「虚無僧」は江戸時代になってから。それ以前の室町時代は「薦僧」
さらにその前の鎌倉時代には「暮露(ぼろ)」。暮露は尺八は吹かず、
長い柄の傘を持ち、柄の部分を木や竹で叩いて、念仏を唱えていた。
『徒然草』の「暮露(ぼろ)」は「九品(くほん)の念仏を修していた」と
いうので、阿弥陀如来を信奉し南無阿弥陀仏と唱える念仏衆だった。
また『七十一番職人歌合』という書には「ぼろぼろ」が 念仏修行者として
諸国を遊行していた事や、かつては地方の小領主であった者もいたと
書かれている。「元は武士だった」という虚無僧と生い立ちが似ている。
しかし『ぼろぼろの草子』では、「虚空坊」という「ボロ」は、
「念仏宗を嫌い、彼らを撃ち殺す存在」として描かれている。
そして「虚空坊は実は大日如来だった」という。
大日如来を信奉するのは高野山の真言密教。
「虚空坊」という名前そして、念仏者を外道として批判するのは
禅宗の立場。暮露が、念仏者から、次第に禅宗に傾倒していった
ということなのか。
「遊行者」は、集団で各地を遊行し、念仏踊りを広めていった。
その「ぼろぼろ」が変貌し、禅宗や中国文化が取り入れられて
虚無僧の原型が出来たのが 14世紀末頃と考えられる。
江戸時代以降、真言宗、天台宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗、
日蓮宗、時宗・・ときちんと区分けされたため、念仏と禅は
相いれないものという観念が 今日ではできあがっているが、
鎌倉時代は、真言密教でも 座禅も行えば 念仏も唱えていた。
高野山の中の萱堂の聖は代々「覚心」と名乗っていた。念仏者の
たまり場で、高野聖や時衆等、念仏芸能集団を生み出した。
同じ念仏踊りでも放下僧は禅宗系統にはいる。虚無僧と似ている。
密教も善も念仏もすべて受け入れていたのが法燈国師覚心なのである。
虚無僧も高野聖も一遍も高野山の法燈国師につながるのである。