現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

殉国七士の墓

2021-07-04 23:47:37 | 太平洋戦争

愛知県の三河湾を臨む三ヶ根山上に、東京裁判により昭和23年に絞首刑を執行されたA級戦犯七人の墓があることは聞いて知っていた。このほどお参りしてきました。

蒲郡の西、形原温泉街から三ヶ根山有料道路を登ること、車で15分ほど。「殉国七士の廟」と彫られた巨大な門柱。

殉国七士廟への入り口殉国七士廟_石柱

そこから200mほどで、また巨大な彫刻。

そしてその先正面に「殉国七士の墓

「七士」とは板垣征四郎、松井石根、東條英機、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅、武藤章の7名。

蒋介石国民党総裁が「戦犯1号」に挙げた謀略の大家、満州国の建国に関わった土肥原賢二元陸軍大将、

南京大虐殺の罪に問われた松井石根元陸軍大将、

開戦当時の総理大臣兼陸軍大臣東条英機元陸軍大将

フィリピン捕虜虐待の罪に問われた武藤章元陸軍中将、

満州事変を起こした関東軍参謀長の板垣征四郎元陸軍大将

唯一文民出身で中日戦争を起こしたとされる広田弘毅元首相、

ビルマ戦線で侵奪行為を行った罪に問われた木村兵太郎元陸軍大将。

 

その七士がなぜここに眠る?

昭和23年(1948)12月23日、巣鴨プリズンで絞首刑となった七士の遺体は横浜市久保山の火葬場に運ばれて荼毘に付された。その遺骨は、GHQによって太平洋上に散骨されたことが、このほどアメリカの公文書で明らかにされた。

しかし、GHQが七士の遺骨を鉄の鉢に入れて運びだした後、東京裁判で小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平と火葬場のすぐ上にある久保山興禅寺の市川伊雄住職が火葬場に忍び込んで、火葬場長の飛田氏の計らいで残骨を集め一つの骨壺に収めて持ち出された。

そして熱海の伊豆山に松井石根大将が昭和15年に建立していた興亜観音堂に安置された。

それから10年あまりが過ぎ、有志の偶然の出会いから三ヶ根山頂に七氏の墓地建設が決まり、遺族をはじめ政財界、その他各方面からの賛同を得て、昭和35年に殉国七士廟が完成した。

なぜ、三ヶ根山か。それはここが日本の真ん中に位置するから?  それは後からのこじつけで、三文字弁護士と親しかった林逸郎氏が仕事の関係 (蒲郡競艇場建設でのトラブル仲裁)でしばしば蒲郡を訪れ、そこで知り合った地元選出の県議三浦兼吉氏に話を持ち掛けたことで進められた。当時、三ヶ根スカイラインの建設が計画されており、そこの観光目玉になればとのことで、幡豆町長の了解を得たのだった。

ネットでは「これに反対する投書がたくさん寄せられた」と書かれているが、関係者の話では「そんなことは無かった」と。

三ヶ根山には「七士の墓」だけでなく、その後「比島観音」他、さまざまな部隊の戦没者慰霊碑が建立されている。

 

さて、ネットで検索していて、この「七士の墓」の建立には住吉会の会長堀政男親分が深く関わっていたことが書かれていた。

堀政男氏は、武力では無く人間性で住吉会の一大連合組織を築いた人物でもあり、当時、総勢1万6千人を超す大住吉を率いる首領にもかかわらず、とても豪華とはいえない質素な一軒家に住み、金銭に対する強欲が無く、専用のリムジンに乗るのを嫌がり、大人数で歩くのを嫌い、道の端を歩き、最高幹部である側近にさえ行き先を告げず、自ら切符を買い、単身で一般人と同じように手すりや吊革に摑まり、人の流れや四季の移り替わりを見て、それを楽しむかのように電車で移動していたという。現在ではまず考えられない「別格」な「本物」の庶民派親分でもあると。

三ヶ根山に「七士の墓」を建設するにあたり、快く私財を投げうって協力を惜しまなかったが、「私のような者が名前を出しては、関係者にかえって迷惑がかかる」と、建設資金出資者名簿などに一切名前は出さなかったとのこと。


東条英機の罪

2021-07-04 20:55:29 | 太平洋戦争


「東条英機」の遺言

2021-07-04 18:13:58 | 太平洋戦争

【東條英機】史上最も誤解されている男

極東国際軍事裁判で東條英機の背後に座っていた大川周明は、裁判中突如として東條の頭を引っ叩いた事で有名です。

youtube#video

 

 

「東条英機の遺言」というのが、あるとのこと。
本人が口述してものを、書き止め、また修飾してあるので、この通りが真実ではないとの意見も。

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英米諸国人に告げる 今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。 この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。 しかし、諸君の勝利は 力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。

我れ等はただ微力であったために 正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆する。

いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、 原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人 もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを 敢えて行ったことに対して、 あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。

諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。


●日本同胞国民諸君

大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。 ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、 その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいる。

不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。 力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。 人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。 諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、 天が定まる日を待ちつづけていただきたい。


靖国神社の「遊就館」は、「日本は悪くない、あの戦争は、アジアの同胞を欧米の植民地支配から解放する聖戦だった」という視点で貫かれています。

「遊就館」は 平成14年に全面改装されオープンしたもので、開館当時は 私でさえ「そこまで言うか」と戸惑いでした。
しかし今、若い世代を中心に、この思想がじわりと広まっているとのこと。
はたして、良いのか悪いのか、戸惑いです。


今日は何の日 7/4 下山事件

2021-07-04 11:42:28 | 虚無僧日記

昭和24年(1949)7月5日、下山事件

日本国有鉄道(国鉄)で起こった「国鉄三大ミステリー事件」のひとつ。日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則が出勤途中に失踪し、翌日に常磐線綾瀬駅付近で轢(れき)死体となって発見された。

事件発生直後から自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁でも捜査一下は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。

1964年7月6日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

事件の時代背景

下山事件が起こった1949年、中国共産党の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線で一触即発の緊張が続いていた。日本占領軍GHQは対日政策を「民主化」から「反共」に転換した。

そんな中、下山定則は運輸次官から、6月1日、発足したばかりの日本国有鉄道初代総裁になった。その日、GHQは全公務員の28万人、国鉄の10万人の人員整理(首切り)を発表した。これに対して、躍進著しい共産党系の「全日本産業別労働組合会議」や国鉄労働組合は激しく反対し、世情は騒然としていた。

そして、下山は就任からわずか1か月後の7月5日に失踪、深夜00:20貨物列車に轢かれた。

下山総裁は労組との交渉の矢面に立ち、相当悩んでいたというのが「自殺説」の根拠。

他殺説

・「国鉄マンが鉄道で自殺するはずがない」「実直な下山が、遺書も残さずに死ぬわけがない」

  • 轢断面や近辺に出血の痕跡がないのは、轢かれる前にすでに殺されていたことを意味する。
  • 前日7月4日の午前11時頃、鉄道弘済会本部に「今日か明日、吉田か下山か、そのどちらかを殺す」との予告電話があった。
  • 下山が履いていた靴は、毎日下山家の書生が丁寧に磨いていた。書生の証言によれば、朝出勤時と靴紐の結び方、靴クリームが違っている。
  • 下山の着衣にヌカ油と染料が付着していた。下山はそのような工場か資材置き場で暴行を受け殺された後、現場に運ばれ、線路に遺棄された可能性が高い。
  • 下山は当日名古屋から帰郷する予定の長男に会うのが楽しみだと語っていた。

 

柴田哲孝の『下山事件ー最後の証言』

下山事件は196年未解決事件となったが、2014年「下山事件・最後の証言」柴田哲孝著が出された。

あの当時、国鉄は贈収賄の巣だった。
吸い上げた金が、亜細亜産業と三浦義一のグループに集まっていた。

ところが新たに国鉄総裁となった下山定則は、国鉄の技術者上がりの正義漢で、国鉄の労働組合と気脈を通じ、首切りを止めたかった。
そこで国鉄が贈収賄の巣になっていることを暴露して、政府と交渉し首切りを抑えようとした。それに反対する勢力によって殺された。

なんと首切りを反対する共産党系に殺されたのではなく、首切りを断行しようとする勢力に殺されたというのだから、犯人捜しが180度転換した。

柴田氏が下山事件追求に乗り出したのは、満州諜報機関の残党による「亜細亜産業」が下山事件に深く関わっている、との情報を入手したことに始まった。そのアジトには旧日本軍の諜報機関員、右翼関係者、政財界の大物連中、米軍関係者が集まっていた。

その亜細亜産業の総帥だった矢板玄氏から「他殺ですよ」との証言を得たとのこと。そして下山暗殺になんとあの白洲次郎がからんでいたとも。これは衝撃。

1949年7月2日、殺される2日前の夜、西銀座の「出井(いづゐ)」という料亭で、下山は白洲次郎と面談していた。
その翌日、フジテレビ社長の水野成夫氏に下山総裁は「俺は殺されるかもしれない」と語っていた。

下山事件の一ヶ月前、6月3日にGHQから国内電源開発への巨額資金投入が示されていた。この巨額資金で東北本線電化を行なえば国鉄に莫大な見返り利権が生じることになるわけだった。

ところが、下山総裁は東北本線総電化には反対で、国鉄内の合理化を第一と考えていた。

ま、柴田氏の話はノンフィクション作家であって、出典を明らかにしておらず、作り話と一蹴する論も。

しかし、三大ミステリーの他の「松川事件」「三鷹事件」とは関連 (共産党とGHQの対立)のない可能性は濃厚のようです。

 

下山定則

司法官の父に従い少年時代は転校を繰り返していた。転校するたびにその都市の主要駅の時刻表暗記して人気者になっていたという。静岡中学津中学三高卒業。三高時代には稚内から鹿児島まで駅名を暗唱して友人から「鉄道」というあだ名をつけられた[1]

1925年東京帝国大学工学部機械工学科を卒業した後は鉄道省に入り、企画院技師、技術院第4部長、鉄道総局業務局長補佐(1945年1月-)。鉄道省でも運輸畑と技術畑を繋ぐ役割をしていた。

第二次世界大戦後の連合国による占領下では、名古屋鉄道局長(1945年9月-)、東京鉄道局長(1946年3月-)を歴任。その後、1948年4月運輸次官に就任。

翌1949年6月1日日本国有鉄道(国鉄)が発足して初代総裁に就任した。