ついでに、もうひとつ、『会津ほうぎょく館』という
サイトから、「会津藩主松平容保(かたもり)の逸話。
容保は、尾張徳川の分家高須松平家から会津に養子に
はいった。尾張徳川義勝と桑名松平定敬と兄弟になる。
三人は仲が良かったのだが、戊辰戦争ではからずも、
尾張は官軍に付き、敵味方となる。戦後(会津人に
とって戦後とは戊辰戦争後のこと)、明治になって、
三人の兄弟がおち合った。その時、長兄の義勝が容保に
「尾張徳川家を継いでくれと」と話を切り出した。
容保はそれを受けず、黙って帰宅した。後に家臣に
語っていうには「3000人の家臣が亡くなり、残された
者も路頭に迷い、辛酸を舐めることになったのは、
自分の不徳の致すところ。自分だけが、会津を捨てて
尾張に戻るわけにはいかない」と。
その後、容保の孫娘が尾張徳川家に嫁ぎ、その娘婿が
尾張の当主になった。また、同じく孫娘勢津子は
秩父宮妃に、ひ孫は、現在徳川宗家を継いでいる。
すごいことになっているのだ。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

サイトから、「会津藩主松平容保(かたもり)の逸話。
容保は、尾張徳川の分家高須松平家から会津に養子に
はいった。尾張徳川義勝と桑名松平定敬と兄弟になる。
三人は仲が良かったのだが、戊辰戦争ではからずも、
尾張は官軍に付き、敵味方となる。戦後(会津人に
とって戦後とは戊辰戦争後のこと)、明治になって、
三人の兄弟がおち合った。その時、長兄の義勝が容保に
「尾張徳川家を継いでくれと」と話を切り出した。
容保はそれを受けず、黙って帰宅した。後に家臣に
語っていうには「3000人の家臣が亡くなり、残された
者も路頭に迷い、辛酸を舐めることになったのは、
自分の不徳の致すところ。自分だけが、会津を捨てて
尾張に戻るわけにはいかない」と。
その後、容保の孫娘が尾張徳川家に嫁ぎ、その娘婿が
尾張の当主になった。また、同じく孫娘勢津子は
秩父宮妃に、ひ孫は、現在徳川宗家を継いでいる。
すごいことになっているのだ。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。
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