昨年(H28)5月から『邦楽ジャーナル』に虚無僧の歴史について
寄稿させていただいております。その記事をアップします。
第1回 謎だらけの虚無僧史
私、平成の虚無僧一路でござる。子供の頃、
家の前に現れた虚無僧を見てビビッときて、
虚無僧に憧れ60年。念願かなって今晴れて
虚無僧をしておりまする。
ところで虚無僧って何? 大学は文学部史学科に進み、
そこで虚無僧について調べてみたら、調べれば
調べるほど謎だらけ。
一般的には 「虚無僧は禅宗のひとつ普化宗の僧。
普化宗を日本に伝えたのは紀州由良の興国寺の
開山、法鐙国師覚心」といわれています。
ところが、室町時代以前の正史には、法燈国師と
普化宗・虚無僧との関係を記す史料は出てきません。
そもそも興国寺は、当初は禅宗ではなく、高野山の
系統で寺名も西方寺でした。さらに調べれば、
仏教の法統には、中国にも日本にも普化宗など
なかったのです。
虚無僧の祖を中国唐代の普化禅師とし、法燈国師が
日本に伝えたという説は、江戸時代の後半になって
出された『虚鐸伝記国字解』という書物に書かれて
いるものです。その内容が創作されたものであることは
ほぼ明らかです。
では『虚鐸伝記国字解』の作者は何を根拠に
そのような伝説を創作したのでしょうか。
それが虚無僧についての最大の謎です。
そして江戸時代、虚無僧は徳川家康のお墨付きを
もらったとして「関所も芝居小屋もフリーパス」、
「尺八は虚無僧しか吹いてはならない」などと
手前勝手な特権を振りかざすようになります。
その「お墨付き」と称する『慶長の御掟書』というものが、
これまた真っ赤な偽物。ねつ造だったというのですから、
何をかいわんやです。
それなのにネット上では、伝説や伝聞がまことしやかに
書かれていたり、法燈国師を「東福寺の禅僧」とか、
「普化宗は幕府の隠密のようなことをしていたため、
明治になって廃止された」などという説が拡散されて
います。
面白いのは、「虚無僧が前に下げている箱に『明暗』と
書かれていますが、あれは明暗寺の僧であるということを
示すもので、特に意味はありません」というのも
ありました。意味は大ありです。「明暗」とは、
普化禅師の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」に由来
するもので、これこそ虚無僧の唯一の教義です。
ですが、京都の明暗寺は江戸初期は「妙安寺」でした。
そして「明暗」と書かれた偈箱 は今日では
虚無僧の定番ですが、実は江戸時代には無かったのです。
最後にもうひとつ。「虚無僧は元武士でなければ
なれなかった」というのですが、浮世絵や大津絵には
女物の着物を着た「女虚無僧」の絵がたくさんあります。
はたして「女虚無僧」はいたのでしょうか。男性が
女装していたのでしょうか。
知れば知るほど不可解な虚無僧の実像と虚像を今月から
連載させていただきます。