明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



後ろにずっと並んで出番を待っている鮫の歯のように、作りたい物が常に控えている。また突然、棚からぼた餅のように、アイデアが浮かぶのは良いが、その場合、部屋を片付ける手は止まっている。私がこれを同時に出来る人間であったとしたら。一見良さそうだが、良いどころか、ストレスを真正面から受けてしまって何かしら病気になっていただろう。なんて、なんでも自分の都合の良いように解釈すると言われる。とにかく今は部屋が片付くまでは粘土を手にしない、と決めている。しかし私が大変なクソ真面目であったなら、このまま引退することになりかねない。それだけは何としても避けなければならない。避けるべきであろう。

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一日  


ジャズ、ブルースをテーマにした初個展から40年かけて、少しづつ魚のいないところを探しては釣り糸を垂れてる。と評される私だが、その挙句が寒山拾得ということになろう。中学生の時に、乱歩と共にはまって授業中にも読んでいた谷崎潤一郎をやり残した感があるものの、作家シリーズ最後となった。三島由紀夫が様々に死んでいる所ばかりを制作した『三島由紀夫へのオマージュ 椿説男の死』により、思い残す所はない。死の前年無理やり上演したかのような舞台『椿説弓張月』は、歌舞伎役者が思ったように動いてくれないと不満を漏らしているが、『黒蜥蜴』で剥製役をやった三島も、さすがに武藤太の切腹の場で翌年のリハーサル?を自分で演じる訳にいかず、その無念の想いを晴らしてみた。ここまでやってしまえば、もう寒山拾得という訳で、寒山拾得と一休宗純の首を持って『芭蕉記念館』へ。収蔵されている芭蕉像、芭蕉庵と共に、室生犀星、泉鏡花、永井荷風を展示中である。坂崎重盛さんと久しぶりにお会いする。雅号の一つも付けてもらえれば幸いである



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当初、歴史あるモチーフに敬意を表し、私の寒山拾得を、などとは考えず、なるべく埃を立てぬよう、大人しく末席に座ろう、としおらしい事をいっていた。人形を作って写真作品にする、私にはそれだけで充分。だが、頭に浮かんだイメージのためにはどんな手でも使おうという独学我流、無手勝流の出自、育ちがどうしても頭をもたげて来る。 そのせいで私の寒山拾得は、星の数ほどある寒山拾得とは一味違う表情になったが、聖性という意味ではどうだろう。世を捨てた巌窟住まいの乞食坊主に聖性を見た、かつてそんな時代があったはずだが、もっと明快に聖俗兼ね備えた寒山拾得を、と考えていた。そこで一カットのためだけに、とは思ったが、文殊菩薩と普賢菩薩像を入手。寒山と文殊、拾得と普賢を1カットづつ左右に、真ん中に虎と豊干禅師。計三作、これにて『三聖図』としたい。寒山拾得と文殊普賢の共演作は観たことがない。私のイカれた寒山拾得の表情も端正な菩薩がバランスを取ってくれるに違いない。 当初のしおらしさはどこへやら。やはり頭で考えたことは、いざとなると役に立たない。無駄だから、先のことは一切考えないと決めたの昨年だったか一昨年だったか。それはともかく。気になることをちょっと思い出した。真ん中の豊干禅師は阿弥陀如来の化身ではなかったか?!

 



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始める前の私は、人形を作り写真作品にする、という奇手を用いる分、通常と違うのだから、それだけで充分、末席を汚さぬよう、伝統に乗っ取った寒山拾得を、と思っていたはずだったが。 架空の人物の表情を作るのが面白くて始めた40年前の原点に戻った気がする。今回のモチーフは人間の種々相を描くには最適といえるだろう。蝦蟇仙人なんかに遠慮がいるはずがない。つい手が滑ってカエル染みた顔にしてしまった。酔いが過ぎた。 星の数ほど描かれて来た寒山拾得だが、これほど癖っ毛の二人は知らない。ふと髪は粘土でなく人形用のヘアーを使おう、と思った時点で、多少は思っていたかもしれないが。通常の伸びたおかっぱみたいにした時点で印象が変わり、嫌になってやり直し、もみ上げもうなじにも毛がなく、頭に毛の固まりを乗せたようにしてみた。かといってボリュームを持たせようと思うと、ドラマの菅田将暉並みの癖っ毛になった。古代の中国に天然パーマがいたのかは知らないけれど。 寒山と拾得は絵師の個性がもっとも出るモチーフの一つだろう。出来てみると初志とは違って、眠っていた種類の私の個性炸裂となったかもしれない。



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一日  


最後に残った寒山と拾得の人形用の髪の貼り付けだが、一度目は上手くいかず、そうこうして髪がこんがらがって収拾が付かなくなった。検索したら、最初に糸でくくってまとまっている束を崩さないようにして作業せよ、と。新しく入手。まったくぶきっちょでいけない。 『タウン誌深川』の次号は寒山拾得にしよう、と原稿をスマホで書いた。完成し、文字数を調べようとコピーしたら、うっかり消してしまった。 森鴎外の『寒山拾得』は、何の参考資料も見ずに書いた、と鴎外は自慢気だが、閭丘胤(りょきゅういん)の閭丘を閭と間違えている。なんだか放りっ放しのような話で判りにくい。様々な人が目にするタウン誌ゆえ、もっと分かり易くしよう、と官吏の閭丘は、月を指差し〝月を見ないで指を見る”ようなミーハーな男で、豊干に寒山拾得が実は文殊と普賢だと聞いて、いそいそと会いに行き、結果、「豊干が喋ったな?」と二人はどこかに消えてしまった。ということに。



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最近おそらく目が覚める直前だと思うが、リアルな夢を見る。粘土を着けている所もブログにしてもすべて本当のことで、起きているのと変わらない。これは追い詰められると良くあることである。しかし追い詰められるといっても、好きでやっているのだから大したことはないけれど。無呼吸症候群による影響かもしれない。昨晩は装置を着けずに寝ていた。   寒山拾得が気になったそもそもは、由来の解らない顔輝派の笑顔であったろう。昨年作って気に入らなかったのは顔輝派的な表情だったからである。そういえば、三遊亭圓朝を作った時、鏑木清方の名作圓朝の顔が写真と違うし何か企んだような表情も納得が出来ず苦労したことを思い出した。   子供の頃何が嫌だったか、というと〝まねっ子饅頭豆屋の小僧”といわれることであった。せっかくこの歳までいわれずに済んでいるのだからという気がする。



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寒山拾得の首がほぼ完成した。首が出来れば出来たも同然である。結局作ることによってしか打開も解決もなく。20代30代の初め頃までは、”私はこうだ”といいたがりで、情報誌片手に作品展など見て回ることもあったが、自分のことでさえ何も判っていないことに気付き、頭を使ってもロクなことに至らないことも判り。以来〝考えるな感じろ”でやって来た。そして至ったモチーフが寒山と拾得なのかもしれない。 七世紀の初め閭(りょきゅういん)という官吏がいて、ある日頭痛に悩んでいたところを豊干という僧に治してもらう。聞くとこれからの任地先天台の国清寺から来たという、その寺には寒山と拾得というものがいて、実は文殊と普賢だという。そこで何かためになることでもあるか、とりょきゅういんが二人を訪ねると、「豊干がしゃべったな。」と笑いながらどこかへ行ってしまった。



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禅宗の画題として絵師、画僧、文人に長い間描き継がれてきた寒山拾得。寒山詩の序に書かれた話が元になったイメージで、森鴎外もそれを元に書いている。 その外見が、どのように描かれて来たかというと兄弟ではないのに何故か双子のように描かれることが多い。痩せていると書かれているのに関わらず、肥満体の、また子供のような唐子調も多い。むしろ痩身は少ない。中国土産として日本で親しまれた寒山寺の拓本自体が二人の肥満体として描かれている。伊集院光が自分にそっくりだ、と入手したくらいである。 風狂無頼の徒だけに、ボロの着物に爪は伸びている、ところが、星の数程あるだろうが、髭が描かれた物を見たことがない。 岸田劉生の麗子像に影響を与えた、といわれる無気味なアルカイックスマイルは、おそらく顔輝が描いた物が発祥のようだが、実は思ったほど多くはなく、私が知っているのは5点ぐらいか。外見の特徴を並べると、こんなところであろう。 一度二人の首が出来たが、物足りなかった。タスマニアデビル2匹がじゃれあっているかのような、遠くから観ると可愛らしいが、実際はバケモノ染みた怪奇性が欲しい。という訳で、本日拾得の首がほぼ完成した。毛髪は河童以来、人形用の毛髪を使いたい。



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風狂の絵師というと真っ先に浮かぶのが曾我蕭白である。1730(享保15)年、京都の商家に生まれたというから一休と同じ頃ではないか、と思ったら、曾我蛇足に私淑し、自らその十世を名乗ったという。何のことはない。私は蛇足の臨済宗宗祖臨済義玄を元に義玄像を制作し、小学生の頃、伝記に載っていた蛇足の一休像と、残された木像を元に、ここ毎日見つめながら一休の頭部を作って来た。いうなれば同じ穴のムジナではないか? 初めて寒山拾得を見たのは昔千葉の美術館の曾我蕭白展だったろう。その時は、全体がインパクトありすぎ得に寒山拾得ということはなかったが。それにしても1700年代にあれだけイカレた作風が受け入れられていた、というのが驚きである。一方同時代で人気の伊藤若冲に関しては私にはご苦労さんとしか思えないのであった。



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一日  


昨日の晩から大鍋に煮込みを作っていた。早朝目が覚めた。昨晩アップできなかったブログは翌日の昼までにアップすることにしていたのだが、しゃれこうべを枕にした一休禅師を作ろうなんて話を書いているうちにまだ薄明るいうちから、煮込みで飲み始めてしまい、内容が暴走。これは明日間違いなく後悔する。若い頃得た教訓”ラブレターは一晩明けてから投函すべし“ ブログをアップせずに、また寝てしまった。 しゃれこうべを竹竿に“門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”正月早々、京の街を嫌味というか嫌がらせをしながら各戸を回り挙げ句にしゃれこうべを枕に酔い潰れてしまう『一休和尚酔臥図』”世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬのを待つばかりなり“ こんな物を作ろうと考え、嬉しすぎて内心はしゃいでいる。そんな人間放っておいて良いのであろうか? 相当数の寒山拾得図を見てきて、どこかピンと来なかったのは、立派な寒山拾得は数々あれど、風狂味が足りない、と思えたからかもしれない。

 

 

 

 



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一休和尚は、正月早々京の街中で酔い潰れていては凍え死んでしまいそうだが、子供の頃、元旦の朝、外へ出たら粉撒き屋のおじさんが、当時のコンクリート製ゴミ箱を背に、まるで切腹をし、正座のまま前にのめったように酔い潰れていた。死んでいるかと思った。粉撒き屋とは、各家を回って、くみ取り口に石灰の粉を撒いて、料金を貰う仕事である。 一休のそばに野犬はちょっとやりすぎかと思われるので、せめて子犬にしておこう。しゃれこうべを竹竿に掲げて正月に家を回られたら、さぞかし嫌がられたに違いなく、居留守を使ったり、中には酒を振る舞い追い出そうとする家もあったろう。 先日、陰影のない一休像の立体感を読み間違いに気付いて以来、ようやくイメージに近付いてきた。 寒山拾得といいながら、それ以外の物ばかり作っているのが、もしかすると、これら全てが寒山拾得に至るために必用な行程のような気がしてきた。だったら機が熟するまで待とう。



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『慧可断臂図』の見返り達磨大師に続き、慧可を作った。一カットしか考えていないので、写るところしか作らない。他の連中が濃すぎるし、今回対するのが達磨大師である。伏せ目の、ごく特徴のない人にしてみた。頭髪も髭もない。 寒山拾得は、やはり再考のこと。これが最初に今ある頭部が出来ていたなら、イメージ通り、と思ったかもれないが、他のモチーフを手掛けるうち、認識が変わって来た。頭部が完成しているのに、なかなか手を着けないので、早く始めれば良いのに、と頭では考えていたのだが。やはりヘソ下三寸辺りの、もう一人の私が、ゴーサインを出さず。頭で考えても駄目である。結局、寒山と拾得を後回しにした理由も意味もあったということであろう。今回ほど”考えるな感じろ“なモチーフはない。 

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豊干の乗る虎は動物園の虎にすることに大分傾いている。数年前にトラ猫を虎に変えて、虎を見たことがなかった日本人絵師の味を出そうとしたが、自分の飼い猫ならともかく、マタタビを使っても思うようにならず、虎を撮った方が良さそうである。特に豊干、虎、寒山、拾得が寄り添って眠る『四睡図』の虎は、ぐうたらしている動物園の虎が良いだろう。上に乗る豊干は、虎を先に撮り、それに合わせて造形しなくてはならない。豊干は描かれ方は様々だが、普段から虎に乗っているだけに破天荒な禅師である。左肩剥き出しで、法衣というより布をまとって杖をついている、そんなイメージにしたい。 『虎渓三笑図』の陸修静、明日より制作開始。写るところしか作らないとはいえ三人も作るので、2カットはものにしたい。被写体制作と撮影の二刀流だからそうなる。 それにしても大谷翔平、筋肉が柔らかいとは聞いていたが、特別な筋肉の持ち主なのだろう。江戸川乱歩なら、実は一卵性双生児だった、なんてオチをつけそうだが。それでも凄いけれども。



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それにしても、行き当たりばったりといえど、それなりの経緯という物があったはずだが、今年の話しだというのに詳細を覚えていない。臨済義玄の前に一休宗純に取りかかっていたはずだと思う。フト思い出した小学生の頃、ねだって買って貰った初めての大人向け本『一休禅師』。”門松や~目出度くもあり目出度くもなし“に感銘を受け、左卜全のような肖像画を思い出した。すると一休も臨済宗ではないか。興味深い肖像画を見るとまた臨済宗である。その段階では高僧の詳細な肖像画を残すのは禅宗でも臨済宗の特徴だと知らず、それを縁だと思い込んでしまった。知っていたらこうはならなかったろう。 しかし一休の“目出度くもあり目出度くもなし”が、寒山と拾得の笑っているようで笑っていない、不可解な表情のヒントになった。そもそも『寒山拾得』の物語といっても、登場人物は少ないし、名場面的な物も有るような無いような。かえって良かった、と思っている。 一休の竹竿に捧げ持つしゃれこうべは出来ているが、一休の頭部はまだ出来ていない。”門松や“の一休だけに、来年の元旦には間に合わせるつもりである。

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徹子の部屋に横尾忠則さん。お元気そうで何より。三島由紀夫没後50年にして出版された篠山紀信撮影、横尾さんデザインの『男の死』は本来三島と横尾さん二人の写真集になるはずであった。三島一人では引き受けないだろう、と読んだ企画者の元薔薇十字社の社主内藤三津子さんに伺った。 出版の僅か半年前に開くことが出来た三島由紀夫へのオマージュ展『椿説男の死』だが、僅か半年でも先に開くことが出来たのは、三島にウケることだけを考え、出版に怯えながら制作し続けた私に対する三島の褒美だったと思う。 本来であれば真っ先に手掛けるはずの『聖セバスチヤンの殉教』はすでに三島本人にやられてしまっている。その代わりに、三島演出により死の前年に上演された『椿説弓張り月』(ポスター横尾忠則)の武藤太の責め場に“聖セバスチヤンの殉教図”を見いだし制作した作品は、三島に一番見て貰いたい作品となった。 番組内で、現在東京都現代美術館で、開催中の『GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?』が紹介されたが、最初に映ったのは『寒山拾得』であった。多分そうなるだろうと思っていた。


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