1/14.15 土、日 雪で 予定していた仕事がキャンセルに。
時間ができたので、図書館へ。見つけました。
「虚無僧は馬聖の仲間」と云われているが、馬聖とは何か。
武田佐知子著「『一遍聖絵』に見る時衆の衣服」。30頁に及ぶ。
『天狗草紙』に「一向宗の者は 袈裟を着けず、馬衣を着」とある。
一向宗は一向俊聖が始めた踊り念仏で、「馬衣を着た聖」なので「馬聖」。
一遍は俊聖とは別の踊り念仏の祖で、の遊行時の必要所持品として
「阿弥衣、袈裟、紙衣」とあり、一遍の聖絵などには、黒色の袈裟を
着けている。
「阿弥衣」とは「編衣」に掛けた呼び名で藤や蔦で編んだ衣。
紙衣も麻の繊維で漉いた紙の衣でコンニャクや柿渋で補強してあり
軽くて丈夫、保温性もあり旅行にはもってこいの衣服だが、
室町時代は貧乏人の着るものとされていた。
それは、野良作業や樵などが肩から掛ける 袖なしの羽織の
ようなものだった。
馬の背に掛ける布のようなものなので「馬衣」。
一向宗、時衆の人たちは、最下層の民が着る「馬衣=網衣」を
「阿弥衣」と呼んで、自分たちの衣装とした。
一向俊聖や一遍は、当初はこの阿弥衣を着、袈裟は着けなかったが
一般人からは「出家の証である袈裟を着けないのは怪しい」と
批難されたため、袈裟を着けるようになった。しかし、袈裟は
糞雑衣(ふんぞうえ)って使い古し捨てた雑巾を縫い合わせたものなのに、
金襴華美の贅を尽くしたものになっていることへの批判から
時衆の徒は黒色の五条袈裟を、阿弥衣の上に着ることとなった。
(追記)虚無僧も江戸時代初期までは袈裟を着けていない。
虚無僧の前身の薦僧も着けていない。この薦僧が来ている
袖なしの羽織が「馬衣」ではないかと私は思う。それで
「薦僧」も「馬聖の同類」と見られていたのではないだろうか。