現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

西郷頼母と養子「四郎」

2021-07-06 18:19:22 | 会津藩のこと

姿三四郎のモデル志田四郎の養父西郷頼母(たのも)(1830-1903)とは?。

姿三四郎のモデル西郷四郎                                          会津藩家老 西郷頼母



先祖代々会津藩筆頭家老の家柄。幕末、藩主松平容保京都守護職」を拝命した時は「火中の栗を拾うもの」と反対し、藩主の不興をかった。戊辰戦争となると、白河口の総指揮を任されたが 敗れ、一子「吉十郎」を連れて米沢に向かう。これは、「反戦論者の西郷を、藩主容保が退けたため」とも「米沢に救援を依頼」に行ったとも言われる。

その間、西軍が城下になだれこみ、西郷の一家、祖母、母、娘21人が、自宅で自刃した。

西郷頼母は、その後、函館戦争にも加わり、敗れて幽閉された。
後、1875年(明治8年)福島県棚倉町の「都々古別(つつこわけ)神社」の宮司となる。

1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、西郷隆盛との仲を疑われ、宮司を解任される。

戊辰戦争で西軍の総指揮官が「西郷タカモリ」。迎え撃つ会津藩の筆頭家老が「西郷タノモ」。「西郷隆盛」の本名は「吉之助」。頼母」の一子は「吉十郎」。「吉十郎」は西郷隆盛の下に世話になっていたとか。

1879年(明治12年) 一子「吉十郎」が病没する。頼母は戊辰戦争で 妻も娘たちも失っており、これで身寄りがいなくなった。

翌 1880年(明治13年)頼母は、日光東照宮の禰宜(副宮司)となり、日光に移る。旧藩主「松平容保」が日光東照宮の宮司になったため、その補佐役をかって出たのであろう。

さて、では いつ養子を迎えたのだろうか。

志田四郎」が、講道館に入門したのは、明治15年(1882)17歳の時。講道館に残されている「四郎」の柔道着には志田四郎」と書かれているのだ。

「西郷頼母」は、1887年(明治20年)には 日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。会津と東京を拠点として政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため、政治運動から身を引き、郷里の若松(現会津若松市)に戻った。

1889年(明治22年) 現福島県伊達市霊山町にある霊山神社宮司となった後、郷里の会津に戻り、1903年(明治36年)死去。かつて 2,500石の禄を食み、鶴ヶ城の大手門前に広大な邸宅を構えていた「西郷頼母」は、最期は、長屋に独り住まいし、淋しく亡くなった。


養子の「西郷四郎」は、嘉納治五郎が洋行中の1890年(明治23年)『支那渡航意見書』を残し講道館を出奔。以前から交流のあった崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。

義父「頼母」が亡くなる前年、1902年(明治35年)、鈴木天眼長崎で『東洋日の出新聞』を創刊すると、同新聞の編集長を務める傍ら、長崎で柔道、弓道を指導した。

そして、1922年(大正11年)、妻の実家のある広島県尾道で病気療養し死去した。

西郷四郎はいつ西郷頼母の養子になったのか、養子になりながらも二人の接点はどこにも見出せないのが謎。不思議、不思議。







西郷頼母と姿三四郎の接点

2021-07-06 18:18:56 | 会津藩のこと

「姿三四郎」のモデルとなった「西郷四郎」と、養子親である「西郷頼母(たのも)」。両者の「親子」の関係は どのようだったのか?

左 西郷四郎  右 西郷頼母

二人の来歴からは、どうもよく判らない。
そもそも「西郷頼母」は、戊辰戦争後、先祖の「保科」姓に改姓している。「志田四郎」が「西郷四郎」と呼ばれるのは、自身は「保科」を継ぎ、「四郎」には「西郷家」を継がせるというものだったのか。

「頼母」が「四郎」を養子に迎えた理由として考えられているのが・・・・、ジャジャジャ~ン。


会津藩筆頭家老の「西郷家」は、江戸時代、会津藩に伝わる「御式内(おしきうち)」という武芸を継承していた。

「御式内」というのは、殿中の護身武芸で、藩主と家老、重臣、小姓など、奥勤めをする僅かな武士のみ修得を許された。藩主が、万が一、刺客に襲われた時、家臣の謀反などで襲われた時、刀を使わずに、相手を倒す護身術。「合気道」だ。


「大東流合気柔術」の伝承によると、「西郷頼母は藩士時代に武田惣右衛門から御式内等の武芸と陰陽道を学び、1898年(明治31年)に霊山神社を訪ねた武田惣角(武田惣右衛門の孫)に御式内を伝授した」という。



「頼母」は、翌1899年(明治32年) 霊山神社の宮司を辞し、郷里の若松に戻っている。

会津藩士の志田四郎もまた、この「御式内」を修めていたのではないか。彼が、講道館に入門したのも、1年で頭角を表したのも、「御式内」の基礎があったからであろう。

彼が「西郷頼母」の養子になったのも、「御式内」の後継者と期待されてのことであろう。
しかし、「西郷頼母」が養子「四郎」に「御式内」を伝授したという記録はなく、「四郎」は「講道館柔道」で頭角を現し、四天王の名を冠されるまでになった。

そのことで、西郷頼母との関係は、気まずいものになっていったのであろうか。西郷四郎が、忽然と講道館を去ったのも、西郷家との関係が取り沙汰されるのである。


西郷頼母のその後

2021-07-06 18:17:41 | 会津藩のこと

西郷頼母は、明治13年(1880年)、旧主「容保」が日光東照宮の宮司になると、禰宜として仕えた。そして明治20年(1887年)、職を辞し、「大同団結運動」に加わる。会津と東京を拠点として活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため 政治運動から身を引き、郷里の若松に戻った。

明治22年(1889年)福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め、
明治32年(1899年)辞職後、再び若松に戻った。
明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。

大同団結運動」とは、明治22年(1889)に「大日本帝国憲法」(明治憲法)が発布され、明治23年(1890)の「帝国議会開設」に備えた自由民権運動各派による統一運動。

1882(明治15)年、会津盆地の北、喜多方市で、自由民権運動に端を発した暴動が起きる(福島事件)」。これをきっかけに、全国各地で激しい暴動が起き、政府は「自由民権運動」を弾圧するようになる。

西郷頼母もその運動に関わり、「大日本帝国憲法」の発布の年、政治から身を引き、霊山に籠もったのである。




この間「西郷四郎」は・・・、

明治19年(1886年)「警視庁武術大会」で西郷四郎ら講道館柔道が優勝したことにより、講道館柔道が警視庁の正課科目として採用される。
皮肉にも 時の警視総監は「三島通庸」。福島事件で、自由民権運動を弾圧した県令だった。



明治22年(1889年)、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となったが、嘉納が洋行中の明治23年(1890年)、『支那渡航意見書』を残し、忽然と講道館を出奔する。この時25歳。

それは、西郷頼母が「霊山」の神官になった年でもある。
そのご、四郎は「宮崎滔天」の「大陸運動」に身を投じた。

中国は 1840年のアヘン戦争、1894年の日清戦争で清朝の基盤がゆるぎ、1911年「孫文」らによる「辛亥革命」が起きる。中国では、日本の明治維新を鏡とし、また自由民権運動に敗れた志士たちは、大陸に夢を馳せ、中国の革命を後押ししようとした。

西郷四郎は長崎に行き、鈴木天眼が明治35年(1902)に創刊した「東洋日の出新聞」の編集長を勤めた。

そして、「西郷頼母」は 明治36年(1903年)会津若松で亡くなり(74歳)、
「西郷四郎」は 大正11年(1922年)尾道で亡くなります。(57歳)。

さて、「頼母」は自由民権運動、「四郎」はその後の「大陸運動」に関与したようですが、やはり二人の接点は無さそうです。


「西郷隆盛」と「西郷頼母」の接点

2021-07-06 18:03:29 | 会津藩のこと

戊辰戦争のミステリー

「西郷隆盛」も「西郷頼母」も遠祖は、南北朝時代、九州の南朝方の忠臣「菊池」一族と称しており、同姓、同族のよしみで、二人は、明治になって書簡で交流があったとの噂話があります。

「西郷頼母」の子は「吉十郎」といいます。「西郷隆盛」の本名は「吉之助」。弟は「西郷吉二郎」で、戊辰戦争の際、新潟県長岡市で戦死しています。偶然とは思えない共通点があります。

西郷隆盛は、西郷頼母が 非戦論者であることを知り、会津戦争の収束のために頼母との 接触を望んだ。西郷隆盛は、北越から侵攻し、越後新発田藩士・窪田半兵衛をして、 会津藩の山田陽次郎(頼母の実弟)と志田貞二郎(頼母の妻の兄弟か、後に養子に迎えた四郎の父)に 会い、西郷頼母との連絡を求めました。

西郷頼母は8月26日、殿より密命を帯びて、一子吉十郎を 連れて、密かに鶴ケ城を出、越後口の萱野権兵衛長修のもとへ行っております。その後、頼母が米沢から 仙台まで、無事に行っているのも不可解なことでした。米沢藩に会津救援を頼みに行った他の会津藩士は皆、米沢との境で阻止され、米沢領内には入れませんでした。頼母は西郷隆盛から薩摩藩士の護衛を付けられて米沢を通過できたのではなかろうか。


西郷頼母は11歳の一子吉十郎伴って、米沢から 仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流して、箱館に赴いました。

そして、翌明治2年箱館戦争となり、榎本武揚に対しても降伏を勧めたといいます。箱館戦争終結後、「頼母」は東京に護送され、館林藩に幽閉されます。この年、会津戦争の首謀者三名の家老の首を出せとの新政府からの要求に、筆頭家老である西郷頼母は行くへ不明として、末席家老の萱野権兵衛長修が死罪となります。これも西郷隆盛の助けがあったからではないか。

明治2年9月東京へ護送された西郷頼母は 館林藩に 幽閉されますが、わすが5か月で明治3年2月11日幽閉を解かれます。

明治4年春、頼母の子吉十郎が隆盛の尽力に よって島津啓二郎(当時13歳)と共に米国に留学します

9月、頼母は隆盛の斡旋によって、伊豆半島の江奈村 (現松崎町)に行きます。この地は、かつて慶応3年5月、西郷隆盛の 依頼により、頼母が会津藩士大島篤忠を 鉄砲基地調査のため 送りこんだところ。

頼母は一旦帰京した後、翌5年春、再び、江奈村に入り、 大沢村の差配大家依田佐二瓶平が設立した「謹申学舎」の 塾長となります。

その年の10月、西郷隆盛は、小田原、湯河原、 下田に至って頼母と共に南伊豆の「鉄砲鍛冶旧跡」を視察しています。

西郷頼母の子吉十郎は西郷隆盛の尽力により、明治4年 米国のアナポリス海軍兵学校他へ留学し、9年4月に帰国。 鹿児島で西郷隆盛の弟西郷小兵衛方に起居。「私学校党」に 与して西南戦争に参加、肥後高瀬の戦において2月27日負傷したため、西郷小兵衛の計らいで、長崎の洋医のもとへ送られました。西郷小兵衛は、その半刻足らずの後、銃弾に当って戦死しました。

明治8年、西郷頼母は磐城国の都々古別(つつこわけ)神社の宮司となりましたが、11年に職を辞しています。理由は、頼母が西郷隆盛の挙兵(西南の役)に与(くみ)して、資金援助を行おうとしていたという疑いを持たれたためというのです。息子吉十郎が西郷隆盛の下で戦っていたのですから。

吉十郎はその後、東京に移り、明治12年に病死しています。

西郷隆盛と会津の西郷頼母がこれほど関わっていたとは、 全く知られておりません。事実か否か、出典史料は殆ど無いのも事実です。

 

 


会津の「御式内」伝承者

2021-07-06 17:07:27 | 会津藩のこと

会津藩には、藩主はじめ重臣、小姓たちが修める「御式内」という護身術があったそうな。正式な記録にはありません。手の内を知られないように、極秘に伝えられたとか。

筆頭家老の「西郷家」がその伝承者であり、その養子となった「西郷四郎」に「御式内」を継承させようとしていたのではないかという説も。

しかし「四郎」は、嘉納治五郎の「柔術」から「柔道」に目覚め、「講道館の四天王」と呼ばれるまでになり、合気術とは一線を画しました。

西郷四郎という後継者を失った会津「御式内」は、西郷頼母から、会津のお抱え力士の家に生まれた「武田惣角」に「大東流柔術」として伝えられたとか。

この「武田惣角」の弟子が「植芝盛平」であり、植芝の弟子が「富木謙治」。今日、合気道と名乗る各流派は、この三名のいずれかを始祖と仰いでいるのです。


 

すなわち、会津のお家芸「御式内」こそは、今日の合気道の源流であるそうな。

「植芝盛平」の映像はYou-Tubeでも見られます。1935年の白黒フィルム映像ですが、5尺の小柄な老人が、次々と襲い掛かる壮年をバッタバッタなぎ倒す。すごい技です。

「植芝盛平」は、和歌山県田辺市の生れ。1915年(大正4年)31歳の時、所用で訪れた遠軽の旅館で、大東流の「武田惣角」に出会い、その技に衝撃を受け、その場で入門、宿泊を一月延長し、指導を受けた。

「武田惣角」は当時すでに54歳・身長150cmに満たない小柄な体ながら、豪腕の「植芝」を多彩な極め技で捻じ伏せたという。

「植芝盛平」は、翌 1916年(大正5年)33歳。田辺市白滝に道場を設けて、武田惣角を招き、村の有志十数人と共に 熱心に学び、「秘伝奥儀」の免許を授かったとされます。

そう、実は「西郷頼母」も5尺(150cm)に満たない小柄でした。『八重の桜』では西田敏行が演じてくれました。恰幅良すぎ。