近世筝曲の始祖「八橋検校」の起こした筝曲「八橋流」は途絶えたとされていたが、どっこい、松代市に住む「真田志ん」さんという女性が「八橋流」を正しく伝承している ことが判り、昭和44 年には国の無形文化財に指定された。
昭和48年、古屋富蔵さんの会で、私は「真田志ん」さんの『六段』の演奏を聴いている。現在伝わる『六段』とあまりにも違うことに、私の頭は真っ白になった。
「真田志ん」さんは、その3年後の 昭和51(1976)年、92歳で亡くなられた。
その後、娘の「叔子」さんが継承し、「八橋流」について調べたことを真田宝物館の機関誌『松代』第3号で発表し、また、地元の本屋から私家本として『小野お通』を出版している。 真田淑子(さなだ・よしこ)著。風景社
(長野県長野市) 初版:平成2年5月(1990年)定価:2500円 A5判。
その「淑子」さんも 平成15(2003)年、90歳で亡くなられた。
宗家は消滅したが、門下生により「八橋流」筝曲は厳格に伝承されている。
さて、「なぜ、松代に『八橋流』が伝承されたのか」。
これが、3通り憶測される。
①2代藩主「真田信政」の側室「お伏(二代目お通)」が、京都で 八橋検校から直接に筝を習ったという。
「2代目小野お通」とは、その母も「お通」といい、初代藩主である父「真田信之」が深く思いを寄せていた女性であった。この「初代お通(通子)」は、京都にいて、和歌や書画・琴にも優れ、信長や秀吉らとも親交があったと伝えられている。最初、塩川伯耆守に嫁いだが、夫が本能寺の変で討死にしたため、渡瀬羽林家に再嫁。一女をもうけた。
その娘が、上田藩主であった真田信之(信幸)の側室となり、真田信之(信幸)が 元和8年(1622年) 松代転封に伴い、母の「お通」も 松代に移り住み、松代で歿した。
②娘の「2代目お通」(1587~1679年) が、京都で、八橋検校から「八橋流箏曲」を学び、それを 勘解由家に伝えたとされる。
③『真田勘解由家文書』では、松代の8代藩主「真田幸貫」が、藩士の禰津権太夫夫妻を京都に派遣して、八橋流 16代目の「有一座頭」から「八橋流」を習わせ、藩内に八橋流を広めさせたと記している。
8代幸貫は、陸奥白河藩主 松平(久松)定信の二男で、真田家に養子として入り、箏や茶道、書などの文化を奨励した。
「初代と娘の“二代目お通”が八橋検校から直接『八橋流』を習った」という説には無理がある。
「2代お通の 京都在住が、1622年の松代移住前とすると、「八橋検校」はまだ8歳。「2代目お通」が八橋から直接習ったというのは、後世の挿話であろう。
となると、江戸時代半ば、八橋流16代目の「有一座頭」から伝承されたものというのが確実ではないか。
「真田勘解由家」は、真田家二代信政と「2代目小野お通」の子「信就」を初代とする真田家の分家。現在も屋敷が現存し、子孫が住んでおられ、蔵の中には古文書類が多数あるとのことだが、その公開を拒まれているとのこと。
松代藩に伝えられたという「八橋流」は、八橋流16代目の「有一座頭」から 禰津権太夫の妻千勢が 娘 喜尾へ免許を与え、喜尾が娘の伊豫(横田家へ嫁す)に伝え、伊豫が娘の由婦( 真田家へ嫁す)に伝え、由婦から孫の「真田志ん」に
伝承 されたというのが、私の説である。