明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



夜の夢こそまことの江戸川乱歩チルドレンである私は、ホントのことなどどうでも良い、と空や海、地面から木々や壁など撮影してはデータを保存し、いずれ足腰立たなくなっても部屋から一歩も出ずに制作を続けられるよう本気で考えていた時期がある。そしてコロナ禍の間、中国の深山風景も手に乗る石ころで制作したが、昨年、突然の神経痛に、3週間ほとんど天井見ながら暮らした。食材は全てアマゾン。とはいえ玄関まで取りに行くのも一苦労であった。さらに冠動脈手術を経験したが、どこかの王様に石の塔に幽閉され、眉間にレンズを当てる念写が理想なんていってたのがアダとなったか。ちょっとだけ反省している。


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写真を始めたのは、個展会場に人形を並べただけでは、私にはこの人物はこう見え、こんなつもりで作った、というところまで届かない気がしたからである。それに普段、裸電球i1灯の下で、常に見上げながら作っていたが、スタジオなどで撮影されると、見下ろして撮られることが多かった。人間をそんなに見下ろさないだろう。 久しぶりに陰影を与えると、作ったデイテールを強調できるから、やはり面白くはある。 陰影がないと長焦点レンズ的構図をえらびがちで緊迫感に欠ける。宗の時代の寺で、坐禅中の僧が喉元に刀を突きつけられている場面に出くわし、デジカメを手にしていたなら。異世界から現れた私は、連中には見えていないし、撮影中一つのポーズのままじっとしている。

 

 



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もっとも時間をかけるのは頭部で、それが出来れば出来たも同然である。首から下は一気に作る。作り始めた頃から変わらない。そしていいたいこと以上のことはやらない。過去の日本の肖像彫刻、絵画を見ると、頭部は克明に表現されているが着衣の部分は形式的である。私と一緒とはいわないが、肝心なのはその表情であることは違いはない。リアルであれば良いわけではなく〝やりたいこと以外しない“ AIの時代、かえってそれで良いんじゃないか?などと友人に語っているが、なんのことはない。それは小学生時代を通じ、コピーアンドペーストの如く、通信簿に書かれ続けたセリフである。〝好きなことだと休み時間でもやっています“〝掃除の時間、何をして良いか判らずフラフラしています“ さすがに今はフラフラなどしないが〝掃除の時間何をして良いか判らず“は相変わらずである。



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午後、マイナンバーカードを受け取りに行き、ついでに昨年期限切れとなった住基カードを返納する。帰宅後、陰影を与えて再撮影することにした蒙古兵の色の補修。宗の時代、寺に押し入って来た蒙古兵に、後の円覚寺開山、無学祖元は、刀を突きつけられるが、全く動ぜず漢詩”臨剣の頌“を詠み、感服した蒙古兵は退散する。陰影のない前作では、どうしても日本画調構図になってしまったが、名場面に思えるわりに誰も手をつけた気配がないこの場面。心機一転、戦場カメラマンの如くに?ものにしたい。何がどうということはないが妙に疲れている。早めに寝ることにする。



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昨年暮れからの一連の出来事で、死に対する恐怖が大分薄れた気がするのは昨日書いた通りだが、そうなった理由の一つに、痛いも苦しいもなく逝った母の死に顔がある。12月27日早朝まだ暗い中病院に駆けつけた時はまだ温かかった。正月に入ることと、火葬場が混んでいたこともあり、すぐに斎場の冷蔵室に入ったが、そのため、火葬の日は10日以上経っているのに母は全くそのままだった。元々シワが少ない方だったが、深いシワがなくツルツル艶やかで、あまり間近でしげしげと眺めるものだから、横で妹が呆れていたが、あれは死ぬなんて大したことないわよ、という母からの最後のメッセージだったと理解している。



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死の床で、あれも作りたかったこれも作るべきだった、と身を捩って苦しむに決まっている、と長年恐れ続けたが、その原因が小四で読んだ大人向け『一休禅師』の“門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし“だと気付いたのは、昨年、その竹竿にシャレコウベ掲げた一休を制作している時だった。長期の予定は立てず3体まで、などの策を講じていたが、皮肉にもその一休にたまたま陰影を与えたことにより、新たな試みを始めてしまった。その途端、母が亡くなり2度の冠動脈の手術を経て、昨日退院した。結果明らかに死に対する恐怖が薄れており、こうなったら、創作による快楽により、ヨダレ垂らしながら死んでやる、と変化した。本屋の店先で一休禅師を「読んだってわかる訳ない」と反対したことを覚えていた母の母性は、こんな私を全て予見していた。恐るべし、そしてまた有り難し。



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退院  


昨日手術を終え、病室に戻ると腰痛を発症。ベッドの柔らかさが合わなかった。痛み止めをもらい貼り薬を貼ってもらった。朝、これは厄介なことになった、と再び貼り薬をもらいながら、ベッドが高さ調整できるのを知ったのは退院20分前。ところが10分ほど寝ただけで腰痛消える。昨年、突然の神経痛で3週間天井見たまま苦しんだ時も、治療らしい治療をせずに突然痛みが消えた。ベッドを起こしてかえって痛める人もいるらしいが、長年の腰痛の打開策を得たかもしれない。1時間もの手術を2回もしていただいた先生には申し訳ないが、心臓は元々自覚症状がなかったし、これで長年の腰痛が改善されるとしたら画期的な出来事である。 退院の準備をしながら頭の中は次回作。少々スマートさに欠けるが、解き放たれた野良犬の如き気分であった。



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昨年末、初めての入院が決まってすぐに母が亡くなるとは思わなかった。東映のヤクザ映画を見ると何次郎だ何三郎だ、と長男は郷で真面目に親の面倒を見ていると思しい。長男の私は小学生の時、少年兵の本を読んでいて、その年齢を指折り数え、本を閉じるや椅子を蹴立て、昭和二年生まれの父の前で「何で戦争行かなかったんだよ!」町内の子供同士の喧嘩と区別がついていない。幸いなことに、こんなボンクラなバカ息子は私にはいない。ここ数年、ウソをついてでも出来るだけ母が笑って生きられるよう努めてきた。ボケたどさくさに感謝も伝えられた。そして2回の入院の間に墓じまいも終え、明日の午前中退院である。もう何をどうしでかそうと、といってもせいぜい可愛らしいお人形を作る程度のことであるが、どう転んだってもう親不孝のしようがない。



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無学祖元の陰影有バージョンが、本日入院時間が迫る中完成し、昨日のブログに追加した。陰影がないとフラットな無背景でもスーパーのチラシ調にはならない、といって来たが、陰影があっても、黄金の龍だ青い鳩だ白鹿だ、と神の使いに囲まれているような人物は、そもそもスーパーのチラシ調になりようがない。 カテーテルによる検査入院を含めると3度目なので、特にどうということもない。といいながら、無学祖元を入院に間に合わせたのは、一応ここには至った。ということにしておきたい。 前回の入院では隣のイビキに悩まされたので耳栓を持って来たが、今回は大部屋に一人であった。妄想が次々浮かんでしまうが、先日の養老孟司の話ではないが、ここまで来ると、何かを作るために、何を作らないでおくか、が大事になって来るのだろう。



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改作  


完成していた作品を再撮影して陰影を与えている。鎌倉は円覚寺の開山、無学祖元は、袖から龍が顔を出し、膝の上には青い鳩。言い伝えられた場面を制作したものだったが、山号の瑞鹿山の元となった白鹿も作った物を配してみたが、例によって私の“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ“な部分が出た、と思わないでもないので、別作品で、動物園の鹿を使う予定なので、それによっては白鹿は外すかもしれない。龍や鳩、あるいは鹿も、おそらく神の使いであろうから、陰影があろうとなかろうと良い。改良版は龍の髭を残し完成。 明日は再び入院なので、余った野菜など鍋にしたが、今時の春菊は香りが薄くて食べてる気がしない。

陰影有バージョン完成



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昔、解剖学者養老孟司の “人間は頭に浮かんだものを作るように出来ている“という一文を目にし、人間はそのように出来ているのか。であれば私には落度は何もない。と当ブログでもことあるごとに引用してきた。ところが最近のインタビューで「一番怖いのは、人間には『できることをやってしまう』という、悪い癖があることです。『できることをやらない』という成熟に達することが、本当に難しい」。そういえばイチローが三振するのが難しいといっていたが。 それにしたってこの期に及んで一番怖い、成熟に達しない悪い癖の持ち主といわれても。いや元々そう思っていたのに、そうじゃないんだ、人間はそういうもんなんだよ、と優しく肩に手を置かれたつもりになっていた私が悪いのであろう。



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ドーパミンだかなんだか、痺れるような快感物質を溢れさせるのは、夜、こんなことをしているのは地球上で私だけだろう、と頭から取り出し可視化したものを眺める時である。この物質は小学校低学年で、始業のチャイムが鳴っているのに図書室から出て来ず騒ぎを起こした時も間違いなく溢れていた。この物質を溢れさせるには諸条件を伴う。地球上で私だけなのは需要がないからだ、なんてことがよぎるようではまず無理だし、カラの米櫃の底を、怖い顔して突きつけるような存在が身近にいるようではさらに無理である。 しかしそんなことをものともせず、あの物質に身も心も浸るためアメリカに渡り、どんな過酷な状況でも笑っている男。まもなくあの快楽に酔う笑顔が連日見られることだろう。



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立体像を作るということは、陰影を作り出すことに他ならないが、それを自ら排除するのは葛藤があった。葛飾北斎が画室にて、障子に写る影と、はみ出した足から、どうやら『蛸と海女』用に裸の女をデッサンしているようである。襷がけをして何かを覗き込むように絵を描く北斎は作ってあるのだが、以前、つげ義春トリビュート展用に『ゲンセンカンの女』で半裸の女に行灯の灯りによる陰影を与えたい欲望と闘った経験があったので辞めてしまった。しかし陰影表現の復活により、この北斎をもって私のモットー〝感心されるくらいなら呆れられた方がマシ“な北斎を完成させることになるだろう。北斎は一説によると180センチくらいあったという。同じ〝世界の“黒澤明と風貌が似ていると思いながら作った。

 



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建長寺の開山、大覚禅師(蘭渓道隆)が自ら手植えしたという中国原産のビャクシンの樹は現在境内で巨樹となっている。その前で、この七百数十年の年月を想う大覚禅師。一度完成しているが、新に陰影(立体感)を与えてみた。 二時に古石場文化センターで油井昌由樹さんの講座『黒澤明 七人の侍公開70年』。油井さん制作のドキュメンタリーを上映後、79年に『影武者』のオーデションで家康役を得てからの貴重な話。始めてお会いしたのは、高一の時、油井さんのアウトドアショップにバンダナを買いに行った。その後油井さん司会の美術番組に出ることになり、コールマンの部品を撮ったUFO写真を見せられた話をしようと思ったら家康になってしまって榎本了壱さんに交代。アシスタントのマリアンは可愛く、音声がサラリーマン時代の吾妻光良さんで、仕事中ゆえサイン貰えず。



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昨日、神楽坂の牛込城跡に建つ親戚の寺で墓じまいを行った。永井荷風も訪れたことが日記に書かれている。私の最古の絵は叔母が取っておいていてくれた〝お墓“である。 このタイミングでやらずとも、と思ったが、母の意向もあったし、一度納骨して合祀の墓に移すとなると、一手間増えることもあり、四十九日に合わせて行うことにした。制作途中の法然上人の首を持って行き、住職の〝南無阿弥陀仏“を聴かせた。 唯一の気がかりだった母が亡くなり、親不孝のしようがなくなったことにより、幼い頃夢見た、どこかの王様に石の塔に幽閉され〝算数や宿題なんてつまらないものは一切しなくて良いから、ここで一生好きなことだけやっておれ“状態に限りなく近いこととなった。



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