現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

原爆投下は知らされていた

2021-07-28 21:27:31 | 太平洋戦争

5年前の8月6日、NHKで「原爆投下 活かされなかった極秘情報」という番組が流された。

広島も長崎も、諜報では、飛来の情報を掴んでいたにもかかわらず、空襲警報が発令されなかったことを 初めてNHKが報道した。

「これまで“想定外の奇襲攻撃”とされてきた広島、長崎への原爆投下。しかし実際は、アメリカの電波を傍受することで、軍は原爆投下をめぐる動きを事前に察知していたことが明らかになった。」

原爆投下の2ヶ月前から、諜報機関はテニアン島における特殊任務機の動きをキャッチしていた。しかし軍は、危険が迫っていることを知りながら 何の手も打たなかったのだ。

テニアン島からのコールサインをキャッチしていた当時の諜報部員・太田新生さんの証言。

悔しいったらありゃしない。分かっていたんだから。
何か努力の跡があればあきらめがつくが、全然(情報を)使った形跡がない。だからよけい悔しい

大村基地の戦闘機部隊で出撃命令を待っていた本田稔さん。
「66年経ってはじめて知った。出撃命令さえ出してくれていたら、長崎は決して爆撃されなかった。それだけは確信している。
5時間もあれば十分対応できたはず。これが日本の姿ですかね。
これからもまた起こるんじゃあないですか。」

さらに、特殊諜報部員だった長谷川良治さんによると、
「8月11日、諜報記録をはじめとするすべての証拠隠滅の命令が下され、終戦の15日まで徹底した焼却処分が行われた」と。

NHKの番組では「原爆についての情報がありながら、なぜ知らされなかったのか。原爆投下後 66年、はじめて明かされる真実。」と銘打っていながら、「なぜ知らされなかったか」の答えは報道されなかった。

しかし、その答えは すでに「鬼塚英昭氏」によって出版されていた。「原爆の秘密」の国内編と国外編の2冊の本だ。

「ソヴィエトが参戦しようが、しまいが、原爆は確実に広島と長崎に落とされることになっていた。すべては、原爆で金儲けようとする悪しき集団がなせる行為であった。そのためにスティムソン陸軍長官が指揮をとり、大統領、国務長官、科学者、軍人たちを動かした。それだけでは原爆は 製造しても 投下できない。それゆえに、どうしても“落とされる側の協力”が必要であった。」
(「国外編」P.297)

そのためには、広島市民にとっては申し訳ない限りなのだが、無警告でなされねばならなかったのだ。(「国内編」p.98)

広島には原爆投下が近づくにつれ、数万人の軍人が送り込まれた。そのため広島市民への食糧供給が底をつく状況になった。

その軍人達は何の意味もない穴掘り作業に従事させられ、その多くは原爆によって命を奪われていった。犠牲者が多いほど衝撃度の高い「スペクタル」の実現のために。

それを演出したのは、本土侵攻に備えて創設されたという「西部方面・第2総軍の最高司令官「畑俊六」。


NHKが鬼塚氏の本を知らなかったはずはない。NHKはこの事には触れなかった。

広島・長崎の原爆投下は、人類初の仕組まれた人体実験だった」ということは、すでに何人かの人によって暴かれている。それをNHKも知っていながら、そのことを伏せたことに、私は関心を持つ。

それは、福島原発事故の報道にもつながっているからだ。今コロナ騒ぎで福島原発事故関連の報道は皆無となった。「原発事故は無かったことにしよう」という動きが流れていると感じるのは私だけだろうか。


広島原爆は予告されていた 3

2021-07-28 21:24:01 | 太平洋戦争

私の叔父牧原源一郎は、終戦時国会議員で小日山運輸大臣の秘書官だった。

小日山直登氏は、戦局不利となった昭和20年5月、東条英機の後を受けて組閣された鈴木貫太郎内閣で、満鉄総裁から運輸大臣に登用された。小日山氏は会津出身で、大臣就任とともに、同郷の代議士牧原源一郎を秘書官とした。その牧原源一郎が『小日山直登を偲ぶ』という本を遺している。それによると、

「小日山運輸大臣は、秘書官(牧原源一郎)を伴って、九州各県の慰問のため、7/18 東京を発ち、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分と1週間かけて巡回。帰途、広島に立ち寄った。西部司令官の畑俊六元帥、広島県知事の高野源進氏もともに同郷人(会津出身)であったから、その夜、食事を共にした。この晩も多数の敵機が上空を飛んでいたが、一発の焼夷弾も落とさない。市民は「広島には爆撃は無し」と考えていたようにも見受けられた。ところが、その日から10日たった8月6日、原子爆弾が投下され、高野知事の夫人も死亡された。畑元帥と高野知事は幸いに難を免れた」。

と記されている。

小日山大臣と私の叔父が広島に泊まったのは、7月26日のようだ。
そして、小日山大臣が帰京するとすぐ、ソ連に戦争終結の仲介を頼むべく、極秘工作が行われた。ソ連駐在の日本大使は、小日山氏の義兄「佐藤尚武」であり、小日山氏の娘婿「湯川盛夫」が、近衛公の先発としてソ連に派遣されることになった。しかし、戦局不利で出発できぬ間に、原爆投下、ソ連の参戦となってしまった。

 

 


天皇は原爆投下を知っていた?

2021-07-28 21:22:59 | 太平洋戦争

暑い夏がやってきた。しかし今年はオリンピックとコロナ騒ぎで、原爆も終戦も吹き消されてしまいそう。

毎年掲載している記事を再掲載させていただきます。

 

天皇とごく一部の軍上層部は、原爆投下を知っていたという本が出版されている。
                  
あくまで徹底抗戦を唱える軍部を屈服させ、戦争終結にもっていく切り札として、広島と長崎への原爆投下は必要だった。それは「天皇も了承されていた」と。

畑俊六は、天皇に最も信頼されていた将軍だった。20年の4月になって、西日本を統括する第二総軍司令官に任命されたのも、広島に原爆が落とされることを知っての上でのことだったという。

広島には、軍の参謀本部も知らない、極秘の電波傍受機関が置かれていた。そこでは、テニアンから飛び立つ航空機の無線、航空機の中でのパイロットの会話まで、あらゆる情報が手にはいった。

たとえば、インドのニューディリー放送では、原爆に関連して、まず、昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと

次に7月15日、世界で初めての原子爆弾爆発の実験が成功したこと

さらに8月3日、原子爆弾第1号として、8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるかを 3日、4日、5日と、毎日朝昼晩の3回、延べ9回も放送をしていた。その内容は、広島で傍受されていた。

長崎原爆投下も 2日前から同様に 毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきていた。

では、原爆投下の時間まで知っていながら、なぜ市民には知らせなかったのか。さらに、わざわざ8月6日に向けて、多くの軍人、学徒生を広島に集めている。その日の朝8時には、西日本一帯の第二総軍の幹部を広島に召集しているのである。

それはすべて、戦争終結のためだった。原爆が最大の効果を発揮する必要があったからだ。

原爆投下が予告され、一部の人は知っていたという証言がかなりある。広島近郊で撃墜され、捕虜として広島に連行された米兵も、捕虜になったことより、「8月6日に広島は壊滅する。ここにいては確実に死ぬ」と脅えていたという。

広島と長崎への原爆投下は、戦争終結のためのアメリカと日本国天皇との合意の上でのシナリオだったのだ。




戦争終結の舞台裏、鈴木貫太郎と畑俊六

2021-07-28 21:18:25 | 太平洋戦争

「寺内貫太郎一家」ではない、「鈴木貫太郎」は、太平洋戦争終末期の内閣総理大臣。昭和20年4月、77歳という史上最高齢で「総理大臣」と「外務大臣」に兼務で就任した。

鈴木貫太郎は、昭和11年(1936年)年に起きた二・二六事件の時は、海軍大将で、青年将校らに襲撃されている。

天皇の信任あつく、戦争終結への大命を負って、総理大臣になった。だが、就任当初は「徹底抗戦」派を装い、終戦工作については内密にして、とぼけていたようだ

総理を決めるとき、東条英機は、陸軍の「畑 俊六」元帥を推した。東条は「畑俊六なら徹底抗戦を遂行できる」と考えたらしい。

鈴木貫太郎は、「終戦か 徹底抗戦か については、最終的には天皇のご聖断を仰ごう」と、天皇に下駄を預けてしまった。
77歳、よぼよぼの不甲斐ない総理と思われがちだが、どうしてどっこい、なかなかの古狸だったようだ。

一方の「畑 俊六」は、「生きて俘虜の辱めを受けず・・・」の『戦陣訓』を作らせた人であり、峻厳な軍人だから「徹底抗戦派」と思われていた。ところがどっこい。畑も天皇の信任篤く、4月に西日本を統括する「第二総軍」の司令官になった時から、天皇-鈴木総理-畑で、戦争終結のシナリオが描かれていたのだ。




広島原爆投下の11日前

2021-07-28 21:16:33 | 太平洋戦争


■7月26日の酒宴

原爆投下の11日前、1945年7月26日の夜、広島の川に面した旅館で酒宴があった。集まったのは畑 俊六 司令官」、「高野源進 広島県知事」、第2総軍「真田穣一郎」参謀副長、そして「小日山直登 鉄道大臣」と私の叔父で小日山の秘書官牧原源一郎」。それに中国総監部総監の「大塚惟維の6人。(「真田を除く5人」という記録もある)

畑 俊六」「高野源進」「小日山」そして「牧原」は共に“会津人”であった。

この酒宴は、「小日山」大臣が九州地方視察の帰途、同郷で旧知の畑と飲みたいとの依頼により、高野が設定した。

小日山の『まほろしの影』には「26日に広島に一泊した」と 記されている。

7月26日といえば、本州各地で激しい米軍空襲があった時期であり、灯火管制が敷かれ、空襲警報が鳴り響いていた時期である。呉大空襲の2日後でもある。

市民が不思議がるほど 空襲のない広島とはいえ、西日本の軍中枢や、中国地方の行政を統括するトップが呑気に盃を交わしていたことを知ると驚いてしまうが、その席で 畑は「まるで会津会のようだ」と すこぶるご機嫌だった。

この酒宴については、いくつか記録がある。
秘書官「牧原源一郎」の『小日山直登をしのぶ』(1982年刊)には、「その夜は 折柄の明月を賞しながら 盃を挙げて 互いの労をねぎらいあった」とあり、

「畑」の「第二総軍終戦記」には
「7月頃より鈴木内閣の一部には 既に講和に関する議が起りつつありたるものか、当時の運輸大臣小日山直登が視察に名を借りて広島に余を訪ね、講和に関する意見を余に求めたることを記憶す」とある。
(「第二総軍終戦記」の初出は1964年)。

ところが、1950年に「」が書いた『原爆を経験す』には「爆撃の前々夜など知事(高野源進という会津人なり)、参謀長、大塚氏など会食したる程なりしが、・・・」とある。

一方、高野も畑を追悼する文の中で、「原爆投下の2、3日前」としている。

宴会は「2、3日前」だったのか。8月6日は「新月の2日前」。7月26日は 新月の2週間前で「明月」だった。このことから、26日とするのは間違いない。

「畑」と「高野」が「前々日」とか「2、3日前」と書いているということは、前々日にも会合があったようだ。