中日新聞連載の五木寛之『親鸞』。いよいよ11日で最終回。
少し見えてきた。「仏を謗(そし)る極悪非道の者でも、
死んでのち、あの世で救われる。現世で阿弥陀如来への
信仰に目覚めた者は、この世で救われる。闇夜に光を
求める者が、『南無阿弥陀仏』と念ずれば、勇気と知恵が
湧いてくる」と。
そしてまた「救われるかどうかは、阿弥陀如来の『他力』を
“信”ずるか否か。その“信”も 時として揺らぐ時、
『念仏』を唱えれば、また“信”が湧いてくる」とも。
浄土真宗の僧侶たちは、『五木・親鸞』をどう受け止めて
いるのだろうか。反証はしないのだろうか。
ひとつ判ったことは、浄土真宗の僧侶は、坊さんなのに
剃髪(坊主頭)にしないことだ。親鸞は、比叡山天台宗の
正式の学僧では無かった。正式の僧侶では無かったのだ。
そして、五木寛之は「『非僧非俗』とは、決して『半僧半俗』
ではない」と。これは、虚無僧にとっても大事に言葉だ。
虚無僧も剃髪しない「半僧半俗」だが、「半僧半俗」では
なく「非僧非俗」でなければならないと。これからの
課題は、この差を識る修行か。
少し見えてきた。「仏を謗(そし)る極悪非道の者でも、
死んでのち、あの世で救われる。現世で阿弥陀如来への
信仰に目覚めた者は、この世で救われる。闇夜に光を
求める者が、『南無阿弥陀仏』と念ずれば、勇気と知恵が
湧いてくる」と。
そしてまた「救われるかどうかは、阿弥陀如来の『他力』を
“信”ずるか否か。その“信”も 時として揺らぐ時、
『念仏』を唱えれば、また“信”が湧いてくる」とも。
浄土真宗の僧侶たちは、『五木・親鸞』をどう受け止めて
いるのだろうか。反証はしないのだろうか。
ひとつ判ったことは、浄土真宗の僧侶は、坊さんなのに
剃髪(坊主頭)にしないことだ。親鸞は、比叡山天台宗の
正式の学僧では無かった。正式の僧侶では無かったのだ。
そして、五木寛之は「『非僧非俗』とは、決して『半僧半俗』
ではない」と。これは、虚無僧にとっても大事に言葉だ。
虚無僧も剃髪しない「半僧半俗」だが、「半僧半俗」では
なく「非僧非俗」でなければならないと。これからの
課題は、この差を識る修行か。