明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

迷う  


寒山拾得は、どう扱えば良いか。当初は昔から描かれて来た場面をただ私なりの方法で制作し、と考えていた。最初に知ったのは森鴎外が『寒山詩集』の序文をもとに書いた『寒山拾得』を読んだことであった。であれば、寒山詩集を編んだ閭丘胤が頭痛に悩んでいたところに豊干が現れる所から、そのストーリー通り描き、そこに四睡図(豊干、虎、寒山、拾得が寄り添い寝ている)などの外せない名場面を差し挟む。だが、そうなると出版するならまだしも、名場面でもない場面も作ることになる。であれば、三島由紀夫のオマージュ展といいながら、芭蕉や北斎、太宰も出品したように、例えば虎渓三笑図のようなモチーフを選ぶか。 棚からボタモチのように降ってくるイメージは結論まで出ている状態で降って来るのに、頭で考えることはああだこうだ迷ってしまう。まあ、両方で私、ということなのだろう。



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一日  


昨日“表層の脳の出来の悪さ、使い物にならなさ、あてにならなさ加減に小学校の低学年ですでに気付いていたことだけは自分を褒めてやりたい。”と書いたが、自慢気に言うことではなかった。 寒山拾得を作るにあたり、とりあえず金魚を眺めて暮らそう。というのは、その出来の悪い頭を如何に使わずにいるか、ということであって、どうやら功を奏しているようである。今の段階では、棚から降ってくるボタモチを口を開けて待っているしか策はなかった。ボタモチは突然予告もなしに降ってくる。そういう時私は、昔の漫画のように、電球が点滅するような顔をするらしい。 正月二日から作っていた頼まれ物、何とか今月内に完成しそうである。これでようやく来月より豊干禅師の頭部の制作を始められるだろう。 月に一度のクリニック。若干血糖値上がる。ここのところ一日一度は食べているうどんのせいだろう。年取ってはまると良いことはない。天ぷらも良くないのだろう。これからはうどんは小サイズにする。肝、腎は全く問題なし。二十代の終わり頃、一度しか二日酔いをしたことがないのだから当然である。よってクリニックではたしなむ程度、という演技プランで。



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昨日の虎渓三笑図だが、修行のため山から降りないと決めていた老人が、友人を送って行ったら、話が盛り上がってしまって、気が付いたら、決めていたラインをうっかり超えてしまって大笑い。というバカバカしいような話だが、惠遠は仏教、陶淵明は儒教、陸修静は道教を象徴していて、ただのお笑い三人組ではない。 私は昔から、ホントのことはどうでも良い、といってるわりに融通が効かないところがあり、ヘンに整合性にこだわってみたり。しかし寒山拾得、この虎渓三笑などは俗世離れした味わいがあるが、作り話である。そのせいもあるのだろう。ある場面は実景を使い、ある場面は作業台の上に作った山々、ある場面は陰影たっぷり、等々、かまわないという気になってきた。 長らく制作してきた作家シリーズの中でも、昨年5月の個展『三島由紀夫へのオマージュ 椿説男の死』は、それまでと違い、実際本人がやらなかったことばかりを選んで創作した。そう思うと、架空の寒山拾得の世界も、自覚はなかったものの、喉元まで出て来ていたのだ、と改めて思うのである。もっとも私が自覚出来る程度のことにロクな物などはなく、何故か判らないが、やらずにいられない衝動に準じるべきである。“考えるな感じろ”だって自然物だもの。 表層の脳の出来の悪さ、使い物にならなさ、あてにならなさ加減に小学校の低学年ですでに気付いていたことだけは自分を褒めてやりたい。



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禅僧が描いたという悪戯描きのような禅画は、そこがいかにも禅的ではあるし、禅僧が描くのだからホンモノではあろうが、やはりアマチュア画であり、へのへのもへ字みたいな寒山拾得は全く趣味に合わない。 平成六年、栃木県立博物館で行われた『寒山拾得 描かれた風紀狂の祖師たち』の図録は、寒山拾得に関しては決定版と思われ、引っ越しの際忘れて来たので昨年買い直した。久しぶりに眺めてみたら。図録の内容がまるで変わったかのように、良いと思う作品が少なくてびっくりしてしまった。“自分が変われば世界も変わる”。その実にコンパクトな感じを味わう。自分の外の世界にアプローチすることなく、こんなことが可能なのが、この渡世の良いところである。



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掛け軸は梁からぶら下げると長過ぎて掛けにくかったが、塩ビパイプに巻き付け、短くすることが出来たので『虎と豊干図』をかけているが、隣に『虎渓三笑図』を並べてみようと考えている。禅画のモチーフは面白い。 高僧惠遠は、盧山で三十年間山から下りないと誓い、修行をしていた。客人を送る時も俗界との境界である虎渓という谷を越えることはなかった。ある日、友人陶淵明と陸修静が訪れ、見送る際に話に熱中し、つい虎渓の石橋を渡ってしまった。それに気付いて三人で大笑いしている図である。実にたわいがない。禅画のモチーフは、禅僧、また絵師の作品にしても簡素化されていることが多い。私がもし手掛けるなら、あえて無駄にリアルにしてみたい気がする。 私のモットーの一つに“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”というのがある。2000年、HPを始めるにあたり、身辺雑記のタイトルを危なくそれにするところであった。今考えると、“明日出来ること今日はせず”。似たり寄ったり、どっちがどうというほどのことはなかったけれど。



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絵で描けば良いではないか、という意見はあるが、絵などほとんど子供時代以降、悪戯描きばかりで、デッサンも数える程しか描いたことがない。今でもアイデアスケッチなどしない。 写真で試みるメリットはというと、何度か書いているが、私の人形作品は、拡大すればするほど、作者の意図を超えてリアルになる。もう一つは、被写体のサイズ、メディアを問わず、平らかにすることが出来る。50センチ程の人形に、実景、人間、オブジェ、筆描きの炎などと画面の中で共演させ、一枚の写真作品とすることが可能である。なのでどうせなら『寒山拾得写真展』としたいものだが、私がそれを聞いたら、定年退職した初老の男が長年苦労かけたかみさんを伴って、中国に旅行に出掛け、寒山寺辺りでアナログカメラで写真撮って帰ったのだろう、と思うだろう。呆れるほどつまらなそうである。



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禅画  


禅画とは禅僧が描いた物をいうそうである。そんなことも知らずに寒山拾得もないもんである。もっとも白隠や仙崖など、私の趣味ではない。ざっと描かれた略画的な作品は幼い頃から苦手である。描き込まれていればいる程良く、挿絵が気に食わず手に取らなかったことが何度もあった。とにかく子供向けが嫌なのである。見える物に大人も子供もない。それはともかく。 あの描法こそが禅的なのだろうけれど、性に合わない物は合わない。もっとも私は禅画をどうしようという気はなく、そもそも写真だし。 禅とはなんぞや、ということに関しては、肝腎なことではあろうが、私が寒山拾得を手掛けるに当たり、必要なことは学ぶことになろうし、必要でないことは必要ではなく、それは私が決めることである。なぜなら誰に依頼された訳ではないので問題は何もないのである。 たださすがに歴史あるモチーフである。知ってしまって、やりずらくなることもあるだろう。そのためには、座禅など、せずにいられなくなる前にやり遂げたい。 ほとんど頼まれもしないことばかりで約四十年。これがまさかの勝手に自主的にやっていることを知らなければ、ハタから見たら結構修行風に見えたかもしれない。好きなことばかりで修行とはいわないだろうけれど。



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判っていたこととはいえ、ようやく我に返ったかのように、次第に気になって来たのは、寒山拾得が唐の時代って何だよ、ということである。最初に架空の黒人ミュージシャンを作り始めた頃。始めてスーツを着て、以降、背広を来た人物が登場した。眼鏡を掛けた人物も、始めて眼鏡を掛けるまでは作ったことがなかった。その後、突然日本人の作家シリーズに転向した。さすがに身近な日本人に関しては、どんな物かは頭に入っていたが、それでも泉鏡花を作る前に、着物を買ってしばらく着て過ごした。私は着物を着たことがある。という既成事実を得て、自信を着けようということであったろう。 それがここへ来て中国はともかく、よりによって唐の時代である。数ある寒山拾得図、特に豊干禅師に関しては、これはどう見ても日本の僧侶だろ、という作品も散見する。虎に乗っているような僧侶がこうであってはならないだろう。まだ肝腎の頭部すら作り始めていないのに、今から心配していても始まらないが、しかし作り始めたら余計なことで立ち止まりたくない。今のうちに下地を作っておくべきであろう。今回はさすがに妙な格好で家でウロチョロする予定はないけれど。



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写真の欠点は、ない物は撮れないことである。コロナ禍の中、とんだことになったものだが、外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想、なんていつている私には、ほぼ問題がない。そもそもモチーフが日本には年号すらあったかどうか、唐の時代の中国だというのだから、被写体を求めて、出掛けて行きようがない。 そもそも本当のことなどどうでも良い、と長年まことをを写す、という写真という、ふざけたネーミングを蛇蝎の如く嫌い続け、”現世(うつし世)は夢、夜の夢こそまこと“の江戸川乱歩チルドレンたる私は、奮闘努力のかいがあった、と妙な空気の中で一人ごちるのであった。本当にこれは偶然なのだろうか?私にとって未知の領域に踏み込もうという今思うのである。 おそらく数千メートル級の山々、寒山の住まう岩窟も、作業台の上で制作することになるだろう。幼い頃、頭に描いたイメージは何処へ行ってしまうのだろう、と思い悩んだことが、私の創作行為の原点である。あの頃の私に、自分なりに何とか方法を見付けるぞ、と教えてやりたいが、紆余曲折、いい加減にしろ、というほど時間がかかる件に関しては可哀想で伝えられない。



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当初奇態な寒山と拾得に対し、豊干禅師は人格者的にし、二人とのコントラストを着けようと考えたが、そもそも豊干自体が、虎に乗る奇人なので、と方向を変えた。 森鴎外によると”唐の貞観(じようがん)のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。” たまたま、まさにこれから日本では大化が始まろうという頃である。誰も知らないからいいや、といいたいところだが、いや是非そういわせて貰いたいが、ぼろ雑巾をまとったような寒山と拾得はともかく、官吏である閭丘胤、またその住まい。豊干禅師、寒山拾得のいる天台山国清寺、またそこの僧侶達、等それぞれ調べることは多い。それには唐時代の絵画など、ある程度は調べなければならない。架空の話でもあるし、せっかく実在した人物達の呪縛から解放されるのに、時代考証など、そこそこにしておきたい。そしてこれは架空のお話しですよ、というためにも豊干の次に手掛ける予定の虎により、何某か基準、また象徴としてみたい。



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久しぶりにテレビがウチに来たが、出演者がみんな老けていて驚く。先日は、若いはずの女優が、これは特殊メイクで、後年の姿を演じているのだろう、と本気で思った。これはのんびりテレビを眺めている場合ではない。 “人生は夏休みのアルバイトの如し、慣れた頃に夏休みは終わる”常々そう考えているが、バイトで得た物を余らせて死ぬほど悔しいことはない。貯金を使い果たさずして何のためのアルバイトなのか。そんな話をすると、一般人は、残す子供がいようといまいと、金を余らせて死ぬものだそうである。せっかく得た物は使い切らないとつまらないではないか、と私は思う。 作家シリーズを長く続けるうち、知らない間に得た物、貯まった物がある。だがしかし、それは作家シリーズでは充分使い切れない。おそらく、そんなことに私は何処かで気が付いていたのではないか。そしてたまたま、三島由紀夫を手掛け。それはそれまでの作家達とはアプローチが異なり、三島本人が実際やってもいないことを創作することになったが、単純な話、これで主人公が実在していなければ、やりたい放題である。なるほど、なるべくしてこうなった、ということであろう。ただなんで寒山拾得なのか、そのきっかけが未だに思い出せないでいる。



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寒山拾得図に関しては、今のところ国宝級でもない限り、あまり気に入った作品はない。元々禅画にありがちな、サッと描かれたような作品は子供の時から好きではない。豊干の図は我が家にぶら下がっているが、この藤本鉄石作品のお陰で、寒山拾得、豊干それぞれが見た目奇怪であるように、豊干禅師に寄り添う虎もまた、勇猛な虎ではない方が、と思い始めている。 掛け軸は梁に掛けると畳に着いてしまったり、スレスレだったり格好の悪いこと甚だしい。そこで掛け軸の長さを調整する巻き上げ用の筒を自作した。竹筒の中に巻き込む物は、竹筒にスリットを開けただけの物が平気で7、8千円もする。そこで塩ビ管を入手し、そこに外側に巻き付けるタイプの物を作った。これで掛け軸の裾に下げる重り兼飾りの風鎮を下げることが出来る。後は下に床の間代わりの板を置きたい。NHKで谷崎潤一郎の『陰影礼讃』を見ていたら、掛け軸を床の間に掛ける際、床の間に上がってしまっていた。外部のスタッフかも知れないが、NHKは存外躾のなってない連中が混ざっている。


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肝腎な物は外側にはなく、すべて自分の中に存在すると薄々感じ、今では確信している。そんな訳で、私なりの眉間にレンズを向ける念写を試みている。 我が母は、どうもそこらの育児書が役に立たない我が息子に、石原慎太郎の『スパルタ入門』をタンスに隠していて先に読まれてしまったりしながら、母親の勘で、外の世界に興味がない、という顔をしていてはいけない、危険だと私に伝えたのだと思う。あまりにうるさ過ぎてチック症になってしまった私だが、今では感謝している。まあ友人にも恵まれ、人間関係でもたいした問題もない。 だがしかし、ここまで来れば当ブログ内くらい演技プランを捨て去り、自分が何を作るかしか興味がない、といってしまっても良いだろう。ここに来て人生において、大きく一周回った気がしているが、このタイミングで外側からの脅威コロナというのも何か理由があるのではないか、と勘ぐってしまう。 昨年の『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』の終了から半年、金魚を眺めながら、様々なことが明らかになりつつある。今死んだら私が長年恐れて来た、あれが作りたかったのに、と胸掻きむしりながら悶え死ぬことになるだろう。SNSでは生々しい治療の過酷さを目にする。どうしても避けなければならない。



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肝腎な物は外側にはなく、すべて自分の中に存在すると薄々感じ、今では確信している。そんな訳で、私なりの眉間にレンズを向ける念写を試みている。 我が母は、どうもそこらの育児書が役に立たない我が息子に、石原慎太郎の『スパルタ入門』をタンスに隠していて先に読まれてしまったりしながら、母親の勘で、外の世界に興味がない、という顔をしていてはいけない、危険だと私に伝えたのだと思う。あまりにうるさ過ぎてチック症になってしまった私だが、今では感謝している。まあ友人にも恵まれ、人間関係でもたいした問題もない。 だがしかし、ここまで来れば当ブログ内くらい演技プランを捨て去り、自分が何を作るかしか興味がない、といってしまっても良いだろう。ここに来て人生において、大きく一周回った気がしているが、このタイミングで外側からの脅威コロナというのも何か理由があるのではないか、と勘ぐってしまう。 昨年の『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』の終了から半年、金魚を眺めながら、様々なことが明らかになりつつある。今死んだら私が長年恐れて来た、あれが作りたかったのに、と胸掻きむしりながら悶え死ぬことになるだろう。SNSでは生々しい治療の過酷さを目にする。どうしても避けなければならない。



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相変わらずうどん食いが収まらず。ザルうどん専門だが。砂町銀座で買う塩らっきょう。紙パックではあるが、ブラックコーヒー。いずれも子供の頃嫌いだった物ばかり。わざわざ選んだかのようだが、何物かを取り戻そうとしているかの如き様相だが、偶然ではないだろう。創作に関しても数十年ぶりに最初の架空の人物制作に戻ろうとしている。様々な物が大きく一回転しつつある。

麻布十番から元厚木に移転した田村写真だが、田村さんのフェイスブックに、HPのプリンター設置と書かれていた。石塚式ピクトリアリズムは、三遊亭圓朝の第一作から、阿波の手漉き和紙のプリント紙を使っているが、その色調はHPのプリンターでないと出ないと田村さんから聞いていたので、これで安泰と安心する。 写真を始めてから30有余年。ここをもう少しこうして、などとお願いしたのは、ほんの数える程度しか覚えがない。田村さんがまだラボに勤めている頃知り合い、その暗室作業を見て、すべて私がやった、といいたがりであるはずの私がプリントを止めた。お陰でド素人が独学で行ったオイルプリント制作を除けば写真の勉強を一切せず、作画のみに集中することが出来た。石塚式ピクトリアリズムは、様々な”常識“から我が身を守った成果であることは間違いない。こんな時代、制作を続けながら外界の情報常識から身を守るには意識的にしない限り不可能である。人間のハードディスクの容量には限りがあることは、ある程度歳を経れば誰でも気付くことである。その頃にはクソみたいな知識と経験でハードディスクは溢れんばかりであろう。そして最後には今さら何の役にも立たない昔の思い出だけが取り残されることになるだろう。まっぴら御免である。30年以上住んだ所から引っ越し、産まれた当初、毎日のように記録された私の写真アルバムさえ捨てる程、(正確にいうと忘れて来た)断舎利を断行したが、これもまた偶然ではなかった、と一年経ち水槽の金魚に餌をやりながら。



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