現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

今日7/12は八橋検校の命日

2021-07-12 22:02:33 | 虚無僧日記

今日7月13日は近世筝曲の始祖「八橋検校」の命日。

八橋は1685(貞享2)年6月12日(グレゴリオ暦の7月13日歿。なお「八橋忌」は旧暦の6月12日に墓所の常光院と法然院で行われる。

その常光院なんと、京都の金戒光明寺内にある。金戒光明寺は、幕末 京都守護職を勤めた会津藩の本陣があった所。大きな山門の横に塔頭のひとつ「常光院」があり、その門前に琴柱を模した碑があるのをいつも目にしていた。

 

さて、八橋検校は、箏を習ったことがある人なら誰でも知っている『六段の調べ』の作曲者とか、京都の銘菓「八ツ橋」として知られているのですが、この双方とも伝承はいささか怪しい。

 

まず、お菓子の「八ツ橋」について

京都土産の定番「八ツ橋」を製造販売している会社は14社もある

その内、最も有名な「聖護院八ツ橋総本店」と「井筒八ツ橋本舗」など6社は「金戒光明寺内常光院の八橋検校の墓参に訪れる人を対象に聖護院の森で売り出したもので、八橋に因んで筝の形を模した干菓子」と「八橋検校」説を唱えている。

これに対して、「本家西尾八ツ橋」と「本家八ツ橋」の2社は「三河の僧から制法を学んだもので、在原業平の『伊勢物語』に登場してくる三河国(現愛知県知立市)の八橋に因んで ❝橋の形❞ を模したもの」と主張している。

知立市の隣りは西尾市だが、西尾八ツ橋西尾は経営者の「西尾松太郎・為治、為一」の姓である。

 

 


八橋検校の出生地「いわき市」と「沖縄」の関係

2021-07-12 21:12:03 | 筝尺八演奏家

八橋検校」の出生地は、岩城国(福島県)(たいら=現いわき市)とされている。『筝曲大意抄』にそう書かれているそうな。


「いわき市平」の生まれかは判らないが、八橋検校は「岩城平(たいら)藩の江戸屋敷に、お抱え楽師として勤めていた時期があった。しかしそれは晩年の事。




いわき平藩、内藤家の三代目藩主「内藤風虎」こと内藤義泰(又は義概)が、なかなかの風流大名だった。この殿様の庇護のもと、八橋は筝曲を大成し、一般庶民にも広げた。

その八橋流」が、沖縄信州松代に伝えられたとされる。

この謎を解くヒントが見つかった。

なんと、沖縄の「エイサー」は、福島県いわき市に伝わる「じゃんがら念仏踊り」が原型とか。なぜ?

江戸時代の初め、まだ沖縄が琉球国として独立していた頃、岩城の出身の浄土宗の僧「袋中(たいちゅう)」上人」が、明国に渡ろうとして果たせず、琉球に留まり、琉球国王の信任を得ていたとのこと。その「袋中上人」が、岩城の芸能を琉球に伝えたという。

琉球の三線の曲に「落しすがち」という八橋流の筝曲の手使われているとのこと「滝落とし菅垣(すががき)」であろうか。「滝落とし」という曲は尺八にもある。また「菅垣(すががき)」とはお箏の手だが、尺八曲にも「山谷菅垣」とか「秋田菅垣」とか多くある

であるから八橋流筝曲は「袋中上人」が琉球(沖縄)に伝えたのであろうか。

袋中上人」と「八橋検校」は交流があり、「袋中」は八橋から三絃と箏との手ほどきを受けていたのではないか、と考えたいが、残念ながら、

八橋検校は、慶長19年(1614年)~貞享2年6月12日(1685年7月13 日)の人。

袋中上人」は、天文12年(1552)-寛永16年(1639)の人で、袋中」が琉球に渡ったのは、慶長8年(1603年)だから、八橋はまだ生まれていない。

であるから袋中が八橋から箏、三絃を学んで沖縄に伝えたとは考えられない。

逆に「六段」の原型、雅楽の楽箏や筑紫流の「六段」が岩城に広まっていて、「袋中」や「八橋」も、それを知っていたとは考えられないだろうか。





「六段」の作曲者は「八橋検校」ではない?

2021-07-12 21:06:10 | 筝尺八演奏家

日本音楽(日本音楽社発行)通号21(1949年10月)P.10~11に田辺尚雄氏が『日本歴史講話 ―六段曲は誰の作か』という論文を発表している。

ここで田辺氏は、「江戸時代には、『六段が八橋検校の作』と書き記したものは存在しない。それは明治以降」と断定している。また、

琉球には、『一段(瀧落菅攪)』、『二段(地菅攪)』、『三段(江戸菅攪)』、『四段(拍子菅攪)』、『五段(佐武也菅攪)』、そして『六段(六段菅攪)』、『七段(七段菅攪)』の7つの器楽曲がある。

そのうち、『六段菅攪(すががき)』は、本土の『六段』と寸分の差がない。拍子数が同じだが、調子は平調子ではなく筑紫流と同じ雅楽の呂旋法となっているから、曲調は全然違って聞こえる。

実は私は、この「琉球の六段」を聞いている。まったく曲調がちがうので、奇異に感じた。


田辺氏は「古典的な手法が用いられており、左手法も古風で単純。従って『六段』は、琉球の方が素で、本土の方が後であると言える」と結論づけている。

これに私は若干修正を唱えたい。

八橋はもともとは、琵琶法師であり、三味線弾きだった。そして筑紫善導寺の僧法水から筑紫流筝曲も学んだ。その筑紫流箏曲の『六段』は雅楽の呂旋律だった。それが沖縄にも伝播して「琉球の六段」として沖縄に残った。

それを「平調子」に改めたのが「八橋検校」ということになろう。

田辺氏は「六段を八橋の作曲とする史料は江戸時代にはない」と断定しているが、おっとどっこい、1782年刊行の『筝曲大意抄』「六段之調子、八段之調子、乱輪舌」他 組歌の目録を挙げ、「右 八橋検校作」と明記されている。

田辺氏がこの『筝曲大意抄』を知らなかったとは解せない


昨今の説では、現代伝わる『六段の調べ』は、おそらく八橋の門弟北島検校か更にその門弟の生田検校によって改変されたのではないかと言われている。

 


「いわき」と「松代」の意外な接点

2021-07-12 20:08:00 | 筝尺八演奏家

『八橋検校十三の謎』(釣谷真弓著) 2,100円

八橋流は、磐城平藩3代目藩主、内藤風虎(当時は若殿)の弟「遠山政亮」と真田家の婚姻を きっかけに、松代藩へ伝えられた。

2代目お通」と「八橋検校」の接点は、「真田信政」の娘が岩城平藩の「内藤風虎」の弟で、分家の湯長谷藩の初代藩主遠山政亮(又は頼直)」と結婚した所にあると。

2代目お通」は「真田信政」の側室で、その子「真田信就は、真田家の分家「勘解由家」の初代となっている。

つまり真田信政」の正室?が生んだ娘が、岩城に嫁いだ。嫁ぎ先は「八橋検校」のパトロンだった岩城平藩主の「内藤風虎」の弟「遠山政亮」だったという。

ややこしい。ずいぶんと よく 探り当てたものだ。

それで、「2代目お通」が京都にいた時、内藤家との縁で、八橋検校と交際があった。そしてその後、「真田信就」が信州へ入った時に持ち込まれた可能性が高いと思われます・・・というのだが、チョッと待って。

八橋検校」が、再度京に上り「八橋検校」を名乗るのは1639年〈寛永16年)以降。(それまでは「山住勾当」[上永検校」と称していた)。1639年、2代目お通は、すでに52歳。

真田信就」が松代に転封となるのは1622年。この時点では「八橋検校」は「山住勾当、上永検校と名乗っていた。その上永検校が京都に上り「八橋検校」と名乗るのは17年後の1639年(寛永16年)であるから、真田信就が松代に転封となって八橋流を松代に伝えた」とするのは年号が合わない。
この説は、松代の観光案内でもそのように書かれているが、誤りである。