沖縄本島の最南端、糸満市の海岸に「摩文仁(まぶに)の丘」がある。
サンゴ礁が隆起し、自然洞窟がある断崖絶壁の海岸は、61年前の夏、住民を巻き込む悲惨な戦場と化した。
1945年3月、今ではダイビングで有名な慶良間(ケラマ)諸島を占拠した米軍は、ここを拠点として、本島の北谷(ちゃたん)に上陸。
その後勢力を広げ5月には、今の首里城の地下に設けられた日本軍司令部に到達。
首里城を捨てた日本軍は南下して南端のこの地に到達し、住民が避難していた自然洞窟に逃げ込んだ。
洞窟を拠点に攻撃を繰り返し、米軍との本土決戦に備えるための時間稼ぎを沖縄で行うための「持久作戦」を展開した。
このため、米軍は火炎放射器や手榴弾で洞窟を一つずつ破壊するなど、「馬乗り攻撃」と呼ばれる掃討作戦で応じた。
この結果、洞窟内にいた多数の住民と兵士が犠牲になった。
米軍兵士の中に、精神障害になった者が多かったという事実は、お年寄りや女子を巻き込んだ戦いの悲惨さの一面である。
沖縄県平和祈念資料館
日本唯一の地上戦で、沖縄県民の3人に一人が犠牲になったといわれている。
延べ20万人の犠牲者の名前が、住民、兵士、外国人を問わず、名前が掲げられている。ー平和の礎ー