吉本興業社長・大崎洋物語(幻冬舎刊) 約20分の背景撮影中、東京人の私が嗅いだことのない食べ物の匂いがしていた。何だか判らないが、せめてあれだけでも食べてくるべきであった。まだいっている。
ロシアの文豪は生やしっぱなしの雑草のようなあご髭がある。髭は立体で作る場合、文豪の墓に据えられた銅像だろうと、ひと塊に作るわけだが、実際は塊というほどの密度があるわけではなく、うっすら顎のラインが透ける程度の密生度である。これはかなりニュアンスに違いがある。何か方法はないだろうか。しかしその辺りはやりすぎると野暮になりかねないので気をつけなければならない。そもそも本物と見まごうばかりの物を作るのが本意ではない。そのつもりで作ったのは、過去に古今亭志ん生ただ1体である。合成はともかく、ディテールにデジタル処理を加えず、どこまでリアルに作れるか試してみた。結果、いちいちこれは私が作った人形で、と追加説明するはめになってしまった。腹の中では、あんな老人がでかい太鼓を背負うわけないだろ、と思ったが、そう見えるように作ったのだから仕方がない。 物故者でない場合、作り物らしさを残したほうが良いのではないだろうか。これなら本物使ったって良かったじゃないか、となっては意味がない。 文豪の資料写真にはもっとも有名だという油彩画がある。これが作家の生前に描かれたものか死後のものか、編集者に問い合わせてみたら生前に描かれたものらしいということであった。耳が小さくエラが張っているように見えるのは何故か。私は有名だろうがなんだろうが、はいそうですかと簡単には信用しない。死後に描かれた物であったら私と条件は同じ。即無視のところであった。 何度か書いているが、夏目漱石を作った時、肖像写真のまっすぐ通った鼻筋に疑いを持ち、安全のために正面を向かせた。完成直後に開催された漱石展で展示されたデスマスクの、見事な鷲鼻を見た。私は引っかからなかったぜ!写真といってもうかつに信用してはいけない。
追記:良く考えてみると、日頃まことを写すという意味の写真という言葉が大嫌いだ、まことなど画面に入れてなるものか、と偉そうにいっていたが、写真はまことである、という錯覚を利用することばかり考えているのが実は私なのであった。
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