明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



連休中は放りっぱなしになっていた河童をできるだけ仕上げたい。まずマテ貝にしがみついた河童を作ることにする。タイトルは『貝の穴に河童の居る事』である。マテ貝はそれほどポピュラーとはいえない。そこでマテ貝だけのカットを制作するつもりであったが、それを差し挟むスペースがない。そこで人間に見つかりそうになった河童が逃げ込んだ貝の穴には、マテ貝がいた。つまりマテ貝を足すことにした。鏡花は穴の中にマテ貝がいたとは書いていないが、留守だった、とも書いていないのでまあ、いいであろう。穴をのぞく娘の目とマテ貝にしがみついて、それを見上げる河童。娘の瞳にみとれ、次の瞬間ケガをする大事なシーンである。私が作らなければ誰が作る、という奇妙なシーンである。 それにしてもこう書いていると鏡花作品のビジュアル化というのは、つくづく野暮な行為という気がしてくるが、読んでも状況がさっぱり見えないという人もいるから良しとしておこう。 某文庫用装丁のレイアウトが送られてくる。帯のことがあり、若干手前のロシアの文豪を拡大することになったが、私の想い通りになった。“やっぱりここに在った”。何度か書いているが、子供の頃、頭の中で思ったことはどこへ行ってしまうんだろうと本気で悩んだものである。それでいて、問いただしても気の利いた答えを返してくれそうな大人はいない、ということだけは判る子供はつらい。結局頭に浮かんだものを取り出し確認することが、私の創作行為の原点であろう。 マテ貝にしがみついた河童は画面上小さいので、小さな河童で十分である。といっても十数センチのパイプを2つ割りにしたような二枚貝である。直接乗せるには小さすぎるので大きく作って合成することにした。そこで目に入ったのが一升瓶である。数センチ焼酎が残っていたが、瓶の曲面をマテ貝に見立てれば丁度よさそうである。 ひとしきり作ったところで、明日が資源ゴミの日だと気がついた。面倒だ。河童が必死でしがみついている一升瓶をラッパ飲み。本日も独身者の部屋は、ノックしないで開けないほうが良いというお話であった。

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9時にSさんと文化センター地下のスタジオへ。Yさんは用事で遅れるとのこと。Sさんはベースとポールリードスミスの2本のうちの1本。私のギターはカワイの2ピックアップ。 昔の国産ギターによくあった、丸太のような極太ネック。よってスライド専用である。 今回私が12小節のブギ調ブルースを提案している。他の2人はロックの基本中の基本を知らないので、なんとかだましだまし。なにしろ50ヅラぶら下げた屁理屈や二日酔い相手であるから簡単なことではない。 今回は私の趣味ばかりというわけではなく、定番中の定番であり、下手糞でもそれなりに形になるという意味で、魔法のパターンであることを解ってもらいたい。コード自体をあまり知らないYさんには指3本でやれる、いわゆるパワーコードというものを繰り返しやってもらい、ベースのSさんにはドライブ感がでる極簡単なフレーズをやってもらった。2人はプレスリーやチャック・ベリーの名曲の数々や『ホタテのロックンロール』『ひみつのアッコちゃん』のコード進行が皆同じである、ということが理解できないようであるが、それでもやってみれば楽しそうである。だからそういう風にできているのだ、と口を酸っぱくしていっていた。 ここまでくれば今回私はもう満足。引き続き各自家で自習してもらうことにして、Yさんのカラオケでの十八番、松山千春。なんのことはない。すんなりと今までで一番のでき。結局こういうことかよ、と苦笑が混じる。 次回は優しく真面目だが、いささか頭が固いSさんに選曲を任せ、リーダーシップを取ってもらう番である。私がいかに我々の下手糞加減を踏まえ、バランスをとることに心を配っていたか思い知るが良い。私は好き勝手に生きているように見えて、窓から手を伸ばせば隣家に届いてしまう地域育ちなのである。

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入稿  


着彩を終え、陽が落ちるのを待ち撮影する。文豪には赤味がかった室内光が当たり、薄暗い背後には、青みがかった窓の光が当たった著者が立っている。私の頭の中にあった風景が無事とりだせた。パッと見にどちらも人間に見えたり、どちらも作り物にみえたりするであろう。生身の人間だろうと人形だろうと私の土俵に立てば等分に扱う。  残された文豪の写真は、少なくとも私が見たのはスタジオで撮られたもので、(スナップ撮影が不可能な時代である)秘密警察立ち会いのもとであるかのように、心ここにあらずなものが多い。しかしあきらかになんらかの意思をもっているように描きたかった。文豪が空虚な表情では、背後で文豪の存在を意識するようポーズをしてもらった著者が浮いてしまう。 早朝4時。ほぼ完成したが、最後に一カ所。文豪は背もたれのある椅子に座っている設定である。そのタイプの椅子がないので、6時を待ってT屋に朝食をとりがてら、椅子の背もたれを撮影させてもらう。帰宅後さっそく文豪に座ってもらったが、この椅子が先日Kさんがコケて5針縫った時の椅子でないことを願う。   結局寝ないまま、麻布十番の田村写真に色見本を作ってもらいにいく。田村さんと久しぶりに音楽の話などできた。無事入稿。社員のHさんが初来日のストライプスを観てきたという。かつてのヤードバーズ、デビュー当時のザフー、などを想わせるアイルランドの15、6歳のバンドである。ボーカルが声変わりの最中だったそうだが、私が武道館で声変わり中で黒人だった頃のマイケル・ジャクソンを観たように、Hさんも後々自慢できるだろうか。演奏は見事。後はボーカルの表現力とプロデュース方針にかかっているだろう。  眠気でボンヤリしながらもK本に寄る。相変わらず情報誌だかTVやネットだかを観た客で溢れている。人口密度の低いネブラスカあたりから出てきたのであろう。狭い所の人間の距離間隔を解さない客がいて、数回来ただけで我が物顔で大きな声で喋っている。アナログカメラをぶら下げた客が、女将さんを撮ろうとして食い下がって叱られていた。 情報誌は煮込み特集などではなく、“何十年通おうと、アウトになったら二度と敷居をまたげない店特集”というのはどうだろうか。常連はその厳格さを知っているので、誘蛾灯に集まる蛾が電気ショックでバチバチ焼け死ぬのを楽しみにしている。 下町は気安いおっちょこちょいばかりだと誤解されるのは松竹映画の影響であろうか。『フーテンの寅』の主題は、いかに生まれ育とうと、バカは定住をゆるされず追い出されてしまうことにある。と解するべきである。お呼びでないことに気づく繊細な寅だが、忘れて帰ってきてしまうところがバカである。 まあ近所の誰かのように、救急車で運ばれないぶんマシであるが。

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ロシアの文豪は椅子に座らせる予定だが、写る部分。座っている状態で太腿の上部から上を作ると、正座しているように見える。手を前に置いているので真剣な表情で「お嬢さんをください」状態である。背面も作らないといっても、多少左右に振れるように作ってみた。作りながら予定していた向きと逆向きも良いように思えたからである。そうこうして一番楽しい時間はあっけなく終わってしまい、文豪と向かい合って酒を飲んだ。いつもはこんなことはしないが、完成を目前にぐずぐずしていたのに、その分作りたい気分が熟成され、楽しい時間があっけなく終わってしまった。妙な脱力感。 家で飲む時は外で飲む時とは大分違う。どんな酒だろうと一切割らず生のまま飲む。どうでも良い話をくりかえし聞かされることもなく、肴をつまんでは速いテンポでとっとと飲み、1時間も飲んでいるだろうか。二日酔いをまったくせず目覚めも良い。数値には何もでないので、たまに飲むくらいです、と医者にはいう。 

私としては珍しい夢を見た。南の青く広がる海が舞台である。当初知り合いが作った映画を観ている、という設定であったはずが途中で画面内に入り込んだようである。鮮やかなカラーでストーリーは多少あったはずだが思いだせない。海中、岩や海藻、樹木までもが海底からは解き放たれて中層に浮かび、これが見惚れる美しさである。巨大な仏頭を海に沈める儀式も手伝った。東洋系の半裸の美女もでてきたが、誰しも海中で酸素の必用がない。どういう経緯か、日本の普通のマンションで、その家のお父さんとおぼしき人にハンバーグを焼いてもらうシーンもあった。そのシーンはともかく、こんなひたすら美しい夢を見るのは私には珍しいことである。というより覚えがない。 朝改めて文豪を見ると“大変なことをしでかしてしまいました”と正座しているようにも見えた。乾燥に入る。

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一日  


ここへきてまだ文豪を完成させず、制作上の何か手がかりはないか、と老人まるだしの芭蕉像の前を通り深川図書館に行くが、特に何もない。ボンヤリ考えていると、今回は文豪を前面に大きく配するが、文豪の著作ではないし、画面上文豪の背後に著者がいる。文豪は文豪然として、ただそこにいることが役割であるな。と自分で考えておきながら今さら思った。 帰りに歩いていると、驚いたことに向こうから母が歩いてきた。顔に斑点があるので聞くとパスタを炒めようとして油がはねたという。何をやっている。お茶を飲んで門前仲町で別れる。 そこへ一緒にスタジオを借りているSさんから、仕事が終わったと連絡が入り居酒屋へ。近所なのでKさんも呼ぶ。暗くなりつつあるのにまだ寝ていて後頭部に寝癖。 Sさんには2人とも私に丸投げし過ぎだろう、と苦言を呈す。私が何か考えないと2人とも何もしようとしない。こういう話になると私をリーダーと呼びやがる。次回は継続するかどうかを含め話すことにしよう。 Kさんは素面の時は憔悴した表情だが、アルコールが入るとはしゃぎだし、同じ話のくりかえし。そして睡眠十分のせいで朝までTV。早朝から開いているT屋にでかけて飲んで、また夕方まで寝ている。“わかっちゃいるけどやめられない”と歌ったのは植木等であるが“わかっちゃいないし、やめられもしない” というところであろう。 この店のホッピーや酎ハイは日頃愛飲するK本の酎ハイと比べ氷は入っているし、焼酎が透明なことをいいことにアルコール度低すぎ。次第に酔ってくる2人を眺めながら私はゾーンに入る。酔うのと醒めるのがバランスを取ってしまい、こうなるとこれ以上いくら飲んでも同じこと。お開きに。

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先日出版社内で撮影した著者を、あらかじめ用意していた背景に合成した。背景の光線具合に合わせて撮影したので、それほど手間をかけずに納まってもらえるはずであった。一旦は納まった。 カーテンの色を変えることにした。ところがカーテンが壁の色にあわない。壁は外の夕景が反映しているという設定で、その赤みが合わないのである。青色がかった空に変更した。当然外光が当たっている著者に当たる光も変えなければならない。カーテンは周囲の状況に合わせて選ぶものであるが、カーテンのおかげで天候まで変えることになってしまった。 こうなると後はロシアの文豪を登場させるだけだが、頭部を作ったまま、未だに身体の制作に入っていない。頭部が異例ともいえる速さで完成してしまい、手持ちの背景を使うこともあり締め切りには多少余裕がある。それに構図が決まった今、文豪は手前に大きく持ってくることを考えれば作るのは上半身の前面だけである。ここで私の悪い癖がでる。快感を引きのばそうとするかのように、ぐずぐずと作り惜しみをするのである。厄介な頭部や、背景も完成している。あとは楽しいだけで、家に帰れば創作の快楽が待っていると思うと、外出していても気分が違う。飲酒中はもちろんである。これがまたマゾヒズムめいた快感なのである。しかしこれが結局弓を引き絞ることとなり、制作に入れば普段以上の集中力を生み、結局一気に作ってしまい終了する。 当ブログを見ていただいている方の中には『貝の穴に河童の居る事』の出演者もいる。ぐずぐずしていないではやく河童に戻れという声が聴こえてきそうである。

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撮影  


2時半に出版社へ。本日は社内で著者を撮影する。背景はすでに決まっているので、背景の光の具合に近い撮影場所を、事前に携帯で送ってもらっていた。私の画像の合成は、背景と被写体の光りさえ合わせれば、あとは切り抜いて貼付けるだけであり、撮影時の光線状態の選択ですべて決まる。 画面の中に革の旅行鞄を使いたかった。ヤフオクで私が選んだものを出版社で落札してもらった。常に自分で入手していてガラクタで溢れているのでこれは助かった。今後の撮影に使えるというものならまだしも、1カット以外に使い道がない物がほとんどなので困る。 ロビーで鞄をチェック。三越製の作りの良い旅行鞄でイメージにぴったり。送料込みで2000円だそうである。著者がみえ挨拶の後、撮影意図など説明させてもらっていると、鞄を非常に気に入られたようである。心配といえば、これは私のイメージではない、という展開であったが、撮影後は著者のもとへ行くことになった。これで今日は上手くいくことが約束された。 わざわざこのために来ていただいた著者に予定の位置に立ってもらい撮影。イメージが決まっているので数カットも撮れば良いのだが、それでは編集者も不安に違いない。せっかく来ていただいた著者も、あっけなさ過ぎるであろう。わずかなポーズの違いを二カ所で撮影した。 帰りの電車内、そういえば著者に肖像画の件を伺うのを忘れていた。携帯で編集者にお願いした。もう頭部はできているので、今更あの肖像画が本人を前に描かれたものかどうか、などどうでも良いことであるが、検死官のように穴の開くほど資料をみつめ、資料から某かの声を聴きだそうとした私としては知りたい。後日調べていただけるそうである。

ギターのピックアップ(マイク)を、よりジャズ調のトーンのものに換えたくて、ネットで探していると、とんでもない小僧をみつけた。知っている人は知っているのだろうが、私は始めてみて唖然としてしまった。スロバキア人。Andreas Varady2010年当時12歳。 生意気によそ見なんかしやがって。あと数年もしたらブルーノート東京あたりで、客席の娘に流し目を食らわしているに決まっている。 小僧!オジさんにギター教えて。

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ロシアの文豪が描かれた油彩画。文豪の生前に描かれたらしいことは判ったが、私にはどうも未だに本人に見えない。耳があきらかに小さいし、エラが張ったように見える顎も、実際は髭から透けて見えるラインは細く華奢である。多少のデフォルメをするものかもしれないが、作風からして考えられない。似ている人物をモデルに使った、というとぴったりくる。結局疑いながら参考にしなかった。そもそも人の創作物を参考にすること自体、癪に触るのでよいのであるが。明日文豪の背後に立っていただくべく著者を撮影するので、この絵が本人を目の前にして描かれたものか、ご存知であれば伺ってみようと思っている。もっとも、どこが公式にが認めようと自分が変だと思ったら自分の気持ちに従うことに決めている。『笑う奴ほどよく眠る』吉本興行社長・大崎洋物語では、間違いなく御本人を撮影した写真だ、と判っていても、数年前とのニュアンスの違いに、混乱するので直前に撮られたものだけを参考にした。  某県名張市に、いったい誰なのかさっぱり判らない銅像が立てられた。上野の西郷隆盛像は除幕式で奥さんが「これは別人です!」といったそうであるが、できてしまったものはしかたがない。金属類の供出をさせられる時代が再びくるのを待つしかない。 銅像といえば、私は松尾芭蕉を作った時に、全国に乱造され、未だに増え続けている芭蕉像に呆れて開いた口が塞がらなかった。芭蕉の身近にいた門弟達が、師匠はこんな人である。と描き残しているにもかかわらず、ほとんど無視されている。よって私は門弟3人の描き残した肖像画以外、いっさい参考にしなかった。その結果イメージが違う、といわれたが、俳句のイメージが芭蕉を枯らさずにおれないわけで、全国を精力的に歩き回った人物であるから、このくらい生々しいのは当然であろう。制作中、資料のために図書館に通う道すがらにも一体あるが、何が納得できないといって、全国の枯れ木じみたジジィが私より年下であることであった。実像にこだわったのは、ひとえにこの1点に対する不満であった。へんな銅像になりたくなければ死なないことである。

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今月もトラックドライバー2人とスタジオに入る予定が迫ってきた。1曲目はビートルズの『ゲットバック』をやってみたが、まとまることなく終わった。ビートルズ好きのYさんは、ビートルズをやれたので、次の曲は私とSさんで決めて欲しい、といっている。我々のまとまりのなさは、いってみれば長年マスターベーションしかやってこず、セックスの仕方を誰も知らない、ということに似ている。かろうじて私が中学生から高校の頃、少々バンドを経験している程度である。ただそれでも大分マシで、いずれは人前でライブを、などと面白いことをヌカす2人に比べ、やれもしないことは考えるのはよそう。下手でも良いから、せめて楽しんでやろう。と客観的である。 しかしこうなってくると、12小節のブルースやロックンロールをやりたいという私の思惑に近づきそうだが、12小節のブルースというものを何も知らない2人にどうしてやってもらうかという問題がある。そこでまずエルモア・ジェイムスの『Shake Your Moneymaker』を提案してみた。『スモーキングブギ』のもと歌のような曲である。タイトルからすると品のよい曲という気はしないが。 個人的には我々は、結局バンドの体をなすことなく終わるような気がしている。それでも今回も前回同様、6時間もスタジオを予約してしいる。前回はYさんは二日酔いで途中離脱であった。 この調子だと、時間があまってしまうのは間違いない。Sさんは「かぐや姫でも松山千春でもいいじゃないですか」。といった。Sさんが私が捕まえてきたカブトムシやザリガニの類なら踏みつぶしているところであったが、ここにいたってみると、広いスタジオで3人見つめ合っているよりはマシだと考えが変わってきた。松山千春はYさんのカラオケの18番だし。

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以前専門学校時代の先輩の仕事場に遊びにいった時のこと。普段は鋳物、ガラス製品などの原型を作っているのだが、その時はどういうルートの仕事かしならいが、ダッチワイフの原型を作っていた。それをもとに金型を作り、そこになんらかの素材を鋳込んで製品となるのであろう。しかし先輩には申し訳ないが、お世辞にも可愛いとはいえず、これで本当に製品の購入者は使用目的を果たすことができるのであろうか、と思ったほどである。私の表情を察したのかどうか、先輩の話では、下手に可愛くすると、誰々風などと趣向が出てしまい、多人数の需要に応えられないので避けるように、というメーカーの意向なのだという。判ったような判らないような話であるが、長年の研究の結果なのであろう。まあそういうことらしい。高価でリアルな製品もあるようだが、こちらはどちらかというと大衆向け製品なのであろう。  ところで、最近の多人数のアイドルグループは、私にはついにどこが良いのやら判らなくなっている。10年くらい前までは、よく尽きることなく可愛らしい女の娘がわいてくるものだ、と思っていたような記憶がある。周囲には老人といわれておかしくないような年齢で、やたら一人々について詳しい人もいるが、私の目がどうかしているのか、名前も知らないので誰とはいえないが、さっぱり可愛いと思えないのである。一般人の中に混ざっていても気がつかないどころか、アイドルとして親しみやすい、などといいうレベルを超えているように見えるのである。昔のアイドルは、そんなものではなかった。私はどうも企画した人物が、前述のメーカーと同じ結論にいたった結果なのではないかと考えている。

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本日はK本の常連によるカラオケ大会である。近所のビジネスホテルのカラオケルーム。展望も良く、飲食物を持ち込めば、何人だろうとレンタル料はかわらないので安い。 昨年、木場公園の催事場で買った八丈島だったかのサメのくさやが冷蔵庫に入っているのを思いだし、焼いて持っていくことにした。封を開けると予想通りアンモニア臭。ただでさえ○ン○臭い、と失礼なことをいう人がいるが、そこへアンモニア臭であるからリアルである。焼いてみると、なかなか手強いものが立ちのぼる。くさやは東京のものではあるので、近所に遠慮することはない。味はというと、くさやでも珍味度は横綱クラス。今まで食べたくさやとは階級が違う。他のくさやと違い、まったくの酒の肴であり、ご飯のおかずには向いていない。見かけたらまた買ってしまいそうである。時間が経つと、おそらくアンモニアが飛ぶせいであろう。独特の匂いが薄くなっていき、普通のくさや好きであれば普通に美味しいであろう。しかしマニアが珍重すべきは、焼きたてのアンモニア臭かもしれない。 カラオケルームに到着すると、先日コンサートの後で、岩崎宏美さんに耳たぶ触られたSさん。「耳たぶあれから洗ったの?」「当たり前だよ、もう洗ったよ」。といいながら限界まで洗わなかったことが表情から伝わってくるから不思議である。 宏美さんの御主人、今拓哉さんが出演する舞台を観てきた奥さん連も合流。今さんのダンス場面を口々に盛り上がっていた。母もご一緒させていただいた。 気がつくと親子で遠慮がちに、もっとも遠い端と端に着席していたが、結局母が遠慮がちだったのは座った位置だけであった。詳細は避けておく。みなさん優しい方ばかりで、Mさんや、Sさんとの合計160歳超のデュエットまでしていただいた。ここのカラオケは私が歌いたい歌があまり入っていないのだが、久しぶりのカラオケである。60年代の青春エレキ歌謡を歌え楽しく過ごした。 母にはどこで覚えたか、デュエット相手を見つめるのは止めろ。と注意しておくことにする。

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ロシアの文豪の頭部が完成。やはり眉間に皺寄せた、あまり楽しそうでない状態の男性は、私の得意な分野である。私がもし某宗教の信者であったなら、あの究極の、あまり楽しそうでない状態の男性を作っていたことであろう。 頭部さえできればできたも同然。仕上げに時間がかかる裸体でなく、着衣であれば一気に作る。ここから乾燥に入るまでのスピードは一度録画しておきたいほどである。苦労ばかりの頭部が終わり、これからが本来楽しいので、多少はああだこうだしたいところなのだが、ほとんど何も考えず、息を止めるようにして迷うことなく一気に集中する。 背景は以前制作した室内風景がちょうどイメージに合っており、使うことにした。さらに文豪と著者の共演を試みることになっている。 1冊目の拙著『乱歩夜の夢こそまこと』(廃刊)で乱歩や二十面相と人物を共演させ、三島の『潮騒あるいは真夏の死』では、海女姿の娘と共演させてみた。しかしたとえば悪魔と取引するために十字路に立つロバートジョンソンの横で、一緒に悪魔を待ってみたいミュージシャンは現れず、森鴎外と夏目漱石に挟まれたい、志ん生と酒場で酒を酌みかわせてみよう、などという企画を考えてくれる人はいない。まあ確かに、この連中と並んで、どんな顔をしたい人がいるのか、という気はする。そこへ今回は編集者の意向で、著者の顔をなんらかの形で画面に入れられないかという話であったので、これは良い機会。顔だけといわず、文豪と共演してもらうことにした。本来出会うはずのないもの、そこにいるはずのないものを画面に入れることについては、アダージョには鍛えられたが、おかげでそのためには、無関係なものを結びつける、なんらかの媒介が必要なことが判った。今回でいえば私の制作した部屋ということになろう。 アダージョでは、来日したことすらないこのロシアの文豪を、都営地下鉄駅近辺に立たせる可能性があったが、私はどんな奇手を使うつもりだったのか。ボツになってあんなホッとしたことはない。

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吉本興業社長・大崎洋物語(幻冬舎刊) 約20分の背景撮影中、東京人の私が嗅いだことのない食べ物の匂いがしていた。何だか判らないが、せめてあれだけでも食べてくるべきであった。まだいっている。

ロシアの文豪は生やしっぱなしの雑草のようなあご髭がある。髭は立体で作る場合、文豪の墓に据えられた銅像だろうと、ひと塊に作るわけだが、実際は塊というほどの密度があるわけではなく、うっすら顎のラインが透ける程度の密生度である。これはかなりニュアンスに違いがある。何か方法はないだろうか。しかしその辺りはやりすぎると野暮になりかねないので気をつけなければならない。そもそも本物と見まごうばかりの物を作るのが本意ではない。そのつもりで作ったのは、過去に古今亭志ん生ただ1体である。合成はともかく、ディテールにデジタル処理を加えず、どこまでリアルに作れるか試してみた。結果、いちいちこれは私が作った人形で、と追加説明するはめになってしまった。腹の中では、あんな老人がでかい太鼓を背負うわけないだろ、と思ったが、そう見えるように作ったのだから仕方がない。 物故者でない場合、作り物らしさを残したほうが良いのではないだろうか。これなら本物使ったって良かったじゃないか、となっては意味がない。 文豪の資料写真にはもっとも有名だという油彩画がある。これが作家の生前に描かれたものか死後のものか、編集者に問い合わせてみたら生前に描かれたものらしいということであった。耳が小さくエラが張っているように見えるのは何故か。私は有名だろうがなんだろうが、はいそうですかと簡単には信用しない。死後に描かれた物であったら私と条件は同じ。即無視のところであった。 何度か書いているが、夏目漱石を作った時、肖像写真のまっすぐ通った鼻筋に疑いを持ち、安全のために正面を向かせた。完成直後に開催された漱石展で展示されたデスマスクの、見事な鷲鼻を見た。私は引っかからなかったぜ!写真といってもうかつに信用してはいけない。

追記:良く考えてみると、日頃まことを写すという意味の写真という言葉が大嫌いだ、まことなど画面に入れてなるものか、と偉そうにいっていたが、写真はまことである、という錯覚を利用することばかり考えているのが実は私なのであった。

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今回Kさんの頭部の5針は、ほとんど文房具のホッチキスのような物で止められていたらしいが、それも取れた。いくら頭に見えるところがただのダミーだとしても、いったい何針縫えば気が済むのか。私は小学校の家庭科が大の苦手であったが、嫌々作った雑巾を思いだしてしまう。 前の晩から飲み続けて椅子から落ちたのだが、「もう絶対こういうことにならない」といっている。しかし「もう救急車に乗らない」といった数時間後にさっそくに乗り、パトカーに乗せられて帰ってくる人であるから、本気で聞く人など誰もいない。 Kさんは今回の“事故現場”であるT屋のかみさんの誕生日に、ケーキをプレゼントするのが恒例になっている。最初にケーキに○ちゃん命と書いてもらい、旦那と一番下の娘に,そこを食われた。以来、なんて書けば良いか悩んでいたので、私が手伝うことにしている。私としては、なんて書いてあれば旦那と娘に食われて可笑しいかである。そんなに毎日のように入り浸っているなら、いっそ『養子にしてください』。はどう?といってみたり、矢切の渡し調に『一緒に逃げて』は?ストレートに『結婚してください』。とかいってみるが、ケーキ屋でいい出せなかったり字数が多すぎたり、実際は紙に鉛筆で書いて入れるだけのようである。かみさんからはケーキに書いてないと、といわれたらしい。私としても娘のAちゃんに「Kさん馬鹿じゃないの?」とかいわれながら食われないと面白くない。今年ももうその時期であるが、そんな案配なので、私もたいして思いつかない。本人の怪我の頻度が高い今日このごろ。『涅槃で待つ』はどうかと思ったが、ちょっと古いし、Kさんの辞書に涅槃が載っているわけがない。

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肖像  


制作中のロシアの文豪は、残された写真はそれほど多くない。ないならないで、後から決定版がでてこなければかまわない。 十字路で悪魔と契約したという伝説のブルースマン『ロバート・ジョンソン』はかつては写真が存在しない、ということでアルバムジャケットはイラストであった。ところがついに発見と、雑誌に1カット掲載された。ある日の飲酒後、我慢できずにホンモノかどうか、夜の十二時過ぎに編集部に電話をしたら、編集者がでて「そういわれてます」。さっそく制作を開始した私であったが、当時は実在の人物を資料を見ながら作る、ということはほとんどしたことがなかったし、その人物がどうも風采があがらず、ロバート・ジョンソンというわりにもっさりしていて盛り上がらずしなびた。それは結局ガセネタであった。もしあのまま、どこの馬の骨だか判らない、ただの男を完成させてしまっていたら、私は3回は繰り返しここで恨みごとを並べていたであろう。 それにしてもこのロシア人。自主的にカメラの前に座っているように見えない。腹の中を悟られないよう、レンズではないところを見つめ、別のことを考えているように見える。そのせいか口が開いてしまっている。 立体の場合は、ひとたび作ってしまえば、どの方向からも撮影ができる。どうせなら写真が残されていない方向から撮りたい。見たことがないからその人に見えない、という危険はつき物であるが、その肖像は撮影したカメラマンが選んだ表情である、という意味で、作る方としては面白くない。 資料でもらった写真の中に、絵画が混ざっていたが、そのうちの1カットがリアルに描かれていて、リアルに似ていない。リアルであるほど、写真で残っていない角度を描くのが難しいのは当然であろう。これを見てかまわず撮ることにした。いっそのこと流し目にしてやろうか。

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