現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「西郷四郎は頼母の実子説」の検証

2021-07-07 13:39:34 | 「八重の桜」

『会津会会報』第114号(平成20年)に 「小池明」氏により
「西郷頼母と きみ」の写真が掲載されていました。
明治5年と明治19年に撮影されたもの。
(よくぞ、このような写真が出てきたものと感心します)

小池氏の説明によれば、「文久2年(1862) 西郷頼母は
藩主(容保)に京都守護職の辞職を迫って勘気を蒙り、
家老職を解かれて、会津城外の長原村に【栖雲亭】を建て、
そこに蟄居した。しばらくして、そこへ 伊与田為成が
訪ねてきた。伊与田為成(350石)は 京都勤番中、妻が
病死したことで、殿から格別の暇をもらい、会津に帰る
ことになったが、その際、殿から「頼母の栖雲亭を訪ね、
『余は汝のことを忘れてはいない』と伝えよ」と言伝を
託されてきた。

(『八重の桜』でも、そのようなシーンがあったような)

そして、伊与田為成は、その後もしばしば栖雲亭を
訪ねて西郷と昵懇となり、娘「きみ」に西郷の身の
周りをさせるほどにもなった。

と。なるほど、西郷頼母の栖雲亭蟄居は5年に及び、
その間、「きみ」と情を通じるようになり、一子が
生まれたとしても不思議はない。


星亮一『西郷四郎の生涯』によれば、「行儀見習いの
名目で西郷家に仕えていた伊与田喜平衛の娘 きみ と
情を通じ、密かに生ませた子を 頼母の実弟 山田
陽次郎の配下の志田貞二郎に預け育てさせた。

慶応4年(1868)8月23日、西軍の侵攻で、頼母の
母、妻、娘たち21人が自刃するが、「その前日、
妻の千重子が用人を津川に差し向けている事実が
ある」とも。

頼母も四郎は写真でみても、小柄で、顔つき、目鼻
口元そっくりである。実子説は限りなく真実に近い。
そして「伊与田きみ」も丸顔で目元キリッとして
四郎に似ている。

さて、その後の「きみ」さんは、慶応2年、
会津藩士「遠山主殿」と結婚している。
ちょっと待って、四郎が生まれた年じゃん。
この時「きみ」20歳。
ところが2年後の慶応4年6月夫「遠山主殿」は
戦死。8月頼母の妻、娘たち自刃。それぞれ
伴侶を失った二人は、10月に結婚。

と書かれているが、まさか、頼母は箱館に行って
いたはず。

そして明治3年、「きみ」は伊与田家の者と一緒に
津軽(青森県上北郡)に移住する。そこで箱館で
捕えられ津軽藩のお預けとなっていた頼母と劇的な
再会をする。う~ん、ドラマチック。

その後、明治5年西郷頼母と妻きみは静岡県の
西伊豆に居た。ここで頼母は「謹申学舎」という
塾を開いて伊豆一帯の師弟の教育に当たっていた。
上記の写真はこの時撮影されたもよう。

明治13年(1880年)頼母は日光東照宮の禰宜となり
旧主容保をた補佐する。た。明治20年(1887年)、
日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。

明治22年(1889年)から明治32年(1899年)まで、
福島県伊達郡の霊山神社の神職を務める。この時
西郷四郎が訪ねてきて50日ほど滞在している。

実の生みの母「きみ」と対面したのだろうか。
実は明治23年「きみ」と頼母は離婚している。

明治36年(1903年)西郷頼母が会津若松の十軒長屋で
74歳で亡くなった時、側に仕えていたのは別の女性だった。

「きみ」は 明治26年、南会津郡伊南村の神官
「大宅正則」に嫁し、大正14年まで生きた。




西郷頼母の本姓は「保科」

2021-07-07 13:36:57 | 「八重の桜」

昭和6年12月に出された『会津史談』第1号に
西郷頼母の『栖雲記』が載りました。ガリ版刷りで
見にくいのですが、その最後に「由緒書」として

一 清和源姓 本国信濃 井上掃部助頼季の流
  保科、又 穂科、或いは 星名

一 我が家系は、保科正直の弟 正勝 の子 民部
  正近、子無きをもって娘を西郷房茂に嫁せし
  妹の子「頼母近房」を養い、沼沢吉通に嫁せし
  妹の子を妻とする也

一 西郷家も清和源氏にして徳川の親戚たり

さて、何がなんだか。要は

会津藩祖「保科正之」は、実は徳川二代将軍「秀忠」の
隠し子で、信州高遠の「保科正光」に預けられる。
その保科正光の叔父「正勝」の流れが、会津藩家老と
なった「保科」氏。

つまり、会津藩主には「保科」の血は流れておらず、
家老の「保科」こそ「保科」の血筋。

ところが、この会津藩家老となった「保科」氏にも
二つの流れができます。

初代「正近」が亡くなる前にその子二代「正長」が病死。
正長には生まれたばかりの「九十郎」がいたが、赤子だった
ため、無事成長するかどうか分からない時代。

そこで、「正長」の妹とその夫「西郷房茂」の次男「近房」を
養子に迎え、さらに正長の3番目の妹を「近房」にめあわせた。

(甥子と叔母の結婚)

しかし実子「九十郎」が無事成長したので、「近房」は
全知行を「九十郎」に譲り、新たに 500石を拝領、分家して
実父の姓である「西郷」を名乗った。

成人した本家の「九十郎」は「保科民部正興」と名乗り、
しばらく藩政の中枢にあったが、京都から迎えた妻「藤木氏」が
身内を重臣にとりたて、藩の人事と政治に口出ししたという罪で
「民部」は 鹿瀬水沢(現新潟県阿賀町)に追放、流刑となり、
会津藩筆頭家老の保科本家は断絶。

このことにより、いったん正興に本家を譲った「近房」が
保科家の本流となるが、藩主と同じ姓では畏れ多いと、
「西郷」姓でのまま 代々筆頭家老を務めます。


その「西郷」家も「徳川」の親戚という。徳川二代将軍
秀忠の母は、家康の側室「西郷の局」。その縁戚とか。

となると、家老「西郷」家は、会津藩祖「保科正之」の祖母
「西郷の局」にもつながるということ。

家老「西郷頼母」が、『栖雲記』の最後に、「保科と徳川の
縁戚」であることをあえて書き記したのも 意味が深い。

「西郷頼母」は、明治になって旧姓「保科」に改め、
「保科頼母」を名乗った。そうなると「西郷」家を継ぐ者が
いない。そこで「志田四郎」を養子にして「西郷四郎」と
名乗らせた。

さて、四郎が頼母の実子であると思われる決定的?史料が
見つかった。

『頼母の日記』の中に「明治21年1月23日、四郎は別家して
西郷と称せむことを願い置いたが、今日願い済みの指令を
【本籍】伝法寺村なる伊与田が方より送りこしたれば、
四郎のもとにへやる」というもの。

四郎の【本籍】は、実母「伊与田きぬ」方にあった。
「志田」ではなく「伊与田」家にである。いかが。




「西郷四郎」実子説の再考 その3

2021-07-07 13:36:00 | 「八重の桜」

さて、「保科頼母」は、明治20年、日光東照宮の神職を辞し、
福島と東京を行き来しながら「大同団結」運動に加わり、
代議士に立候補する準備をしていた。

そんな中、明治21年1月23日、「四郎は別家して西郷姓と
なることを役場に申請していて認められ、その通知が本籍の
ある伝法寺村の伊与田家より送ってきたので、それを四郎の
もとにやった」。と「西郷頼母」の日記に書かれている。

この時、戸籍上「頼母」は「保科」姓に、「四郎」は「西郷」
として別家した。「保科」の戸籍はこの時 作られ、「明治12年
吉十郎の死後まもなく、四郎を養子にした旨」書かれたのでは
ないだろうか。

この明治21年。「西郷四郎」は 講道館で柔道一直線の時代。

このあと「大同団結運動」が瓦解し、明治22年(1889年)
から明治32年(1899年)まで、「頼母」は福島県伊達郡の
霊山(りょうぜん)神社の神職を務める。

「西郷四郎」の方は、明治23年6月23日、嘉納治五郎が
洋行中、留守を託されていながら、『支那渡航意見書』を残して、
講道館を出奔する。四郎25歳。

「頼母の会津出奔」「四郎の講道館出奔」「大同団結運動」に
関わった頼母、中国の辛亥革命に関わる四郎。「頼母」と
「四郎」は顔つき、体格だけでなく、性格も生きざまも
よく似ているのである。

講道館を出奔する前の5月9日、「西郷四郎」は、郷里
津川に帰省していた。その帰途、霊山神社に 父「頼母」を
訪ねている。その時、そこに母「きみ」の姿は無かった。
四郎が訪ねてくる直前「きみ」と「頼母」は離婚していた
のだ。離婚の理由を四郎は詰め寄ったが、頼母は一切無言で
あったという。

「きみ」は 明治26年、南会津郡伊南村の神官「大宅正則」に
嫁し、大正14年まで生きた。墓は伊南村にある。

明治36年(1903年)西郷頼母が 会津若松の十軒長屋で
74歳で亡くなった時、側に仕えていたのは別の女性だった。
(下女・斉藤なか)。葬儀は、「保科頼母」の養子として
入籍した11歳の「保科近一」を喪主にして行われた。

大正8年、四郎の実母?「志田さた」が82歳で亡くなる。
この時、四郎54歳。神経痛に冒されていて、2年後の
大正11年12月23日、尾道で亡くなった。かつて
「講道館の四天王」と もてはやされた「西郷四郎」の
葬儀に、講道館関係者の参列は一人も無かったという。

「西郷四郎」にも子はなく「孝之」を養嗣子にしている。
その最期まで「頼母」と「四郎」は似ているのである。



「西郷四郎」実子説の再考 その2 

2021-07-07 13:35:40 | 「八重の桜」


さて、実子説を否定する根拠は、「伊与田きみ」は
慶応2年「遠山主殿」と結婚している。慶応2年なら
「四郎」を産んですぐ。四郎が生まれたのが 慶応3年
1月となると、実子説は はなはだ不可思議となる。
そして、遠山主殿の子も宿し、一女「つや」を産んでいる。

「遠山主殿」は「遊撃隊・伊右衛門(350石)」の倅で
慶応4年6月12日、父とともに白河和田山で戦死した。
父58歳、主殿31歳。

会津戦争が終わった明治元年の10月に「頼母」と
「きぬ」は結婚したという話もあるが、頼母は出奔して
箱館に行っていたのであるから、ありえない。

夫「遠山主殿」と舅を失った「きみ」は、実家に戻り、
明治3年「伊与田家」の人たちと一緒に 青森県上北郡の
伝法寺村に移住する。「上北郡」は盛岡藩だったが、
斗南藩として分け与えられた土地である。当時の記録に
「伝法寺村」に移住した会津藩士として「伊与田善助」の
名がみえる。(また「田名部村」には「伊与田為義」とある)


「そこで箱館で捕えられ津軽藩のお預けとなっていた頼母と
劇的な再会をし結婚する」という話もあるが、「頼母」は
榎本武揚らとともに東京に護送され、館林藩にお預けに
なっていたはずであるから、これも作家の創作話のようだ。

ただし、後年、明治21年「四郎」を分家して「西郷家」を
継がせた」という日記に「本籍・伝法村」とあるのは
どう考えたらいいのだろうか。

賊徒、囚人の身で館林藩に預けられていた「頼母」である。
謹慎が解けても、一家は全滅、会津の家も焼かれ、帰る家は
無かった。その時「頼母」が頼ったのは「青森県上北郡
伝法寺村」に居ると判った「伊与田きみ」だったのだろうか。


「頼母」は 明治3年(1870年)館林に謹慎中?「保科」と
改姓する。しかし、そう自称しているだけで「戸籍上」では
ない。明治新政府によって戸籍が作られるのは、明治5年
以降である。(いわゆる「壬申(じんしん)戸籍」)。


そして明治5年(1872年)「頼母」は、伊豆で 依田佐二平の
開設した「謹申学舎」の塾長として迎えられる。その時、
「頼母」は伊豆に「きみ」を伴っているのである。
明治5年、「謹申学舎」の生徒「依田勉三」と「頼母・きみ」の
三人が一緒に撮った写真がある。(『会津会会報』第114号 平成20年)

明治5年9月23日、「四郎」の養父「志田貞二郎」が
38歳で亡くなる。この時「四郎」6歳。津川の小学校に
あがる。明治6年には、全国で戸籍が策定されるので、
「四郎」は津川の「志田貞二郎」の三男として届けられた。


明治8年(1875年)「頼母」は 都都古別(つつこわけ)神社
(現・福島県東白川郡棚倉町)の宮司となるが、明治10年、
西南戦争が勃発すると、西郷隆盛との交遊があったため、
謀反を疑われ、宮司を解任される。

そこで「頼母」と「きぬ」は一子「吉十郎」を連れて 一時、
会津に帰っていたのではないかと私は推論する。

そして、津川の「志田家」に預けていた「四郎」のことを知り、
引き取って面倒をみたのではないだろうか。この時、「四郎」は
まだ12、3歳。父「志田貞二郎」は明治5年に亡くなっていた。

明治12年8月、頼母の一子「吉十郎」が亡くなる。
「保科家」の戸籍では、このわずか10日後の8月19日
「四郎」を養子に入れているのである。この「保科家」の
戸籍は、この時点では無かったはずである。後述する
明治21年ではなかろうか。この時「西郷頼母」の本籍地は
まだ「青森県の上北郡伝法寺村」にあった。養子にしたと
しても、正式に「伝法寺村」の役場に届けたかは疑わしい。


明治13年、「頼母」は日光東照宮の神職になったが、
この時は「四郎」は同行していない。「四郎」は会津に
取り残されたことになる。

明治15年3月「四郎」は 友人の佐藤与四郎とともに
上京する。「陸軍大将」を夢みて、郷土の先輩「竹村庄八」を
頼って、徒歩で上京した。しかし、16歳の少年で、
身の丈わずが5尺(150cm)。読み書きもロクにできなかった。
そこで「竹村」に「無理」と諭される。「竹村」は慶応義塾に
通っていた。

「四郎」は 陸軍士官学校をあきらめ、加納治五郎の柔道塾に
住み込みで弟子入りする。その時の姿は、髪はボウボウ、
着物はボロボロ。「スダスロウ」と名乗るが、聞き取れな
かったという。(会津弁ではシとスがはっきりしない。
福島はフクスマとなる)。

この時「志田四郎」と名乗っているということは、まだ
戸籍上も養子として入籍されていなかったことになる。
「講道館修行者誓文帖」には「福島県越後国蒲原郡清川村
43番地、志田駒之助 弟、士族 志田四郎 14歳 
明治15年8月20日」と書き、なぜか「15歳」と
訂正している。「志田家」の戸籍では「慶応2年」の
生まれだから「16歳」のはずだが、1、2歳、若く
ごまかしている。身長が低かったためか。


「志田家」の戸籍から抜かれたのが、明治17年。
その時から「四郎」は、正式に「西郷」を名乗ったので
あろう。

その明治17年、「頼母」は日光に居り、「四郎」は東京に
居たので、「養子縁組・入籍」は、手紙でのやりとりで、
「伊与田」氏を通じて、本籍の「伝法寺村」の役場に
出されたと考えられる。


「伝法寺村」は 1889年(明治22年)滝沢村などと合併して
「四和村」に。その「四和村」は 1955年(昭和30年)
「三本木市」に編入された。

さてさて、『会津会会報』第114号(平成20年)に
「西郷頼母ときみが明治19年横浜で撮った写真」が
掲載されている。撮影者は、先の明治5年、伊豆で
撮った時と同じ「鈴木真一」。「頼母」の妹「美遠子」の
夫で、横浜で写真業を営んでいたという。

明治19年、「頼母」は日光東照宮の禰宜であったが、
こうして横浜まで出てくることは可能であったようだ。





「西郷四郎」実子説の再考 その1

2021-07-07 13:34:59 | 「八重の桜」

「伊与田為成の末裔」という方からコメント欄に「戸籍」に
ついて質問をいただきました。それで、再度 検討した結果、
一部を訂正させていただきます。

「伊与田為成」の娘「きみ」は、「西郷四郎」の実の母では
ないかと思われる女性です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

姿三四郎のモデルとなった「西郷四郎」は、1866年3月20日
(慶応2年2月4日)志田貞二郎の三男として会津若松で
生まれ、16歳で「西郷頼母」の養子となったとするのが
定説ですが、「西郷頼母」の実子ではないかという噂は、
養子にしたときからささやかれていたようです。

その根拠は、「西郷頼母」研究家の「牧野登」氏が 昭和58年に
出した『史伝西郷四郎』に詳細に論じられているとのこと。
2013年6月に出されたばかりの 「星亮一」著『伝説の天才柔道家・
西郷四郎の生涯』に12項目が紹介されています。


「西郷四郎実子説」

文久2年(1862) 西郷頼母は、藩主(容保)に京都守護職の
辞職を迫って勘気を蒙り、家老職を解かれて、会津城外の
長原村に【栖雲亭】を建てそこに蟄居します。

しばらくして、そこへ 伊与田為成が訪ねてきた。伊与田為成
(350石)は 京都勤番中、妻が病死したことで、殿から格別の
暇をもらい、会津に帰ることになった。その際、殿から
「頼母の栖雲亭を訪ね、『余は汝のことを忘れてはいない』と
伝えよ」と言伝てを託されてきた。

そして、伊与田為成は、その後もしばしば栖雲亭を訪ねて
西郷と昵懇となり、娘「きみ」を「行儀見習い」として、
西郷の側に預け置いたようです。

西郷頼母の栖雲亭蟄居は5年に及び、その間「きみ」と
情を通じるようになり、「きみ」が身籠った。

その時「きみ」は20歳。慶応2年2月4日に男児を
産んだ。しかし、明治になって作成された『保科家の
戸籍』では、一年遅い「慶応3年1月4日生」となって
いる。

ついでに、「四郎」が「保科頼母」の養子として入籍したのは
『保科家』の戸籍では「明治12年8月19日」。
『志田家』の戸籍では「明治17年4月4日」。

この違いは何なのかが 謎である。


「四郎」が「頼母」の実子ではないかとする根拠のひとつに、
「会津藩筆頭家老の西郷頼母」と、津川の「御用場役」の
「志田貞二郎」とでは、家の格が違いすぎるというのがある。

「西郷」家と「志田」家の関係を調べてみると、なんと、
「志田」家は、「西郷頼母」の実弟「山田陽次郎」の配下の
者だった。そこで、実子説では、

「伊与田きみ」が身籠ったことで、西郷頼母は 実弟の
「山田陽次郎」に相談し、生まれた子を「山田陽次郎」の
配下「志田貞二郎」に預けた。その時、「貞二郎」は
33歳、妻「さた」は29歳、と説く。

「志田家」は、会津の西数十km、阿賀野川を下った
新潟県の津川の在地豪族で、幕末には「御用場役
150石」。

会津戦争の時、「四郎」は 「津川に避難していた」と
いうより、津川の「志田貞二郎」の家に預けられていた。

慶応4年(1868)8月23日、西軍の侵攻で、頼母の母、妻、
娘たち、そして妹、親戚の21人が自刃するが、「その
前日、妻の千重子が用人を津川に差し向けている事実が
ある」とも。津川の志田家に「四郎」のことについて
何事かを託したのだろうか。

「志田貞二郎」は「山田陽次郎」の「朱雀寄合二番隊士」
として越後戦線を転戦、戦後は越後高田に幽閉された後、
津川に生還している。「山田陽次郎」は「頼母」と前後して
仙台から箱館に行き、そこで「頼母」と合流している。


「西郷頼母と四郎」についての資料

2021-07-07 13:34:34 | 「八重の桜」

私のブログのコメント欄に「伊与田為成の末裔」という方から、
「本籍」についての質問をいただき、その観点から「西郷頼母と
四郎」の養子縁組について、三日三晩考察してみました。

その結果をブログ3回に分けて書いてみました。
参考資料は、

『会津史談』第71号 (平成9年)「西郷四郎の憂鬱」青木利秋

『会津会会報』第114号(平成20年) 「西郷頼母・きみと依田勉三」小池明

尚、「西郷頼母と四郎」についての参考文献は、ネットで検索して
みましたら、これだけありました。


広沢安宅『幕末会津志士伝 孤忠録』著者刊 P45-47
『会津会雑誌 第29号』会津会 P41-44 荘田三平「幸運の不覊漢 西郷頼母」
 『会津会雑誌 第33号』会津会 P21-23 加藤寛六郎「西郷頼母翁の事」
 『会津会雑誌 第35号』会津会 P36-41 堀江覚治「西郷頼母翁」
 『北陽史談 第4年第1号』喜多方史談会 「西郷頼母近悳伝」
 『会津史談会誌 第1号』会津史談会 P7-17 「栖雲記」
 『続会津資料叢書 下巻』歴史図書社 P223-224 馬島瑞園「西郷近悳」
 『奥羽史料 第2号1編』香雪精舎 「八握髭翁伝」
 『史談会速記録 合本41』原書房 P409-413
 『若松市史 下巻』若松市役所 P569-570
  井深梶之助『井深梶之助とその時代 第1巻』明治学院 P39-41
  相田泰三『維新前後の会津の人々』会津士魂会 P137-140
 『福島県史 22 人物』福島県 P237-238
 『会津会会報 第77号』会津会 「会津藩城代家老西郷頼母一族殉死の真相」
  西郷頼母研究会編『西郷頼母近悳の生涯』牧野出版

そして「西郷頼母研究会」なるものがあるようです。

堀田節夫(ほったせつお)
昭和7年(1932)8月生まれ。愛知県立時習館高校卒,早稲田大学第二文学部社会学科中退。
昭和51年6月,西郷頼母研究会を結成,代表幹事となる。同会にて「西郷頼母研究」
「西郷頼母の生涯」を編纂刊行する。
昭和61年,読売新聞社刊『ザ・会津』に「会津の痛恨」を執筆。
平成5年9月『「栖雲記」私注』(東京書籍)
同年10月『幕末の会津藩家老 西郷頼母』(歴史春秋社)刊行。
平成16年『幕末・会津藩士銘々伝』(共著,新人物往来社)刊行。

『帰る雁が祢 私注―会津藩老・西郷頼母の晩年の日誌』2007年3月発行


「西郷頼母」と「西郷隆盛」の間に親交があった!?

2021-07-07 13:34:16 | 「八重の桜」

会津藩筆頭家老の「西郷頼母」と薩摩の「西郷隆盛」は、遠祖を
同じくし、明治10年の西南戦争では、二人の間に手紙のやりとりが
あって、「頼母」も政府転覆謀議の疑いを掛けられた。ということは
知られているが、ネットで見つけました。衝撃の事実!?


★隆盛、頼母との連絡を策す

薩摩と会津は、元治元年(1864)の「禁門(蛤御門)の変」では
ともに長州を撃退した仲であり、「西郷隆盛」は 会津藩の「山本覚馬」等と
面識があった。

慶応4年(1868)正月「鳥羽・伏見の戦い」が起きた時、
京都にいて薩摩藩兵に捕えられた「山本覚馬」は、西郷隆盛に
よって救い出された。

その山本覚馬の意見によって、西郷隆盛は、「西郷頼母」が
非戦論者であることを知り、会津戦争の収束のために「頼母」との
接触を切に望んだ。

8月、「隆盛」は、北越から侵攻し、越後新発田藩士・窪田半兵衛をして、
会津藩の「山田陽次郎」(頼母の実弟)と「志田貞二郎(西郷四郎の父)」に
接触し、津川から若松城下へ急行せしめ、「西郷頼母」との連絡を求めた。

長州征伐、徳川家処分、江戸城明渡し、後の庄内藩処分の例などからも
わかるように、西郷隆盛は、会津戦争も道義的、平和裡に収束する道を
模索せんとしていた。

「西郷頼母」は8月26日、殿より密命を帯びて、一子「吉十郎」を
連れて、密かに鶴ケ城を出、越後口の萱野権兵衛長修のもとへ行っている。
「萱野権兵衛」に伝えたのは「城に戻らず、城外で戦え」というものだった。
しかし、それだけでは釈然としない。また、その後、「頼母」が米沢から
仙台まで、無事に辿りついているのも、不可解なことではあった。

会津から米沢へ通じる道は、米沢藩が 通行を阻止していたにも
かかわらずである。

頼母は、藩主より「隆盛と接触して、何らかの和平の道を見出すよう」
との密命を帯び、越後口へ向かった。「和平工作」を阻止しようとする
二人の刺客が「頼母」の後を追ったが見失ったとも。


8月27日、萱野権兵衛の隊は「只見川」の「船渡」で、西軍の攻撃を
食い止めていた。

9月にはいって、「頼母」は、薩摩の密偵の先導により、対岸に
待機していた西郷隆盛との接触を図ることに成功したのである。

『八重の桜』では「秋月梯次郎」が降伏の使者となるが、
「江戸城無血開城」も「勝海舟と西郷の会見」の前に、清水で
「山岡鉄舟」と「西郷」が会見し、ある程度の根回しができて
いたように、「西郷隆盛と頼母」との密かな工作があった。


この時、西郷隆盛は、頼母に自刃を断念させ、隆盛とともに、
「新しい国家建設のために力を合わせる旨」盟約するに至った。

しかし、西郷頼母は、会津藩の責任ある立場にある者であっただけに、
隆盛との接触を秘し、時局安定のときまで身を隠すべく、弟「山田
陽次郎」とともに、薩摩の密偵に守られて、米沢から仙台に行き、
大鳥圭介軍に投じて 幕艦開揚丸に乗って函館へ奔ったのである。

 
箱館戦争でも、「西郷頼母」は積極的に戦陣で戦ったわけでは
なかった。「頼母」は戦列を離れて、江差で 隠棲者のごとき
生活を送っていたのである。明治2年4月5日、政府軍が
江差北方の乙部村に上陸してきたため、旧幕軍は土場から
松前方面へ後退した。

その時、頼母は官軍に「自訴して降伏」したため、4月16日
江差に上陸して来た黒田清隆に伴われて、松前へ、さらに箱館へ
移って、官軍の特別の保護下に入れられた。

明治2年5月、戊辰戦争の首謀者として、会津藩末席家老の
「萱野権兵衛」が死罪となるが、筆頭家老の「西郷頼母」は
「行くへ不明」として、死罪を免れる。これも5月20日
箱館に上陸してきた「西郷隆盛」の計らいであった。


明治2年9月東京へ護送された「西郷頼母」は 館林藩に
幽閉されたが、3年2月11日、幽閉を解かれる。

明治4年春、「頼母」の子「吉十郎」が「隆盛」の尽力に
よって島津啓二郎(当時13歳)と共に米国に留学する。

秋九月、「頼母」は「隆盛」の斡旋によって、伊豆半島の江奈村
(現松崎町)に行く。この地は、かつて慶応3年5月、西郷隆盛の
依頼により、頼母が、会津藩士・大島篤忠を 鉄砲基地調査のため
送りこんだところ。

「頼母」は一旦帰京した後、翌5年春、再び、江奈村に入り、
大沢村の差配大家「依田佐二瓶平」が設立した「謹申学舎」の
塾長となる。その年の10月、「西郷隆盛」は、小田原、湯河原、
下田に至って「頼母」と共に 南伊豆の「鉄砲鍛冶旧跡」を視察
している。

西郷頼母の子「吉十郎」は「西郷隆盛」の尽力により、明治4年
米国のアナポリス海軍兵学校他へ留学し、9年4月に帰国。
鹿児島で西郷隆盛の弟「西郷小兵衛」方に起居。「私学校党」に
与して西南戦争に参加、肥後高瀬の戦において2月27日負傷
したため、西郷小兵衛の計らいで、長崎の洋医のもとへ送られた。

西郷小兵衛は、その半刻足らずの後、銃弾に当って戦死した。
「吉十郎」はその後、東京に移り、明治12年に病死している。

西郷隆盛と会津の西郷頼母がこれほど関わっていたとは、
全く知らなかった。事実か否か、出典史料は全く無い。


「西郷頼母」の謎、イッキに解消!?

2021-07-07 13:33:49 | 「八重の桜」

ネットで見つけた★季刊誌『暗河(くらごう)』1975年春号
「西南の役特集」■第二次革命を盟約した薩摩西郷と会津西郷

この内容は、実に衝撃的。これまでの「西郷頼母」の疑問点を
イッキに解消してくれる内容である。

「西郷頼母」の謎
①会津籠城戦が始まると、忽然と姿を消した理由
②敵の包囲網を潜り抜けて 米沢、仙台まで無事たどりついたこと
③箱館で実弟の「山田陽次郎」と落ち合い、行動を共にしていること
④何の目的で箱館まで行ったのか
⑤その後「館林藩」に幽閉されたが、なぜ一人だけ「館林藩」だったのか。
⑥明治5年には伊豆にいたが、何故伊豆に行ったのか。
⑦その時「伊与田きみ」を伴っているが、いつどこで「きみ」と一緒になったのか
⑧一子「吉十郎」の所在は?
⑨明治10年、西南戦争が始まると、西郷隆盛と通じていたということで
「都都古分神社」の神職を解任されているが、本当に「隆盛」と親交が
あったのか
⑩志田四郎を養子にした理由と入籍の時期


まず、城を抜け出して出奔したのは、藩主「容保」から 極秘に
「和平工作の道」を託され、「西郷隆盛」と会うためだった。
「頼母」は越後口で「隆盛」に会って、会津開城への道筋を
協議した。

米沢への道は、米沢藩によって閉鎖されていたにもかかわらず、
米沢を経て仙台まで行けたのは、「隆盛」の手助けがあった。

箱館にまで行ったのは、西郷隆盛と通じていたことを隠すため。
箱館からは特別待遇で東京に護送されており、「館林藩」へは
西郷隆盛の指令で、「生田万」の事跡と書き残した文書を調べる
ためだった。


明治3年には、幽閉が解かれ、斗南藩へお預けとなる。それで
「頼母」は青森県上北郡伝法寺村に移住していた「伊与田きみ」を
招きよせ、結婚した。

そして明治5年の伊豆行きも、西郷の指令で、鉄砲製造基地の
調査のためだった。

一子「吉十郎」は、西郷隆盛の援助でアメリカに留学しており
西南戦争では西郷軍として参加していた。

西郷頼母が支援物資を送ろうとしていたのは、一子「吉十郎」へ
届けるためだった。


頼母が隆盛の支援を受けていたとなると、これまでの疑問点は
イッキに解決する。だが、薩摩憎しの会津藩遺臣の手前、
それは ひた隠しにしておかなければならない秘密だったのだ。

でも「吉十郎」が アメリカに留学したという事実があったのだ
ろうか。なぜ今まで誰も知らなかったのだろう。


「きみ」さんのその後

2021-07-07 13:33:28 | 「八重の桜」

『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」の最期に、興味深いことが
書いてあります。

西郷頼母と20年連れ添った「きみ」さんは、明治23年、
「頼母」と離別した。明治19年に横浜で二人並んで
写真を撮ってから4年後。「きみ」44歳。「頼母」が
霊山の神主になった年。ちょうど訪ねてきた養子の「四郎」が
別れた理由を問いただしたが、「頼母」は黙して語らなかった。


その3年後の明治26年、「きみ」は 47歳で 南会津郡
伊南村の神官「大宅正則」に嫁した。名前も「照(てる)」と
改名している。

そして、大正14年12月28日、その村で亡くなっている。
墓は「伊南村白沢」にある。

「きみ」の晩年に数年間仕えたという婦人の娘が、
「母から聞いた話」というのが面白い。

①「きみ」さんの誇りは最後まで「会津藩家老の妻」だったということ。
②「きみ」さんが「頼母」と別れたのは、「頼母」に
「三富(みとみ)安(やす)」という女性ができたから。

(「えっぇぇ~」でござるよ。この女性については不明。
  頼母の最期をみとったのは「斉藤なか」)。

③「きみ」の最初の夫「遠山主殿」との間に生まれた実子の
 「横田つや」が、10年ぶりに 伊南村まで会いにきた。

④「西郷頼母」は、城を抜け出して、箱館なんかには行ってない。
 「頼母」は、藩主の命令で日光東照宮に隠れていたんです。

  (チョッと、これは誤報)

⑤「きみ」さんは会津戦争後、「伊与田」家の家族として
 「上北郡四和村伝法寺」に移住し、「頼母」とはそこで
  結婚したのです。


⑤が いい加減な情報だけに、⑥も信じてよいかは判らない。
しかし「頼母」の本籍が「伝法寺村」であったことから、
「頼母」は明治3年、館林を出て、一時「斗南藩」まで
行ったのだろうか。かつての筆頭家老が、斗南に現れたと
なると、それなりの扱いと記録があろうはずだが・・・。
他の藩士に顔向けできず、密かにだったのだろうか。


「西郷頼母」と「伊与田きみ」

2021-07-07 13:33:05 | 「八重の桜」

『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」に「頼母」と「きみ」の
写真が2葉掲載された。これによって、「頼母」の
今までのイメージが一変した。

「西郷頼母」といえば、「戊辰戦争で“非戦論者”であった
ため、卑怯者、臆病者との謗りを受け、一家全員が自刃、
長男吉十郎も若死にして、一人生き残り、晩年は、東照宮の
神官を勤めたりしながら、寂しく生涯を終えた」という
イメージだったが、どうしてどうして・・・・・。

まず一枚の写真は「明治5年、西伊豆江奈村」で「きみ」と
伊豆の名家の倅「依田勉三」の三人で撮ったもの。
「頼母」43歳、「きみ」26歳。
依田家の子孫が保存していた。この年、伊豆の名主「佐藤源吉」や
豪農の「依田佐二平」によって「謹申学舎」が建てられ、
西郷頼母がその塾長として迎えられた。一緒に写っている
「依田勉三」は「「依田佐二平」の弟で、塾生の一人。
後に上京して慶応義塾にも学び、北海道帯広の開拓に勤めた。


もう一枚の写真は「明治19年、頼母57歳」。
「きみ」は40歳、でも20代の時と変わらぬ美貌。
そして「頼母」より背丈は大きい。

横浜で撮影されたもので、横浜市の「石山」家が所蔵。
明治19年なら「頼母」は「日光東照宮の禰宜」だった
はずである。

旧主「松平容保」が「東照宮の宮司」となり、その補佐役
として指名され、日光の山奥で、二人で静かに晩年を
過ごしていたと思いきや、「松平容保は 日光には行かな
かった」という説もある。名ばかりの宮司だったようだ。
そして「頼母」もこうして、夫婦で横浜に出てくることが
可能だったのだ。今でこそ、日光東照宮は観光名所だが
徳川が滅びた直後では、参拝する人も“稀れ”だったのかも。


では、この時、なぜ「横浜」に?
撮影者は、2葉とも「鈴木真一」という写真家。
実は「頼母」の妹「美遠子」の嫁ぎ先で、当時著名な写真家の
一人で、横浜に「写真館」を開いていた。

伊豆の「依田勉三」は鈴木真一の甥であるという。いやはや驚き。

会津戦争で「頼母」の妹「眉寿子(25歳)」と由布子(22歳)の
二人が自刃して果てたが、その他に「頼母」には 妹5人、
弟は3人もいた。「頼母」も2男、5女の7人を設けている。
親子そろって子だくさんである。

そしてさらに、養子「四郎」が「伊与田きみ」との実子ではないか
と噂されているのである。