現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

広島藩士の農民虐殺

2021-07-10 10:45:08 | 会津藩のこと

福島県白河市の萬持寺に広島(浅野家、四十二万六千石)藩士加藤善三郎の墓がある。明治元年(1868)11月4日、享年25歳。11月だから戦争終結後の事である。なぜ?

 

広島藩は慶応4年正月、鳥羽伏見の時「この戦は長州と会津の私闘である」と云って手出しをしなかった。それで薩長から嘲られたため、汚名挽回と、有志が自費で奥羽戦争に参加した。その大半が農民だったが、彼らの意気込みは強かったという。

さて、日光(栃木県)口から会津西街道を会津へ目指したその途中でのこと。栃木県藤原町から福島県田島町へ入る山王峠の直前で、会津藩がしかけた地雷火が爆発した。宇都宮藩兵は「幸いに死傷なくホッとした」のに、広島藩兵が「土民たちのだれもこのことを告げなかったと怒り出し、地元民の一人を斬り殺した。

しかし、芸藩の神機隊は浜通り相馬から浪江を攻め仙台に向かったとされるから、日光口の事件は本当に芸藩だったのか疑問。

仙台に向かった神機隊は勇猛果敢真っ先駆けて突進し、連戦連勝の働きを挙げ、仙台にはいった時は、まともに歩けるのは100名たらずという状況だった。9月22日会津が降伏すると、10月1日各藩に帰国命令が出た。芸藩の神機隊が帰国の途についたのは10月の末。

帰途、奥州街道矢吹宿(西白河郡矢吹町)で芸藩の加藤善三郎が農民を斬り殺した。

万持寺の説明看板には、「加藤は、農民を脱走兵と誤認して切り殺し、長州藩に捕らえられた」というもの。広島藩では「戦死扱い」になっている。

 

ところが真相は、

加藤は、茶店で休んでいた農民を見つけて自分の荷物を白河まで運ぶよう命じた。そこにいたのは、石川郡玉川村の農民真弓作左衛門。彼は長州の軍夫として従軍していたが、役目を終えて村に帰る途中だった。作左衛門は加藤善三郎の命令がひどく威圧的で不遜な態度だったので、善三郎の要求を断り、歩きだした。すると加藤が腹を立て「武士の命に背くか」と言って追いかけて後ろから斬り殺したというもの。

真弓作左衛門長州の軍夫だった。それで加藤善三郎は長州兵に捕らえられ、そして処刑されたもよう。

会津ではさんざん暴行略奪を働いた長州が軍律厳しく加藤を罰したというのは変だと思ったが、身内の軍夫を殺されたとなっては、芸藩の加藤に切腹を命じたのも理解できる。