現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

7/8 長岡城陥落の日

2021-07-11 13:26:00 | 虚無僧日記

慶応4年=明治元年(1868) 5月19日(=新暦の7月8日) 北越戦争で長岡が陥落した日

奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩は、当初は新政府側に恭順の姿勢を見せ、戦争回避をを望んだが、5月2日(6月21日)の小千谷会談新政府側の軍監岩村精一郎に拒絶されやむを得ず抗戦することに。

長岡藩は桑名、会津の応援を得て、長岡の南方に位置する榎峠に陣取った新政府軍を包囲攻撃して敗走させた。戦況は一進一退膠着状態だったが、海道軍軍監・三好軍太が薩摩・長州・高田・加賀など諸藩部隊2000名を率いて、濃霧に乗じて信濃川を渡り長岡城攻めを敢行した。

摂田屋の本営に居た河井継之助は急ぎ長岡城に急行。城の外堀にかかる内川橋付近で激しく応戦したが、河井は応戦中に左肩をやられた。

長岡城は攻略されやすい平城であり、藩の精鋭部隊は榎峠方面を守備していて、城の守備兵はわずかで、あとは15歳以下の少年と50歳以上の老人だけという状況。仕方なく、河井は藩主・牧野忠訓と隠居の忠恭を城から脱出させ、本丸に火を放って、自らは栃尾に退却した。

河井継之助は担架に乗せられて会津を目指して落ち伸びる途中8月16日に塩沢村で没した。