現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

仏性は生まれつき?

2021-07-24 21:12:08 | 心の問題

ナナは不思議な娘だ。小学校の時から、絶対に友達と喧嘩しない。人の悪口を
言ったことがない。クラスで もめ事があったり、部活で仲間が落ち込んでいたりする時、意外な発想で、みなの気持ちを変える。ムードメーカーだ。

先日、自転車を買いに行った時のこと。母親が「黄色はなになにでダメ、白は・・・だからダメ。赤も褪色するからダメ」と、否定形で選んでいると、「私が欲しいと思わない物まで、どうのこうの云う必要はありません」と云う。

「ママ。赤や黄色、白でも “いい”と思って買う人がいるのだから、それを否定してはいけません。お店の人は、良いと思って売っているのだから、店の人の気分を害するようなことを云わないで」と云うのだ。

結局、銀とピンクのツートンのを選んだのだが、「私が欲しいと思った物の良いと思ったところだけを云ってくれればよろしい」と。

また、母親は夫に対してついキツイ口調で言ってしまうことがある。すると「お父さんに言いたいことがあったら、まず私に言って。私からお父さんに言ってあげるから」と。

同じことを要求するのでも、ナナが言うと、父親もスンナリ言うことを訊くのだ。

こういう能力は、親から教わったものでも、本で学んだ知識でもない。生まれながら備わった天性のもののようだ。

産まれたとき、足のふくらはぎに大きな黒いアザがあって、学校でいじめられるのではないかと心配したが、小中高校と人から からかわれても、本人は一向に意に介さず、気にしないから、すぐに、誰も何も言わなくなるという。そのアザの
おかげで、“悪”や“不幸”というものが近づかないようだ。

そうした性格だから、周囲の者もついついお小遣いをあげたくなる。そして欲しい物は、自分の小遣いで買わなくとも、なんらかの方法で手に入ってくる。
みなから慕われる徳のある人には、“収入は自然とついてくる”という、いい“型見本”だ。


一流の人は腹を立てない

2021-07-24 21:06:52 | 心の問題

もう数十年も昔、子供の頃、銀座のステーキで有名なレストランに家族で食事に行った。その頃は、銀座に行くとなると いい服を着て、おめかしして行ったものです。
隣の席にはグリーンのブレザーにチェックのシャツ、首には赤いネッカチーフというお洒落な紳士。一見超一流の芸術家のようだ。                                  

しばらくして、隣の紳士のテーブルにステーキが運ばれてきた。紳士は、小声でボーイを呼んで「これがフィレかね?。私はフィレを頼んだはずだ」と。
ボーイは、小声で「すぐお取替えします」と言って去った。

しばらくして、フィレステーキが運ばれてきた。
また紳士が「君、ちょっと」とボーイを呼び止める。
ナイフを入れて「私は、ミディアムと頼んだはずだ、シェフを呼んでくれないか」と。

しばらくして料理長がやってきた。「私は、ここのフィレステーキが食べたくて来た。これでは“〇〇”のお店の名が泣きますよ」と、もの静かだが厳しい忠言に、料理長は黙ってうなだれているだけ。

その頃には私達の食事は終わっていた。
一部始終を見聞きしていて、私は子供心にその紳士からいろいろなことを学んだ。声を荒げない、冷静沈着な態度。一流とはこういうことかと。

この時私は、フィレとサーロインの違い、焼き方にも注文をつけることを知ったが、その後二度とその“一流”の店に行くことは無かった。

ブログで検索してみたがその店はもう無いようだ。つぶれたか。


「穏やかな人が好かれるんだね」

2021-07-24 21:06:34 | 心の問題

face-bookで見つけました。

【おだやかな人間になろう】

【出典】 ジェームズ・アレン 『きっと!すべてがうまくいく』


人は、おだやかになればなるほど、より大きな成功、より大きな影響力、より大きな権威を手にできます。

.ごく一般の人でも、おだやかさを身につけるだけで、商売が確実にうまくいくようになります。

なぜならば、人はおだやかになればなるほど、正しい判断を下す確率を高められるからです。

と同時に、人々は、ほとんど例外なく、おだやかで冷静な人のそばにいたいと考えるものだからです。

そしてもう一つ、おだやかな心は、
自己コントロールを通じて鍛えられた強い心であるからです。

人々は、真におだやかな人と接すると、その人の強さを自然に知り、その人が頼れる人間であることを感じ取ります。

おだやかな心は、自己コントロールをねばり強く行ない続けた人だけが手にできる、知恵の宝石です。

 


天皇とは?

2021-07-24 11:52:40 | 虚無僧日記

天皇」と在位中でも呼びならわすのは実は明治以降とのこと。

それ以前は「(みこと)」「(みかど)」とか「主上(しゅじょう、おかみ)」大君(おおきみ、たいくん)」であった。

特に、承久の変で佐渡に流された84代順徳天皇(在位1210年 - 1221年)の後

550年間「天皇」という呼称は使われなかった

江戸時代の半ば、119代光格天皇(在位1779年 - 1817年)の時、旧に復して天皇という諡号が復活した。

神武以来「」「」「」と呼ばれていたのをすべて「○○天皇」と置き換えたのは明治維新後のことである。

 

天皇」の語は、中国の唐の高宗が674年「天皇」と称したことから、日本では、それを真似て、天武天皇(在位673-686)か持統天皇(在位690-697)が「天皇」と称したというのが定説になっている。

 

ところが、大和法隆寺の薬師仏光背銘に「池辺大宮治天下天皇」及び「小治田大宮治天下大王天皇」とある。池辺大宮は31代用明天皇(在位585~587)で、小治田大宮は33代推古天皇(在位592~628)であるから、唐の高宗以前から日本で「天皇」の文字が使われていたことになる。

 

その読みは「みこと」あるいは「すめらみこと」であった。「天皇」の称号が中国由来ならば、その読み方も中国語になるはずだが、「みこと」「すめらみこと」と日本語読みであることに注目したい。

つまり、「すめらみこと」とはなんぞやである。

古い訓読みでは、すべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などとも称した。

 

スメル」については、『岩波 古語辞典』では、「すめら」(皇)の項で、

サンスクリット「sume:ru」(須弥山)と音韻・意味が一致し、モンゴル語「sümer」(須弥山)と同源であろうとしている。その他諸説あるが判然としていない。

 

そこで「sume;ru」である。

最近、シュメール語と日本語が共通であること。日本人はシュメール人の子孫ではないかという説が浮上してきた。

シュメール語で「ミガドル(高貴なお方)」。これが 「ミカド(帝)」の語源ではないか。  
また「ミコト(尊)」に対して、シュメール語では「マクト(王)」がある。

まさに「スメラミコト」は「シュメールの王」ということになる。

 


脚下照顧

2021-07-24 11:50:19 | 心の問題

脚下照顧とは?
「人生は暗夜行路、暗闇を行くには足元をよく見よ」に
始まって、「自分が今どうゆう立場にいるか、よく見極めて
事に当たれ」とか、「灯台下暗し。他人のことはよく分か
るが、自分のことは分かりにくいもの。他人のことを批判
するより、まず自分を見つめよ」とも。

さらには、「脚下照顧とは履物をそろえよということ」
「忙しいときでも、履物をそろえて脱ぐくらいの心の
ゆとりが欲しいもの。履物をそろえることは、自分の
心の整理整頓になる」

そして、「玄関を見れば、その家の生活態度が分かる。
履き物がそろっている家は、家族の心も一つに清らか」
と、まぁいろいろな人がわかったよう講釈をしている。
が、いまひとつ腑に落ちない。

NHK教育TVで、昨年1月に106歳で亡くなった永平寺
貫首(曹洞宗管長)宮崎奕保老師の映像は圧巻だった。
すべてを削ぎ落として無駄がない。
「スリッパをそろえる。心がまっすぐだったら、まっすぐに
するでしょ。そろえないのは心が曲がってるからだ」
その一言で、腹に落ちた。以後、玄関もトイレも、履物は
まっすぐにそろえるようになった。

「食べて寝る、日常の生活すべてが禅」とも。ならば、
尺八を吹くのも禅だ。
そして「死ぬのが怖くなくなるのが悟りではない、平常心で
生きることが禅の悟りだと悟った。死んだら死んだでいい」と。
私も何か見えてきた。




「過去、現在、未来」は自分だけの尺度

2021-07-24 11:49:50 | 心の問題

佐治博士の【へぇ~そうなんだ】から

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「過去、現在、未来とは」

光の速度は 毎秒30万kmですから、
月までの距離は 38万kmなので、およそ1秒前の姿です。
大いぬ座の1等星「シリウス」までの距離は 9光年ですから、
9年前の姿です。つまり宇宙全体に共通する時間は
存在しないのです。「過去、現在、未来」は人間だけの
尺度にしかすぎないのです。

4世紀の聖人「サンタ・クロース」が、毎年、12月24日に
一瞬にして世界中の子供の家を駆け巡る。これも、
もしかして、サンタさんと私たちの時間の尺度のズレ
かも。
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フ~ん。わかったような、わからぬでもないような。

そういえば、犬や猫、いや人間以外の生き物には、過去も
未来も無いようだ。私も過去を捨てよう。まだ未来はある。
そのうち、明日も無くなった時が 死ぬ時か。


「捨てられない」という気持ちを「捨てる」こと

2021-07-24 11:49:24 | 心の問題

東京で独り住む母は、だいぶ体力が落ちてきた。
ゴミを捨てに行く体力がない。その前に、部屋を
片付ける気力がない。もう「ごみ屋敷」だ。
「このままでは(恥ずかしくて)、死ぬに死ねない」と、
片付けたいのだが、それができず、ストレスと
なっているようだ。

ポリ袋や広告のチラシ、ボロ布を 私が捨てようと
すると、「捨てないで」という。

 捨てたいのに、捨てられない
 捨てたいのに、捨てない

「捨てたいのか、捨てたくないのか」その
ジレンマに苦しんで、ノイローゼになっている。

全部捨てれば、すっきりする。まず「捨てられない、
捨てたくない」という気持ちを「捨てる」ことだ。
「過去の思い出にこだわる気持ち」「いつか 要る
かもしれない」という未来にこだわる気持ち」。
全部捨てるのだ。

かく言う私、今日ようやく、本をダンボール3箱分
捨てた。「Book-Off」に持っていったのだ。81冊で
1,910円。一冊平均1,000円の本が「25円」。
悲しいが、それでもゴミに出すよりは 救われる思い。

まだ30箱、捨てられずにある。どうしよう。


「汝の敵を愛せるか」

2021-07-24 11:48:53 | 心の問題

以前に書いた記事の再掲です。

朝日新聞に対象的な二つの記事がありました。
一つは、一人娘を殺された母親の怒りです。
「犯人3人を死刑に」と、署名を集め 訴え続けた
が、「死刑一人、無期懲役二人」の判決に、怒りを
あらわにしているという内容。

もう一つの記事は、「キム・フック」さん。40年前、
ベトナム戦争で、ナパーム弾を受け、服を脱ぎ捨てて、
すっ裸で泣きながら走ってくる少女の写真が、世界に
衝撃を与えました。「この一枚の写真が、世界の世論を
ベトナム戦争終結に向かわせた」とさえ云われる写真
で、ピュリツァー賞を受賞。私も記憶しています。
その少女が「キム・フック」さんでした。もう49歳に
なり、今 アメリカに住んで、教会などで講演をして
いるそうです。「私を傷つけた人たちを呪い、私
以上の苦しみを味わえばいい、とさえ思った。しかし、
聖書の「汝の敵を愛せよ」という言葉に触れて、
許すことを学んだ」と。
 
 
 はたして、「決して許さない」と「許す心」、どちらに
軍配をあげたらいいのでしょうか。私も若い時は、「もし
妻子が殺されたら、必ず仇をとってやる。犯人が服役して
出所してきたら、この手で殺してやる」と「松本清張」の
推理小説などを読みふけっていました。しかし、最近は
「すべては その人の運命」と悟れるようになりました。
理不尽に殺された人も、そのような定めにあったと。
 

太平洋戦争で、1000万人以上もの人が、肉親を失いました。
怒りの声も挙げられず、復讐もできず、ひたすら耐えて
前に進んだ、多くの先人の “心” に、学びたいものです。


 


「すべて良し」と思う生活で運気向上

2021-07-24 11:48:24 | 心の問題

なにごとも「現実大肯定」。「これで良かった」と思うのが

「実践倫理」の今日の学び。


過日 読んだ 法話から

事故に遭ったが、怪我はなかった。

「無事で良かった~」

・多少の怪我をした

「良かったじやな~い。軽症で済んで」

・重症を負っだったら

「命だけは助かって、良かったねぇ」

・即死だったら

「まぁ、せめて苦しまずに済んで・・・・・」

・翌日、息を引き取った

「死に目に会えて、良かった・・・・・」

・手当ての甲斐なく、何日か後に亡くなったら

「精一杯、尽くすことができたのだから・・・・」


すべては、心の持ちよう。

私の講演内容も「会社がつぶれてくれたおかげで、

今虚無僧として生かされている」というのがテーマです。

なにごとも「おかげさま」。「難(なん) 有って、有難う」が

実戦倫理の学びです。




無関心のすすめ

2021-07-24 11:47:59 | 心の問題

「ひろさちや」の「無関心のすすめ」。

老後の不安やお金の心配、人間関係の軋轢……人生のあれこれに
憂うのではなく、無関心=「あとは野となれ山となれ」の精神で、
現状を受け止め“今を楽しむ”ことが今の日本人には必要だと言う。

「世間」の 有形無形の常識や価値観、「お金」「出世」「名誉」と
いったモノサシのすべてを捨て、「無関心になれ」と。「他人にも
無関心になれ」とも。


では、中国で今騒がれている事件はどう考えたらいいだろう。
「ひき逃げされた2歳の女児を18人の通行人が、誰も助けようと
せず、後続のトラックに轢かれて死亡した」という、そら おそろ
しい事件。

その背景には、以前、バス停で転倒して骨を折った女性を
病院に運んだ男性が、「押し倒した」として訴えられ、
約4万5千元(約54万円)の賠償を命じられたことが
あったからだとも。

日本も、すでにそうなりつつある。電車に乗ろうとして倒れた人を
誰も助けようとせず、またいで電車に乗り込んでいったという話もある。
 
 
虚無僧で立っていても、世間の人は、全く無関心。無視するように
なってきたことを 痛切に感じる。

「ひろさちや」氏が“すすめる”までもなく、世間は「無関心」
派が激増している。いいのか、悪いのか・・・・・。