現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

1月15日 雪

2017-01-15 11:31:33 | 虚無僧日記

名古屋もも積雪 5cm。昨年までは、雪でも、早朝4時に起きて、

風呂の湯をバケツに汲んで運び、車に積もった雪を溶かし、

朝起き会、そしてラジオ体操に向かったものでした。

雪国の人たちは、毎日当たり前にそうしているのですから。

「雪が降ろうと槍が降ろうと平常心」の朝起き会。

台風でも、家が床下浸水していても皆集まってくる。

そんなことを他人に話すと「なんでぇ~。信じられな~い」と

云われる。それが世間一般の常識か?

今年はもう、気力が体力無くなった。雪をいいことに

朝起き会もラジオ体操も欠席。寝たり起きたりウダウダ。

人生そろそろ「山を下りる」生き方に。

そして今日は10時から「初吟会」でした。すでに一昨日

「雪の予報なので延期」との連絡が。その時私は「なんでぇ」

の思いに。晴れ男の私。実際今日の天気は晴れ。なにも

中止にすることはないと思っていましたが・・・。

実は 疲れのためか、口唇ヘルペスで尺八が吹けない。

救われた。ホントに私にとっては、超ラッキー。


「邦楽ジャーナル」 H 28 / 8 月号 掲載 

2017-01-15 11:11:41 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」 H 28 / 8 月号 掲載                                          

『虚無僧曼荼羅』No.4 

虚無僧消滅への序章

仙石(せんごく)騒動

江戸幕府が崩壊する30年ほど前、但馬(たじま)国 出石(いずし)藩

(現兵庫県豊岡市出石町)で世間を騒がすお家騒動が起きた。

藩主は「仙石政美」。家老も「仙石左京」と「仙石造酒(みき)」。

同族だが、両派の争いから、筆頭老中の辞任にまで発展する事件となった。

ことの発端は虚無僧が町方に捕らえられた事から。

天保6年(1835)。虚無僧友鵞(ゆうが)が南町奉行所の手の者に捕らえられた。

友鵞は出石藩を脱藩した神谷転(うたた)で、家老の仙石左京から奉行所へ

捕縛の依頼が出されていた。その友鵞救済のために、江戸浅草にあった

一月寺番所の役僧愛璿(あいぜん)が寺社奉行に訴え出た。

『慶長の掟書』を持ち出し「虚無僧は天下勇士の一時の隠れ家、

守護不入の宗門。町方によって捕らえられるとはもってのほか。

不審の事があれば寺社奉行によって取り調べられるのが筋」と。

そして「神谷転は忠義の士で、家老仙石左京の不正を知って脱藩

したのであるから、藩に引き渡されたら死罪になるは必定」と、

出石藩の内紛をほのめかした。取り調べの中で神谷転は、

「仙石左京は子息小太郎の嫁に老中の松平康任の姪を迎え、

多額の金品を贈って、小太郎を藩主にしようと企んでいる」と

述べた。そこで老中水野忠邦が動きだした。出世欲にからむ水野忠邦は、

筆頭老中松平康任を蹴落とす恰好の口実と、仙石左京を召喚し、

申し開きもさせずに、斬首獄門という厳しい刑に処したのである。

この仙石騒動は講談にもなって世間に広まり、仙石左京は“賊臣”と

されてきたが、はたしてそうだろうか。証拠があるわけではない。

反対派にしてみれば、「恐れながら」と幕府に訴え出ても、逆に

死罪になりかねない。そこで、神谷転を虚無僧に仕立てて、

町方に捕らえさせ、寺社奉行に訴えることで、幕閣を動かすことに

成功した。推理作家も驚く巧妙なシナリオであった。

さて、神谷転は一躍忠臣となり、一月寺は『慶長の掟書』が威力を

発揮したことで鼻高々だったが、その喜びは長くは続かなかった。

この後、幕府は『掟書』の真偽を詮議することとなる。藪蛇(やぶへび)と

なったのだ。

 

岐阜芥見村虚無僧闘争事件

仙石騒動の裁定が下されたのは天保6年(1835)。この9年後の

天保15年(1844)、岐阜の芥見(あくたみ)村で、虚無僧同士の乱闘が起き、

死者まで出た。取り調べてみれば、本来武士であるはずの虚無僧が、

宗縁と称する百姓や船頭、無宿人だった。「侍しか虚無僧になれない」とか

「虚無僧以外に尺八を吹くことを禁ず」といいながら、実際には町人、

百姓、無宿人にまで本則を出し、収入源にしていた。そのことから

虚無僧の本山一月寺にまで査察がはいり、重追放の科人(とがにん)が

江戸に舞い戻って看主になっていたことが発覚、遠島(=島ながし)となった。

一月寺だけでなく理光寺、慈上寺、観念寺、松岩寺の看主の愛妾までが

捕らえられ、多くの虚無僧が女犯の罪で遠島に処せられた。

飲む打つ買うが虚無僧寺の実態だったのだ。

この取り調べの後、弘化4年(1847)、幕府は『慶長の掟書』を偽書と

断定し、虚無僧の取り締まりを強化することになる。こうして幕末には、

虚無僧の姿は見かけなくなっていた。

明治4年の太政官布告の際も「全国60ほどの虚無僧寺のうち半数が無住」と

述べられている。

 

一月寺の役僧愛璿(あいぜん)は元会津藩士と知ってびっくり。わが家の先祖も

会津藩。愛璿(あいぜん)は、三度、漢文体で長文の見事な上申書を提出し、

ついに寺社奉行を動かした。なかなかの学識と気骨があった。そして、

東京中目黒の永隆寺に神谷転の墓があると知ってまたびっくり。私の従弟の家のす

ぐ真下。遊びにいく都度前を通っていた。ここは仙石家とその藩士の菩提寺

だったそうな。ということは、神谷転は裁きの後出石藩に復帰したのだろうか。

尺八古典本曲に「転菅垣(ころすががき)」という曲がある。「転(ころ)びという手が

用いられているから」とか、「車輪が回転するように展開する曲調だから」とか、

また「神谷転が吹いていた曲なので転(うたた)菅垣」という説もある。

「看主(手)(かんしゅ)」とは虚無僧寺のトップ。剃髪している正規の僧なら「住職」。

そうでない場合は「看主(手)」とか「院代」という。

神谷転は虚無僧になって短日で上総国三黒村松見寺の看主になっていた。

虚無僧になる前から尺八の心得はあったものと思われる。松見寺の跡には

愛璿(あいぜん)が起草し、友鵞(神谷転)の筆になる立派な石碑がある。

 

 


「邦楽ジャーナル」7月号 掲載「虚無僧曼荼羅」第3回

2017-01-15 10:52:41 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」H28年7月号 寄稿記事です

『虚無僧曼荼羅』No.3

 偽書「慶長の掟書」

ネットを見ると「虚無僧は公儀隠密だった」「江戸幕府は

普化宗を保護するために、虚無僧以外の者が尺八を吹くことを

禁じた」などというようなことが書かれています。その根拠は

「慶長の掟書(ルビ:おきてがき)」と呼ばれる文書です。

「慶長の掟書」は、原本は存在せず、写しが20以上もあって、

どれ一つとして同じものが無いという代物です。お題目に

「家康公関東入国の砌(みぎり)仰せられた掟(おきて)」と

書かれたものや、「定」というのもあります。家康の関東入国は

天正18年(1590)ですが、末尾の日付は「慶長19年(1614)」に

なっているといういい加減さです。

江戸幕府の公文書は「法度(はっと)、触(ふれ)、覚(おぼえ)、

定(さだめ)」で、「掟おきて)」というのはは「村の掟」のように

特定集団内部の取り決め事です。「慶長の掟書」と類似のものに

「(慶長18年)檀那請合之掟(だんなうけあいのおきて)」というのが

あります。寺院経営に都合の良いことばかり並べ立てたもので、

これも偽書とされています。「慶長の掟」はこれを真似たのでは

ないでしょうか。

 

虚無僧は浪士の隠れ家

「慶長の掟書」の第一条に「虚無僧は勇士浪人一時の隠れ家」とあり、

末尾の条文では「表には僧の形を学び、内心では武門の正道を失わず、

武者修行の宗法と心得る可し」と。そして「武者修行だから日本国内往来の

自由を認める」と結んでいます。つまり「僧の恰好はしているが資格は

武士である」というのです。禅宗の一派とか「普化宗」という言葉は

出てきません。

条文は6項目から21項目のものまであり、順序もバラバラ、文章も異なります。

たとえば「血刀を提げて寺内に駆け込んできた者がいたら、事情を聞いて

保護せよ」という条文があります。このことから「罪を犯しても虚無僧に

なれば許された」というような説がネットで流れています。ところが、

後に幕府から咎められて、「咎人(とがにん)は一切隠し置くべからず、

縄かけ(奉行所へ)差し出す可し」と追加しているものもあります。

そして「お尋ね者や怪しい者を見つけたら捕らえて役所に差し出す可し」と、

警察権が与えられていたかのような条文もあり、虚無僧が公儀隠密だったという

説の根拠になっています。これも後に幕府から「そのようなことを

命じたことはない」と咎められ、消されているものもあります。

後書きで「この掟は延宝年中(1673-1680)、老中堀田加賀守、

太田摂津守、牧野内膳正によって再確認された」と記されているものも

あります。これにより「普化宗が幕府によって正式に承認された」と

言われていますが、延宝年間の老中にこの三人はいませんので、これも

真っ赤な嘘でした。寺社奉行でなく老中としていることは、

虚無僧が正規の僧ではないことを自覚していたとも受け取れます。

その他「虚無僧寺の看主(住職に相当)は千石の武士、一般虚無僧は

百石の武士席と定める」という付則もあり、このような大言壮語は

滑稽にさえ思えます。見方を変えれば、物乞いや辻芸人とは一線を

画したいという浪人者の虚勢でしょうか。