記念撮影、若山富三郎と地井武男の写真と並べて飾ってくれることだろう。  

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




背景は聖路加(ルカ)国際病院である。この病院のおかげで周辺は爆撃を免れたが、特にこの部分は小津映画に登場した頃の姿を保っている。 小津は作品において、あらゆることにこだわった。特に有名なのは独特のローアングルであろう。セットの看板文字は自ら手描きし、壁にかかる絵画など本物の美術品を使った。撮影用小物で有名なのがヤカンである。カラフルな物が度々登場するが、『彼岸花』(1958)では小津の好きな赤い色のホーローヤカンが、ポイントとして唐突に置かれている。小津は自身の服装にもこだわったようだが、小津を作るにあたり、当時の小津組のプロデューサーで、現、鎌倉文学館館長の山内静夫さんに服装の色について伺ったところ、小津はすべてグレーにすれば間違いない、とのことであった。マフラーは時に赤いマフラーを愛用したようだが、たまたまベランダでそよぐ洗濯物が眼に入り、BVDのTシャツがマフラーに転じた。縮尺のマジックで、ペラペラのTシャツが暖かそうな布地に見える。また山内さんには、撮影にヤカンを使うことなどお伝えしていないのに「ヤカンは絶対赤」といわれたことが印象深い。横に配した撮影用カメラは、晩年ロケなどに使用したアリフレックスと同型の物で、小津コーナーがある、江東区古石場文化センターの展示品をお借りした。なお同センターでは、本日より来月25日まで、この小津像が展示される。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


一日  


中央公論Adajio 13号『小津安二郎と築地市場を歩く』25日配布にあわせて、古石場文化センターの小津安二郎像展示が始まる。表紙の撮影には、下半身まで写さないので膝から下は作っていなかった。できれば搬入を数日早くといわれていたし、もっとはやく仕上げておくべきであったが、私の性格からして、すでに結果が出ていて、撮影も終えている小津を後回しにして、ディアギレフに没頭するのは判っていた。やらなければならず気になっているのに、今作りたいもの作る。こんなに集中の高まるシチュエーションはない。“身体に悪いものは美味しく、やってはいけないことは楽しい”というわけで、ディアギレフはもっと楽しみたいのに、悔しいくらいはかどり、手と靴の造形を残し本日中に乾燥に入るだろう。そのぶん小津の仕上げは搬入当日ということになりそうである。 小学生の低学年、学校の図書室。始業のチャイムが鳴っているのが聞こえていて、お尻は椅子から浮いているのに本から目が離せなかった。私の吸収力、制作能力が燃え上がるのはこんなときである。締め切りに追い詰められたときに浮かぶ、時間的に無理、というアイディアの素晴らしさ。 私がなんの役にも立たない、世の中に無くても良いものの制作に限ってファイトを燃やすのは、商人の息子である私の奥底にひそむ、罪悪感のようなものが、ボイラーに放り込む石炭の役目を果たしているのは間違いない。しかし図書室は出入り禁止になったし、バチがあたらない程度にしておくべきであろう。私に自覚がないだけで、すでにバチは当たりまくっている、という客観的な意見もある。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




午前中小津像の仕上げを“ちょいと”(小津風)してから、小津の生誕地のプレートの前を通り、コーナンに金鋸の刃を買いに行く。『映像で綴る20世紀の記録』のDVDを売っていたので、1910~1919を買う。ニジンスキーが活躍した丁度そのころである。ディアギレフを作るにも気分が高まるだろう。 先日ebayに、ニジンスキーを撮ったと思われるネガがでていた。画像を反転してみると、本物のような気がした。それは客船の上で撮影したものだが、記者の取材を受けているようなカットもある。おそらく1910年~16年の、まだ正気を保っているツアー中のカットであろう。たまたま乗り合わせた一般人の撮影に違いない。珍しいニジンスキーといういと、必ず登場する某国の御仁が落札した。
未完成のソファーに大きな肥満体の男が座っている。先日、私の頭の中でソファーに座ってこちらを見ていたが、すでに実際、私に向かってデカイ態度でこちらを見ている。実物の人間だとしたら、4メートルほど向うからこちらを見ている感じであろう。ディアギレフが完成したらソファーに取り掛かろう。『人間椅子』で20センチほどの椅子を作って以来ということになる。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ソファーが大まかにできたところで、早くディアギレフを作りたくて我慢できなくなった。ソファーを完成させてから座らせたほうが始末がいいに決まっているが、とても耐えられそうにない。他のことはノンビリしていて、どちらかというとグズに近い私だが、こと作ることになると途端にせっかちになり、押さえが利かなくなるのである。幼稚園児の頃、佃の渡し舟を描いていて、煙突の東京都のマークを描きたくて、親が止める間もなく台風の中、マンホールの蓋を見にいった話は以前書いたかもしれない。このあたりのヘキは、大人たちに将来を不安視させるに充分であり、某センターに検査に連れて行かれる始末であった。某センターは子供を舐めていて、逆に小学生の私に舐められてしまったのだが、大人たちの不安は的中してしまったといえよう。これは生まれつきのものなので、私に全く責任はないが、正直にそんな顔をしていたら怒られてしまうので、多少、申し訳なさそうな演技は必要である。
私のディアギレフが頭の中で、ずっとこちらを見ている。それをちゃんとハッキリクッキリ見てみたい。某センターに連れて行かれた頃、頭の中に在るイメージは物理的に在るのと違うようだが、それは何処へいってしまうのだろうと思っていた。頭の中から取りだせば、やっぱり在った。と確認できるというわけである。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ディアギレフは難産の末、母親が死んだほど巨大な頭の大男である。それにあわせて作っているソファーは当初、玉座のごとくの一人掛けを考えたが、ドンヨリとした眼で美少年ダンサーを眺めるには、肘掛に身体をあずけ、横たわるようなリラックスしたポーズにしたい。さらに後の撮影を考え、幅が50センチほどの2人掛けのソファーにした。そこにいずれ、ニジンスキーやカルサヴィナ、コクトーやピカソ、ストラヴィンスキー、サティ、またはココ・シャネル、それらの人々を、ディアギレフの隣りや肘掛に座らせることを考えてのことである。ニジンスキーにハマってこの世界に興味を持ったが、やはり結局、軸になるのはディアギレフということになるだろう。特に創作を行ったわけではなく、詐欺師すれすれのプロデューサーといったところで、いまひとつ評価されにくいのが残念な人物である。もっとも常に破産寸前で私服を肥やすこともなく、単に自分の信じた芸術のために生きた人物なので、死んだあとの世界や評価のことなど、知ったことではないだろう。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




9時過ぎに朝食を食べにT屋に行くと、良く会うタクシー運転手の小父さんが、すでに勤務も終って赤い顔をしている。私もついでにビールを。ここは夜勤明けの運転手が早朝から飲んでるし、小津安二郎が出勤前や昼休みに飲んでいたのを知ったせいか?私の罪悪感も薄れている。小父さんは私がTVチャンピオンに出て、粘土で何か作ってたのを観たといつもいうが、だいたい泥酔状態なので、面倒でそのままにしていたが、今日は中川昭一ほども酔っていなかったので否定しておいた。 かつて近所に洲崎パラダイスという赤線があった。その洲崎には球場があり、沢村栄治も出場した初の巨人阪神戦をやったと聞いたことがある。地元生まれの小父さんに聞いてみると、満ち潮になると水が出て、カニが歩いているような球場だったらしい。子供の頃パラダイスの女達にさらわれて大騒ぎになったことがあるそうで、あまりに可愛らしかったので連れまわされたそうである。帰ってきたときは、ホッペタが女達の口紅だらけだったという。これはいってる本人の顔を見ながら聞くと爆笑ものの話なのである。「今の不動産屋が昔はボート屋でさ」。川島雄三の『洲崎パラダイス赤信号』(1956)で轟夕紀子がやってた飲み屋千草のことである。映画でも飲み屋と貸しボート屋をやっていたが、あれはそのまま使っていたのだ。
つい午前中であることを忘れチューハイまで飲ってしまったが、このくらいは目覚めに丁度良い。今日はロシアバレエ団を率いたディアギレフが座るソファーを、一歩も外へ出ることなく作る予定である。それに相応しい一日のスタートであった。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


隣室がリフォーム中で朝からうるさいので、ヨーカドー木場店で映画でも観ようと思う。 最近の映画はTV局が絡んでいることが多い。前回『二十世紀少年』では、“丁度時間となりました”と講釈師の手口で、まるで連続TVドラマのような終わり方であった。ドラマのように翌週観れるならまだしも、間が空き過ぎ、1本目を観なかったことにしてもよい。ならば『感染列島』を観ようとしたらレイトショーである。大工センターで買い物をしてから考えようと、玄関のドアを開けようとすると、何かに阻まれ開かない。どうやら自転車が倒れてつっかえているらしい。仕方がないので、下の階のYさんに電話する。まず御機嫌伺いのあと、昨日Yさんに誘われながら行けなかった『鴨川ホルモー』の試写会の話や世間話をひとしきりしたあと「導入部が非常に長くなりましたが実は・・・。」訳を話してすぐ救出に来てもらう。  小津安二郎生誕地のプレートの前を通り、深川図書館手前のコーナンに、製作用の材料や、卵を扇ごうとしないフラワーホーンの代わりに、エアーを充分に供給するため、細かい泡がでるエアーストーンを買う。帰りに古石場文化センターに寄り、25日からの小津安二郎像展示のチラシをもらう。わざわざ作ってくれたので、ご近所に配ることにする。まだ先の話だと思っていたら、もう来週の話である。早急に完成させなければならない。人の作ったものを観ている場合じゃないと、本日は映画は止めて帰宅。しかし直後にYさんよりK本お誘いの電話。救出の件もあり、お付き合いしないわけにいかない。それにしても中川昭一のような、だらしない泥酔野郎は、K本なら女将さんに怒られ出入り禁止であろう。弱いくせに酒好きなあのタイプは、何故かやたらと酒臭い。 Yさんはすでに、知り合いの松竹のプロデューサーや監督にチラシを渡してくれたそうで、来週には観にきてくれるらしい。現役の松竹社員に私の小津はどのように見えるのだろうか。帰宅後作業再開する。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




神田神保町の古書店、オメガスイーツにて、本日より7カットのプリントを展示する。長年黒人ばかり作ってきて、13年前にいきなり転向した第一作である。当時、渋澤本人と親しかった編集者に見てもらったりして、何度身体を削り、脚を切断しただろうか?イメージが先行してしまう私は、あの堂々とした精神が、少年のような華奢な身体に収まっていたというのが、頭では判っていても、ピンとこなかったのである。今はない神保町の大塚書店には、生田耕作サイン入りの奢灞都館の本が入ることもあり、良く通ったものだが、主人が電話でヒソヒソ話しているのを耳にして、初めて渋澤入院を知ったのではなかっただろうか。 初日に間に合わなかった『Object glass12』の表紙に使用したプリントを受け取りにラボへ。横のデスクを借り、サインを入れようとしたら銀のペンからインクが噴出。幸いプリントやカーペットを汚すことはなかったものの、手とバッグの中は銀だらけ。どうやら金ではなく銀にしたのがいけなかったらしい。サインは後日ということで、オメガスイーツのスタッフTさんに無事渡す。
昨年の年の瀬に産卵したフラワーホーンだが、オスが放精するのを確認したにもかかわらず、孵化まで至らなかった。あれからメスも大きくなり、本日2度目の産卵。卵の粒が格段に大きい。普通、メスは孵化までは、カビるのを防ぐために、餌もろくに食べずに卵を扇ぎ続けるのだが、このメスは卵の上に陣取り、守りこそすれ、まったく扇ごうとしないのである。孵化しない原因がそれなら今回も難しそうである。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




制作にコンをつめるとあらぬ方向に走りがちなので、適当な時間、気を紛らわすほうがよい。煙草を吸っていた頃は、一服がちょうど良かったのだが。そこで最近は、ギターをアンプに通してかき鳴らすことにしている。さらにどうせならと、はるか昔、高校時代に挫折した、ジェフ・ベックの『ジェフズ・ブギー』を練習している。チャック・ベリーの『ギター・ブギー』が原曲のインストだが、YouYubeで各国の、あらゆる年齢の人たちが弾いているのを見て羨ましくなった。昔は弾けたというならまだしも、もともと下手糞だったところへ、久しぶりにギターを抱えているわけで、いまさら私の指がギターの指板上をハイスピードで動き回るはずもない。まあ、のんびり、たどたどしくやろうというわけである。 中学生の頃、何時間でも、喋りながらでさえ弾いている友人がいたが、私はというと、一緒に弾いていても飽きてしまって長続きしない。その頃思ったのが、一番長時間やっても飽きないことを職業にすべきだ、ということである。そうなると読書か、絵を描いたり何かを作ることだったが、読書という職業はないので、自ずと決まったわけである。作ることは未だに飽きることはないが、ギターは飽きるので上達は期待できない。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


近所の蕎麦屋で蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを飲みながら、次に制作するアダージョ用の人物の、亡くなった当時に出た雑誌の追悼号を読む。人物の生前のエピソード、功績などが網羅されていて、とりあえず概要をつかむには最適なのである。作家の場合は著作を読むのはもちろんだが、少しでも人となりを知り、写っていない部分をつかもうとするわけである。私は時に写真に残されていない、誰も見たことのない角度で撮るので、本人に似てないといわれることもあるわけだが、残された写真は撮影者のものだから、誰でも知っているそのまま作っても面白くないのである。 時間が早いので、他には一組の客だけである。老夫婦に、友人と思しき40代の夫婦。どこそこの大使館のパーティーなど、海外出張や旅行など華やかな思い出話で盛り上がっている。創業明治43年の蕎麦屋で「チアース!」などとやっている。「今度あそこのボルケイノーへ、みんなで行きましょうよ」などとやるから可笑しくてしょうがない。そういえば数年前に、クリスマスになると家の周りに電飾を飾る一家が越してきたが、貴様等夫婦じゃないだろうな?しかしアルコールが進むうち、最後は500円の靴下の話など、次第にスケールダウンしていったのが、また可笑しかった。
少々飲みすぎたので早めに寝ると、江口洋介と保坂尚輝とコタツに入って語り合う夢をみた。私が陶芸家を目指していた頃、北関東の猪が出て廃村になった村に男3人で住んだことがある。4キロ四方人家がないところであったが、この二人がそこで暮らすというのを、馬鹿なことは止めろと説得する夢である。当時は水道は外にあり、湧き水を風呂桶にため、竹で作った樋で蛇口までひいて来ていた。食器を洗うそばから氷が張っていくとか、仕事場の天井から、ヘビの絡まった塊がずるりと垂れ下がった、などとすべて実話だが、私の夢は登場人物シチュエーションはめちゃくちゃでも、私自身はいかにも私が考えそうなことしかいわないのである。2人の頑固さにホトホト閉口したのであった。


01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




競艇選手になることを断念した17歳の立川談春が、立川談志に弟子入りするところから最後まで一気に読んだ。落語好きの友人から度々聞かされていた談春の名前だが、昨年暮れのTVのドキュメント番組を観て、その日にたまたま観てきた噺家連中との、桁違いの雰囲気に驚いた。また師匠と弟子との尋常ではない緊張感。以前本著にも登場する弟弟子の、高座に上がる寸前の死にそうな表情を見て胸打たれたことがあるが、私などには想像もつかない厳しい世界である。 弟子入りといえば、私自身十代の終わりに、祖父のつてを頼ってある陶芸家に、父に連れられ会いにいったことがある。もっとも会えたのは、後に人間国宝になる作家ではなく、とりあえず、まずはその一番弟子のところへ、ということであった。しかし作家もその弟子も寺の住職であり、当然寺の修行をしなくてはならないということであった。弟子の方には興味がなかったし、寺の修行などという、私にそんな根性の持ち合わせなどあるはずもなかった。その後陶芸家の道も断念し、今に至っているわけだが、デッサンひとつまともに習った覚えがなく、ただただ独学のみである。そのことにたいして、いまさら後悔もないし、多少の意地もプライドも持っているつもりではあるが、壁にぶち当たったときの、なんとも泥臭い乗り越え方に、独学者の悲哀を感じること度々なのである。そして博物館などで古の作品を眺めては、今の人間にこんな物は作れないのだから、習ったところでロクなものは伝わっていかないのだ、と腹の中で悪態をつく私なのである。しかし本著には、師匠から弟子へと伝わっていく、感動的な何ものかが間違いなく描かれており、『談志がちょっと胸を張って云った。』という、袂を分かったままに終った師匠、柳家小さんに対する最後に書かれた一言こそが、本著のすべてのように思われる。これを読んだ瞬間、談志の誇らしげな表情を想像して涙が噴きだした。 昔録画した、立川ボーイズ時代のビデオがどこかにあるはずである。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




ネガを選んでいて夜になってしまったが、久しぶりに麻布十番の田村写真にプリントをお願いに行く。神田の古書店での展示は来週で、渋澤を7カットを予定している。昔から使用していたコダックの印画紙エクタルアが製造中止になって久しく、相談の上クロアチア製の印画紙で3カットをお願いした。写真を発表して以来プリントは田村正実氏にお任せしている。カラーも合成したプリント以外はお願いしている。随分長い付き合いだが、その間、私の方からは、ここをもう少し濃く、と一回お願いした程度の記憶しかない。こと写真に関しては、私より私のしようとしていることを判ってもらっているからである。よって今回もプリンターとして、プリントの後ろにサインを入れてもらうつもりでいる。作品の出来不出来はともかく、プリントの品質に関しては田村氏に保障していただいているということになる。
どうも風邪の予感がするが、最近の喉からくるパターンだと、きたな、と判っていながら徐々に悪化していき、熱は出ないかわりに長引く。しかし悪寒が走り、熱っぽい場合は、その日のうちにいつもの対処方を取れば大丈夫であろう。帰りに木場ギャザリアの、陳健一麻婆豆腐店の一番辛いものをテイクアウトする。喉からくる風邪でなければ、これで大丈夫のはずである。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




近所の古石場文化センターに借りていた小津のDVDを返しにいく前に、まだ観ていなかった『一人息子』を観る。昭和初期、不況時代の信州の田舎。進学を望む少年が教師(笠智衆)に励まされ、母親(飯田蝶子)が苦労して進学させる。十数年経ち、東京で大学を出た息子(日守新一)は、夜学の教師をやっている。当時は給料の良い仕事とはいえず、母親には仕事のこと、結婚して子供がいることも知らせていない。そこへ息子が出世していると思い込んだ母親が上京してくる。すでに田畑は売りつくし、紡績工場で掃除婦をしているが、息子には伝えていない。息子は同僚に借金し、母親を東京見物に連れて行き、すぐに金は底をつく。殺伐として埃じみた風景の中を歩く親子。母親が期待したような生き方をしておらず、がっかりしたんじゃないかと落ち込む息子。こんなつもりではなかったが、仕方がなかったんですと嘆く。しかし内心を隠して励ます母親。このあたりで、この作品を観たことを後悔しはじめる私。その晩、不甲斐ない息子を想い寝られない母親。お前がそんなことでは、何のために苦労したのか解らないじゃないかと泣く。もう観るのをやめようかと思いはじめる私。 この後母親は、なけなしの金を置いて田舎に帰っていく。息子は気持ちを改め、さらに勉強をしてがんばっていく決心をするのであった。 なんとも苦い後味の作品であるが、これは小津安二郎の責任ではなく、観る側に問題があるようである。
文化センターにいくと、明日から催される『築山秀夫 小津コレクション展』の準備中。ポスターの数々は当時の色彩を保った素晴らしい保存状態である。その他スチール、宣伝物、小津の愛用品など。 コレクションの提供者で、全国小津ネットワーク会議副会長の築山さんに、飾りつけながら説明をしていただく。小津映画にはラーメンを食べるシーンが度々登場するが、展示品の中に、使われたのと同形のどんぶりがあった。実際見ると、ただのドンブリ鉢ではなく、呉須に上絵の砥部焼きの作家物で、とても街のラーメン屋で使うような物ではない。小津のこだわりは話には聞いているが、実際見ると驚くものである。展示は3月6日まで。

01/07~06/10の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ