現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

虚無僧曼荼羅 No.8

2017-01-19 21:13:05 | 虚無僧日記

「邦楽ジャーナル」12月号

普化の信奉者

堺の一路

私は「吸江(きゅうこう)流尺八の一路(いちろ)」と自称していますが、

実は600年前、一休と同時代に「一路」という人物がいました。

「一路は泉州(現大阪府)堺の人。ある日一休が一路を訪ね

“万法みな道あり、一路とはいかに”と問うと、一路は“万事休めと

いいながら一休(ひとやす)みとはこれいかに”と返し、二人は

大笑いして無二の親友となった」という話があります。

よくできた話ですが、これは江戸時代に書かれたもので、

それ以前の一休関連の史料には出てきません。ただし一路が

実在していたことは、当時の人の日記や漢詩などから明らかです。

一路も貴人の出で、作詩に長(た)け、宮中や文人の間でも知られる

存在でしたが遁世(とんせい)し、その生きざまは一休同様に

自由磊落(らいらく)だったようです。最後は食を断って自死しています。

その死にざまは、棺桶に入って昇天したという普化にも通じるところがあります。

 

吸江庵の朗庵

 さて、もう一人「朗庵(うあん)」について、黒川道祐(? - 1691)の

『雍州府志(ようしゅうふし)』に記載があります。「雍州(ようしゅう)」とは

山城国のことで、京都の名所旧跡、寺社等をくまなく探索して、由緒、

伝聞を書き留めたものです。宇治の川辺にあった「吸江庵(きゅうこうあん)」について。

「中世異僧あり朗庵と号す。普化振鈴の作略を慕い、常に尺八を好み

自ら普化道者と号す。尺八一枝の外、一物をも携えず。大徳寺一休和尚と

友として善し。一説に虚無僧の祖たるなり」と。

 その「朗庵」の絵というのがあります。この絵の上には、

「余(私)が東奥行脚(あんぎゃ)の砌(みぎり)、鎌倉の建長寺に

逗留した折り、祥啓(しょうけい)という画僧が、わが体の

はなはだ異なるを見て紙に描いてくれた。それで(私が)年来の所執

(しょしゅう)を述べて書く」

「龍頭を切断して以来

 尺八寸中古今に通ず

 吹き出す無常心の一曲

 三千里の外知音絶す

文明丁酉(ていゆう)の秋、宇治の旧蘆にて朗庵」

と書かれています。

「文明丁酉」は文明9年(1477)。一休は文明13年(1481)に

88歳で亡くなっていますので、一休の最晩年の頃のこととなります。

さて、この「朗庵」の絵に描かれている尺八は、異様に長く、

上の方に響孔がついていますので、中国の洞簫(どうしょう)のようです。

釣り竿にはリールがついており、明らかに日本人離れした恰好ですので、

中国からの渡来人ではないかと思われます。

そして「龍頭切断」の詩偈(しげ)は、一休の没後30年ほどして書かれた

『體源抄(たいげんしょう)』には「狂雲子(きょううんし)の作」と

記されています。「狂雲子」とは一休のことですから、朗庵は

一休と親交があり、一休から聞いた詩偈を書いたのではないかと、

私は推察しています。

「龍頭」は「両頭」に掛けたもので、『明頭来明頭打、暗頭来暗頭打』の

普化の偈に通じます。竹の両端を切って作られた尺八から吹き出す

無常心の曲は、古今東西の真理に通じ、三千里の彼方まで普く

照らし絶える」というのでしょうか。

一休から普化の存在を知り、普化の境涯を真似、「普化道者」

「今普化」と呼ばれたのが「朗庵」でした。

 

この絵は後世かなり知られていたようで、何点かの写しがありますし、

狂言の『楽阿弥』にも「かの朗庵の頌にも龍頭を切断し…」とのセリフが

あります。また、この絵から創作されたのでしようか、「蘆安(ロアン)という

渡来人に、一休が “おまえさんの言葉はわからないが、その尺八を吹いて

全国どこへでも行ける”と諭した」というような話もあります。

「言葉はいらない、尺八一管の音で衆生を済度(さいど)する」という

虚無僧の悟りに通じます。

 

図1 「一路居士」 (『秀雅百人一首』 弘化5 緑亭川柳 葛飾北斎等画 より)

図2 「祥啓筆 朗庵像」 (『日本画大成』 昭6 東方書院 より)

 

 


虚無僧曼荼羅 No.7 

2017-01-19 20:57:25 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」11月号

 一休こそ虚無僧の元祖か

 虚無僧の源は「薦(こも)を腰に付けて諸国を回遊していた

薦僧(こもそう)」でした。その薦僧と中国唐代の普化(ふけ)を

結びつけたのは誰かが虚無僧の最大の謎です。      

 普化は『臨済録』(1120年)に登場してくる奇僧ですが、中国では

普化の後継者はおらず、普化宗などは存在しませんでした。日本でも

『臨済録』がはいってきたのは鎌倉時代の末ですから、それ以前に

普化を知っている人はいなかったはずです。その『臨済録』を読んで

普化に注目したのが一休(1394-1481)でした。そう、あのトンチで

有名な一休さんです。

 

一休が普化僧(ふけそう」に?

  江戸時代の初めに刊行された『一休関東咄(ルビ:はなし)』に、

「一休が関東下向の折、普化僧(こもそう)の尺八を吹きて通らせ給う」

という話があります。「普化僧」に「こもそう」とルビがふられています。

 

 一休は室町時代の臨済宗大徳寺派の僧ですが、既存の教団を批判し、

風狂に生きた禅僧でした。その実相を探る史料は『一休和尚年譜』と『

狂雲集』です。今日「一休さん」として親しまれている逸話のすべては、

江戸時代以降に創られたものです。一休が関東に赴いたこともありませんし、

「水飴」の話、「屏風の虎」「この橋渡るべからず」などの話は、

すべて後世の創り話です。しかしこれらの話は、一休を知り尽くした上での

創作なのです。

 

 では「一休が普化僧となって」とはいったい何を意味しているのでしょう。

一休ゆかりの寺、京田辺市の酬恩庵一休寺と大徳寺芳春院には

「一休愛用の尺八」というのが遺されています。1尺1寸(33cm)ほどの短い

「一節切(ひとよぎり)」と呼ばれる尺八です。その真贋(しんがん)は不明ですが、

一休は尺八に関する詩をいくつか作っていますので、尺八大好き人間

だったことは間違いありません。そしてまた「普化」についての詩を

3編作っています。そのひとつ「普化を賛す」と題して

 

徳山臨済同行をいかん 

街市の瘋癲(ふうてん)群衆驚く    

坐脱立亡(りゅうぼう)敗闕(はいけつ)多し、

和鳴隠隠たり宝鈴の声

 

そう、普化は瘋癲(ふうてん)と呼ばれていました。

「フーテンの寅さん」です。その「瘋癲の普化には名僧の徳山も

臨済もかなわない」と一休はいうのです。

 

大徳寺の住持に

一休がいかに普化を賛美し、尺八を愛したかは、『狂雲集』に記載

された次の法語からわかります。81歳で大徳寺の住持(=住職)に就任

した時の法語では

 「明頭来明頭打 暗頭来暗頭打

  四方八面来旋風打 虚空来連架打」 (以下略)

と、普化の偈(げ)を借用しているのです。     

続いて退任の法語が

 「酒に淫し色に淫し亦詩に淫す (中略)

     尺八を弄(ろう)して云う 一枝の尺八知音少なし」 と。

退任の挨拶が「尺八のすばらしさを知る者はおるまい」と

いうのですから、これを聞いた人たちは、なんのこっちゃ、

ちんぷんかんぷんだったことでしょう。

一休の晩年は応仁の乱で荒廃した時代でした。多くの知識人が

都を離れ一休のもとに集まって来ました。そして一休の言行から

普化を知り、尺八を吹く人も増えたのでした。その一人が朗庵、

そして一路でした。この続きは次号で。

 

 

 


虚無僧曼荼羅 No.6

2017-01-19 20:43:49 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」 10月号 掲載

虚無僧曼荼羅 No.6 

 虚無僧の別名は?

 その1 薦 僧(こもそう)

 江戸時代の初めまで、虚無僧は「薦僧(こもそう)」と呼ばれていました。

野宿するための薦(こも)を腰に付けていたからです。「薦僧」は

浪人者のなれの果てとはいえ、コモむしろを背負った「薦僧」では

情けない。それで「虚妄僧(こもうそう)」とか「虚無僧」という漢字を

当てるようになったのでしょう。

 その2 普化僧(ふけそうう)

 そしてさらに、中国唐代の奇僧?普化(ふけ)を祖とする普化宗の僧

「普化僧(ふけそう)」とも言われました。「普化僧は尺八吹けそう」

なんちゃって。

ところが虚無僧の祖普化は尺八を吹けませんでした。尺八は吹かず、

鐸(たく)=鈴)を振って「明頭来明頭打(みょうとうらいみょうとうだ)、

暗頭来暗頭打(あんとうらいあんとうだ)」と唱えながら托鉢をして

いたのです。普化の名は、臨済宗の祖「臨済義玄(?~866)」の語録

『臨済録』に登場してきます。臨済の教義を補う話として、普化の行状が

語られます。たとえば、「AとBいずれが優れているか」といった臨済の

問いかけに、テーブルをひっくり返したという話。乱暴者のイメージですが、

これは「比較をするな」という教えかと私は理解しています。

また、師の頂相(ちょうそう=肖像)を描くという課題では、普化は

トンボ返りをして出ていってしまった。

(トンズラすることを「フケやがったな」と云いますが、「フケ」とは

この「普化」のことではないでしょうか)。

最後のきわめつけは、自ら棺桶にはいって昇天したという話です。

棺桶の蓋を開けたら、中は空っぽ。一条の風が舞い上がり、虚空から

鐸(=鈴)の妙音が聞こえたというのです。これは一切の煩悩から

解脱(げだつ)した悟りの境地を意味します。ですから、普化は実在の

人物ではなく、禅の教義の一端を示すための架空の人物とも考えられます。

普化に後継者はおりませんので、普化宗などは存在しなかったのですが、

千年の後、日本で突如生まれます。江戸時代の末、1795年に出版された

『虚鐸(きょたく)伝記国字解』という書には、「張伯という人が、

普化が振る鐸の音を尺八に模して吹いた。それで尺八のことを虚鐸という。

その数百年後、鎌倉時代。法燈国師覚心が中国に渡り、張伯から16代目の

張参から虚鐸(尺八)を習い、四人の尺八居士を連れて帰国した」と

書かれています。ところが正史では、法燈国師が中国で普化宗を学んだとか、

尺八を吹いたなどという記録は全くありません。張伯も張参も来日した四人も

尺八居士であって僧侶ではないのですから、普化宗が仏教の一宗には

到底成りえません。全くおかしな話ですが、これが虚無僧の世界では

正しい伝承として信じられ、ネットでもまことしやかに語られています。

 

ではなぜこのような伝承が創作されたのでしょうか。

ひとつには、虚無僧は幕府から不審の目で見られており、「宗旨を明らかに

せよ」と言われてでっち上げられたと考えられます。

また、京都の明暗寺は、関東の一月寺、鈴法寺に対抗して虚無僧の本山を

名乗るために、由緒正しき?縁起を創作したとも。しかし明暗寺は、寺としての

認証を得るために、法燈国師開山の興国寺(紀州由良)に無理強いして

その末寺となります。興国時は臨済宗の寺ですからその末寺となった明暗寺は

普化宗を大ぴらには名乗ることができなくなってしまいました。

 

というわけで、普化も法燈国師も虚無僧とは関係なかったのですが、

なぜこの二人が虚無僧の祖とされたのか、それが問題です。虚無僧の祖と仰ぐに

ふさわしいそれなりの理由があったはずです。薦(こも)を背負って尺八を

吹いていた薦僧(こもそう)に普化と法燈国師を紹介したのが、なんとあの

「とんち一休」さんだったと私は考えています。この続きは次号で。

 

 

 


虚無僧曼荼羅 No.5

2017-01-19 20:32:17 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」9月号 掲載

虚無僧曼荼羅 No.5 

 明暗こもごもの虚無僧

 「一月寺仏と遠き人ばかり」(1784年谷素外)。

一月寺は虚無僧寺を統括する本寺の一つです。その

「一月寺の虚無僧は、仏とはほど遠い連中だ」というのです。

それが虚無僧に対する世間の目でした。

「慶長の掟書」を楯に米銭を強請する虚無僧は村人の大迷惑でした。

それで「虚無僧の入国を禁止する」という藩もあり、また

「領内での托鉢は禁止する」とか「虚無僧に宿を貸しては

ならぬ」といったお触れも頻繁に出されています。

江戸時代後半になると、村々では「一定の米銭を差し出すので、

托鉢はお断わり」という「留場(とめば)証文」を虚無僧寺と

交わすようになります。これで虚無僧たちは托鉢しなくても

食うに困らなくなり、“飲む・打つ・買う三昧”の生活に堕落

したのでした。

 虚無僧八態

 大正、昭和にかけて虚無僧関係の史料の収集とその解明に没頭した

中塚竹禅(1887-1944)は、「慶長の掟書」を偽書と断じ、

「虚無僧と普化は関係なかった。法燈国師は普化宗の日本開祖に非ず」と

言明するに至りました。

その中塚竹禅が虚無僧を8パターンに分類しています。

それに私なりに補足してみました。

1 普化禅の求道者(極少数)

  現代では、古典尺八愛好家の一部。そして海外の尺八家の多くは、

 古典尺八を普化禅の曲と信じ実践している。

2 主家に帰参復職を希う者(殆ど大部分)

 江戸時代初期、浪人が一時の糊口しのぎに虚無僧となった。

 虚無僧は再仕官までの仮の宿。

3 転職者(尺八指南に転じたる者)

 虚無僧寺とは別に「吹合所」という尺八教授所が全国各地にあり、

 尺八を教える人がいた。元旗本や侍であり、その系統の尺八名人たちが、

 明治になって尺八を楽器として興隆させた。

4 治外法権を操縦する者(役僧及び寺詰虚無僧)

 正規の寺で剃髪、得度授戒を受けた住職はごく少数。多くは

 僧侶の資格を持たず、有髪で看主(手)、院代、役僧などと呼ばれていた。

5 同を善用する者(行脚虚無僧) 

 まともな虚無僧もおり、虚無僧寺の縄張りを回って、

 偽虚無僧の排除や、村人とのトラブルの仲裁に当たった。

6 同を悪用する者(不逞虚無僧)

 幕末になると、前科者や無宿人が虚無僧寺に入り込み、さらに

 本則を持たない偽(にせ)虚無僧も横行し、村人を苦しめた。

7 道楽虚無僧(武家隠居百姓町人の本則門弟)

 旗本や侍、裕福な百姓、町人で、隠居後に尺八を習い、

 虚無僧寺に金を納めて本則を受け、虚無僧体験を喜びとした。

 幕府は虚無僧寺の資金源を断つために、「慶長の掟書」を

 逆手にとって、侍以外の者に本則を出すことをしばしば禁じている。

8 臨時虚無僧 (血刀下げて駆け込んできた者)

 人を殺(あや)めて敵討(かたきうち)から逃れるため、また

 敵(かたき)を探すため脱藩して虚無僧になった例はいくつか

 あった。現代では皆無。

 

伊達虚無僧と女虚無僧

 以上の他に、浮世絵では女物の着物を着た派手な虚無僧や女虚無僧の

絵がいくつかあります。女性が顔を隠して旅をするには虚無僧姿は

もってこいですから、小説でも女虚無僧がしばしば登場します。

その影響でしょうか、仙石騒動が起きた6年前の天保元年(1830)に

行われた一月寺の開帳では、華美な装束の虚無僧数十名の他に、

供を連れた某殿様をはじめ、旗本、御家人、さらに吉原の芸妓までもが

派手な虚無僧姿で参加したとあります。そして幕府に咎められ、

開帳中止命令が出されています。一方で嫌われ、他方で憧れられる。

虚無僧はまさに明暗錯綜した魔訶不思議な存在なのです。

 

 


「生前葬」 瀬戸内寂聴の講話から 

2017-01-19 08:56:34 | 虚無僧日記

(昨年アップした記事の再掲です)

「瀬戸内聴さんの法話から」

寂岩手県の貧乏寺「天台寺」の住職となって、毎月出張し、法話を開いて

いたところ、ある時、一人の おばあちゃんが 

「生前葬をやってもらいたい」と。

「生前葬なんてやったことない」とお断りしたんですが、

「私は独り身で、死んだら葬儀をやってくれる人もいません。

どうしても今、寂聴さんにやってもらいたい」と、通帳や財布を

差し出して頼むんです。それで、

「〇〇経」を唱えて、カタチなりの生前葬をやってあげました。

読経の間中、そのおばぁちゃん、こっくりこっくり寝ていたようです。

周りの皆さんがクスクス笑うんです。読経が終わって、

「さあ終わりましたよ」 と声を掛けると、そのおばあさん、

はっと目を覚まして「ありがとうございます。これで、

成仏できます」と。

その顔つきが、読経前とすっかり変わっていました。

始まる前は暗かったのに、生前前が終わったら、いきいき、

とても晴れやかになったんです。悩みが解けたんですね。

 それから2年後、そのおばあさん、またやって参りました。

「今日は私の三回忌です。どうぞ、三回忌のお経をあげてください」と。

それでまた 三回忌の法要をしてあげました。そのおばあさん

ますます元気になって、「このままだと 17回忌までお願いできますね」と。

 歳は私と同じでした(当時83歳)。17回忌というと 97歳です。

「そこまで 私 生きてないわよ」って云うと、「寂聴さん、大丈夫です、

私の17回忌(97歳)まで 一緒に生きましょう」と。(笑い)